人生はメリーゴーランド
高校生になってからは、仕事の後は北杜の家まで帰らずに、事務所の借り上げている神楽坂のマンションに寝泊まりすることが多かった。
十七歳の桜桃忌も、お祝いが終われば、あのマンションに戻る予定だった。
なのに、身体が動かなかった。ほんのすぐ近くなのに。十分も歩けば、着くのに。
服を着て、靴を履くまで履いたのに。玄関で足に力が入らなくて、途方に暮れていたら、心配したあの人が、「大丈夫?」と声をかけた。
「うちに泊まっていきなよ。真人、顔が少し赤い。熱があるんじゃないか?」
あの人が額にそっと触れた。
なんでだろう。
あのとき、おれ、優しいな、って思ったんだ。
そんなわけないのに。
だって、そもそもあいつのせいなのに。
許せない。なんで、なんであのとき、死ぬ気で逃げなかった。
警察に通報しなかった。
何で、「ありがとう」って言った?
六月なのに凍えて死にそうなくらい、身体が震えた。
その度に、抱きしめられた。大丈夫、怖くないよ、って。
優しかった。
でも、やっぱり優しいだけじゃなかった。
「やめて」って言っても、やめなかった。
やめて、って言ってる自分の声が気持ち悪くて、言うのを途中でやめた。
泊まった翌日の朝、北杜まで帰るのが億劫だった。
神楽坂駅までの坂道、一歩踏み出すごとに、身体の奥がヒリヒリ痛んで、息が切れた。
あの人は、となりで背中をさすって心配していた。
Suicaは残高不足だった。
あの人が、五千円チャージしてくれた。
「真人、ゆっくり寝てね。また、連絡するから」
そう言って、別れ際に抱きしめられた。
東西線で、中野駅に着いた。中央線に乗り換えると、高尾行きだった。
朝だったから、下り電車は空いていて、ロングシートに腰掛けて、吊り革が揺れるのをぼんやり眺めた。
高尾で降りた。階段を上って、別のホームへ移るだけで、息が切れた。
大月方面の電車を待つあいだ、ギターケースの重みがキシキシと肩に食い込んだ。
家に帰ると、雪子は何やら不機嫌だった。
「LINE、見てないの? 心配したんだけど」
言いながら雪子は、焦げついた鍋をゴシゴシ擦っていた。昨日の晩、正悠がやらかしたらしい。
「……ごめん」
そう呟いたとき、なんだかその言葉が、自分の声じゃないみたいな気がした。
あれ? もともと、こんな声だっけ。
気持ち悪い。何だこれ、何だこれ。
「……母さん」
咄嗟に雪子に声をかけてしまった。
やっぱりだ。違う。声が違う。なんで?
「何よ。もう、いいよ。学校、どうすんの? 午後から行くの?」
雪子は気づいていない。いや、そもそも、おれに興味なんかない。
「……ちょっと疲れたから、休む」
自分の部屋にようやく辿り着いた。
背負ったギターを下ろして、無垢の床にへたり込む。
せっかくギター、持って行ったのに。弾かないままだったな。
キリンジの『Drifter』。
配信企画は途中で頓挫しちゃったけど、最初に選んだ曲。
じいちゃんと一緒に聞いてた曲。
ごめんね、じいちゃん。今年は歌わずじまいだったね。
ギターケースを開いて、チューニングを合わせる。天から降り注ぐようなイントロの優しい旋律が、お気に入りだった。
自分の声が、部屋に発せられた瞬間。
猛烈な吐き気に襲われて、間に合わなかった。
やばい、やばい。
雪子に怒られる。
肩で息をしながら、口元を押さえても、まだ出し足りないとばかりに追撃が喉を突いた。
忘れてた。喉も、壊れたんだった。
歌っちゃだめ。
空気が汚れる。
そんなこと、していいわけがない。
早く、早く、掃除しなきゃ。
バレないように、隠さなきゃ。
せっかく食べた薫とのラーメンは、身体に馴染むのを嫌がって床に散らばった。
それがまるで、ウジ虫みたいに蠢いて見えた。
汚れた重たいタオルに、真人はそのまま額をつけて倒れ込んだ。
ここは、かつて神谷真人が暮らした場所。神谷真人は、もう死んだ。
じゃあ、おれは誰。
そうか。おれは、偽物なのか。
もしくは、死に損ないの、かつて神谷真人だった、“何か”。
おれの正体を打ち明けたら、きっと雪子は悲しむだろうなあ。
あれ?
