四文字の福音
晃が事務所に現れたのは、日の沈みかけた夕刻のことだった。
ドアをノックする音だけで、凌也も宗馬も、晃だとすぐにわかった。
望月がドアを開ける音。
凌也はソファに寝そべったまま、スマホゲームをしている。
「晃? どうしたの」
「社長いなかったから」
晃が小さく答える間に、宗馬がドアへ駆け寄った。
「晃! ……あれ?」
「とにかく、中入って。ちょっと、どうしたの本当に。一体何があったらそんな顔になるのさ」
ソファを通り過ぎる晃の顔を横目で見たものの、ネイビーの帽子を目深に被った晃の表情は、凌也にはよくわからなかった。
「凌也、ありがと。神楽坂の件、始末してきた」
「はて、何のことやら」
「何。なんかあったの?」
望月がキョロキョロと凌也と晃を交互に見やっていると、晃が肩にかけていたボストンバッグから何かを取り出して、円卓テーブルに置いた。
「神谷真人の家にあった、AirTag。それと、家の防犯カメラのSDカードを、預かってほしい」
「えっ。ちょっと、待って。AirTagって、こないだ社長とタイマンしたときのガチ証拠でしょ? それに、SDカードって、どういうことなの」
「真人が回復してから対応を検討しようと思ってたけど……明日の自分が何しでかすか、わかんねえ。だから預かってほしい」
晃の怒気を纏った低い声に被せるように、宗馬が割って入った。
「待って、待って。ねえ、おれバカだからわかんないよ。明日の自分って? 明後日、Mステだよ? 晃、出るんでしょ? さっき打ち合わせでそう聞いたよ?」
「……わかんねえ」
その一言に、凌也はスマホの画面を伏せて置いた。
「おい」
凌也の声に部屋が静まった。
「キャパオーバーで困ってんなら、そう言えば。カッコつけてないで何あったか話せよ、ムッツリ野郎」
晃がギロリと凌也を睨んだ。
「真人の個人的な事情をお前に話すつもりはねェ」
「おれがいつその子の事情話せっつったよ。おれ、まだハニトラ説疑ってんだからね、これでも」
あ、その言い方はまずいって。
宗馬の心の声が聞こえた気がした。
気づけば凌也の上体は晃の右腕によって掴み上げられて、先ほどまで握っていたスマホは手から滑り落ち、ソファでワンバウンドした。
「真人を侮辱するな」
「真人、真人ってうるせーな。どっからそのツラぶら下げて来たんだ、お前。お前の実家のクソ田舎からずっとそのツラで大都会渋谷まで、ARCのネガキャンすんなっての」
「日野は田舎じゃねえ。神奈川のくせに都民バカにすんな」
「横須賀は大都会だ。開国してやったの誰だと思ってんだよ」
「ねえ、喧嘩の方向、ズレてるよ。二人とも落ち着いて!」
「うるせえ。お前は土浦だろうが」
「土浦バカにすんな、常磐線で東京まで一本だぞ!」
「三人とも、いい加減にして!」
望月が三人纏めて締め上げると、晃の顔から殺気が僅かに色褪せた。
「凌也は晃のこと、焚き付けないで。それに、晃はちゃんと説明してよ」
望月が晃の肩をゆすった。土浦は田舎じゃないもん、と言いながら晃を見上げる宗馬と、腕を組んで口をへの字に曲げている凌也に、晃は顔を歪ませた。
「……真人が壊された場所で、平気な顔して生きてる自分が、嫌んなった」
晃はぽつりとそう零すと、顔を覆ってしまった。
「ムカつく。マジでムカつく。瓶子にも、あいつにも。自分にもムカつく。わりーけどお前らにもムカついてる」
「酷。貰い事故すぎるわ」
凌也の言葉にとなりの宗馬が顰めっ面で小突いたが、凌也は構わず続けた。
「ピーチ姫の衝撃の黒歴史を知って、尻尾巻いて逃げてきたのか、お前。だっせーな」
「おい、やめろって、凌也」
「じゃーどうしろってんだよ!」
晃が凌也を怒鳴った。
「抱きしめてやりゃ良かったのかよ。そんな目に遭わせた世界でのうのうと生きてるやつに、そんな資格あるわけねーだろーが!」
今にも手を出しそうな晃の両腕を望月が羽交締めにして押さえつけた。
宗馬は凌也の腕を掴んで、恐る恐る晃に向かって声を絞り出した。
「ねえ、喧嘩しないで。なんで怒ってるかわかんないよ、晃、どうしたの。悲しいの?」
晃がはっとして口ごもった。腕を掴まれた凌也がふっと笑って、晃の代わりに答えた。
