ピーチ姫はご機嫌斜め
朝日が窓から降り注ぎ、毛布の中がぽかぽかと温まり始めた。
真人はやっと目を閉じた。朝だ。
昨晩、晃が照夫たちと話す声や、誰かと電話する声が聞こえていたときは、なんだか心地よくて、うつらうつらしていたのに。
晃に「おやすみ」と言われ、部屋の明かりが消えて本当の静寂が訪れてからは、目が閉じられなくなった。
いっそ、眠れない、と相談しに行こうかと思った。でも、そんなことを訴えて晃にどうしろというのだろう。目を瞑れば晃のいる世界が消えてしまいそうで、真人は隣の壁を見つめ、時計の秒針の音を聴きながら、空が白むのを待った。
──喉、乾いた。
真人は起き上がって、音を立てないようにゆっくりと部屋のドアを開けた。
朝日の差し込むホールの床が明るい。
洗面所で水を飲もうと、真人が一歩踏み出すと、足元から「ワン!」と声が響いて、真人は驚いて尻餅をついた。
ハッハッというパンティングの音。
黒と褐色の混ざった硬そうな毛並みと、ピンと立った耳。円らな双眸が、真人を興味深げに捉えている。柴犬によく似ているが、それよりもひと回り大きく、堅太りした身体つきが逞しい。
尻餅をついたままの真人に晃の毛布の匂いを感じ取ったのか、ハクに尻尾を振っている。
真人は恐る恐るハクのマズルに手を差し出した。ハクはペロペロと真人の指を舐めて、そのまま勢いよく真人の懐に飛びついた。
「わっ」
膝の上であちこち匂いを嗅ぎまくって手足をばたつかせているハクの背を、真人はそっと撫でた。
(おまえだれ? おまえだれ?)というハクの声が聞こえる気がした。
見た目よりも柔らかい毛先がちくちくとくすぐったくて、思わず笑みが溢れた。
「お前、ここまで一人で登って来たの?」
真人が尋ねると、ハクは誇らしげにくるくると回ってから、真人の両膝のあいだに収まってお座りした。
「こら、ハク」
くぐもった声が頭から降り注いだ。
見上げると、寝ぼけ眼の晃と目が合った。目の下は隈立っていて、昨日よりやつれているように見えた。
真人が固まっていると、晃は真人の横にしゃがんだ。
「ハク。お前また一人で階段登ったな? ダメだって言ったろ」
絶対通じない説教をされたハクは、後ろから抱っこで持ち上げられると、やめろよ、とでも言いたげに仰向けにのけぞって晃にパンチした。
「ごめんな。ハクが起こした?」
「ううん。水飲もうと思った」
ハクはジタバタと暴れて、晃の腕から脱
「……柴犬?」
「いや、柴と甲斐犬のミックス。でかいだろ、こいつ。食欲旺盛でさ。真人、怪我ないか」
真人はふるふると首を振った。
晃は自室のミニ冷蔵庫から、未開封のミネラルウォーターを取り出して、コップに注いだ。
「……ありがとう」
コップに口をつけ、真人はちびちびと水飲んだ。
「良かった、昨日よりは顔色良さそうだ」
晃は目を細めて笑った。
「ハク、何歳?」
「十二歳」
「男の子? 女の子?」
「女の子」
「ハクって誰がつけたの?」
「親父。好角家で、白鵬関から取った。女の子だし、白くねーし、おれもお袋も反対したけど、結局定着しちゃったな」
暴れているハクを晃が一度下ろすと、ハクはまた真人の膝下にやってきて、お座りした。
「真人のことを気に入ったみたいだ。あんまり誰彼構わず懐くタイプじゃないのに」
晃の言葉を肯定するように、ハクがフンッと得意げに鼻を鳴らした。
「……ハクは、綺麗な子が好きなんだな」
真人は目をぱちぱちと瞬かせた。
「真人、まだ眠るよな。おれ、ハクを下に下ろしてくる」
晃が立ち上がるのにつられて、真人も膝を伸ばした。途端に身体がふらつき、ハクを抱いた晃の肩へ倒れ込む。
すぐに腕が腰を支えた。間に挟まれたハクが、くうん、と不平を訴える。
「無理すんな。寝てろ」
晃の声は低かった。真人は言い返せないまま、部屋に戻って布団にぺたりと座り込んだ。
……綺麗な子、はまずかった。よくない。親父に聞かれてたら間違いなく「おれには偉そうに文句言っておいて!」と、どやされてた。
真人から無理矢理引き剥がされて不服なハクは、階段を降りる晃の腕の中で唸り声をあげている。
