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位置について  作者: はる
第三章 日野の食客編
26/30

食卓のうさぎ

 強まる雨足。頬に当たる生暖かい風。あの日もこんな天気だった。

 ふらりとよろめき、そのまま地面に身体を打ちつけた。

 起き上がるか、迷った。


(さかき)くんだけじゃ飽き足らず、今度はアイドルか。ずいぶん好色なんだな』


……違う。


『あのガキの未来も、おれの匙加減一つだぞ』


……(あきら)


 ねえ、晃は、おれのこと、好きだった?


 嫌われてなかったら、いいな。まだ、少しでも。

 迷惑かけてばっかりで、どんどん、どんどん、おれにがっかりしただろうな。


 これ以上は、だめだ。

 甘えちゃだめだ。

 嬉しいって思っちゃ、だめだ。

 そんなことしたら、晃が、汚れる。


 ガードレールに寄りかかって、ゆっくりと起き上がると、視界がぼやけた。

 もたれた手に誰かの手が重ねられた感触が走って、手を引っ込めた。

 背中がぞわぞわして、寒い。

 開けた場所にいると、背後から誰かの手が伸びてくる気がして、()(ひと)はまた駆け出した。


 あてもなく歩き続けた。

 道の片側には、雑木林に覆われた崖。その斜面を、古い石段が上へ伸びている。

 反対側には、ため池。黒く濁った水面が、雨に打たれて揺れていた。


 ここだ。ここにしろ。


 頭の中で誰かの低い声がした。


 早くしろ!

 飛び込め、晃に見つかる前に!


 真人はその場にしゃがみ込み、耳を塞いだ。

 耳を塞いでも、頭蓋の内側で反響する声は少しも小さくならなかった。


 この、出来損ないが!

 どこまで迷惑をかけたら、気が済むんだ。


「うるさい! 先生をいじめるな!」


 子どもの声が雨音を切り裂くように響いた。

 聞き覚えのある声に真人はそっと顔を上げた。

 無人のバス停と田園の風景が広がるばかりで、人影はどこにも見えなかった。

 真人はため池に背を向け、石段を見上げた。

 吸い寄せられるように、足をかける。

 雨に霞んだ視界の奥では、赤い鳥居が待ち構えていた。

 あなたが見捨てた小僧ですよ。目障りかもしれませんが、あなたの責任でもあるでしょう?

 真人は境内をぐるぐると回って、地蔵小屋の前で立ち止まった。

 南天の木の下、小さな屋根に守られたお地蔵さまは、雨に濡れずに、優しい笑みを浮かべていた。

 真人は手を合わせた。ポタポタと雨が髪の毛から滴って、ジャージに染み込んでいく。

 雷の音がかすかに聞こえた気がした。


 晃は走った。

 あんなズタボロのスウェットで、痩せた青年がひとり歩き回っていたら、すぐ誰かの目につきそうなものなのに。大雨のせいか、人にほとんど出会わない。

 途中、畑仕事をしていた人に、スウェットの子が通りませんでしたか、と尋ねたが、怪訝な顔をされただけだった。

 くそ。何なんだよ。晃が踵を返してまた駆け出すと、ハクは本日二回目の散歩が嬉しいのかご機嫌で並走している。

 ハクが匂いを辿ってくれる、なんて都合よくはいかなかった。


 どこ行ったんだ、あのバカ。

 北杜の家の近くにチャペルがあったとか言ってたな。

 教会にいるのか?


