出頭の日
「いたんだって、ほんとだもん!」
朝の支度の時間に、寛太が何度目かの声を張った。
「真人先生だもん、絶対。マスクしてたけど、絶対先生だった」
「イオンモールに?」
ひかりが腰に手を当てて眉を顰めた。
「うん」
「家電コーナーに?」
絵梨花が尋ねた。
「うん」
「「ないない」」
「真人先生、ひとりでショッピングモール行かないと思う。陰気だし」
「テレビ観ないって言ってたのに、ARCのライブ映像なんか立ち見しないよ」
「でも、いたもん。見たもん……」
寛太は半泣きだった。
居た! と思った真人先生は、ARCの次の曲のイントロに一瞬気を取られた隙に、視界から魔法みたいに消えてしまった。
やっぱり見間違いだったのかなあ。
寛太がしょんぼりと肩を落としていると、隣の席の桃子が声をかけた。
「私、信じる。寛太が見たの、真人先生だったって信じるよ」
「ほんと?」
「うん。もしかして、真人先生のおうち、この辺なのかもよ」
桃子が言うと、寛太の顔がぱあっと綻んだ。
「真人先生、日野に住んでるのかな?」
「そうだったら、面白いねえ。日野って、畑もあるし、タヌキもいるしさ。真人先生も日野に生息してたらいいよね」
「桃子の言い方、それじゃあまるで、真人先生が不思議な生き物みたいじゃん」
後ろのひかりが笑うと、桃子は大真面目に頷いた。
「だって真人先生って、トトロみたいだし」
教室は笑い声に包まれた。
「休み時間、どんぐり拾ってたよね」
「昔遊びで、駒回すのも上手かった!」
子どもたちが盛り上がっていると、松下先生が教室に入ってきた。
「廊下まで声が響いていましたよ。なんの騒ぎですか」
松下先生が苛立ちながら話し始めても、誰もおしゃべりをやめなかった。
「いいかげんにしなさい!」
松下先生は朝から眉間に皺を寄せて、お説教を開始した。
……松下先生は、トトロ見えなさそうだなあ。
ふとそんなことを思った渚は、つい噴き出してしまった。松下先生には速攻見つかって、こっぴどく叱られてしまった。
*
本人は二十三歳。
数日前から強い不安、食欲低下、睡眠不良。
声が出ない。頭痛あり。失踪に近い行動あり。
パニックにより、先月と今月、計二回の搬送。
過去の加害者と思われる人物が本人宅付近に現れた。
本人は芸能関係者を強く怖がっている。
実家とは現状没交渉。本人の意向次第では今後協力の可能性あり。
現在は日下家で一時的に休ませている。
小学校教員志望であり、来月の東京都教員採用試験を受験予定だが、本人は就職に強い不安あり。
本人の同意がある範囲で同席希望。
……こんなもんか?
晃はパソコンに打ち込んだ文字をChatGPTに読み込ませて、リライトをオーダーした。書き起こされた文章をコピーし、プリンターを起動させていると、真人がちょんちょん、と肩をつついた。
“じゅんびできた”
「ん。行くか。真人、体調はどうだ?」
“あきらは?”
「おかげさまで熱は下がった。マスクはつけてくよ」
真人はこくんと頷いて、またペンを走らせた。
“なにを話せばいいか、わかんない”
「いいよ。初回だし」
大事なのは、医療とちゃんとつながること。
晃が付け加えると、真人はまた頷いた。
白のハイネックに、大きめのカーディガンを羽織った真人。
ここに連れてきたときと比べて、どうだろう。少しは、元気になっただろうか。
声の出ない真人は、差し出された晃の傘の中に入り、ガレージまでの道をとぼとぼと歩いた。
午前中に診察を受けた後は、午後、大学に行くことになっている。
真人にとってはハードスケジュールだが、こなせるだろうか。
“おんがく、かけていい?”
