からだの所有権
夕食後、晃はシンクの洗い物を片付けることにした。
スポンジを泡立て、一皿一皿を洗っていると、ワイヤレスイヤホンから流れていた音楽が着信に切り替わった。
『日下ぁ』
懐かしい声が聞こえて、晃は手を止めた。
かつての空手道場の仲間からの電話だった。
『久しぶりぃ。今、日野にいるの?』
「げっ。何で知ってんの」
『鮮魚の鶴田さんから聞いた』
晃は鍋を手に取った。
「わり。今、仕事休んでんの。他の人には黙っててくんねーか」
『えっ。お前、何かやらかしたのか?』
電話の相手の全く心配していなそうな笑い声に、訂正する気にもなれず、晃も釣られて笑った。
『なーんだあ。せっかく帰って来てるなら、明日の飲みに誘ってやろうかと思ったのに。謹慎中なら無理だな』
「くそー。行きてえ! 飲みてぇー」
晃は会話を続けながら、居間に続く引き戸から、こっそりと真人の様子を伺った。
相変わらず、タオルケットを頭まで被った塊が、そこに転がっていた。晃は引き戸をゆっくりと閉めた。
「……他には、誰か来んの?」
『えっとー、竹井と、江崎と、岸』
「やべえな。道場のオールスターじゃん」
台所の布巾を取り出しながら、自然と口角が上がった。
『最近はどうしてんの、日下。仕事めちゃくちゃ忙しくなってるだろ』
「まあ、ぼちぼち?」
晃はシンクに体重をかけて、排水溝に視線を落とした。
「……こんなとこで皿洗いして、何やってんだか、おれ」
『うん?』
古い知り合いの声というのは、どうしてこう気が抜けるのか。
「……いや、こんな話、してもしょーがねえよな。何でもねえ」
台所の勝手口が開いて、夜のコンビニから帰った照夫が顔を出した。
「あれ? ママ、風呂?」
「風呂。居間、真人とハクが寝てるから、うるさくしないでやってくれ」
通話中に照夫に忠告すると、照夫が口を尖らせて通り過ぎた。
『あれ。今、人数増えてなかったか』
「……増えてる。言っとくけど、彼女じゃねーぞ」
『何、保護猫?』
大垣の言葉に晃は苦笑した。
「……そうかも。たしかに、ありゃ猫だ。保護猫」
『見に行きたい。うちの銀時と仲良くできるかな』
「さて、どうかね。今、怖がられちゃってて。おれもまだまだ信用されてねーんだよ」
晃は大きく息を吐いた。
『色々と大変そうなのはわかったよ。もし、気分転換したくなったら、飲みに来い。彼女連れてもいいからよ』
「……はーい。そんときは連絡します」
『おう。無理しすぎんなよ、日下』
通話を終えて晃が引き戸を開けると、先ほどまで一欠片残っていた林檎うさぎがなくなっていた。
「真人、起きてる?」
晃の問いかけに真人は何も答えなかった。
失礼します、と言ってから、タオルケットの裾を少しだけずらすと、眩しそうに目を開ける真人の顔があった。
「洗い物終わった」
晃の声に真人はこくんと頷いて、目を擦った。
「りんご食えたんだ。うまかった?」
真人はもそもそと起き上がって、食べ終わった皿を晃にそっと差し出した。
「りんご、おいしかった」
晃はほっと息をついて、真人から皿を受け取った。
「よし。じゃあ、明日も林檎切らなきゃな」
「うさぎさん、おれも切る」
「……いや、やめとけよそれは」
ぷい、と顔を背ける真人に、晃は笑った。
念のため、寝る前に真人の体温を測ってみることにした。
真人が差し出した計測後の数字は、36.0。
「平熱、何度?」
「わかんない。考えたことない」
「はあ……そうかい」
晃は体温計をペン立てに立てた。
晃のデスクに座ったまま、真人は椅子を小さく回転させていた。