そもそも、なんで死んだんだっけ。
よく思い出せない。
榊くん、夜通し看病してくれた。優しかったな。
帰り道も、駅までギター代わりに担いでくれたし。
へんだなあ。じゃあ、なんで、おれ、怒ってるんだろう。
怒ってる……あ、思い出した。榊くん、嘘吐いたんだった。
「今年の桜桃忌は、おれの家でやろうよ」
「何で?」
「真人に、見せたいものがあるから」
「なあに?」
「内緒。真人が喜ぶものだよ」
何だろう。
おれが、喜ぶもの?
「……榊くんの、たからもの?」
「まあ、そんな感じかな」
そう言って、坂木くんはいたずらっぽく笑ってた。
榊くんの、好きなものとかに関係するのかな。
そういえば、薫は、庵野監督のサイン色紙持ってたっけ。
おれはそういうの、ないなあ。
……そうだ。お仕事で初めてお給料をもらったときに買った、DVD。
あれは、結構たからものなんじゃないか?
そうだ。榊くん、ジブリ観ないって言ってたし。
一緒に観たらどうだろうって、ワクワクしてた。
「ねえ、榊くんの言ってた、見せたいものって、なんだったの?」
神楽坂駅の改札で、別れ際に聞いてみた。
あの人は、目を丸くして肩をすくめた。
「……おれ、そんなこと言ったっけ」
ふいに口元が震えた。
「……言った。それ、見せてもらえるんだと思って、楽しみにしてた」
目の前のシャツの襟を引っ張って、震える声で訴えると、あの人は苦笑して真人の肩を胸元に抱き寄せた。
「さあ……何だろうなあ? 知りたい?」
あの人の、ラベンダーの香りがする胸元に顔を埋めて、何度も頷いた。
ここで教えてもらえなかったら、北杜まで帰れない気がしたから。
「……あァ。昨日、いっぱい見たじゃん」
あの人は耳元で汚い言葉を囁いて、自分で笑ってた。
笑ってたんだ、あいつ。
ああ、ばかみたい。
騙された、騙された。
こんなのに騙される奴が悪い。
大嫌いだ、あんなやつ。
大嫌いだ、あんなのに騙される奴。
あれ?
さっきまで、おれ、優しいって言ってなかったっけ。
じゃあ、怒ってるのは、何でなんだろう。
「まひちゃん、おいしい?」
春枝の声に意識が浮上した。
箸を持つ手が震えている。
……やばい。おれ、何考えてた?