助手席の真人が掲げる文字に、晃は目を丸くした。
「いいよ。何?」
“カーペンターズ。たいへんにすき”
「へえ。そうなんだ。ARCかけてやろうかと思ったけど、カーペンターズ先輩なら、負けてやるか」
晃の軽口に、真人はくしゃりと笑った。
緩んだ頬と、漏れる楽しそうな吐息に、思わず晃は口元を覆った。
唇を噛み締める晃の様子に、真人は心配そうに首を傾げた。
完全回復とはいかないまでも、晃はもういつもの調子を取り戻していた。真人を助手席に乗せると、MAZDAを器用に切り返して発進させる。
心療内科かあ。五年前に連れられて行ったときのこと、もう覚えてないな。
今日は、何を話すことになるんだろう。
自分でも、何が苦しくて、何が辛いのか、うまく説明できない。
筆談、ちゃんとできるかな。
教採の話したら、その体調で、何言ってるんだ、って怒られたりしないかなあ。
……昨日の夜、チャットGPTに相談してみたけど、なんか上手く話が噛み合わなかったんだよなあ。なんでだろ。
信号が赤になり、車のスピードが緩んだ。真人はノートに文字をさらさらと書いた。
“たなかせんせい、こわかったらどうしよう”
運転席に向けてノートをそっと掲げると、晃が苦笑した。
「……信号で停まるの、待ってたの?」
真人はこくこくと頷いた。
「怖くねーよ。優しい先生」
まるで田中先生を知っているかのような口ぶりだった。真人の疑問を察したように、晃が続けた。
「昔ね。お袋が通ってたことがあったんだ。わざわざ、近くのクリニックじゃなくて、国立の心療内科探してさ。おれも、ついてってた」
春枝さんに、そんな過去が。あの元気で愉快な春枝さんが。
真人は視線を落とした。
おれ、日下家のこと、知らないことばっかりだ。
自分のことばっかりで、晃や、春枝さんや、照夫さんのこと、何も知らない。
晃が昨日電話してた、大垣くんも、どんな人なんだろう。
「そんな変な顔すんなよ。とりあえず、今は真人が最優先」
晃の柔らかい声が頭上から降り注いだ。
晃、優しいなあ。スペシャル優しい。
「いいのか、もう、青になるぞ?」
真人ははっとしてペンを執った。
“あきらの いちばんすきなたべもの”
「今一番知りたいの、それかよ」
晃がカラカラと笑った。
車内に流れるのは、“青春の輝き”。
カレン・カーペンターの少し翳りのある歌声と、兄のリチャードが奏でるアコースティックギターの音色。久しぶりに聴く懐かしい歌に、凝り固まっていた心がほどけていく。
「一番好きかぁ。やっぱ、カレーかな」
カッコつけた声で答えたわりに、内容はちょっと期待外れで、真人が静かに目を細めていると、晃にバレて怒られた。
田中先生の計らいで、午前診療が始まる一時間前に枠を確保してもらい、待ち時間なく診てもらえることになっていた。
診療所は、晃が訪れた頃の記憶より、幾分か綺麗になった気がする。
待合室にはやわらかそうなソファが置かれていて、オルゴールの音楽が流れていた。
晃は受付に先ほど印刷した資料を手渡して、所在なさげに視線を泳がせている真人に、ソファに座るよう促した。
「おれ、最初からついてったほうがいい?」
真人は首を振った。
「じゃあ、ここで待ってる。途中、もし同席していいタイミングがあれば教えて」
今度はこくんと頷いた真人に、晃は口角を上げた。
「神谷さん、どうぞ」
握っていた晃の小指からそっと手を離して、真人は立ち上がった。
「真人、」
晃が背中に声をかけたが、真人は振り返らずに診察室に入った。
ドアがパタンと閉まる音。
目の前の回転椅子に座っている田中先生は、田中先生っていうより、安西先生みたいな顔をしていた。
「神谷、真人さんですね。おかけください」
真人は言われるがまま、しずしずと椅子に腰を下ろした。
「日下さんから、資料をいただいていたので、目を通しました。大変でしたね、よく、ここまで来てくれましたね」
……違う。おれは、全然偉くない。
それ、作ったのも、晃だし。運転して連れてきたのも、晃だし。
おれは、連れてこられただけ。
真人は膝のズボンをきゅっと握った。
「もし、話している途中で気分が悪くなったりしたら、構わず教えてくださいね……神谷さん?」
もう、ダメだった。こんな序盤で。
話すこと、全く考えてこなかったわけじゃなかった。
でも、話したら。
ああ、やっぱり無理だって思った。
こんなに迷惑かけて、助けてもらって。
それなのに、こんなこと話して、友達でいられるわけがない。
「神谷さん。大丈夫ですか?」