「……昼間は、怒鳴って悪かった」
晃がぽつりと呟いた。
「でも、勝手にいなくなるのはナシ。約束してくれるか?」
真人は背を向けたまま、こくんと頷いた。
「あと、勝手にカメラつけたことも」
続けて謝ると、真人は首を振った。
「……カメラより、ポトフのあと、おれの部屋、勝手に片付けてたろ」
「はい」
「あれ、やだ。怒られてる気分」
「……はい。すみません」
「ほかに、何か見た?」
「……スマホの、着信履歴」
真人がくるっと振り返った。
真人のゆらゆら揺れる瞳に、晃はたじろぎながら白状した。
「ロック画面、ブチャラティ氏の誕生日を打ち込んだら、解除できちゃいました」
「……すげえ」
何故か怒られなかった。
「なんで、ブチャラティの誕生日ってわかったの?」
「いや、なんとなく。ひとりで誕生日会してるって言ってたの思い出したから」
真人は口を尖らせたが、追及することはしなかった。
「許していただけそうですか。罰があれば、お与えください」
「……ポンデリング五十個」
「買ってくりゃいいの? 分割払い?」
「年貢」
「……ワカリマシタ」
少しだけ真人の表情が柔らかくなったのを見て、晃はよし、と立ち上がった。
「歯磨いてくる」
洗面台へと向かう晃の後ろを、真人も少し遅れてぴょこぴょことついてきた。やや歩き方が頼りない真人は、洗面所の前で立ち止まった晃の背中に頭を軽くぶつけた。
「真人、裸眼視力いくつ?」
「……わかんない」
「おれの顔、見えてんの?」
「ぼやけてる」
「まじか……頼むから転ぶなよ」
晃は真人に歯ブラシを手渡した。
晃が歯磨き粉をつけてガシガシ磨いているのを、真人は鏡越しに受け取った歯ブラシを握ったまま、ぼーっと眺めている。
「晃」
「うん?」
「おれの裸、変じゃなかった?」
ぶへっと歯磨き粉を吹いてしまった。
そのまま咳き込んでしまい、洗面ボウルに歯磨き粉を吐き出すと、晃は急いで口を濯いだ。
「ど、どういう意味でしょうか」
「いや……なんか、晃と違うから。変じゃなかったなら、いい」
真人はやや不服そうに歯ブラシを口の中に突っ込んだ。
……見てないです。見ないようにしてました。ハクを洗うのに集中してました、と正直に答えたら、真人は何を思うのか。
「今日、晃の部屋で寝てもいい? 晃の隣に、布団敷く」
真人の問いかけに、ああ、いいよ、と空返事した晃は、数秒後、ようやく意味を理解して、「今どこで寝るって言った?」と慌てて聞き返した。
真人の布団と毛布を抱えてきた晃が、よいしょ、と床に敷くと、真人はぺたんと敷布団の上に座った。
晃はパソコンの電源を落として椅子を仕舞った。もう十二時を回る頃だった。
夜更かしの照夫と春枝もそろそろ寝る時間だ。
「晃」
「うん?」
「あのさ」
真人がくぐもった声で呟いた。
振り返ると、真人は毛布にくるまって座り込んでいた。
晃は腰を落として、自分の敷布団の上にあぐらをかくと、真人に向き合って、何?と尋ねた。
「電話の話」
まさか真人からその話をするとは思わず、晃は目を見開いた。
いそいそと頭まで毛布を被って埋まっている真人に、晃はつとめて穏やかに答えた。
「……うん」
「一人は、瓶子さん。もう一人は……あの、さっき、晃の言ってた人」
「榊か」
毛布の中の真人がびくりと震えた。
「……その人の名前、言わないで」
「……わかった。ごめん」
なんでだよ、という晃のツッコミを察知したかのように、真人は続けた。
「晃が、汚れるみたいだ」
何だ、それ。ボルデモートか何かかよ。
