ピラフのぼっち飯
『一番の後悔は、自分のやってしまった失敗のせいで、大事にしていた居場所をなくしてしまったことです』
桜桃忌は、じいちゃんの誕生日であり、命日でした。
台無しにしてしまった事実から目を背けたくて、「その日にあったことは、大したことじゃない」と思うことにしました。
以降も、しょっちゅう相手の呼び出しに応じました。次こそ、前のような優しい人に戻ってくれると期待して。愚かでした。
素面が怖くて、中身のよくわからない薬を渡されて飲むのがいつもの流れでした。
呼び出しに応じれば、また同じことになるとわかっていながら、通うのをやめられなかった理由はよくわかりません。
ただ、当時は相手のことが好きだからだと思っていました。
当時のマネージャーは、複雑な経歴の人でした。自分の味方になってくれる自信がありませんでした。
その人はどこまで知っていたのかは、いまだによくわかりません。
ただ、少しずつ体調が悪くなり始めた頃、マネージャーに紹介された先生から「あなたが何か行動を起こすことで、これ以上周りに迷惑をかけたくないのであれば、身体の回復を静かに待ちましょう」と言われました。
その通りだと思いました。
ある映画の撮影中に倒れて以降、半年くらいの記憶がありません。
周囲の期待に沿うような活躍もできないまま、重要な役柄を途中で降板することになりました。
次に、当時の美術部。
自分の身に起こったことは、ひとつとして部活の仲間たちに話す気にはなれませんでした。
芸能界の汚い話を聞かせたくありませんでした。
自暴自棄になって、当時の部員の軽口に怒ったふりをして、それを理由に辞めてしまいました。
そうやって嫌われてしまえば、本当の意味で軽蔑されることから逃げられると思ったんです。
美術部はぼくにとって、はじめて、自分が自分のままで居られる場所でした。
大好きな場所だったのに、自分で壊してしまった。でも、そうするしか思い浮かばなかった。
そして、親友の薫。
薫にだけは、本当のことを話しました。
話したと言っても、ほとんど支離滅裂でした。でも唯一、辛い気持ちを分けても許される友達だと思っていました。
薫にとってはそうではなかったと突きつけられたとき、本当の意味で、世界中でひとりぼっちになった気分でした。
でも、だからといって、薫にどうすれば良かったというのでしょう。
そんな個人的な話を訴えられて、当時まだ高校を卒業したばかりの薫に、何ができるというのか。
自分でもよくわからないのに、薫に一方的に自分の重荷を渡してしまった。
自分が楽になりたいがために、薫に話すべきではなかった。
全部、自業自得です。
行かなければいい場所へ行き、言わなければよかったことを言ってしまった。
やってしまったことの取り返しのつかなさに苦しむくらいなら、誰の記憶にも残らないよう、黙っていなくなるべきだった。
厚かましく、愛を強請ってしまったせいで、全部の思い出が上から真っ黒に塗りつぶされてしまった。
真っ黒に塗りつぶされた記憶に蓋をして、ここまで生きてきたけれど、とうとう年貢の納め時なのかもしれません。
ぼくは、どうしたらいいですか。
できれば、死にたくありません。
でも、そう思うことすら、我が儘ではありませんか。
親には話していません。
今後話すつもりもありません。
話したら、自分の子が普通の子でないことがバレてしまう。
母のことも、父のことも、騙しているようで息苦しいです。
家にいるときのぼくは、桜桃忌より前の自分を真似しているだけです。
本当の息子は、もう十七歳で死んでいて、今生きてるのは偽物。
死んでしまっていたことに気づいたら、母はきっと悲しむ。
両親が天寿を全うするまで、偽物を演じつづけるのも、嘘吐きみたいで苦しい。
最近、晃という友人ができました。
芸能人です。でも、いい人です。
晃は、困っている人をほっとけないお人好しなところがあります。
ぼくは、晃の良心に付け込んで、可哀想な自分を利用して取り入ろうとしています。