──今日は、真人とどこまで話せるだろうか。
そもそも真人は今、自分の置かれている状況を理解できているだろうか。
半ば強引に自分のテリトリーに連れてきてしまったものの、本当にこれが最善だったのだろうか。
でも今、真人をひとりにしてはおけない。
真人の家にあった、血の滲むタオル。
先ほど掴んだ左手首を盗み見たが、横に走る傷跡は見当たらなかった。
いったいあれは、何だ。
「ハク……お前、もういい歳なんだから、食いすぎるのやめろ。親父にまた夜食もらってないだろうな?」
一回の床に着地したハクは、晃が尋ねても、知らんぷりのま真人、階段を振り返った。
「ハク。あの子は、まだ寝るから。起こしちゃダメ。わかったか?」
聞いているのか聞いていないのか、ハクはハッハッとクルクル回って、階段を塞ぐ晃を、早くどけと言わんばかりに見上げている。
「……わーったよ。散歩、行くか?」
ハクは散歩というワードに耳をピンと立てて、ハーネスのある玄関まで駆けていった。
照夫と春枝の寝床である仏間をそっと開けると、春枝は既に起きて、髪を整えていた。
「あら、おはよう。まひちゃんは?」
「まだ寝てる。おれ、ハクのこと散歩に連れて行くね」
「ああ、ありがとう。行ってらっしゃい」
晃は仏壇の前に正座して、まだ寝ている照夫を起こさないよう、控えめにりん棒を鳴らして、手を合わせた。
*
居間の時計が十時のチャイムを鳴らすと、バーバーサンライズの店内からビートルズの曲が流れてくる。
晃は『Love Me Do』のイントロを聴きながら、一階に並ぶ二台の洗濯機の片方へ、真人の服を一枚ずつ放り込んだ。
十一時を少し回った頃、真人が二階から降りてきた。
「おはよ。眠れた?」
相変わらず真人は答えない。ハクはボディガードのように真人にぴったりとくっついて、真人が居間に腰を下ろすと、その隣でお座りし、晃を一瞥した。
「真人、体調は? 頭痛い? 寒いのは? 昨日、ちゃんと眠れたか?」
真人は晃に背を向けたまま、ハクを抱き寄せた。
「質問多すぎる。頭は痛くない」
ぽそ、と真人が返事をした。晃は真人の前へ屈んだ。
「おふくろが作ってくれた朝ごはん、今から食う? 今から昼飯作ろうと思ってたけど」
「お腹空いてない。昨日、春枝さんのごはんたくさん食べて、まだお腹いっぱい」
真人はこたつテーブルに突っ伏した。
「小松菜のお味噌汁、まだお腹の中に残ってる」
「はあ……そうかい。まあ、無理すんな」
しょんぼりした真人に、ハクが、(おい、どうした、元気出せ。遊べ、かまえ)と一生懸命タックルして訴えている。
真人はハクを撫でながら、深く息を吐いた。
「おれ、家に帰らなきゃ。ここに、居たら迷惑がかかるから」
真人の言葉に、晃は一度、息を吐いた。
「……悪かった。承諾もなしにここに連れてきて」
真人は黙っていた。ハクの首に回した腕だけが、少し強くなる。
「でも、あのまま帰すのは無理だった。お前、倒れる寸前だったし、誰かが家に入ってくる可能性もあった」
「……」
ハクが晃に向かってワン、と吠えた。
なぜおれに歯向かうのか。
晃はハクに目で訴えるが、ハクはとうとう唸り声まであげて晃を睨みだした。
「……真人、少し現状のこと話し合ってもいいか?」
晃が真人の前で膝をついた。
「真人の体調のこと、うちの家のこと、これからのこと。真人ひとりで抱えるには、問題が多すぎる。まだ本調子じゃないことはわかってるけど、おれもずっとはそばに居られないんだ」
晃の言葉に、真人は眉間に皺を寄せて、けほ、と咳をした。
「晃、大丈夫かなぁ」
バックヤードで手を洗いながら、春枝が呟いた。
「何のこと?」
隣の照夫が尋ね返すと、春枝は視線を落とした。
「なんか、痛々しいっていうか。まひちゃん、すごく辛そうだけど、晃が空回りしてたら可哀想よ。まひちゃんのお父さんやお母さん、心配してないのかしら。あんなに可愛い子が、どうして……」
「ママ。それはおれらが考えてもしょうがないよ。晃はああ見えて根性あるから、大丈夫。問題はあの子が晃に心を許せるかじゃないかな」
照夫はそう言うと、シザーケースからカットバサミを取り出して、春枝にウインクした。
