ある偽善者のひとりごと
「この子、他には何も取り柄がないのですもの。もし、お預かりしていただけるのなら光栄ですわ」
「いえいえ、お母さま。榊くんは優しい子です。活躍して家族を支えたいと言っていましたから」
この二人の会話において、一体どちらが正直者で、どちらが嘘吐きなのであろうか。
母親は、言葉の上ではまるで不出来な息子を丁稚奉公させるかのような口振りだし、瓶子はそのささやかな願いに応えるために、おべっかみたいなことを言っている。
母親は、おれを卑下しているようで、実際には値踏みしているだけだった。
気に入らない息子でも、顔だけは使える。家の汚名を雪ぐ道具にはなる。
だから、あんな言い方ができる。
一方で瓶子は、その嘘を否定した。優しい子です、と、思いもしないことを言って。こいつもまた、嘘で嘘を塗り替えた。
けれど、あいつも気づいていたはずだ。母親の腹の中にある、醜い計算に。
気づいた上で、引き取った。そう考えると、正直者はむしろ瓶子のほうだったのかもしれない。
正直者と嘘吐きの区別なんて、世の中ではこんなふうに混ざり合っているのだろう。榊にはそんなふうに思えてならなかった。
この世に生まれて、十八年。
それでも、おれが知っているおれなんて、ほんの一部分でしかない。
同様に、母親も、またあの瓶子も、その大部分を、他の人には全然わからないところで生きているに違いないのだ。
いじめで自殺に追い込む役が当たり役となったおれは、果たして本当のところは悪人なのか、それとも善人なのか。自分でもよくわからない。ただ、優しい人間でありたいとは思っている。
善人でいるためには、二学年下の後輩、神谷真人はちょうど良い奉仕の相手だった。
やることなすこと鈍臭くて、泣き虫。次々と仕事が舞い込む榊とはちがって、真人のほうはからっきし。そのくせ、色んなことを思いついては絵空事を榊に訴える。
その真人の思いつきをたまに叶えてやると、自分の善意が証明される気がした。
自分は悪い人間じゃないと、安心することができた。
むしろ、こんな世界におれや、真人を送り込んだ大人たち。そいつらのほうがよっぽど悪人じゃないか。
役のために精神を削られ、容姿を消費され、最低限の人権みたいなところがまるっと無視される。まるで、生ハムみたいだ。
刹那の美味を客に提供する傍で、表舞台の人間は日々その身体を減らす。得をするのは瓶子みたいなやつばかり。
見た目の煌びやかさに騙された子どもがいたとして、それを断るのが大人の役目だろうに。
つまるところ、おれは賭けの対象にされたのだ。勝てば自慢の息子、負ければ捨て駒。そんなところだろうと思った。
真人の親も酷いもんだ。スペアのおれと違って、真人は一人っ子だというのに。
親は何を考えて、我が子をこの世界へと放り込んだのか。
まともな世界から見放された、悲しい子。
せめて、おれが癒してやりたい。
そう思っていた。
その気持ちだけは、本当だった。
アルコールは二十歳になってから。とてもわかりやすい。それならば、他のドラッグだって、百二十歳になってから、と約束があれば良かったのに。
いつか許されるなら、待つこともできる。けれど、何歳になってもダメだと言われたら、守る気が失せるだろ。
先輩から分けてもらったタブレットは、在庫が尽きればすぐに手に入れることができた。これもある意味、人助けだ。
汚れちまった悲しみに、一人で苦しむ先輩は可哀想。おれも同じ泥水を飲んでやることにした。すると、それがいたく嬉しかったのか、先輩はこう言った。
今度、良い女を見繕ってやるよ。榊くんは、どんな子が好き?
