シータのお使い
真人が身じろぎすると、背中にあたたかい何かが触れた。はっとして振り返ると、晃の大きな背中があった。
「……」
真人はゆっくりと方向転換して、天井を向いた。
そうだ。あのまま、寝たんだ。
遠くで居間のチャイムが鳴っている。
──あれ? 今、何時だ?
差し込む日差しの明るさに嫌な予感がした。机の上のデジタル時計を見ても、視界がぼやけていて良く見えない。
ま、いいか。
真人は視線をもう一度晃の背中に戻した。
規則的に膨らんだり萎んだりするのにあわせて、寝息が漏れている。
生きてる。
服の皺の形が、少しだけ形を変える。
あ、ここ、筆記体のyになってる。
プリーツ状になっている部分の皺にどうしても納得がいかなくて、真人は裾を少し引っ張ってみた。
晃が身じろぎして、せっかくの綺麗な形が崩れた。真人が肩を落としていると、背中だけだった晃が、ぐるんと回転して腕を布団についた。
「……今、何時だ」
晃の声が信じられないくらい掠れていて、真人はびくりと肩を震わせた。
「真人……? 真人、起きてたのか」
晃の目が充血している。やばい。黒死牟だ。
真人が固まっていると、黒死牟が「熱ないか」と尋ねた。
「お前、昨日外で濡れてたろ……」
いや、どう見ても、おれよりそっちのほうが重症だ。
真人はそう訴えようとして、初めて自分の不調に気づく。
「……真人?」
声が出ない。
「真人、どうした?」
息を何度か吐いて、もう一度、息を送り出したものの、隙間風のような音が漏れただけだった。
晃が真人の額に手を差し出した。優しくノックするように、折り曲げた指の背が真人の額に触れた。やっぱり、晃の指の方が熱い。
何なんだよ。何なんだよ、このぽんこつな身体は!
真人は布団に転がっているスマホを掴んだ。
LINEを開いて、トークルームにメッセージを打ち込むと、画面を晃に突き出した。
『声が出ない 晃が熱ある』
晃は眉間に皺を寄せて画面を凝視した。
「声……? 声が出ない? 真人、大丈夫なのか」
いいよ、一旦おれのことは。
早く熱測れよ、ばか!
にじり寄ってくる晃の間抜けな顔に枕をむぎゅっと押し付けて、真人はふらふらとデスクの上の体温計を手に取った。
「38.2? 晃が風邪引くなんて、珍しいこともあるもんねえ」
マスクをした晃が咳き込んでいる横で、春枝も照夫も真人の顔を覗き込んで、「移されてない?」と真人を心配していた。
おれのせいだ。
一体どこから謝ったらいいのかわからず、春枝がバタバタと薬箱を取りに行くのについて行くしかなかった。
「あらあ。パブロン、切らしてたわ。ねえ、お父さん。ちょっと薬局行ってやってよ」
「あんなの、寝たら治るだろ。ほっときなよ、ママ」
照夫のあまりに雑な提案に真人はぎょっとした。
しかし、春枝は「まあ、それもそうか」と笑って、真人ににっこりと笑顔を向けた。
「朝ごはん食べる? まひちゃん、昨日の夜、林檎しか食べてないでしょう」
真人は首をぶんぶんと振って、先ほどと同じようにスマホに文字を打ち込んだ。
『薬、買いに行きます』
『眼鏡も、壊れたので、直したいです』
『薬と眼鏡、両方解決できるところ、ありますか』
晃は下に降りてこなかった。
「移すのが嫌だから」と言って、朝ごはんはひとりで二階で食べている。
春枝と照夫と、ハク。三人と一匹で食卓を囲み、手を合わせた。
「「いただきます」」
口を動かしてみたものの、やはり、声は出ない。
……まあ、いいや。別に。大して良いこと言うわけでもないし。
前も、こんなことあったっけ。あのときは、どのくらいで声出るようになったんだっけか。
となりにちょこんと座ったハクに見守られながら、真人は箸を静かに口に運んだ。
「なあ、髪の毛は伸ばしてんのか」
照夫がこそこそと真人に話しかけた。
三人しかいないから、内緒話なんて無理なのに。
真人はふるふると首を振った。
「おれに任せてみるか? どっか時間見つけて、店で切ってやろうか」
照夫が指でチョキを作って、二回切って見せた。真人はうーん、と首を傾げた。
「くっ……」
照夫が悔しそうにチョキのポーズのまま肘を立てて項垂れた。
気持ちは嬉しい。でも、美容院は苦手だ。
首の近くを鋏が掠めるとき。指先が触れるとき。シャンプーのときに目を閉じる世界。
