TAKE ME HOME,
念願の志望校に入学してから、二週間。
入部申込書を握りしめて、真人は校舎最上階の美術室を目指した。
体験入部のときにつけてもらったあだ名が妙に嬉しくて、息を切らせながら階段を上った。
入り口の立て付けの悪いドア。体験のときに一人で開けられなくて、上級生の女の子たちが開けてくれたのが恥ずかしかった。
今日は二の轍を踏むまいと、真人は両手をドアに引っ掛けて、勢いよく開けた。
先に集まって、歓迎会の準備をしていた先輩たちの視線がこちらに注がれた。
「美術部に入りたいです。これから、どうぞよろしくお願いします!」
真人の発言に、誰も返事をしなかった。また何かやらかしてしまったかと、真人の顔が青ざめるのと同時に、真正面の先輩が口を開いた。
「どうしよう……たまちゃん、無茶苦茶イケメンだった」
机の上に広げられていたポッキーが一本、床にコロンと滑り落ちた。
「……眼鏡どうしたの、たまちゃん」
名付け親の先輩が、顔を引き攣らせながら真人に尋ねた。
「えっと……先週、コンタクト切らしてたから……」
真人は申し訳なさそうに答えた。
「えっ。じゃあ、このイケメン状態が普通なの? どうしよう。たまちゃんなんて、頓珍漢なあだ名をつけちゃった」
「どうする? 今からハウルとかに変える?」
ヒソヒソと話し合う先輩たちに、真人は必死に訴えた。
「や、やめてください! おれ、たまちゃん気に入ってるんで。そのままで。そのままで、お願いします!」
心臓がバクバクとうるさかった。
嫌だ。やっと見つけたんだ。ここなら、安心できるかも、って思える場所。
「眼鏡の方が良ければ、明日からまた眼鏡かけてきます」
真人は顔を真っ赤にしながら俯いた。
「ド近眼で、レンズが分厚いから、普段は家でしか、かけなくて……」
声がどんどん小さくなって、床に落ちてしまった。それ以上言葉が見つからなくて、そっと顔を上げると、同じように顔を真っ赤にした先輩たちの姿があった。
「……可愛すぎる」
「これは、保護案件」
「他の部活に取られちゃだめだ。治安の悪い運動部の連中から、たまちゃんを守ろう」
「うん、私も賛成」
「今こそコーナン美術部の力を合わせるときよ。みんなで、たまちゃんを守ろう」
言葉の熱量の割に小声な先輩たちは、いそいそと歓迎会の準備を再開した。
真人は口をへの字に曲げて、「入ってもいいんでしょうか?」ともう一度尋ねた。
「そんな感じでさ、皆、とってもいい人たちなんだ。美術室にいるとき、すごく落ち着く」
真人が話し終えると、薫は安心したように頷いた。
「それ聞けて、おれも嬉しい。良かったな、真人」
「……うん」
真人に誘われ、甲府駅までやってきた薫は、武田信玄公の銅像の前でスマホを構えた。
「仕事に部活に、忙しいんじゃねえの?」
「まあ、ぼちぼち。中学のときは、部活入らなかったのが心残りだったんだ。母さんにはやめときなさいって言われたけど、美術部に入って、ほんとに良かった」
「そっかあ。おれも、勉強もう少し頑張れば良かったかなあー」
真人は、ここ甲府駅が最寄りの進学校へと進学した。毎日三十分も電車に乗るそうだが、東京での仕事に比べれば大したことないらしい。
翻って、薫の通う高校は、自宅から最も近い工業高校。
地元から出られない自分と比べて、東京を行ったり来たりしながら難関高校に通う真人が、眩しかった。
高校が別れて、また一つ世界が遠ざかった気がした。
顔もよくて、歌も上手くて、勉強までできる。なのに、真人は自分のことを忘れていなかった。
「美術部の話、薫にしたかったんだ」
そんなことをまっすぐ言われると、胸の奥がむず痒かった。
「そうかよ。ちゃんと聞いたよ」
思ったよりそっけない返事になってしまったが、真人は満足そうにくしゃりと笑った。
「ねえ、薫の高校、文化祭でジェットコースター作るんでしょ? 見に行ってもいい?」
