大丈夫、きっと良くなる
すごい。ずっと喋ってる。
真人は隣を歩く春枝の弾んだ声に、ゆらゆらと瞳を輝かせた。
「まひちゃんのほうが背が高いけど、体重は私のほうが重そうねえ。嫌だわ。こんなに綺麗な子とショッピングするなんて思ってなかったもの。ダイエットしとくべきだったわ」
あんなに美味しいご飯を毎日作って、体重なんか気にする世界は不自由だ。そう思ったが、声が出ない。
毎回スマホでやり取りするのは無作法に思えて、真人はノートとミリペンを抱いて歩いていた。どうしても伝えたいことはノートに書いて、春枝に見せることにした。
イオンモールに到着して、まず眼鏡の修理から取り掛かることにした。
割れた眼鏡はレンズを何重にも重ねられていて、薄型を薦められたが真人は首を横に振った。
「フレームも曲がってますね。ペンチで整えてもいいですが、良かったらこの機会に新しいものをお選びしませんか。仕上がりが綺麗になります」
真人はむむ、と眉を顰めた。資本主義の悪いところだ。ペンチで直すのが悪いことみたいじゃないか。
もう一度首を振ると、少し残念そうな顔の店員は、二時間後にお戻りください、と真人に伝えた。
「まひちゃん」
春枝にちょいちょい、と手招きされて、真人が首を傾げると、春枝が試着用の眼鏡を手に持っていた。
「これ、かけてみて」
大きな黒縁フレーム。
買わないのに、と思いつつ、真人が屈んで目線を合わせると、春枝はテンプルをそっと真人の耳にかけた。
「まあ! 似合う。とってもとっても。猫ちゃんみたいだわ」
猫ちゃんになんか、なりたくない。
真人は口をへの字に曲げた。
「ほら、鏡見て。似合うわ」
鏡もやだ。目がまわる。
真人が目を逸らしていると、今度はブルーのマットなフレームをひょいと掛け直された。
「あ……だめ。これはだめ。破壊力がありすぎるわ。死人が出る」
有無を言わさずすぐ外されて、また別のフレームを春枝が持ってきた。
まずい。これ、いつまで続くんだろう。
「……明日の八時ですね。はい、ありがとうございます。いえ、すみません。マスクして行きます」
晃は咳込んだ後、通話を切った。
話している間に何度も通知が震えていて、そのままLINEを開くと、日下家LINEの通知が十件も来ていた。
恐る恐る開いてみると、画面は真人の眼鏡姿で埋め尽くされていた。
「……なにやってんの」
『全部似合いすぎて迷っちゃう☺️ デート楽しい』
晃は春枝のアイコンをタップして通話を開始した。
「……おい。何してんだよ」
『晃からだわ。何よ、邪魔しないで』
「あのなあ。真人は写真撮られるの苦手なんだよ。何パシャパシャ撮ってんだ。あと、さっさと帰ってこい。真人本調子じゃねーんだからな」
『聞こえた? え? まあ。いいわよ、もちろん。うん。うん。うふふ!』
……随分と楽しそうだなぁ?
晃の額に青筋が浮き上がった。
『まだドラッグストアも行ってないし、本屋さんも見てないし。まだまだお買い物は終わりません。もう電話してこないで!』
間抜けな切断音が響いて刹那、晃は咳き込んだ。
しれっと本屋追加してんじゃねーよ。
真人……大丈夫かなあ。
ズキズキと痛む頭を押さえていると、日下家のLINEの人数が(3)から(4)に増えた。何事かと思えば、春枝が真人をグループLINEに追加していた。
また調子乗って!