おれ、ここへ、晃との友達を終わらせに来たのかな。
そっか、そうだよな。よくしてもらっといて、都合の悪いところは隠せなんて、ムシが良すぎるもんな。
正直に話して、きっちり嫌われなきゃ。
今日は、出頭の日なんだ。
真人は震える指を叱咤して、顔を上げた。
「……今、なんと」
診療所の前、駐車場の隅に隠れた晃は、望月の言葉に背筋を凍らせた。
『だーかーら、金曜日のMステは、流石に休めないって。うち、大所帯じゃないんだから。ブロッサム・バブルス・バターカップ、みんな揃ってARCでしょ!』
「その例えは知らん。ってか、明後日じゃねーか! 振り付け危うい。日野ステイで感覚が一般人化してきてんだよ」
『とにかく、当日は日野まで迎えに行くからね。大人しく連行されてよ?』
リハは最悪サボるとして、現場入りから退出までどう見積もっても三時間。往復のこと考えたら、もっとか。
本番は夜帯だし、春枝と照夫の目もある。しかし、任せて大丈夫だろうか。
晃が頭を抱えて蹲っていると、診療所のドアが開いて、青ざめた看護師が顔を出した。
晃はすぐに立ち上がった。
「……真人ですか?」
晃が尋ねると、看護師が頷いた。
「ちょっと、パニック気味になってしまって……日下さんのこと、呼んでます」
晃はスマホを握りしめたまま、診察室に駆け込んだ。
頭を押さえて、小さく丸まっている真人が、横向きにベッドに寝かされていた。
晃はすぐに屈んで、腕で顔を隠している真人に声をかけた。
「……真人?」
真人は返事をしなかった。晃が田中先生に顔を向けると、田中先生は苦笑して、晃の肩にポンと手を置いた。
「少し、席を外します。十五分くらいしたら、またノックしますから。神谷さんが落ち着くまで、側にいてあげてください」
「……すみません」
咄嗟に謝ってしまった。
田中先生と看護師が診察室を出て行った。先に他の患者を診るのかもしれない。
ぴくりとも動かない真人に向かって、晃は真人、真人、と力なく声をかけるしかなかった。
「おれだよ。わかるか?」
真人の口元が動いた。あ、き、ら、と息が小さく漏れて、晃はうん、と何度も返事した。
真人の腕から力が抜け、顔を隠していた腕がそっと外れる。涙に濡れた目が露わになった。
晃が言葉に詰まっていると、真人はポケットからスマホを取り出して、チャットGPTを開いた。
『文章を添削して。
心療内科の先生に見せます。
わかりやすくまとめてください』
『はい。わかりました。
先生に状況が伝わりやすくなるよう、以下のようなポイントを意識してすっきりとまとめますね。
・一番つらい症状、最も相談したいこと
・それがいつ頃から始まったか
・日常生活や体調への具体的な影響
準備ができたら、その文章を教えていただけますか?』
晃は差し出された画面をスクロールした。
『パニックのような症状や、急に過去のことを思い出して動けなくなることがあり、普通の生活が難しくなっています。
芸能界にいた頃の自分の失敗が忘れられません。
自分の何が悪かったのかをずっと悩んでいますが、答えが出ません。
教師になりたいと思っていましたが、自分にそんな資格があるのか、わかりません。
できれば死にたくありません。
でも、「お前なんか死んでしまえ」という叱責のような声が聞こえることがあります』
晃は言葉を失った。
思わず目の前の真人に手を伸ばすと、真人は不貞腐れたように膝掛けを頭からすっぽり被ってしまった。
チャットGPTとの会話にはまだ続きがあった。
『毎年、六月十九日が怖いです。
その日が近づくにつれて、体調が悪化します。
以前、大切な友人にこのことに関して話した結果、関係が切れてしまったことがありました。
聞くに耐えない話だったと思います。今にして思えば、申し訳ないことをしました。
心療内科の先生も気分悪くなるかも。
チャッピーには話しても大丈夫ですか。とっても楽しくない話です』
『話せる範囲で大丈夫です。
ただ、「死にたくない」「死ねという声が聞こえる」という部分は、明日かならず先生に見せてください。
六月十九日のことも、先生に伝えるために、短く整理するお手伝いはできます。書けるところからで大丈夫ですので、教えていただけますか?』
晃は目の前の真人を流し見た。相変わらず膝掛けに埋まっている真人をポンポンと叩いた手が、微かに震えた。
「……真人、読むよ?」
返事はなかった。
晃は息を大きく吐いて、一文字一文字を目で追った。
ノックの音が聞こえた。晃は、しばらくその場から立ち上がることができなかった。