こうして普通に喋るぶんには、ただの高校生なのに。
真人は、明日からまた東京に行くらしい。中央線に何時間も揺られて。
「……仕事、どうよ?」
「榊くんが仲良くしてくれてるよ」
「仲良しとかじゃなくて。って、おまえ、榊普と仲良いの?」
「うん。言ってなかったっけ?」
「やっぱすげーな、お前。ねえ、榊普って、実物もかっこいい?」
「うーん。よくわかんない。普通に、お兄ちゃんみたいな感じ」
「うわー。おれも言ってみてえ」
薫の嘆きが甲府駅のコンコースに響いた。
「榊くん、手が、綺麗。ハンドクリーム塗ってるんだって。芸能人、って感じだよねえ」
「お前も芸能人だろ」
「来週、榊くんとケーキ食べる。何ケーキにしようかなあ」
「何? 誕生日?」
真人はふふっと笑って被りを振った。
「桜桃忌。悲しくて、でも、ちょっと嬉しい日」
「何だよ、それ。よくわかんねえ。相変わらず変なやつー」
そんなふうに軽口を叩けば、真人のことを普通の友達だと思えるような気がした。
コンコースをすれ違う人たちが、皆一様に真人の顔を一瞥して、目を見開く。
そんなに見るなよ、と薫は思う。
自分だって、久しぶりに会った瞬間、少し言葉を失ったことは棚に上げて。
「ここだ!」
弾んだ声に、薫は真人の背中を追った。真人の視線の先には、大きなまねきねこの看板。
「いっぱい歌うぞー!」
嬉しそうな顔で手を上に挙げる真人に続いて、薫も駅ビルの中に吸い込まれて行った。
*
水車のカタカタ回る音。カラスが川にかかる橋を低く横切った。
雨のぱらつく曇天の空の中を、真人はあてもなく歩いた。
ばれた、ばれた。まずい。
晃の口から、あの名前が溢れた瞬間、平和だった空間があっという間に真っ黒に染まった。
とうとう、晃まで汚してしまった。どうしよう。どうしよう。
全部、なかったことにしたい。
自分が、最初からいなければ良かったのに。
なんで助けようとしたんだよ、晃のばか。
北杜には、もう居られなかった。
とうとう、立川の家も、バレた。
帰る場所なんか、もう、世界中どこにもない。
もし、帰れるなら、じいちゃんのいる家に帰りたい。
それが駄目なら、高校の美術部に、帰りたい。
でも、無理って知ってる。もう、あそこにはおれの知ってる人は誰もいない。
でも、でも、諦められない。
あんなことさえなければ、って。
あんなことさえ、なかったら。
ううん。違う。
あの頃は皆、東京に通うおれから、バイ菌うつされたらって、怖がってた。
「触っちゃダメだよ。今、感染症が流行ってるから」
「先生、呼んでこよう。たまちゃん、先週も東京に行ってたもん」
文化祭の準備中、床に崩れたおれを囲んで、誰かがそう言った。
たかだかウイルスで、あの騒ぎようだった。
本当の話をしたら、どんな顔をしたんだろう。
ああ、だからって、怒ったふりなんかしなくたって良かったのに。
本当は大好きだったのに。
なんであんな憎まれ口を叩いて、辞めちゃったんだろ。
あてもなく歩き続けると、教会の駐車場にたどり着いた。聖母マリアの像が、楓の下で雨に濡れている。
神様なんて大嫌いだ、と真人は心の中で吐き捨てた。
じいちゃんを天国に連れて行かない神様なんて、知らない。母さんの言うことなんか、信じない。
真人は乱暴に涙を拭い、そのままマリア像の前のベンチにふてぶてしく腰掛けた。
だめだ。頭を休めると、また記憶が蘇ってしまう。
この時期は本当にきつい。不安定な気圧、生温い気温。遠雷、雨の音。全てがあの日を思い出すトリガーになる。
619、619。
刻一刻とあの日が迫っている。
真人はふりしきる雨の中、マリア像の前で朽ちるのは心が咎めて、フラフラと立ち上がった。
瓶子さんに晃のことがバレてる。
あの人にもバレてる。
隠れなきゃ。晃から見つからないところへ。
見つからなければ、それでいい。