晃が舌打ちしてチャットに打ち込もうとしたとき、メッセージが届いた。
『まひちゃんから追加希望受けました✨』
『お父さん、お昼は晃にうどん茹でといて』
熱い身体が余計に熱くなる気がした。
どうしよう。
日下家LINEグループに追加されてしまった。
春枝さんが送った写真、晃に見られるのが恥ずかしくて、自分にも共有してくださいと伝えたつもりが。
声出ないの、不便だなあ。
早速追加されたグループLINEでは、照夫と春枝がうどんの在庫数で揉めている。
……家族LINEに入りたいって言ったと思われたのか。そんなの、図々しすぎる。
訂正したいが、だからと言ってこんなに喜んでくれているのに抜けるのも、失礼な気がする。
既読は三つつくのに、一言も発言しない晃がどう思っているのか気が気ではなかった。怒ってないだろうか。
書店での一時間ほどの滞在時間の末、一冊だけ買い物バッグに収めた真人は、春枝にLINEを入れた。
待たせるのが申し訳ないので、春枝は真人が本屋を見る間に夕飯の買い物をしてもらうことにしていた。
『了解✌️ 一階のインフォメーションコーナーで待ち合わせましょ☺️』
『薬局、地下にあるから、地下まで向かいます』
『もう、めんどくさいし良くない? 治ってるかもよ』
流石に酷い。真人は笑ってしまった。
声が出ないせいで、うまく笑えず息が苦しい。息だけが漏れて、お腹を押さえて肩を震わせていると、家電量販店の前に、小学生くらいの子どもたちが数人突っ立っていた。
テレビを食い入るように見つめていて、真人は何となく目を逸らしたが、ひとりの子が「ARCだ!」と声を上げたのと同時に、周囲を歩く人たちの視線がテレビに集まった。
真人が固まっている間にも、若い女性たちが次第にテレビの前に集まり始めた。
春枝を待たせてる。もう行かなきゃいけない。なのに、その場から動けない。
画面に映る文字は、“ARC in TOKYO DOME 2025”。
テレビ越しに何かを観るのは久しぶりだった。
そうだ、居間のテレビ。日下家のテレビは、真人がいるときに一度もついていなかった。晃に何か言われてたのかも、と真人はそのとき初めて気づいて、申し訳なくなった。
画面に広がる暗闇と、無数のペンライトの光。
悲鳴に似た歓声がドームの空間を埋め尽くしている。
よく観ると、色は三色。赤が多い。これはどういう意味があるのだろう。
スポットライトがセンターステージに当てられて、三人のシルエットが浮かび上がった。
理由はいらねぇ I’m standing here
壊れるなら俺からだ
守るって言葉は安すぎて使わねぇ
世界とお前の間に俺が立つ
名前も未来も奪わせない
I stand That’s it
……知ってる。これ、運動会のBGMで流れてた。こんな歌詞だったのか。
春枝の推し、センターの宗馬は顔立ちがはっきりとしていて、止め絵でも目を引く。誕生日、一緒なんだっけ。
ラップ担当のややロングヘアーの青年は、オールバックの髪が少しだけ前に垂れていた。ラップの歌詞が一切淀まず、ガサついた声が英語の歌詞によくマッチしていた。
そして、晃。アイドルにしては短髪で、あまり遊びのない硬派なスタイル。やはり抜群にスタイルが良い。画面に映る、綺麗に浮き出た鎖骨と広い肩幅を、真人は知っている。
三人組がファー付きのロングコートを翻して、肩で風をきってセンターステージの階段を降りる。そのまま二曲目が始まった。
圧倒された。五万人の観衆で埋め尽くされたドーム。
すごい、すごすぎる。おれが学校でやってた授業と、あまりに規模が違いすぎる。
それに、これは本当にアイドルと言って良いのか。ほぼギャングというか、輩ではないのか。
雰囲気は祭礼、やっていることは海賊、言ってることは宣戦布告とかに近い。
照明が暗くなった。真っ暗な画面の中で、観客の歓声だけが流れている。
おれらはARC 放て三つの閃光
「来た!」
最前列で視聴していた子どもが声を張った。
VOWSだ。ディスクユニオンで聞いた、あの曲。
真人は晃たちの衣装を見て、確信した。
白装束。やっぱりだ。
これは、祈りの歌なんだ。
やあやあ、我こそは、と名乗りを上げて、芸能界で生き延びることを誓う呪文。
共鳴する魂 消えぬ炎 流れる血潮の拍動
絶対、変身する。
この歌を作った人は、絶対に戦隊モノが好きだ。真人にはわかる。
この白装束は変身の前振り。このあと、メンバーカラーに変わる、絶対に!