「今日は定休日だし、やかましいやつが寝てる隙に切ってやろうかと思ったんだけどな」
照夫は笑った。笑った顔が晃にそっくりで、思わず真人は照夫の顔に見惚れてしまう。若い頃は、照夫も晃みたいな顔をしてたんだろうか。
「ちょっと、お父さん。まひちゃんの食べたお魚、見てちょうだい」
黙っていた春枝が、急に切羽詰まった声を出した。
何事かと、真人も照夫も、先ほどまでアジの開きが乗っていた平皿に視線を向けた。
「こんなに綺麗な食後のお皿、見たことない。なんて、なんて上手にお魚を食べるのかしら、この子は」
「……?」
春枝が何を必死に訴えているのか、真人にはさっぱりわからない。とりあえず怒られてはいないようだ。
頭だけが残った真人の平皿を覗き込んで、照夫が真人を凝視した。
「前世、猫か?」
そんなわけないだろう。何言ってるんだ。
ちゃんと骨まで食べられたのは、春枝がカリカリに焼いてくれたから。
尻尾も塩味が利いてて、お煎餅みたいだった。パリパリして、焦げた味と一緒に食べるごはんが甘かった。
説明したいが声が出ないので、春枝と照夫に真剣な目で訴えるしかなかった。
春枝と照夫は、ひそひそとまた内緒話を始めた。
『魚の尻尾、食べるのって変?』
真人が晃にスマホを見せると、晃もスマホに打ち込んだ。
『変じゃない。おれも声、出ない』
真人ははっと顔を上げた。
布団から起き上がった晃は、ばつが悪そうに目を逸らした。
「出ない、ってほどじゃねえ、けど。喋ると咳出そうで嫌なんだよ。掠れてるし」
「……」
聞いたことのないくらい、弱々しい声だった。
普段、命の輝き、みたいな声のくせに。
ふいに鼻の先がツンとした。
真人はスマホを両手で握りしめて、文字を打ち込んだ。
『春枝さんが、イオンモールに連れてってくれるって。薬買ってくる』
「……イオンモール?」
晃は怪訝そうな表情を浮かべた。
「そんなとこ行って、体調は大丈夫なのかよ」
『平気。春枝さん、好き』
晃は思いっきり咳き込んだ。いつもシャキッとまっすぐ伸びた背筋は丸まっている。真人がそっと背中に手を添えると、晃はいい、と手で制止した。
「寝りゃ、治るから。あと、これは真人のせいじゃねーからな」
考えていることを言い当てられて、真人はびくりと肩を振るわせた。
「おれ、昨日あの後もっかい風呂入ったんだ。そのまま寝落ちしたの。だから、それのせい」
お風呂? 何で?
真人が困惑していると、晃がマスク越しに咳払いをして、苦しそうに息を吐いた。
鼻も詰まってるのだろうか。真人はティッシュ箱から一枚取り出して、晃の手元に差し出した。晃は受け取ったまま、ティッシュをくしゃくしゃに握りしめた。
「真人。気持ち……ありがたいけど、移したくねーんだ。今日、部屋から出ないようにするから。真人も、あんまり入ってくんな」
「……」
こんなことで、なぜ悲しくなるのか。
真人は迫り上がる涙を悟られまいと顔を背けた。そのまま部屋を出ようとしたら、布団の隙間につんのめって思い切り転んでしまった。
打ちつけたおでこをさすっていると、晃がガサゴソと何かを漁っていた。
「真人、これ、持って行け」
視線を上げた先に、赤い顔をした黒死牟と、防犯ブザーの箱があった。
「ひでぇの。せっかく買ったのに、開封すらしてねーんだもんなあ」
箱から取り出された防犯ブザーは、ハンズフリーの首にかけるタイプ。
飛行石みたいだ、と真人は思った。晃がそのまま首にかけて、長さを調節している間に、スイッチをポチポチと押してみると、ライトが光った。
なんで青じゃないんだ。どう見ても飛行石なのに。
真人はパッケージの、ピンク・ブルー・ベージュの三色を指差して、むう、と顔を顰めた。
「しゃーねーだろ。ベージュしか残ってなかったんだよ。ピンクが良かったか?」
晃が笑った。むかつく。
「あとは、これ」
晃はよっこいせと身体を起こし、マスクケースを掴んで真人に差し出した。
「弱ってるから、感染対策。あと、変装」
真人が耳にかけると、マスクは鼻から顎までをすっぽり覆ってしまった。前髪も伸びているせいで、ほとんど人相がわからなくなった。晃は思わず笑った。
「白マスクしてっと、子どもみてぇだな。お袋、孫連れてると思われるんじゃねーのか」
たぶん馬鹿にされている。真人はむうと口を尖らせたが、マスクのせいで晃には伝わらなかった。
「……真人」