*
深い深い眠りから覚醒し、晃は大きな欠伸をした。
昼寝ってなんでこんなに気持ちいいんだろう。
目の前でぐーぐーとイビキをかいているハクを視界に捉えて、晃は首を鳴らした。
すっかり眠り込んでしまった。畳じわのついたエプロンにげんなりしながら、時計を見ると、もう十六時。
いかん、洗濯物を取り込まねば。
「うっわ、最悪。雨降ってんじゃん」
二階のベランダを開けると、小雨がしとしとと降っていた。
せっかく干した洗濯物はしっとりと雨を吸っていて、晃は重たくなった衣服を一纏めに抱え、畳の部屋に取り込んだ。
「真人ー。ごめん、洗濯物仕分け、手伝ってくれないか。真人?」
居るはずの部屋から、人の気配がしない。
晃が恐る恐る、真人? と言いながらドアを開けてみれば、もぬけの殻。
胸騒ぎがして、晃は洗濯物を乱雑にホールに積み上げてから、二階の部屋を全て開けて真人の姿を探した。
──居ない。
心臓が警告音を鳴らしている。
階段を慌てて駆け下り、トイレ、風呂、台所、勝手口。くまなく探してやっと気づいた。靴がない。
もう一度二階の部屋へ戻ると、真人のスマホは布団の上に放置されたままになっていた。
雨の中、スマホを置いて出かけた? どこへ。
いつから居なくなった? おれが寝てる間に出て行ったのか。
「親父。真人、見てないか?」
晃は真っ青な顔で仕事中の二人に声をかけた。
「あら、晃くん」
常連の福留さんが髭を泡立てながら手を振ってくれた。会釈する晃の顔は引き攣っている。
「まひちゃん? まひちゃん見てないよ。居ないの?」
「見当たらない。雨……傘持ってったのかな」
照夫や春枝にも声をかけていかなかったのか。
「大丈夫。気にしないで!」
晃は店舗のドアを抜け、傘を二つ掴み、走り出した。
「晃くん、何かあったの?」
福留さんがきょとんとした顔で照夫を見ると、「まあね。青春真っ只中」と腹を揺らして笑った。
ビニール傘に降りかかる小さな雨粒。短パンから伸びた脚に、泥が跳ねた。
こんな雨の中の、どこをほっつき歩いてんだよあのバカは。
まさか、あの男に呼び出されたんじゃねーだろうな。
その可能性が脳裏を掠めた瞬間、晃の走る速度はぐんと上がった。
晃は真人、と、何ともいいようのない大きさの声で呟いた。
水車小屋。ここにいることを期待したが、居ない。どこだ。反対側か?
家の東、西、北。あちこち探してみるも、真人の姿は見つからない。
一度家に帰って、戻ってきていないかと勝手口の靴を確認すると、ハクがワン! と吠えた。
「悪い、ハク。今お散歩どころじゃない」
晃が申し訳無さそうに言うと、ハクはたたっと勝手口を飛び降りて、ハーネスを取りに行ってしまった。
──お散歩。いや、人探し。
雨の中、老犬のハクを人探しに付き合わせるのは心苦しかったが、ハク本人は尻尾を振りながら戻ってきた。
「ハク、状況わかってるか。真人がいなくなった。一緒に探してくれるか」
晃が尋ねると、ハクはハッハッと息を吐いて駆け出した。
晃はテーブルの上に置きっぱなしの真人のスマホを手に取った。
ロック画面には、パスコード用の数字のボタン。
流石にダメだろ、という理性は真人の命の前には働かなかった。
四桁の暗証番号。
真人なら何にするだろう。
晃はあるキャラクターの名前を、自分のスマホで検索した。表示された誕生日を見て、0927と震える指で打ち込むと、ロックは呆気なく解除された。
晃が真人を匿った前日までの着信履歴に、同じ携帯からの電話番号がいくつもあった。そして、先ほど、公衆電話から、一件。
──日没までに見つからなければ、警察に連絡しよう。
大事になるだろうが、真人が死ぬよりはマシ。
大袈裟だなあ、財布忘れて頭痛薬買いに行ってただけなのに。
そう呆れる真人の顔を想像して、晃は目を細めた。
晃はリードを握り、雨の中をまた走り出した。