「……おいしい、です」
「そう。良かった。何より、まひちゃんが“おいしい”って言えるのが嬉しいわ。ふふっ」
こんなこと考えてご飯食べてるなんて、最低すぎる。
春枝さんのごはんはいつもおいしいのに。なんで、思い出したくもない昔の話に、引っ張られちゃうんだろ。
ハクが真人の横でフンフンと鼻を鳴らした。真人は一度箸を置いて、ハクを撫でると、顔を上げられなかった。
「晃、遅いわねえ。何してるのかしらねえ」
晃に、会いたいな。
もう、晃はおれのこと好きじゃないかもしれないけど。
「……おれ、駅まで迎えに行こうかな」
真人がぽつりと呟くと、照夫と春枝が同時に「「いらんいらん」」と首を振った。
「いいのよ、アレは濡れても。雨で少しは綺麗になるでしょ」
酷すぎて笑ってしまった。
「だいたい、電車じゃなくて、タクシーで帰ってくるかも。たまに望月さんの送迎で帰ってくることもあるわよねえ」
「……」
つい口をついて、迎えに行こうかななんて言ってしまったけど。
本当に、駅まで行っちゃおうかな。晃、嫌がるかなあ。
「……おれ、駅前のコンビニに買い物行くけど。一緒に行くか?」
真人に照夫が声をかけた。
「お父さん、コンビニで何買うの?」
「花火。雨止んだら、ガレージでしようと思って。な?」
「……行く」
真人は頷いた。
「私も行こうか?」
春枝が眉を下げて真人の顔を覗き込むと、真人よりも先に照夫が首を振った。
「いい。たまにはこの組み合わせもいいよなぁ? まひ男」
照夫がニヤッと笑うと、春枝は怪訝な顔を浮かべた。
「……まひおの“お”、の漢字は、男で合ってますか?」
真人は目をキラキラと輝かせた。
花火を買って、照夫と一緒に帰りの夜道を歩いていたとき、山の奥に遠雷が見えた。しばらくして、空が破れる音が耳に届いた。
「花火は明日以降だな。落ち込むなよ、まひ男」
まひ男。バカみたいなあだ名が、今の自分の唯一の支えになっている気がする。
雨。この感じ、やっぱり怖い。
考えないように考えないようにしていても、ふと気を緩めた瞬間、もうすぐやってくる桜桃忌のことを思い出しては、息の仕方がわからなくなる。
「照夫さん」
傘を持つ手が震えた。
「やっぱり、おれ、駅で待ちます」
「……そうか。大丈夫か? 本当に電車で帰ってくるか、わかんねえぞ」
真人はLINEを開いて、照夫に見せた。
「見て、位置情報。今、晃、ちゃんと中央線に乗ってます」
照夫は目をぱちぱちとさせて、苦笑した。
「色気のねえ文明の利器だな。わーったよ。じゃ、駅まで送る」
言うことからやることまで、本当に、全部晃みたいだった。
ああ、でも。
帰ってくる晃は、おれの知ってる晃だろうか。
また、「真人」って呼んでくれるだろうか。
「しょーがねえな」って、呆れた顔で笑ってくれるだろうか。
晃の顔を思い描くだけで、瞳から涙が滲んだ。
許してほしい。
こんな出来損ないだけど。
でも、晃のこと、大好きなんだ。
あんなこと、言わなきゃよかったかもしれない。
でも、晃には、全部知った上で、許されたかったんだ。
そんなの、我が儘だったかな。
おれ、生きていけるかな。
晃と出会えたことが幸せだったって。
その事実だけで、残りの人生、ちゃんと生きていけるかな。
*
『ただいま、国分寺におきまして、急病人救護のため、前方の電車が武蔵境駅に停車しております』
……またかよ。
晃は吊り革に掴まったまま、何度目かのため息をついた。
帰社した将軍との面談で、思ったよりも帰宅が遅くなってしまった。
終電までには帰ると言ったが、まさか本当に終電近い時間に帰宅することになるとは。
中央線は遅れに遅れている。
真人、どうしてるかなあ。
ひでえの。なんでそばにいてやれなかったんだろうな、おれ。
いつもなら、すぐに真人に直接電話やLINEを入れたろうに。
そんな権利あるのかとか、うだうだ考えてるうちに時間だけが過ぎてしまった。
帰ったら、まず謝ろう。たぶん、起きてるよな。
晃は意を決して真人とのトーク画面を開いた。
『今、三鷹で停まってます。運転再開待ち』
すぐ既読になった。
『晃、迎えに今、日野駅まで移動中』
……は?
