嵐の前に
「ただいま」
鼓膜の奥に、勝手口のドアが開く音。春枝の声が微かに耳に届いた。
晃が目を開けると、部屋の時計の針はすでに夕刻を指していた。
結構な時間、外に出てたんだな。
頭が重かった。起き上がるのも億劫で、また目を閉じてうつらうつらしていると、背中でぼすん、と音がした。
はっとして寝返りを打つと、真人が倒れるように布団の横に寝転んでいた。
「ちょっ……真人。部屋入るなって言ったろ」
顎までずれていたマスクを鼻まで引き上げ、晃がその後頭部に声をかけると、半分隠れた顔がそっとこちらを向いた。
「……何があった」
ほんのり赤く腫れた目元を隠すようにまた突っ伏した真人は、おなかの辺りをガサゴソとまさぐったあと、ビニール袋を晃に突き出した。中には、先ほどの衝撃で潰れたらしき市販薬の箱と、豆菓子の小さな袋が入っていた。
「……ありがとう。下で飲んでくる」
真人を残して、晃は咳払いをしてふらふらと階段を降りた。
「家電屋さんのテレビでARCの映像が流れてたんだって」
春枝がネギを切りながら晃の質問に答えた。
「……なんでそれで泣いてんの」
「観てたのを、教え子に見つかっちゃったらしいの。挨拶できなかったって」
「……そっか」
晃は肩を落とした。
「すごく堪えたみたい。声出ないし、弱ってたところ見られちゃったのが、辛かったのかしらねえ」
「……」
たぶん、それだけじゃないだろう。
適当に愛想笑い、とか、できないタイプだよな、真人。
「……それとね。山吹色のこと、聞かれたわよ」
急に春枝の声が低くなった。
「ARCのライブ映像。泣きやんだまひちゃんに、ペンライトの色の意味を聞かれたのよ」
「……」
「ショック受けてたわよ。晃が絶対一番人気だと思ってたんですって」
「……へえ」
ふらふらと晃はシンクにもたれかかった。顔が熱くて痛い。
「へえ、じゃないのよ。負けんな。まひちゃんに恥をかかせるんじゃないのよ!」
理不尽な母親からの叱責に、晃は真っ赤な顔でシンクに寄りかかったまま反論した。
「お袋だって宗馬推しだろうが!」
「宗馬は仕方ない。あの子は仕方ない。でも、凌也には負けるな。私、凌也のとこには嫁にやりたくないもん」
「妙な観点で競わすな。っつうか……凌也で想像させんな!」
「はあっ。コメダのソファ席にちんまり座るまひちゃん、本当に可愛かったわ……」
春枝は刻んでいたネギを脇に寄せ、今度はニラを手に取ったまま、うっとりと思い出すように言った。
春枝は、コメダへ入ったときのことを思い返した。
すっかり遅くなった昼食をとろうと、駐車場を出てから、春枝は道路沿いの店を探しながら車を走らせた。
ガストあるよ、マックあるよ、と春枝が声をかけていると、コメダを見つけた真人が背筋をぴっと伸ばしたのを、春枝は見逃さなかった。
やや混雑した店内。二人がけの小さなテーブル席に案内されて、真っ赤なソファ席にしずしずと座る真人。
“風邪薬、買ってない”
「いーの、いーの後で。それより食べよ。まひちゃん何食べる?」
“おなか すかない コーンスープのむ”
「まーたそんなこと言って。シロノワール、食べない? 半分こでもいいわ」
いいの? と向かいの席で目を輝かせる真人に、春枝はうんうん、と頷いた。
“しつもん ペンライトの色 どんないみ”
「あら。あれはメンバーカラーよ、まひちゃん。宗馬は深紅、凌也は浅葱、晃は山吹。ライブ会場では、推しの色のペンライトを振るの」
“ペンライト、本人からみえる?”