晃は防犯ブザーの紐を調節しながら、掠れた声で言った。
「今日、知らない番号は出るな。公衆電話も」
真人はメッセージを打ち込んだ。
『瓶子さんは?』
晃は首を振った。
「仕事の話なら、なおさらだ。イオンモールで出たってしゃーねーだろ」
「……」
「契約のことなら、ちゃんと落ち着いたときに考えればいいから」
「……」
「一人で抱えるな。まずは無事に帰ってくること。約束」
真人はしばらく迷ってから、またスマホにメッセージを打ち込んだ。
『春枝さんには言わないで』
「……何のこと?」
『電話のこと 普通のお買い物したいから』
『約束守る 晃にちゃんと言う』
晃は大きく息を吐いて、苦笑した。
「……わーったよ。行って来な」
*
榊普。
中学一年生でブレイムエージェンシーにスカウトされ、芸能界入り。
初出演のドラマで主人公をいじめる同級生を演じ、子役らしからぬ大人びた容姿と迫真の演技で一躍注目を集め、当時の最終回視聴率は20%を超えた。
その一方で、「あれは演技ではなく榊普は本当に悪人であるに違いない」という誹謗中傷がSNSを中心に活発になった。ドラマ終了後も、榊がメディアに出るたびに過去のドラマ映像がSNS上で使い回された。
榊はその後も邦画やドラマを中心に活躍し、何度かの熱愛報道を挟みながらも人気を保ち続けた。今や、容姿も実力も申し分ない、最も注目される俳優の一人である。
……というのが、世間一般の認識だろうか。
晃が雑誌で榊と対談したのは、メジャーデビューから一年後のことだった。
会ったときの印象は、悪くなかった。
今でこそ満員御礼のドームコンサートができるようになったものの、アイドル風情が、という色眼鏡で見られることの多かった当時の晃にとって、晃の発する言葉一つ一つにちゃんと頷いて聞く姿勢を取る榊に対して、むしろ晃は好感を抱いたほどだった。
「良かったら、連絡先交換しませんか?」
まさか、一介のアイドルに、売れっ子俳優の方から連絡先を聞かれるなんて想像していなかった晃は、つい、「よろしくお願いします」と言いそうになった。
柔らかな笑みを浮かべた端正な青年の期待に応えないことに、晃は僅かな罪悪感を覚えた。
晃は申し訳なさそうに答えた。
「すみません。事務所から、LINE交換は止められてて」
「そうなんですか。残念。同い年だし、友達になりたかったなあ」
「LINEじゃなくても、友達にはなれますよ。友達と呼ぶには、もう少しおれが売れないとカッコつかないですけど」
「あはは。そう? じゃあ、頑張ってよ。売れたら、事務所から許可もらって。飲み行こうよ」
笑いながら前髪を払った榊の所作に、晃は僅かに嫉妬した。かつての恋人が、榊の顔が好きだと言っていたのを思い出したからだ。
広い肩幅。奥二重の切れ長の目と、まっすぐに通った鼻筋が、男の目から見ても美しかった。どう逆立ちしても、この男の持つ憂いを帯びた雰囲気を、晃は手に入れられそうもなかった。
その、榊普が、真人の家の防犯カメラを外した本人。
それに、真人のあの怯えよう。
あの、喉元の引っ掻き傷は、何だ。
真人が、二年間引きこもっていた理由は。
真人に、何をした。榊普。
あの防犯カメラの映像を、どうするべきか。警察か、あるいは。
晃はそろりそろりと階段を降りた。真人と春枝はもう出かけて行ったらしい。
降りきった先の廊下で、ばったり照夫に出くわしてしまった。
「よう、修行僧」
ポケットに手を突っ込んで、何をカッコつけているのか、うちの親父は。
「……どけ」
「何やってんだよ、全く。お前が風邪ひいてどーすんだ」
「……」
「あーあ。おれもイオンモール行きたかったのになぁ。嵩張るから、留守番しろって言われちゃった。かなしい」
こんなのの相手をしている場合ではない。晃は照夫の肩を押して廊下をすり抜けると、今度はハクが正面の台所から走ってきて、挟み撃ちとなった。
「……夜中、シャワーの音がうるさくてなあ」
背中に照夫の声が刺さった。
「風呂が壊れたのかと焦ったぞ」
「……」
晃は咳払いをして、そのまま仏間の襖を開けた。
仏壇の前に正座し、数秒、手を合わせた。
短い挨拶で申し訳ない。だが、こちらも寝込んでいる場合ではなかった。やらなければならないことが、いくつもある。
力を貸してくれ。頼む。
晃は心の中で念じてから、立ち上がった。