「そーだよ。単純馬鹿は、理屈捏ねないと悲しいって言えねーの。勝手に振られた気分で不貞腐れてんだヨ」
「黙れ……黙れ!」
「おうおう、吼えろ吼えろ。馬鹿犬が語彙なくしてやがる」
額に青筋を立てた晃の顔を見ていると、宗馬の瞳に涙が滲んだ。
「晃。おれ、晃のこと、心配だよ。何か、神谷くんとのことで悲しいことがあったの? 今から、力にはなれないの?」
凌也の腕にしがみついたまま、宗馬がもう一歩晃の前へ近づいた。
「おれ、何があっても、晃の味方だよ。だから、神谷くんを晃が助けたいなら、おれも神谷くんの味方する。それじゃ、遅いかな。おれ……」
「もう、やめてやれよ宗馬。晃、持たねーって」
凌也の制止よりも早く、望月が晃の腕を解いた。晃は宗馬に腕を伸ばして、そのまま抱きしめた。
「ごめん、宗馬。ごめん、ごめん……」
鼻を啜る晃にあっという間にもらい泣きしてしまった宗馬は、顔をくしゃくしゃにして晃を抱きしめ返した。
「謝んないでよぉ。何でキレて泣いてんだよ、馬鹿。おれ、晃と凌也が大好き。ついでに、もっちーも。本当に大事なんだよ。お願いだから、一人で抱えないでよぉ…」
「いい子すぎるだろ、宗馬!」
いつの間にか望月まで泣き出していた。
やれやれ。チョロいんだか何なんだか。
自分まで号泣の輪に加わるのは面白くないので、凌也はスマホを開いてゲームを再開することにした。
*
やっぱり、言わなきゃ良かったかな。
薫のときも、そうだった。黙ってれば、まだ友達でいられたかもしれないのに。
真人が小さくため息をついていると、春枝が心配そうに顔を覗き込んできた。
「まひちゃん。お疲れ様」
黙々と続けた窓拭きのおかげで、車道側の入り口の窓はピカピカになり、古くなっていた雑誌を束ねてバックヤードに積まれた。
髪を掃いた後は、床をワックスで磨いた。普段は散らかしていても、本気を出せば綺麗にできるのだ、と真人は誰に言うでもなく心の中で呟いた。
「ねえ、まひちゃん。髪の毛、かなり伸びてるわね。お父さんが、まひちゃんの髪、切りたいらしいのよ」
春枝が真人に言う横で、聞こえないふりをした照夫が、いそいそとカットバサミを磨いている。
困った。気持ちは嬉しいが、昔からヘアカットは苦手だ。首を触られるし、鏡から逃げられないし。
「前髪だけにするか? 三分で終わるぞ」
照夫が視線を外したままそう呟いた。真人は受けることにした。
「では、本日はどんな感じで?」
照夫が芝居がかった声でそう尋ねた。真人は少し笑って、ノートにペンを走らせた。
“おねがいします”
“まゆげより上には きらないで”
「はいよ、わーりやした」
わーりやした、の言い方があまりにもそっくりで、真人は感動してしまった。
親子ってすごい。
真人はペンを握ったまま、自分の後ろで髪の毛を持ち上げてぶつぶつ言っている照夫の顔をじっと見た。
ちょうどいい。これなら、自分の顔を見なくて済むし、ちょっと楽しいし。
真人は照夫の職人の目を見つめた。晃によく似た、一重瞼の大きな目。まつ毛は、晃より少ないかな? でも、そり返りが綺麗。眉毛は白髪が混じってて、結構ボーボー。発見、いい発見だ。
照夫は三分と言っていた。おれも早く、仕上げねば。
……薫って、今、どんな顔してんだろ。
照夫の顔を描いているのに、頭の片隅に薫がちらついて、真人は口をへの字に曲げた。考えないようにしても、考えないようにしても、薫のことまで書かなきゃ良かったかな、と後悔が滲んだ。
薫は、他の人とは違うのに。おんなじように並べて書いたのは、可哀想だったかな。
そういえば、桜桃忌の翌日、北杜へ帰る電車の中で、薫に連絡をしたんだった。
何となく、薫の顔が見たかった。
薫に会ったら、元の自分に戻れる気がして。
『ラーメン行こ』って、誘った。急な連絡だったのに、薫は長坂駅前のラーメン屋で待ってくれていた。
「なんかあった?」
薫の間抜けな顔を見ていたら、何かあったなんて、言えるわけないと思った。大好きな薫が、目の前でラーメン啜ってる薫が、何億光年も遠くなった気がした。仕事が忙しいことを理由にして、薫とは連絡を取らなくなった。これでいいんだと思った。
家で寝たきりになって天井を眺めていたとき、雪子が声をかけてきた。
「薫くんがね、お見舞いにきてくれるって」