かわいそうではありません。すべて、自分が巻き起こしたことです。
それに気づいたとき、きっと晃はおれを軽蔑するでしょう。
薫がそうだったように。
でも、だからといって黙っているのも不義理です。
ぼくにできることといえば、正直に自分の過去の過ちを認めて、晃に差し出すことくらいです。
『もし、それでも晃が』
真人からチャットGPTへのメッセージは、そこで途絶えていた。
*
田中先生からは、午後の大学は休むよう言われた。
ここまで来られたことが第一歩。
かなり危険な状態なので、週明けにもう一度診察に来て欲しいこと。
何かあったときのために、田中先生の携帯番号も渡された。
他にも、何か先生は話していた。ただ、何を言われても右から左で、晃はときどき適当な相槌を打って、虚空を眺めることしかできなかった。
目の前で横たわる真人は、さっきまで助手席でカーペンターズを聴いて、「好きな食べ物」を聞いてきた真人と、同じだろうか。
「日下さんも、今すぐ全部を理解しようとしなくていいです」
反応の鈍い晃にめげず、田中先生は優しく晃に訴えた。
「色々と気になるとは思いますが、本人から話したいと言われないうちは、詳しく聞き出そうとしないでください」
「……」
「まずは、安全に帰ること。食べられるものを少し食べること。眠れる環境を作ること。それだけでいいです」
「……」
あ、桜桃忌って、明後日じゃん。
真人、金曜日も大学あるんだよな。行けるのかな。
あ、おれ、仕事じゃん。Mステ。
Mステ……なんだそれ。そんな浮かれたところ、呑気に行ってる場合なのか。
「真人、かえろう」
絞り出した声は、自分の声じゃないみたいだった。
帰り道、MAZDAを運転する晃は、カレーが好きと言っていた晃と、全く違う目をしていた。
やっぱし、気持ち悪い、って思われたかな。
それとも、犯罪者、とか。
「あのさ、大学、今日休めって」
落としていた視線を上げると、正面を向いたままの晃の横顔があった。
「まだ今日はやめとけって。金曜日のゼミは、無理のない範囲で判断しろって」
視線が、合わない。
真人は溢れそうになる涙を堪えて、こくんと頷いた。
MAZDAは行きと同様、日野のガレージに戻ってきた。
出ていけ、とは言われなかった。
その事実に僅かに安堵して、シートにもたれて真人がため息をついていると、助手席のドアが開いた。
「立てるか」
帽子の陰に隠れた目。真人はよろよろと立ち上がって、晃の後ろを歩いた。
勝手口からタタキに上がると、真人を見つけたハクが胸元に飛びついてきた。
……おれ、今、もしかしてハクしか友達いないのでは。
尻尾を振ってペロペロと頬を舐める無垢なハクに、胸が締め付けられて真人は思い切りハクを抱きしめた。
勝手口で熱い抱擁をする真人とハクをすり抜けて、晃はそのまま二階へと上って行った。
晃はすぐにまた降りてきて、真人の前で屈んだ。
「……わり。事務所に呼び出されたから、顔出してくる」
真人の怯えた表情に、晃は苦笑した。
「今日は、お袋のそばにいな。あと、怪しい電話は出ない。約束してくれるか」
“いってらっしゃい”
真人の唇が動くと、晃は頷いた。
いつ帰るのだろうと、真人は時計を指差して、首を傾げた。
「わかんねえ。でも、終電には帰るよ。約束する」
真人はこくんと頷いたが、真人の胸元に埋まっていたハクは、晃に向かって唸り声を上げた。
晃はそのままバーバーサンライズの店舗裏口から春枝に声をかけた。
カット台に座る春枝と同年代の福重さんが、晃に気づいて会釈した。
怪訝な表情の春枝に構わず、晃は春枝に耳打ちした。
「事務所に呼ばれた。真人のこと、頼む」
春枝はピタリと手を止めたが、そのまま晃は店舗のドアから外へと出て行った。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
咄嗟に出た声かけに、バックヤードで電話を受けていた照夫が顔を上げた。
「晃ちゃん、どうしたの。怒ってた?」