その日の昼食は、豚汁とたくあんのおにぎりという簡素なメニュー。
春枝のエプロンを借り、大根と人参を適当にカットしてから豚バラ肉を冷蔵庫から取り出した。
接客の合間にささっと食べられるように、春枝と照夫の分のおにぎりはラップで包んでダイニングテーブルへ。鍋の豚汁はセルフサービス。
晃がお盆におにぎり皿を乗せて居間へ戻ると、真人が奥の仏間に手を合わせていた。
「真人、メシ」
晃はお盆をこたつテーブルに置いた。
ハクが真人に駆け寄り、(たべなよ、たべなよ)と尻尾を振っている。食い意地が張っているハクだが、流石に客人の食べ物を盗むほど行儀は悪くない。
豚汁を少し冷まし、箸と一緒に居間へ持っていくと、真人はすでに仏間から戻り、おにぎりを口に咥えていた。
──髪、伸びたな。
何だか、昨日より伸びている気がする。そんなわけはないはずなのだが、いつもはふわふわと浮いている柔らかな髪が、今日は力なく垂れ、目元に濃い影を落としていた。
「……話って何」
真人はおにぎりを一つ平らげると、ペロっと指を舐めた。
「おれが、芸能界に居たって話を聞きたいのか」
「……」
晃は真人の前に正座した。
「真人が過去にどんな活動をしていたかとか、そういう話を根掘り葉掘り聞きたいわけじゃないんだ。そうじゃなくて……立川の家に、出入りしてる連中が居ただろ」
晃の声に、真人はひくりと肩を震わせた。
「真人、もしかして、瓶子から何か連絡来てたりしたのか?」
「……」
真人は顔を背けたが、晃は引き下がらなかった。
「今、御域とブレイムの上の方で、かなり揉めてるらしい。真人のために動く余裕は減ってると思う」
「……じゃあ、帰る」
晃は首を振った。
「別で動いてるやつがいる」
真人の顔が強張った。
「正直に言う。昨日、真人の家に来た男が居たんだ。そいつがくる前に、防犯カメラを仕掛けておいた」
「……やめて」
震える小さな声が耳に痛かった。
でも、もうやってしまった。
「そいつ、外のカメラを慣れた手つきで外してた。ただ、そういうのってさ、目につく場所の一台とは別にもう一台隠しておくと、取り外す様子も、顔も、全部撮れるんだよ」
昨夜の望月との電話の後、ドアスコープに仕掛けたもう一つの防犯カメラからSDカードを取り除いて、パソコンで開いた。
「榊。榊普。御域と同じ系列グループの、ブレイムエージェンシー。そこの人気俳優。真人、榊普から付き纏われてるんじゃないのか」
瓶子、榊、千木良いのり。
誰が何を企み、なぜ真人を復帰させたがっているのか。
AirTagを忍ばせた理由すら、まだわからない。
真人本人の力を借りなければ。
「真人……?」
晃の額から汗が滑り落ちた瞬間、真人が声を絞り出した。
「……だったら、何だよ。晃には関係ないだろ」
「そんなことない。おれ、真人を駅で助けただろ? たぶん、それも影響してる。もう、真人だけの問題じゃない。おれの問題でもある」
「じゃ、助けなきゃ、良かったじゃん」
真人は声を震わせながら訴えた。
「なんで、助けた。こんな人間、ほっとけば良かった。そのせいで晃まで巻き込まれてる。呪いのアイテムじゃん。関わった人、皆、不幸になる」
「いい加減にしろ!」
つい、怒鳴ってしまった。
たぶん、店の方まで聞こえていた。
ハクは晃の恫喝におずおずと立ち上がり、真人の胸元へと潜った。
「自分が世界で一番不幸です、みたいな顔しやがって」
そう言ってしまった。
もう冷静でいられなかった。
いつまでも卑屈な真人の態度に、初めて怒りの感情が抑えきれなくなった。もちろん寝不足もある。
その後の晃の言葉は、何一つ真人の耳に届いていないようだった。
真人は顔からすべての表情を消し、その後は一言も口を利かないまま、二階へ戻ってしまった。
言い方が悪かったと晃は反省しながらも、瞼が重かった。
昨夜は、ありとあらゆる資料を読み漁り、二時間ほどしか眠っていない。
……ダメだ、一回寝よう。持たない。
最近は昼寝の増えたハクが、居間でぐうぐう眠っていた。
晃もその隣へ倒れ込み、エプロン姿のまま溺れるように眠った。