 晃は藁にも縋る思いで教会の敷地へと走ったが、正面の駐車場には空のベンチとマリア像のみが鎮座するばかりだった。

 ベンチの前まで歩み寄ると、座面に一か所だけ、ほかより雨の染みが薄い部分があった。ついさっきまで、誰かが座っていたように見えた。

「ハク、ここ、嗅いでくれ。真人の匂いしないか」

 ハクはふんふん、とベンチの匂いを嗅ぐと、ワン! と大きな声をあげた。

「真人、真人なんだな? こっちにきてるんだな?」

 当の教会は管理者不在で入り口は頑丈な鉄の扉で塞がっていた。ここからまたさらに遠くへ行ったのだろうか。

 ここで、真人はひとり何を考えていたのだろう。

 さっき怒鳴ってしまったことを思い出して、晃は唇を噛んだ。


 悪かったよ。

 ちゃんと謝る。だから、勝手にいなくならないでくれよ。

 置いてかれる辛さ、真人にだってわかんだろ。

 なんで、黙って出てくんだよ。


 駐車場を出て、雑木林の崖に沿った道を走った。崖とは反対側に田んぼが広がり、側溝を流れる雨水が、ごうごうと音を立てていた。

 不意に視界が開けた。雨雲に覆われた灰色の空、その下を横切るモノレールの高架。手前には、濁ったため池が横たわっていた。側溝の雨水が絶え間なく流れ込み、黒い水面を揺らしている。


 違う、真人は……そんなことしない、多分。


 晃は池の岸辺に目を凝らした。真人の姿は見当たらない。息を吐いて再び走り出そうとしたとき、雑木林の斜面を上る石段に目が留まった。

「ハク、待って。ここ、探してみよう」

 晃は傘を道端に投げ捨て、ハクと石段を駆け上がった。

 この先は、古い公園だ。遊具を抜けた奥に、神社がある。雨の日の敷地には人っ子一人見当たらず、ブランコとシーソーの座面が、雨粒を跳ね返していた。

 ハクが荒い息を止め、ふいに耳をそばだてた。目を落とすと、砂利に足跡。まさかと思いつつ、晃はハクの導くほうへ足を進めた。

 大きな南天の木の下、絵馬と奉納木札に囲われた静かな場所に、地蔵小屋があった。その中に、真人がいた。

 膝を抱え、小屋の壁に身体を預けてそっぽを向く真人を前に、晃は立ち尽くした。

 ハクが構わず真人のそばに駆け寄り、ペロペロと頬を舐めると、真人は少し身じろぎした。

 ハクは嬉しそうに真人の懐へずぼっと顔を埋め、ハスハスと息を弾ませながら尻尾をばたつかせた。

 晃は真人の前に屈んだ。

 早く連れて帰らなきゃ、と思うのに、晃は真人に声をかけることができなかった。

 泥のはねた膝と、頬の擦り傷。眼鏡にはひびが入っていた。いったい、何回転んだんだろう。

 晃は俯いた。肩が細かく震えていた。

その濡れた髪に、そっと真人の手が伸びた。

 驚いて顔を上げると、真人の細い指が晃の毛先に触れた。

「なんで、泣きそうなんだよ」

 真人は言いながら晃の髪の毛をひとつまみして引っ張った。

 晃は鼻を啜り、咳払いした。

「……帰ろうよ」

 真人はハクを抱きしめた。

「重くて立てない」

 はしゃいでいるハクを引き剥がすと、ハクが抗議の声を上げた。

「びしょびしょだな。寒いだろ。真人、熱はないか」

 晃がそっと真人の額に手の甲を当てると、驚くほど冷たかった。

「寒い」

 真人はそのまま晃に体重を預けた。

 晃は真人を背負って、石段を降りた。広げたまま放置していた傘を、背負った真人の肩にかけて、雨の家路を歩いた。


         *


 仕事を終え、(はる)()は夕飯を作りに台所へやってきた。鼻歌を歌いながら味噌を溶いていると、ガラガラと勝手口が開き、ずぶ濡れの晃が真人を背負って入ってきて、春枝は腰を抜かした。

「まひちゃん! どうしたの?!」

 慌てる春枝に、晃は風呂を沸かしてやってくれ、と頼んだ。

 春枝が大慌てで風呂を用意する間に、勝手口のたたきに真人を座らせて、バスタオルをかけてやった。ハクは(われも、われも!)と嬉しそうに尻尾を振っている。ぼんやりしている真人の代わりに、晃はバスタオルで濡れた髪を拭いてやった。