「さあ……よほど緊急なのかしら」
ガレージのMTBを乱暴に引き出していると、うるさい声が降ってきた。
「おい、接客中だぞ。何考えてんだ」
晃は目を逸らしてバイクに跨った。
「昨日は、偉そうに宣言してたくせに」
「……」
「あの子のそばに居てやれよ。何話したか知らねーけど、お前がそばに居てやんなくて、どうすんだ」
「……黙れ」
うるせえ。
親父はなんもわかってねえ。
「お前、あの子が大事なんだろうが。今の自分の顔、わかってんのか。人殺しみたいな顔して、どこに消えるってんだよ」
晃はハンドルをきつく握った。
『もし、それでも晃が』
聞けない。今の自分に、その続きは。
*
真人は炊飯器の前に立ち、蓋の取っ手に手をかけた。
「神谷さんは、封印していたつもりの悪い大魔王が、復活しちゃったみたいに思ってるんでしょう」
先ほどの田中先生の言葉が頭をよぎった。
「本当にそうでしょうか。大事なのは、蓋を開けないようにすることではありません」
うん。そう言ってた。
だから、大丈夫。
春枝も、先に食べてて、って言ってた。
田中先生も、ご飯を食べるのは、悪いことじゃない、って言ってた。よし。
真人は自分にそう言い聞かせ、蓋のボタンを押した。
パカっと開いた炊飯器の中に、黄色いピラフが炊けていた。
「……」
真人は炊飯器を覗き込んだまま、堪えきれずに笑った。
そのまま項垂れる真人の足元で、ハクがくうん、と鳴いた。
「……何やってんだろ」
晃がいなくなった部屋がやたらと広い。
お留守番ってこんなに寂しいものだっけ。
終電までには帰るって言ってたな。
電車で事務所に行くのかな。っていうか、呼ばれたのって、本当なのかな。
ここでひとりで待ってるくらいなら、ハクをお散歩にでも連れて行こうかなあ。
そう思うのに、晃に嫌われたんじゃないかと思うと腰が引けて、真人はいつまでも立ち上がれなかった。
「まひちゃん?」
春枝が裏口から顔を出した。呆けている真人を春枝が手招きした。
「ちょっと店舗のほうに来れる? 晃にね、まひちゃんのこと頼まれたけど、福留さんとこの奥さんのカットが終わらないとそっちに行けないのよ」
春枝に促されるまま、真人はサンダルを履いて店舗の中へと向かった。
「あら、ハクも来たの。まひちゃん、こっちの椅子に座っててちょうだい」
真人がハクを抱えたまま、待合席の椅子に腰掛けると、ダッカールで髪を留められた婦人と目があった。真人が会釈をすると、婦人が「まあ!」と声を上げた。
「だぁれ? この子。晃くんのお友達かしら」
……もう、友達じゃないかも。
真人が心の中で嘆いていると、春枝が誇らしげに頷いて、真人の代わりに答えた。
「そうなのよ。しばらく預かってる子なのよ。とっても可愛いでしょう」
「まあ、まあ。本当に。綺麗な子だわあ。寿命が伸びるわねえ、春枝さん」
「そうなのよ! まひちゃんが来てからこっちまでお肌がつやつやなのよ!」
声が出ない真人をよそに、婦人二人は盛り上がっている。
……春枝さん、すき。
晃に嫌われても、春枝さんとはズッ友。
真人は固く心に誓って、ハクを椅子に座らせてヨロヨロと立ち上がった。
“そうじ”
真人は箒で掃くジェスチャーをして、春枝に訴えた。
「まあ、お願いしていいの? じゃあ、向こうの方をやってもらえるかしら」
真人が頷いて、バックヤードへ掃除道具を取りに行く間に照夫が戻ってきた。
「……あの子いるか」
「いるわよ。ここ」
予想より近くからにゅっと現れた真人に照夫は少しだけ後ずさった後、安心したような顔で息を吐いた。
「掃除すんのか」
真人は頷いた。
「いいぞ、やってくれるか。よし。頼むな」
「お父さん、まひちゃんのことちゃんとお名前で呼んであげなさいよ」
横から春枝が照夫を小突いた。
「いつも、おい、とか、なあ、とか誤魔化して」
そうだったのか。全く気付いていなかった。
狼狽える照夫は、目を泳がせる様子まで晃によく似ていて、真人は思わず笑ってしまった。