余計なことを、と真人は雪子を睨んだ。
なんで連絡した。こんな姿、見られたくなかったのに、って。
でも、心のどこかでは嬉しかった。薫、心配してくれてるんだって。
「真人……?」
自分を見下ろす薫が、明らかに引いていることは見て取れた。
みっともない姿晒してごめん、と言いたかった。でも、そうだ。そのときも、声が出なくなっていた。
だから、何も話せなくて。
“せっかくきてくれたのに、ごめん”って、文字にする気力すら湧かなかった。
「LINEでもいいから、連絡くれよ。メッセージなら、体調いいときにポチポチ打てるだろ?」
嬉しかった。甘えていいんだろうか、って。
そこで、失敗した。
夜中、あのときの景色が頭の中に蘇って、身体が固まった。息の仕方がわからなくなった。
暗闇に呑まれそうだった。必死にスマホを握って、薫にメッセージを送った。
『身体が変なんだ』
『しにたくないよ』
『しんじゃえ、って声がする』
『おれ、しにたくない』
メッセージはすぐに既読になった。真人は続けて文字を打ち込んだ。
『榊くんから、薬もらったの』
『それからずっと体調変』
『怖くて薬の中身聞かなかった』
『でも ずっと飲んでた ごめんなさい』
既読はつくのに、返信は来なかった。
『身体、ガクガクする』
『普通じゃなくなっちゃった 元に戻れるか、わかんない』
『いちばんだいなしになってから、たよってごめんなさい』
しばらく経って、向こうからメッセージが投げられた。
『それ、警察案件じゃないのか?』
『雪子さんに言った?』
『言ってないなら、話してみたら』
『ごめん。今、バイトが忙しくて。また連絡する』
……薫、バイトしてるんだ。
その情報だけで頭がいっぱいになって、その日は返信を読んだあと、意識が途絶えてしまった。
また連絡すると言っていた薫からは、待てど暮らせど通知は鳴らない。
おれが生きてるから、薫は大丈夫だと思ってるのかな。
おれがちゃんと死んじゃったら、薫は、返事すればよかったって、思うのかな。
そんなの、やだな。
薫に会いたいな。
果報は寝て待て、の言葉に従うように、ベッドから動かずに大人しく待っていたけれど、とうとう薫から連絡はこなかった。
薫というのは、おれが作ったイマジナリーフレンドだったのかもしれないと思うことにした。
今までありがとう、と、空想上の親友を弔って、真人は少しだけベッドから起きる時間を延ばしていった。
やっとリビングで数時間過ごせるようになった頃、LINEに通知が届いた。もはや名前も忘れていたような同級生からだった。
『薫くんから、神谷くんが体調崩してるって聞きました! 皆でお見舞いに行ってもいいですか?』
連中は、五人組で現れた。その最後尾に、よく知った顔があった。
そいつは、一度も眼を合わさなかった。
最前列の女の子は、真人のやつれ具合にさめざめと涙を流して、親切な労いの言葉を並べた。
「元気でね。きっとやり直せるよ」
女の子がそう言うと、もっともらしく頷いた最後尾のそいつは、「少し回復したみたいで良かった」と独り言のように呟いて、荷物をまとめた。その後ろ姿に、咄嗟に真人は声をかけた。
「ねえ、待って」
声が戻っていて良かったと、心の底から思った。
ここで“待って”と言えたことだけは、自分を褒めたいと思った。
「薫と少し話したいんだ」
真人の言葉に、今まで空気に溶けていた薫へと他の視線が集まった。
「二人で?」
女の子が尋ねると、
「うん、ちょっと」
真人が笑った。
取り残された薫の顔は、本当に無様だった。万引きバレた中学生みたいな顔だった。
笑ってしまった。勝手に、おれを万引きGメンにするなよ、って。
「やっぱし、怒ってる?」
困った顔で尋ねる薫を安心させるように、真人は柔らかい笑みを浮かべた。
「もう友達やめてるくせに。なんで物見遊山の連中にくっついて来たんだよ、今更」
薫は面白いくらいに狼狽えていた。
昔、友達だったことが嘘みたいだった。
だって、怯える薫の顔見てたら、嬉しかった。友達の困ってる顔を見て愉悦を感じるなんて、やっぱりおれは、狂ってる。
「違う。心配で……なんて返したらいいか、わかんなかったんだ」
「嘘だ。逃げたんだろ。気持ち悪いやつ、って思ったんだろ。でも、それだと自分が悪者になるから、今日だって他の人たち止めずにノコノコやってきたんじゃん」