「真人。風呂入りな。これ以上、身体冷やすな」

「……ハクと、晃は?」

「真人が入ってから、順番に入るよ」


「それで結局、一緒に入ってんのか?」

 (てる)()が驚いた顔で春枝に尋ねた。

「そうよ、男の子同士なんだから普通でしょ」

 春枝は切った大根を鍋に入れた。

「いいなぁ、青春だなぁ。おれも一緒に入りたいくらいだ」

「やめときなさい。そんなことしたら晃、また怒るわよ」

「なんでだよ。理不尽! いいじゃん、おれも!」

「聞こえてるぞクソ親父」

 照夫の背後に青筋を立てた晃が仁王立ちしていた。その後ろから、ご機嫌な湯上がりのハクと、ぽやーっとした顔の真人が出てきた。

「まひちゃん。寒かったね。今ごはん作ってるから」

 春枝がオロオロと真人の顔を覗き込むと、真人はうん、と頷いた。

「春枝さん」

「ん?」

「……すき」

 真人の急な告白に、春枝は剥きかけのにんじんを落として、たちまち目を潤ませた。

「まひちゃん……!」

 春枝がそのまま真人に抱きついた。

「まひちゃん! まひちゃん……私もまひちゃんが大好き!」

 固まっている晃を押し退けて、照夫は、「おれは? おれのことは?」と自分を指さしている。ハクは三人の間に割り入ってワンワンと吠えた。

「まひちゃん、髪乾かそう。風邪引いたら大変よ」

 春枝が涙をエプロンで拭って笑顔を向けると、真人は電池が切れたようにその場にへたり込んでしまった。

 晃が慌てて脇に手を差し入れるが、真人は薄く目を開けたまま、晃にもたれ掛かった。

「あら、まひちゃん、固まっちゃった?」

 春枝が心配そうに真人と晃を見比べながら尋ねると、晃は苦笑した。

「真人。メシ。夕飯、食おう?」

 晃が肩越しに真人に尋ねても、真人は口を開かないまま首を小さく振るだけだった。

「腹減ってねえの?」

 真人はこくんと頷いた。

「寝る? 上に連れてってやろうか」

 今度は首を振った。

「一緒がいいわよねえ。食べたくなったら、食べればいいわよ。ね、まひちゃん」


 春枝と照夫の手によって夕食が居間に並べられる間に、晃がハクのドッグフードをキッチンのカートから取り出す。

 ハクは嬉しそうに居間とキッチンを行ったり来たりしながら尻尾を振った。

「「いただきます」」

 三人が手を揃えて食事を始めるのを、真人は座布団を枕にして、タオルケットをかけられた身体を横にしながら、じっと眺めた。

「晃、醤油取って」

「あ、切れてる。取ってくる」

「おい、ついでに、佃煮も取ってこい」

「佃煮、どこだよ」

「んなの冷蔵庫の中に決まってんだろ、馬鹿が」

「あァ? 開封か未開封かによるだろうが」

「二人とも。まひちゃんがいるのよ、口を慎みなさい」

「……ちっ」

「ママ、晃舌打ちした。ダービー減点しといて」

「まひちゃーん。あとで林檎切るからね。うさぎさんにしてあげるね」

 春枝が真人に向かって手を振った。

 ありがとう、も言えなかった。

 嬉しい、と笑えもしなかった。

 そのかわりに、涙がはらはらと流れた。

 涙が次々と座布団に吸い込まれ、頬の下が冷たく湿っていく。

 バレたら叱られるかも、と思って、真人はタオルケットを頭まで被った。

 被っても、相変わらず部屋の明かりが眩しくて、晃と照夫の言い争いが煩かった。

 真人は肩を震わせて、何度も嗚咽を飲み込んだ。

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