バーバーショップ・カルテット
散らかった家を見ると片付けずにはいられない晃は、ぶつぶつ文句を言いながら床のものを拾い始めた。
一応、本人のプライバシーに配慮して机や引き出しには触れないようにしていたが、せっかく畳んで重ねてやった洗濯物が、そのまま放置されているのは腹が立った。
かつて自分が畳んだそのまま服をボストンバッグへ詰めたが、それだけでは足りない。誰もいない部屋で「失礼します」と断って、衣装ケースを開けた。
──夏の服が全然ない。
引っ越してきてから買い足していないのだろうか。もう六月も半ばだ。五月から真夏のような日が何度もあったのに。
ケースの中身は、真人がよく好んで着ているゆったりとしたフォルムの服ばかりで、エアリズムの肌着を除けば、入っているのは長袖か七分袖ばかりだった。
夏物らしい薄手のハイネックだけが、不自然なほど何枚も入っていた。
まさか、まさか。
晃は嫌な予感がして、バスルームを開けた。洗面台の脇にかかった手洗いタオル。青と白の染みの中に、赤黒い色が混じっている。晃は乱暴に洗剤を振りかけて手で洗った。
──血だ。
何で。いつ。どこの。
刹那、スマホが震えた。手を止め、スマホを取り出すと、通知が一件。先ほど設置した防犯カメラに連動させたアプリからのものだった。
通知をタップすると、防犯カメラの映像が立ち上がった。
玄関先に、誰かいる。
晃は音を立てないように息を顰め、そっとバスルームから出た。
もう一度画面を見ると、映像が激しく揺れ、角ばった手の甲と袖口が画面いっぱいに映った。瞬間、視界がぐるりと回転し、マンションの床が天地逆さまに映る。
映像は数秒間、逆さまの床を映したまま固まり、やがて暗転した。
──誰だ。
「開けて、真人」
「!」
ガチャ、ガチャ、とドアを引く音。
若い声。男。
換気扇の回る音が警告する。
落ち着け、心を乱すな。
握り拳をゆっくり解いて、晃は唇を噛んだ。
フォースを乱すな。怒りに染まるな。
ドアを挟んだ相手と自分。客観的に見て、どっちが不審者かといえばどっこいどっこいだ。
刹那、玄関扉が内側へ撓んだかと思うほどの音を立てた。
……ドアを、蹴られた。
この鍵が破られた場合、どうやって逃走するか、あるいはタイマンに持ち込むか、と瞬時に思考を巡らせた。
ボストンバッグを抱えてベランダから飛び降りる想像をしてみたが、それこそただの空き巣ではないだろうか。
警察の後部座席に座らされ、まっすぐな目で前方を向く自分の映像に『自称アイドル・立川の男性宅で下着を盗んだ疑い』とテロップが入るのが目に浮かんだ。
下着泥棒になるくらいなら過剰防衛で逮捕されるべきだろうかと自問自答する間に、ドアを鳴らす音は消え、足音が去って行った。晃は深呼吸をして汗を拭った。
その後、念のためベランダを確認すると、窓には鍵が掛かっていなかった。引けば、カラカラと呆気なく開いた。
勘弁してくれよ、と晃は項垂れた。
*
救護室のベッドに寝かされた凌也を、望月が横からうちわでパタパタと煽いでいる。
凌也が晃への呪詛の言葉を繰り返しているうちに、かつての記憶が蘇った。
「要するにアンパンマンだろ?」
振り入れの後、汗だくの晃がぽつりと言った。
「アンパンマンが、アイドルだっていうの?」
涼しい顔の宗馬が不思議そうに首を傾げると、晃がボトルの水を喉に流し込んでから口を開いた。
「……主題歌考えてみろよ。みんなのために、恐れを捨てろ、ダチつくるな、だぜ?」
晃がそう言うと、なるほど、と凌也と宗馬は頷いた。
顔を削いで他人の欲望を満たす。他人に説明するときには最もわかりやすい例えだと、凌也は思った。
ただ、アンパンマンになりたいのか、といえば、そういうわけでもなかった。
芸能界に入ったのは、自分を溺愛する姉が、勝手に履歴書を送ったから。酷い話だ。
その姉はといえば、弟の土産話が何よりの生きがいの引きこもり。いつか部屋から出ることを期待して、凌也は今日までアイドルを演じ続けている。
……つまり、アイドルっていうのは誰かのヒーローのことなのか。
ヒーローを演じるのが仕事というのなら、やらねばなるまい。
お前がアンパンマンやるっつうんなら、やってやろーじゃん。おれも、ジャムおじさんになってやんよ。
凌也はむくりと起き上がり、洗面器に顔を伏せた。
*
晃が再び家に戻ったのは、夕方近くなってからだった。
ガレージにMTBを突っ込み、砂利道を蹴って家の勝手口へと走った。
「ただいま。真人寝てる?」
息を切らせて帰ってみれば、仏間で洗濯物を畳む春枝の姿こそあれど、真人の姿が見当たらない。
「おかえり。遅かったね」
「真人は?」
「まひちゃんね、お風呂に入ってるよー。さっき沸かしたの。入る? って聞いたら、うん、って。もう、あの子なんてかわいいのかしらね。子猫ちゃんが喋れたらああいう声なのかしら」