改めて自分の好みを尋ねられてみると、よくわからない。ただ、知性を感じる人間は好きだ。言葉選びや話し方、物事の捉え方。自分にない視点を見つけたときに、自分が良い人間になれた気がする。
ただ、賢い人間が必ずしも良い心を持っているかといえば、話は別。
この世界に生きる人間というのは、どこを見渡しても、欠落して薄汚く見えた。誰もが自分をよく見せることを知っていて、どこか打算的だった。騙されるのは嫌だった。
その点、真人はわかりやすかった。
泣くときは泣く。喜ぶときは喜ぶ。嘘を吐こうとしても、すぐ顔に出る。役者としては致命的。でも、そんなところが愛おしいと思った。
薄汚い世界の中で、無垢な真人が眩かった。
「神谷真人、御域の子。あの子を使いたい」
手水監督が打ち上げの席でそう言っていた。
「あの子、普通じゃないね。業界長いけど、初めて見たときはゾッとした。榊くんは知ってるかい」
「知ってます。昔、うちの事務所に居ましたからね」
榊がそう答えると、手水は膝を打った。
「そうか。なるほどね。じゃあ、今度彼を誘ってくれないか」
「……失礼ですが、手水監督がそこまで入れ込む理由がわかりません。台詞覚えも悪いし、まだほんの子どもですよ」
榊はあえて突き放すように言った。
「何言ってるんだ。君と二つしか変わらないだろう。あれは、子どものふりをした、人ならざる者。おれにはそう見えた」
手水監督は毛深い腕を伸ばして、煙草の灰をトンと皿に落とした。
「瓶子の仕業だろうな。神谷真人の最近の匂い立つような変化は。一体、何をやらせたのか」
肩で笑いながら、手水は大きく煙を吐いた。
「ねえ、真人」
「なに?」
真人は顔を上げて首を傾げた。
なんだか動物みたいだ。可愛い。
「真人、おれのこと好き?」
「うん」
即答だった。真人は先ほど買い与えたフラペチーノをちゅーっと吸うと、「なんで?」と尋ね返した。
「……いろんな女の子と散々遊んだのになあ。真人は別腹なんだよなあ」
「なに、それ」
言葉の意味が伝わっていないらしい。もう、高校二年生だろうに。榊はため息をついて、真人の顔を手で挟んだ。
吸いづらい、と文句を言いながらストローを噛んで不満を言う真人に、榊は目を細めた。
「ストロー邪魔。目、瞑って」
榊が笑いながらそっと顔を近づけると、やっと状況を理解した真人が慌てて榊の顔を手で押し除けた。
「何してんの!」
顔を真っ赤にして狼狽える真人に負けじと顔を近づけていたら、そのまま真人は椅子ごとひっくり返ってしまった。
咄嗟にフラペチーノを庇った真人ごと、榊は急いで抱きかかえた。すんでのところで後頭部強打を免れた真人に、榊は思わず笑った。
「大丈夫?」
耳元で囁くと、小さく震えた真人が、こくんとうなずいて、ようやく手を床についた。
「……あんまり、そういうの、お試しでするのってよくないと思う」
真人は頬を染めたまま、またパイプ椅子に座り直した。
「けち。おれ、こんなに真人に尽くしてんのに。そのくらいいーじゃん」
榊はテーブルに肘をついて文句を言った。
「ドライブ。映画。ゲーセン」
握った指を一本ずつ立てて、榊は真人を流し見た。
「次は何かなぁ。旅行? 二人で、旅行行かない? おれから瓶子さんに口利きしてやるよ。予定合わせてほしいって。おれの頼みなら、言うこと聞くぜ、瓶子さん」
「やだ。さっきの榊さんのムーブ、結構やだった」
「じゃ、真人の好みを教えてよ。どーいう子が好きなわけ」
榊は真人の顔を覗き込んだ。
「男は無理? おれは? こんな男前でもダメ?」
咥えていたストローを手に持って、真人は困ったように眉を下げた。
「……わかんない。なんか、おれ、へんなのかもしんない」
「恋がわかんないのか?」
「……なんか、悪いことみたい」
女の子なんか、弱い生き物じゃん。
へなちょこのおれより、さらに弱いじゃん。
そういう人に、欲望を持つのとか、なんか、悪いことみたいな気がする。
真人が言い終わらないうちに、榊は真人の脇に腕を差し入れて、背中に手を添えた。
「じゃあ、やっぱり男がいいってことじゃん?」
耳元で囁くと、真人はびくりと身体を震わせた。
「違う! なんでそうなる!」
真人はぽかぽかと榊の背中を叩いて抗議した。
「お願い。真人。今度、うちに泊まりにおいでよ。絶対後悔させないから」
「やだ!」
「けち。もう、桜桃忌追悼してやんねーぞ」
榊が言うと、真人の抵抗が弱まった。
可愛い。他の男なんてまっぴらだけど、真人だけは特別。
どうしようもなく惹かれる。これは、恋だろうか。
榊はそのまま真人をぎゅっと抱き込んだ。腕の中におさまっている真人が、小さく「離して」と訴えるので、名残惜しく思いながらそっと腕を解いた。
真人の魅力は日々増すばかり。手水にも見つかってしまった。早くなんとかしなければ。
好意を伝えたことが災いしたのか、真人からの連絡はそっけなくなった。次はどうやってご機嫌取りをするかと考えあぐねていたら、向こうから電話がかかってきた。