薫は首を振った。
「おれ、止めたんだ。飲み会で、真人の話になって。それで、今体調悪いぽいから、詮索しないでやってくれ、って言ったんだけど……」
「自己弁護は一丁前か。おれの言葉は聞かないくせに」
真人はベッドの縁に腰掛けて、大きくため息をついた。
「あーあ。おれ、薫のこと、本当に友達だって、思ってた」
「……」
「おれだけだった! 友達だったの、勘違いだった。じゃあ、あの時間って、何だったんだよ」
一緒に映画見に行った時間。
カラオケ行った時間、恋愛相談も。
なんだよあれ。
ぜーんぶ、友達ごっこだったのかよ。
「違うよ! それだけは……やめてくれ、真人。そんなに責めないでくれよ、おれだって、超人じゃねーもん。メンタル病んだ友達の扱い、そんなにうまくできねーって」
薫は涙目で頭を抱えていた。
レスバに勝てないからって、今度は被害者ヅラだ。うける。
「うまくできなかったら無視かよ、はっ。ばっかみてえ。それとも何。薫も、あいつらと同じか。何か見返りが欲しかった? 珍しい生き物の相手して、見返りを期待してたかよ。思ったより世話が大変とみて、飽きたんだろ。違うか」
「やめろって、なんでそんなに卑屈な言い方……」
要領を得ない薫に痺れを切らして、真人はふらふらと立ち上がった。
引きこもってた半年の間に、少しだけ身長が伸びた。おかげで、前よりも薫に目線が近い。
薫の首に腕をそっと回して、上目遣いで薫に囁いた。
「薫も、おれとこういうことしたかった?」
「……何言ってんの」
「期待してた? 思ったより手順が面倒だった?」
振り解けばいいのに、薫は固まったままだった。
「いいよ、薫がそうしたいなら。もうこんな身体、どうでもいいし。好きにすれば」
「……真人、やめろって。下に、親父さんいるだろ」
「……何だよ、それ」
真人は笑ってしまった。
「薫。それ、したい、って言ってるのと同じだよ?」
真人がいたずらっぽく言うと、薫の喉仏が上下に揺れた。
ああ、やっぱりか。
重ね合わせた唇から僅かに力を緩めた瞬間、薫が真人を抱き寄せて、そのままベッドに押し倒した。
ようやく唇を離した薫の瞳は濡れていた。
「こんなの、めちゃくちゃだ……」
そう溢すと、また顔を近づけてくる薫に、真人は残っていた力を振り絞って、思い切り平手打ちした。
掌がじんじんと痛かった。
感じたことのない清々しさを胸に、真人は声を荒げた。
「二度と顔見せんな! 薫なんか、薫なんか……だいっ嫌いだ!」
緩く巻かれたタオルが取り払われて、照夫が軽く指で肩に落ちた髪を払った。
「終わり。どうだ?」
照夫の声に恐る恐る顔を上げると、整えられた前髪の奥に、まん丸な自分の瞳が揺れていた。
「軽くなったろ。ちょーっとだけ側頭部も梳いといたぞ」
なんだか自分じゃないみたいで、しばし鏡の前で見惚れてしまった。悪くない、かも。
真人は開いていたノートに“ありがとうございます”と書き添えて、そっと照夫に差し出した。
「なんだこりゃ。おれ?」
真人が小さく頷くと、照夫が困ったように笑った。
「おれかぁ。ふうん。やっぱ、いい男だよなあ」
「どれどれ。見せて。まあ、まひちゃんが描いたの?」
カットバサミと櫛を携えてはにかむ、照夫の横顔。切られている自分からは見えない角度だから、半分は想像。
でも、きっとこの角度が照夫は一番かっこいい。仕事をしている男の横顔が、真人は好きだ。
「まひちゃんの可愛いお目目が見えるわね。前から可愛いけど、さらに可愛いねえ、まひちゃん」
春枝が褒めちぎるのが恥ずかしくて、真人が視線を床に落とすと、鏡の下で何か茶色い物体がカサカサと動いた。
真人が眼を凝らすと、触覚が二本、角度を変えて壁を這い始めた。
「……ゴキブリ」
真人の発した言葉に二人はギョッとして身構えた。
スリッパを脱いで構える照夫の横で、春枝がはっとした顔で口元を押さえた。
「……まひちゃんが、喋った」
春枝はその場で足踏みして、眼を輝かせた。
「ねえ、お父さん。まひちゃんが、喋ったわ。ゴキブリって言った! ゴキブリって言った! やったー!!」
思い切り真人を抱きしめて笑う春枝に、真人も釣られて笑った。