晃の脳裏に、先ほどの着信履歴の画面が過った。公衆電話からかかってきたのは、と言いかけたところで、真人が被せるように訴えた。
「瓶子さんから、契約の催促された。あと、晃に迷惑かけるな、って怒られた。どうしていいかわかんなくなった」
「……そうだったのか」
毛布に包まったまま訴える姿が苦しそうだった。酸欠になりはしないだろうかと心配しながらも、晃は真人が続きを話すのを待った。
「もう一人からは、仲直りしたい、って言われた」
「……仲直り?」
「仲直りしよう、って言われた。仲直りしたくないって言った。そしたら、そうやっていつまで拗ねてるんだよ、って、呆れられた」
「喧嘩したのか」
「……」
「それ、普通の喧嘩じゃねーだろ」
何をされたのか。
そう問いただすのが正解なのかわからなかった。
晃が口をつぐんでいると、真人が毛布からそっと顔を出して、すぅ、と深呼吸した。
「……息、苦しかった?」
晃が苦笑すると、真人が口をへの字に曲げた。
「潜るなよ。酸欠になりそうだ。真人のペースでいいから、話してよ。ちゃんと聞く」
「……どんな喧嘩か、言いたくない。でもおれ、仲直りしたくない、って言ったくせに、ずっとあの人のこと考えてる。もう、昔の話なのに」
晃は相槌を打った。
「……これって、好きってこと?」
晃は息を吐いた。
「自分の感情が迷子なんだな。どんな気持ちなの、真人は」
「……名前聞くと、ぞわぞわする。同じ名前の人を見ると、気持ち悪くなる。その人の話されたとき、身体が動かなくなる」
「……どう考えても好きじゃなさそうに聞こえるけど」
真人は肩を震わせた。
「寒いのか。毛布足すか?」
晃の問いかけに、真人は顔を伏せた。
「晃のことも、怖かった」
「……おれが?」
「おれといるせいで、晃もそのうちおかしくなるんじゃないかって」
「……」
「怖かった。怖いと安心が混ざってて、変な感じ」
胸がざらりと音を立てた。晃は握り拳を固くした。
「おかしくなるって、何。おれが真人に何か危害を加えるかもしれないってこと?」
真人は目を瞑った。
「……そんなやつと、よく風呂に入ったな」
意図せず、声が一段低くなった。
「晃、寒そうだったし。それに、晃がそうしたいなら、それでいい」
「……どういう意味だよ」
──試したってのか。
今こうして、座ってるのもそうか?
じゃあ、井の頭公園は。
ポトフは。
一度疑いを持ち始めたら、止まらない。無表情で目を伏せている真人に、目眩がした。
真人に言ってやりたいことは山ほどあったが、ぐっと飲み込んで、晃は話を前に進めることにした。
「……真人。前にもそういうことがあったのか」
「……」
「それは、その人がおかしいだけだ。皆が皆そうなわけじゃない」
「そんなことない。おれが変なんだ。ジャックレコードの佐々木さんも、あの人も、薫も。皆、みんなおれのせいでおかしくなった」
「薫? ジャックレコード?」
「晃も、このままおれといたらおかしくなる、たぶん」
「ならない。そいつらと一緒にすんな」
「……じゃあ、試してみるか」
真人は、何かを決めたように晃を睨んだ。
晃の言葉を待たずに、真人は晃の右手を掴んだ。晃が目を見開いて何か言いかけたのを無視して、真人は両手でそのまま強引に自分の首元に沿わせた。
真人の冷たい首筋に晃の熱っぽい手のひらが触れた瞬間、真人の肩がびくりと跳ねた。
晃の指が強張り、指の腹が真人の首筋を掠めると、真人は苦しそうに声を漏らした。
指の下に、細かな引っ掻き傷が触れた。新しくできた傷が盛り上がって、そこだけが熱を帯びている。