久しぶりに聞く真人の声は濡れていた。
「大丈夫? 何があったの?」
榊はほくそ笑んだ。
ジャックレコードの佐々木さんから、身体を触られた。
嫌だと思ったのに、身体が固まって、抵抗できなかった。
そのまま今日は帰ってしまったけど、もう、仕事に行きたくない。でも、行かなかったら歌えない。やっと貰えた音楽の仕事なのに、どうしよう。
真人は声を震わせて訴えた。
「瓶子さんには言ってないの?」
榊が尋ねると、目を擦りながら、真人は頷いた。
困ったらこれだ。結局、頼る相手はいつもおれ。榊はため息をついた。
「好意を示してる相手にこうやって相談するのって、狡くない? 生殺しじゃん」
「……?」
「善意にフリーライドするなって言ってんの。いつも話に出てくる薫くんはどうしたよ。そいつに相談してみりゃどうなんだ」
「そんなの無理だよ。こんな、こんな、汚い話、したくないよ。芸能界の嫌な話なんか、薫に聞かせたくないよ」
薫は、一番大事な、友達。
真人が涙ながらに訴えた言葉に、虫唾が走った。
「じゃあ何だ。汚れ仕事はおれってか。好かれてることをダシにして、おれを弄ぶつもりなのか?」
「違う! 怒らないで!」
真人は頭を押さえて蹲った。
榊は舌打ちした。
口では屁理屈を捏ねているが、結局こいつは孤独なのだ。親友と謳う薫という友人にさえ、困ったときの相談一つ、できやしない。心の奥底で一番縋っているのは、おれ。
「……汚い手で、真人に触りやがって」
榊は額に青筋を浮かべながら呟いた。
真人は涙の粒をまつ毛にたくさんつけて、そっと顔を上げた。
「怖かったよな、真人。もし瓶子さんに突っぱねられたら、おれが加勢してやるから。真人は、悪くない」
真人は小さく「ありがとう」と言った。
榊は強引に真人の顎に手をかけた。真人は、抵抗しなかった。
年に一度の桜桃忌。絶好のチャンスはすぐにやって来た。
真人は例年通り、ギターを背負ってマンションのインターホンを押した。
真人は勧められるまま、グラスに口をつけた。
「DVD持ってきた。榊くん、一緒に観ようよ」
真人は眼鏡の青年と飛行機が描かれたケースを差し出してきた。
「ジブリ観ないって言ってたから、これはどうかなと思って」
真人の機嫌を損ねぬよう、鑑賞に付き合うことにしたものの、心底、退屈だった。
かつて観た、どっかの空に浮かぶ城の話には、まだ躍動があった。だが、これはきつい。画面にまるで動きがない。
榊は手元の端末を開き、雑音に逃避した。
持ち込み主の真人は、食い入るように画面を見つめ、ときどきソファの生地を撫でさするように掴んでは、唇を噛んだ。
やがて、夜に桜の狂い舞う情景に至るや、真人は溢れる涙を拭いながら「死なないで」と、祈るように呟いた。
終幕後、真人は手首で涙を拭い、「二郎、きらい」と独りごちた。
なんだ。結局、こいつも不満を抱いただけではないか。
「真人。ねえ、真人。どうしたの」
榊が驚いた顔で真人の肩を揺すった。
「顔色が……調子が悪いのか?」
真人は首を振って、そのまま榊の胸に頭を預けた。
「どうしたの?」
榊が抱きしめると、真人は呟いた。
「どこから間違えたんだろう、って、いつも思う」
「……間違えた?」
「普通に、皆と仲良くしたい。でも、なんかうまくいかない。皆を怒らせてばっかりなんだ、いつも」
榊は真人の髪を指で優しく梳いた。
「おれは怒ってないよ。真人のこと、好き。ずっと言ってるだろ」
「……」
「わかるよ、おれには。寂しいんだよな」
真人はこくんと頷いた。
「ねえ、真人。真人の一番好きな人を教えてよ。真人が、一番大事に思う人は誰」
榊は真人の頬を撫でながら尋ねた。
「友達じゃない。抱きしめてほしい人。温もりを感じたい相手のことだよ。わかるだろ?」
榊は崩れそうになる表情を必死に抑え、穏やかな笑みを浮かべて尋ねた。
真人の口が、ゆっくり開いた。
「じいちゃん」
榊の中で、何かが弾けた。
榊は真人の手首を掴んで床に縫い留めた。仰向けに倒れた痩躯が大きく息を吐いた。
「良い加減にしろよ、このクソガキ」
豊かな髪が、清流のように床に散らばり、額には玉の汗が滲む。呼吸は浅く、横向きの顔から覗く双眸は虚ろだった。
眼下の光景に榊が満足げに笑みを浮かべていると、不意に、冷たい気配を感じて顔を上げた。
死んだはずの親父が、立っていた。
「それは違う。お前は間違っている。お前のやろうとしていることは、倫理に悖る、犯罪だ」
喧しい。そうやって正論を振りかざし、己が矛盾に耐え得ず世界を捨てたのは、おまえ自身だろう。
榊は忌々しい父の幻影を一喝し、指先で真人の髪を弄んだ。
ふたりでこの耐え難い夜を越えよう。
孤独を埋め合おう。
怖いかも知れない。でもその先に喜びがあることを、おれは知っている。
佐々木を忘れるほどの、上書きを。
手水に絡め取られるよりも、疾く。
窓の外では、遠雷の音が響き渡っていた。
この雷鳴さえ、祝砲のように榊には思えた。