「見えるんじゃない?」
“少ない人 くやしい”
「まひちゃん……!」
“山吹色 もっとあってもいい”
「そう思ってくれるの!?」
「……抗議のプラカードみたいにノート持って訴えてた。健気だわ。でも晃には内容教えてあげない。調子乗るから」
「……結構です」
晃は真人から受け取ったグシャグシャのパッケージを袋から取り出した。黄色のベンザブロック。また体温が熱くなった。
「真人。薬、ありがとう」
相変わらず伏せっている真人に、晃が声をかけた。
真人は返事こそしなかったものの、ごろんと寝返りを打って晃の寝ていた布団に仰向けになった。
「本屋で何買ったんだよ」
晃の問いかけに、真人は横に置いていた買い物バッグからビニールで包装された絵本を一冊、取り出して見せた。
宮沢賢治『貝の火』。
表紙の黒い背景を、流れ星のような線が走っている。うさぎと、その横に描かれているのは満月だろうか。丸い光の中で、燃えるような赤がゆらめいていた。
「読みたかったの?」
晃が尋ねると、真人はふるふると首を振って、またバッグを漁ってノートとミリペンを取り出した。
“あきらに よませたかった”
「……おれ?」
真人はぽんぽん、と布団を叩いた。ここで読めと言うのだろうか。
夕飯の匂いがしている。絵本にしてはかなり分厚いが、夕飯までに読み終わるだろうか。
晃は布団に腕を立てて絵本を開いた。
すると、真人が横にぴったりとくっついて、絵本の中身を覗き込んだ。
真人と絵本を見比べて、晃は苦笑した。
「言っとくけど、音読してやんねーぞ。移したくない、って言ったの忘れてんだろ」
わかりやすくしゅんと顔を曇らせる真人を横目に、晃はスマホで『貝の火 原文』と検索をかけた。
ヒットしたページを読み上げさせると、無機質な読み上げ音声が、スマホから部屋に流れた。
『貝の火 宮沢賢治』
『今はうさぎたちは、みんなみじかい茶色の着物です。
野原の草はきらきら光り、あちこちの樺の木は白い花をつけました』
真人は顔を上げた。晃はスマホのボリュームを上げて、目線を絵本に戻した。
*
俳優・火村修司の眠る禅林寺は、門の向こうに六月の湿気を含んだ濃緑を湛えていた。
方丈の建物の奥に夕焼け空を仰いで、逢魔が時の墓参りなんて、と火村の小言が聞こえた気がした。
紫陽花の青、紫、白が、雨に濡れながら咎めている。今更、どの面を下げて、と。
初めて会ったとき、あの子はまだ小学生だった。
山梨から来た、細くて白い子ども。
芸能界の空気になど少しも馴染んでいないのに、周囲の視線を残らず奪った。
横浜の中学一年生と、山梨の小学五年生。
とんでもない原石を、二人見つけた。
瓶子も鷹見も、よくやった。
あの頃、事務所の中ではそんな言葉が飛び交っていた。
望月に用意させた仏花を片手に、鷹見は境内を奥へと進む。
紫陽花の道を抜けると、方丈の左手に、建物の下をくぐる短い通路があった。
再び浮上した先には小さな地蔵が横ならびに続き、その先に、墓地が広がっていた。
藤野家之墓と書かれた墓石は比較的すぐ見つかった。ただ、これが本当に火村のものかは疑わしかった。
運悪く寺務所は休業日。今更関係者に確認するのも憚られて、鷹見はそのまま仏花を添えることにした。
先客があったのだろう、タバコや雑誌など、あまり品が良いとは言えない供物がいくつか置かれていて、鷹見は苦笑した。
線香に火をつけるべきか。いや、この雨では、すぐまた消えてしまうだろう。
鷹見は墓前に立ったまま、新しい卒塔婆をしばらく眺めた。
事務所を離れると連絡したときも、マー坊をどうするつもりだと詰められたんだっけか。
「おいで、真人」
断られるはずがないと思っていた。
なのに、あの子は手を取らなかった。
「ぼくは行かない」
やけに大人びた顔で、そう言った。
その瞬間、自分が何を思ったかを、鷹見はよく覚えている。
怒ったのだ。
瓶子の側に残るのか。
私ではなく、あの男を選ぶのか、と。
あれほど目をかけてやったのに。私が見つけた子だったのに。
たかだか十二の子を相手に、鷹見はそう思った。
五年ほどの漂流生活のあとに戻った芸能界は、全てが様変わりしていた。
真人は既にいなかった。
過去を振り返る暇はなかった。目の前の仕事に集中して、考えないようにしていた。
あのとき捨てた子が、呪いとなって返ってきたか。
火村さん。あのときの私は未熟だった。
もっとあなたの話を聞くべきだった。
合わせていた手を解いて、踵を返すと、背中に声をかけられた。
「こんなところで嘆いてないで、さっさと敵をやっつけろ、愚か者が」
はっとして鷹見が振り返ると、雨の中に、紙を掲げた望月が立っていた。
「ついでに三馬鹿にも伝えとけ。墓参りに来ても、そこに俺はいない。千の風になってもいない。小金井のマンションで地縛霊として待ってるから、仏壇に手ぇ合わせにこいよ――ですって、社長」
望月が鼻をぐすぐす啜って訴えた。
唖然として通路で突っ立っている鷹見に、望月が声を荒げた。
「もう! せっかく火村さんが置き土産してるのに、気づかず帰ろうとしちゃって」