晃は慌てて位置情報を確認した。
真人の現在地が、旧甲州街道をぴょこぴょこと移動している。
思わず通話ボタンを押そうとしたが、ここは電車の中。そもそも、真人は今声が出ないのだ。
晃は苛立ちを抑えながら、トーク画面にメッセージを打ち込んだ。
『何してんだよ。ばか。あぶねーだろ、こんな夜中に』
『防犯ブザー、ちゃんと首にかけてるよ』
晃は頭をガシガシと乱暴に掻いた。
早く、早く着いてくれ。
くそ、あの田舎は。日野までまだまだ遠過ぎんだろ。
また通知がブルっと震えた。真人からのメッセージだ。
『晃のいちばん好きな食べ物は?』
急にどうした。晃は困惑しながらメッセージを返した。
『カレーって言わなかった? カレーだとダメなんだっけか』
しばらくすると、中トトロが感極まって泣いているスタンプが送られてきた。
……どういうことだよ。
『おれの知ってる晃だ☺️』
メッセージとともに、早く帰ってきて、と黒猫のジジが訴えているスタンプが送られてきて、晃はくしゃりと笑った。
もう一度現在地を確認する。
真人は無事日野駅に到着したようで、晃はほっと安堵のため息をついた。
『電車、動きました』
晃がメッセージを送ると、すぐトトロ三人衆が飛び上がって喜ぶスタンプが返ってきた。
『晃の好きな歌手は?』
また質問。晃は目を細めて、返信を打った。
『ユーミン。今ちょうど聴いてる』
『ユーミン! ユーミンの、何聴いてるの?』
言えるかよ、馬鹿。
土手でレンゲ編んでねって、ユーミンが勧めてんだよ。
隣で真人を想像して、無性に真人の顔が懐かしい。
『ビートルズも、好きです。in my lifeが好き』
ご機嫌なネコバスのスタンプが届いた。これは好ましい回答だったのだろうか。
遠かった日野駅がメッセージのやり取りの間に少しずつ近づいてくる。
立川駅を出た後は、スマホを仕舞い、リュックを肩にかけ直した。
電車が減速していく。見慣れた駅のホーム。ドアが開くと同時に、晃は駆け足で階段を駆け下りた。
階段を下り切った改札の向こうに、防犯ブザーを首から下げて、折りたたんだ傘を握りしめた真人が立っていた。
「真人!」
息を切らせた晃が声を上げるのと同時に、真人は晃に飛びついた。
衝撃で、晃は後ろによろめいたが、慌てて真人の肩に手を添えて受け止めた。
「……あきら、おかえり、おかえり!」
「真人……おまえ、喋れるようになったのか?」
他の乗客たちが、真人と晃の様子を一瞥してゾロゾロと改札を抜けていく。
少し短くなった髪が、ちくちくと晃の頬に当たって、吐息に揺れる。
懐に飛び込んだ胸から伝わる、晃の心臓の鼓動。
晃の肩口に顔を埋めると、土の匂い。
──ああ、この匂いが好きだ。この匂いが、自分を今、ここに繋ぎ止める。
「……ただいま。ごめんな、遅くなって」
晃は真人の肩をそっと手で押さえて、真人を正面に戻した。
「晃、事務所で怒られた? おれのせいで、怒られなかった?」
真人が、喋ってる。
晃は思わず震える口元を叱咤して、口角を上げた。
晃は困ったように笑って、首を振った。
「もう、勝手にいなくならない」
「うん」
「約束。おれも、真人もな。心配させて、ごめん」
「いいよ、もう。ちゃんと帰ったんだから」
真人は満足そうに目を細めた。
「……真人、髪も切ったのか」
「今気づいたのかよ。照夫さんが切ってくれた」
「……」
「晃、その顔、良くない。おれ、嬉しかった。照夫さん、優しい。照夫さん、すき」
「……そーかよ」
赤い屋根の駅舎から出ると、夜風が真人の短くなった髪をふわふわと揺らした。雨は上がって、雲の切れ間から星空が見えた。
「駐輪場」
晃が言いかけたとき、真人がもう一度、晃にタックルをかました。
晃は勢いのまま真人を抱え上げた。
「落ちるなよ」
抱き上げたまま、晃がくるりと回ると、真人はくしゃっと笑って、「もう一回!」とねだった。
二人して目が回った。