「自分で引っ掻いたのか」
部屋には真人の荒い呼吸が響いていた。
「いつから。ここに来てからも引っ掻いてたのか」
真人は目を固く瞑り、苦しそうに喉を鳴らした。
「……ほら。壊してみろよ」
真人の喋る声に合わせて、頸の震えが伝わる。
「気持ち悪いだろ。めちゃくちゃになればいいって、思うだろ」
晃は真人から目を逸さなかった。
「痛そうだなって思うよ。軟膏塗ってやりたいな、って思うよ」
「晃……おかしくなってない?」
ポロポロと溢れる涙を、晃は反対側の手でそっとぬぐった。
「ならない。約束する。ってか、それが普通だ。真人は悪くない」
真人は晃の手をぎゅうと握った。
「おれが悪いんだ。おれが、おれが全部……」
真人はそこから先を言えなくなってしまった。
「真人。よく聞いて」
晃が囁くと、真人は鼻を啜ってそっと顔を上げた。
「触りたい、触れたい。そんな気持ちを持ったからって、それを相手にぶつけたらダメなんだよ」
「……」
「真人の指も、頬も、髪も。真人の身体は、全部真人のものだ。他人に委ねるな」
ぱちぱち、と瞬きする真人に苦笑して、晃は続けた。
「真人、言ってたろ。誰もひとりぼっちにしないクラスがいいって。ウジウジしてる真人も、クラスの仲間に入れてあげてほしいんだ」
真人は声をあげて泣いた。
ごめんなさい、ごめんなさい、と、悪いことが見つかった子供のように、何度も謝った。
ひどいこと言って、ごめん。
意地悪な態度とって、ごめん。
晃に幻滅されるのが、怖かった。
晃には、晃にだけは。
晃にだけは、どうしても、嫌われたくなかったんだよ……。
そう言って、真人は、首に押し当てていた晃の右手をそっと放した。
「もういいよ、そんなのだいたい言わなくたってわかってたよ」
晃は笑って、真人の頭を優しく撫でた。
「言ったことはすぐやる、が真人流だもんな」
晃は納戸から救急箱を取ってきた。
中にあった、ステロイドの軟膏とワセリンを取って、横になって大人しくしている真人の元でよっこいせ、と胡座をかいた。
「痛かったら言えよ?」
晃は真人の首の下に手を差し入れて、下に畳んだタオルを敷いた。
説明書を読みながら、鎖骨の少し上、胸鎖乳突筋の間の患部に、チューブから出した薬を乗せる。起伏のない首筋に少し戸惑いながらも、手順に沿って指の腹で塗り広げると、独特な金属っぽい匂いが鼻を掠める。
「写真……みた?」
晃は一度手を止めて、真人の潤んだ目にかぶりを振った。
「焼き払った」
そう言ってまた作業に戻る晃に、真人はふっと笑った。
「……クシャナかよ」
「真人、ちょっとあご上げて。はい、ありがと」
瞼が落ちかけている真人に苦笑しながら、仕上げにワセリンを塗り、晃は「よし」と蓋を閉じた。
タオルケットを肩までかけると、真人は身じろぎして身体を丸めた。
今日もよく働いたなぁ、と晃はひとりごちて、真人のとなりにごろんと寝転がった。
「寝た?」
真人は返事をしなかった。代わりに安心したように寝息を立て始めた真人の顔からは、先ほどまでの怯えの色は消え、薄く口を開いた唇からは深い息を吐いていた。無防備な顔を眺めながら、晃は真人の睫毛に溜まる涙の粒に、指を伸ばしかけた。
──自分で言ったことは、自分で守らなきゃだよな。
晃は小さく息をついて起き上がり、毛布を真人の肩までかけた。一つだけ残っていた蛍光灯の紐を引っ張って、階段を一段ずつゆっくり降りた。
一階のボイラーのスイッチを切ってから、晃は浴室のドアを開けた。