「望月。お前、ローソン行ってたんじゃないのか」
「行きましたとも。空気読んで居なくなったのに、いつまでも社長が墓から戻ってこないから、心配して来たの。祟りで社長が呪い殺されてないか心配したんですぅー」
望月の前髪から雨が滴る。少しずつ雨足が強まっていた。
「火村さん、先月末に亡くなってたんですってね。これ書いたの、いつなんだろ」
望月が手に持っていた手紙をパラパラとめくって、ため息をついた。
「ねえ、結構長いですよ、この手紙。車出しますから、車内で読みません?」
にやっと笑った望月の口元から、白い歯がこぼれた。
*
雨の音で晃は目を覚ました。すでに明かりは消されて、かすかな寝息を頼りに真人を探ると、思いのほかすぐ近くに寝顔があった。
晃はスマホのライトをつけて、体温計を探した。絵本の横に転がったままになっていた体温計を脇に挟み、また布団に倒れた。
早く治さなければ。
明日の午後は、真人を田中クリニックに連れて行く。それまでに最低限の用意を済ませなければ。
防犯カメラの映像。
今後おれの身に何かあった場合に備えて、せめて証拠だけは誰かに託しておく必要がある。
知ること自体がリスクだ。望月を巻き込んでいいものか、あるいは。
体温計の音が鳴って、表示を見ると、相変わらず38℃台のまま。額から汗がすべり落ちて、晃は目を細めた。
貝の火。
昔、よくじいちゃんに読んでもらった。
真人はそうノートに書いて、懐かしそうに絵本を覗き込んでいた。
“さいご 目が見えなくなって終わっちゃうの かなしい”
“さいしょによんだとき かなしくて 眠れなかった。どうしてここでおしまいなの、って”
真人の安らかな寝顔からはいつの間にかマスクが外れていた。どこに行った、と探していたら、自分の肘ですでに踏んでしまっていた。
ふいに咳が込み上げて、咄嗟に口元を押さえた。ゲホゲホと何度か咳込んだあと、息を整えてから、晃は起き上がった。
階段を降りると、既に明かりは消えていた。
居間の黒い塊。ハクがイビキをかいていることに安心して、シンクからコップを一つ取り、真人の買ってきた風邪薬をもう一度口に含んだ。
雨の音が庇を叩いている。家中の明かりは消えているのに、街灯の光がシンクに差し込み、台所だけが妙に明るかった。
「煩悩は消えたか、バカ息子」
嫌な声だった。振り返らないまま、晃は残りの水を口に流し込んだ。
「修行が足らんな。さっさと治して、やること済ませたらどうなんだよ」
「……夕飯、真人はちゃんと食ってたか」
「仕事だってそろそろ復帰だろ。あの子をどうするつもりだ。下北に連れ込むつもりか? あの子の実家に取られるのが、嫌なのか」
お互い会話を成立させるつもりがないらしい。晃はため息をついて、飲み切ったコップをシンクに置いた。思いの外音が鳴ってしまい、ガチャンとガラスのぶつかる音が台所に響いた。
「……そんなんでお前、あの子のこと守れるつもりか。覚悟できてんのか?」
「……ああ。親父に心配されるほどじゃねえな」
「あの子に何があったのか、知ってるのか」
「知らねえ。知ったところで変わらねえ。数日中に、ある程度のカタはつけるよ。悪いな、迷惑かけて」
照夫は肩をすくめた。
「弱ってるときは、こんな家に居候するのも悪くないのかもな。うちだって、ちょっと歪んでる家だし」
「……」
「ママに自覚あるかはさておき、あそこまでママがあの子に惚れ込む理由、お前ならわかるだろ」
「……親父は、似てると思うか」
「いんや。似てない。でも、歳は一緒。魚が好きなのも、一緒」
「真人が魚が好きなの、なんで知ってんだよ」
晃が照夫を睨みつけると、照夫はニヤリと笑った。
「もし、それをあの子が知ったときに、ママを嫌いにならないか……おれはそれが心配だ。そうなったら、結構地獄だ」
正直、そこまで考えていなかった。春枝と真人があそこまで気を許しあっていること自体、晃も想定外だった。
「さぁな。ま、そうなったとしても、おれはどちらも支えるよ」
「ったりめーだばか。それ前提の話ってわかんねーのかよ」
「んだこら」
思いがけず声が大きくなってしまった。はっとして口を噤むと、照夫が苦笑して晃の頭をぐしゃっと撫でた。
「もういい。寝ろ。病人相手じゃ、喧嘩する気にもならねえ」
晃は虫の居所が悪いまま、二階へと戻った。
布団にあぐらをかいて項垂れていると、真人が身じろぎして、目が薄く開いた。
「悪い、起こした?」
真人は首を振って、熱、下がった? とおでこを押さえて首を傾げるジェスチャーをした。
晃は口角を上げて頷いた。
「ああ、だいぶ楽。風邪薬と、夕飯のうどんが効いたかな」
真人は満足そうに小さく頷くと、晃のほうへ手を伸ばした。
ぽん、ぽん、と二度。
真人は眠たげに目を細めて、ほんの少しだけ笑った。
そのまままたぽすんと布団に突っ伏すと、伸ばした手を布団に丸めて、すうすうと寝息を立て始めた。
晃は毛布を持ったまま固まった。
顔が熱い。
熱のせいだ。たぶん。
晃は雨の音から守るように、真人に急いで毛布をかけ直した。