指先で画面を切り抜くようなポージングから、一つずつ指を折り曲げていく。
参、貳、壱。
来い!
特効の爆炎が噴き、幕が取り払われて出てきたのは、三色の羽織り姿の三人。
「「やったー!!」」
観客の子どもたちがバンザイで飛び上がった。
子どもたちが喜んでる。
アイドルなのに、小さな子まで夢中なんだ。
その事実が、なんだかとても誇らしかった。真人が感嘆のため息をついていると、ふと、最前列で視聴していた子どもたちのひとりが、くるりと後ろを振り返った。
「あれ? 真人先生じゃん!」
寛太だった。
「真人先生、何してんの?」
数秒の沈黙の後、真人はくるっと踵を返して、ダッシュで逃げた。
大人として最低だ。でも、こんな姿を晒すよりマシだと思った。
喋れない・普通じゃない・汚れた人間。
今の自分は、あのときの自分じゃない。
おれに見えたかもしれないけど、気のせい。忘れて。どうか、忘れて。
すっかり顔を曇らせた真人がとぼとぼと歩いていると、春枝にトントンと肩を叩かれた。
「どうしたの」
“むししちゃった”“教えた子”
「……そうだったの」
春枝に言葉をかけられて、緊張の糸が解けたのか、真人の瞳からつうと涙が溢れた。
「まひちゃん。車に戻ろう」
“くすり”
「一旦、後。まずはまひちゃんの回復」
春枝と争う気力もなくて、まあるい背中を追うように駐車場へと出た。
助手席に座ると、堰を切ったように涙が溢れて、拭っても拭っても止まらなかった。
情けなかった。子どもとも挨拶一つ、まともにできない。
「ごめんね、まひちゃん。私が悪かった。そばにいてあげれば良かったわ。まひちゃん、今声が出ないのよ、って言ってあげられたのに。ごめんね」
どうしてこの人は、こんなに優しいのか。どう考えたって、おれが悪いのに。どうして自分を責めるんだ。
「大丈夫。きっと、良くなるわ。良くなってから、ちゃんと言えばいいの。大事なのは、そのままにしないこと。失敗しても、遅くなっても、謝ればいいの。ね?」
真人は何度も頷いた。
悲しくて、恥ずかしくて、みっともないのに。
こんな自分にすら、春枝はいつも通り優しかった。
春枝は真人にハンカチを渡して、車のエンジンをかけた。
*
自分も春枝と真人のお散歩に同行できると踏んでいたハクは、まさかのお留守番を言い渡されて、かなり不機嫌だった。
八つ当たり先に選ばれた晃も、気怠い身体の上にハクがのしかかっていて大変不愉快であった。
何なら、さっきもまた照夫と喧嘩した。
真人のことを色々と言って、おれを揶揄うような物言い。むかつく。親父だって真人のこと気に入ってんだろ。バレてんぞ。
くそ。親父と喋ってると、自分の良くないところを突きつけられてるようで、余計に腹立つ。
……真人、大丈夫だろうか。心配だから位置情報を共有させてほしいと頼んだおかげで、一応スマホ上では真人の足取りが確認できている。
車で帰宅し始めたかと思ったら、先ほどから寄り道ばかりしているらしい。
コンビニを出たと思ったら、今度はコメダ。何してんだよ。さっさと帰ってこい。
晃は観念してスマホを置いた。
怠い。心細い。なんでよりによって留守番組が照夫とハクなんだ。
晃が毒づいていると、スマホが鳴った。凌也からだった。
『やほー。神谷きゅんとの実家編はどうお過ごしかな?』
「凌也……悪い、今風邪ひいてて、その冗談に文句言う気力ない」
『うは、うける。え、どしたの。何したの?』
「切るぞ……」
『ごめんごめん。ちょっと特ダネ掴んで連絡した。今、大丈夫?』
凌也の言葉にハッとして起き上がると、粘着力の落ちた冷えピタがぱたっと膝に落ちた。
「……特ダネ?」
『うん、特ダネ。ホラー寄りの。聞く?』
「御域プロ絡みか」
『まーね』
凌也の言葉に、晃は雑にハクをどかして、照夫が下のフロアにいることを確認してからドアを閉めた。
「どんな話?」
『ちょっと悪ノリでね。昔の動画見ちゃったんだ。晃が駅で神谷きゅんを救助してるときの動画』
「はあ? 何で」
『お前、言ってたじゃん。神谷きゅん抱くのに夢中で、黒の紙袋なんかどうしたか覚えてない、って』
「……」
『神谷真人は、あの日、御域プロダクションとの面談であの紙袋を受け取った。それを、本人が病院から持ち帰った。これが仮説でしょ。つまり、紙袋の動線は、神谷きゅんと一致するはずだよね』
「うん」
『だとしたら、神谷きゅんが倒れた後、晃か駅員さんが紙袋も一緒に救急車に乗せてないと、変だよねぇ?』
凌也は、暴露系の違法動画を漁る悪癖がある。
真人が晃に救助された日の話を聞いていたときに、凌也は何となく紙袋の動線が引っかかっていた。
どうしても当時の映像で、確認したかった。
晃が運んだのか、駅員が運んだのか。はたまた親切な通行人が、忘れてますよ、と言ってくれたのか。
しかし、救出当夜に拡散された救助の動画はすでにほとんど削除されていたので、今更凌也には確かめようもなかった。
『買っちゃった。十万、即ペイ。暴露垢って商魂たくましいわよね』
「……で、何が映ってた」
『映ってないよ、紙袋。救急車が開いて、神谷きゅんがあなたに抱っこされて格納、その後ドアが閉まるまで、一度も映ってない』
「……つまり、真人が落とした紙袋を、誰かがわざわざ病院に運んだってのか」
『怖いねー。一体誰が、どうしてわざわざそんなことをしたんだろうね?』
「……AirTagで監視した上に、病院までそれを届けにきたってことか」
『ま、それを実地で調べるのはぼくのお仕事じゃないので。お好きにどうぞ』
いつもの調子で笑う凌也の声がした。
『それより、この動画はどうする? 消すの勿体無くない?』
「……」
『スーパーアイドルに抱かれて眠る神谷きゅんのお顔はたまりませんなぁ。晃くんだって、とっても欲しかろう。夜のお供に最高だよ』
「ならねぇよ」
『おや?』
晃は大きく咳き込んで、鼻水を噛んだ。
「……もっとまずいもん見てる」
『えっ』
「いや、見てない。死ね」
凌也の爆笑する声に合わせて、横のハクが急に唸った。晃は首をブンブンと振って、深呼吸した。
「……凌也、おれからもひとついいか」
凌也の爆笑が収まるのを待ってから、晃は続きを口にした。
「榊普、っていうブレイム所属の俳優」
『……榊? 榊って、あの榊?』
「ああ。真人の家の防犯カメラに映ってた」
『……そいつが、クッパか』
電話越しの声が低くなった。
「御域とその周辺が、相当きな臭くなってきてる。千木良いのりと併せて、もし何か接触するようなことがあれば、気をつけてくれ。もっちーにも伝えてほしい」
『合点承知。宗馬には一旦内緒にしとくね』
「察しが早くて助かります」
『では引き続き甘い生活をお楽しみくださいな。お大事にね』
電話を切った直後、思い切り咳き込む晃にハクがうるさい、とわんわんと吠えた。