「はあ、そうかい……飯は? 食った?」
「食べた食べた。ゆっくりだけど、全部食べたよ」
「そっか、良かった」
晃はバッグを開けて、真人の着替えをひとセット出した。
台所奥の廊下を抜けて、風呂場の引き戸をノックする。
「真人。着替え取って来た。お前、脱いだ服そのまま着るつもりだったろ」
返事はない。微かにシャワーの音がするので、身体を洗っているのだろうか。
少々葛藤があったものの、晃は脱衣所の引き戸を少し開けて、浴室にいるであろう真人に声をかける。
「真人、服、置いとく」
そう声をかけた途端、蛇腹戸がばたん、と開き、濡れた髪の真人が顔を出した。
「……シャンプー、出ない」
晃は固まったまま動かなかった。
真人は「む」と口をへの字にして、廊下に向けて声を張った。
「すみません、シャンプー、なくなりました」
はーい、と春枝の声がして、そそくさとやって来た春枝は固まっている晃に怪訝そうな顔をして、どいてよ、と押し除ける。
「ここにストックが入ってるの。ごめんね、はい、どうぞ」
春枝は私が足そうか? と真人に尋ねるが、大丈夫、できる、と真人は返事をして蛇腹戸を閉めた。
閉める直前、晃を一瞥し、不貞腐れた顔で「べ」と舌を出したのを晃は見ていた。
あまりに呑気すぎる。
立川での緊迫感はどこいった。
この空間では、深刻な話題を振る気にもならない。
晃は頭をガシガシ掻きながら、台所で夕飯の仕込みをしている春枝の背中に声をかける。
「ねー、あんまり聞きたくないんだけど、親父今どこ?」
「お父さん? 今日朝から組合の打ち合わせで公民館に行ってるよ。もう帰ってくるんじゃない」
「そうか……はあ。真人のこと、何て言うかな」
晃は額を押さえた。
晃の父、照夫は若い頃に散々ヤンチャした、図体も声も大きい昭和親父だ。
晃とは顔を合わせるたび、しょうもない理由で喧嘩になる。
男には厳しく美女にめっぽう弱い照夫が、真人にどんな態度を取るだろうか。
「照れ隠しで晃の悪口をまひちゃんに吹き込みそうね。それは絶対やる」
「いいんだよ、それ以前の話。今、真人弱ってるから、下手な刺激与えたくないんだよ。あの人、口も悪いし態度も悪いし」
「……誰の話ですか?」
真人の声が背中に聞こえた。
ぎく、と晃が肩を振るわせる間に、春枝が
「あらあら、お風呂出たの。気持ちよかった?」
と真人に優しく声をかけた。
真人はさきほど晃が取ってきたグレーのスウェットを着ていた。
身体に対して明らかに大きすぎて、襟ぐりで首元が埋まっているし、手の甲も足の甲もすっぽり隠れている。
「気持ちよかったです……お風呂、潜れるくらい深かった」
「あはは、そうそう。昔のお風呂って深いわよね。あはは。潜った?」
「潜りました。そしたらたくさんお湯が溢れちゃって……調子乗りました、すみません」
「いいのいいの。まひちゃんが一番風呂でよかったわ。うちの汚い連中を入れた後じゃ、まひちゃんが可哀想だもの」
晃は恐る恐る振り向いて、真人の顔を見る。
真人は明らかに晃にシカトを決め込んで、春枝と楽しそうに話していた。
「ドライヤー持ってこようか。ここ座って。乾かしてあげる」
「いいんですか?」
「いいのいいの。私、ドライヤー得意なのよ。晃、ドライヤー取ってきな」
春枝は、真人に向けていた声より一オクターブ低い声で、息子を顎で促した。
「……はい。ワカリマシタ」
「櫛もね。あの、欠けてるプラのやつじゃなくて、木のやつ」
「……わーったよ」
「お母さんにそういう口の利き方、どうかと思う」
真人の言葉が、晃の背中へ冷たく突き刺さった。
晃は哀愁の漂う背中でドライヤーと櫛を取りに行った。
「ただいま。ママ、雨降ってきたぁ」
照夫が帰宅した際、幸か不幸か晃は風呂に入っていた。
勝手口を乱暴に開け、ハクと一緒に三和土へなだれ込み、愛犬ハクの足を雑巾で適当に拭く。下駄を脱ぐ間に、晃のスニーカーを見つけた。
「晃、帰ってんのか」
照夫は誰も自分たちを出迎えないことを特に気にするでもなく、そのまま台所にずかずかと入り込んだ。
目の前に飛び込んでくる、最愛の妻と、見知らぬもうひとりの人間。
照夫は目を丸くする。
ドライヤーのガァーという音と、おかえりー、と特に照夫には目を合わせずに楽しそうに髪を梳かしている春枝。
「新垣結衣がいる……!」
照夫は小さく叫んだ。
「新垣結衣、新垣結衣が家にいる! 何で! ドッキリか、これが。晃のバラエティのドッキリか」
「おじゃましてます」
喋った!!
照夫はわなわなと口元を抑えた。
「まひちゃんって言うのよ。可愛いでしょ」
乾いてきたねぇ、と春枝が真人に優しく声をかけると、真人はうん、と嬉しそうに頷く。
「でも、似てるなぁ。堀北真希ちゃんにも似てるぞ」
「お父さん、静かにして。騒がしい。あと、この子、男の子よ」
男の子!!
照夫は脳天を打たれて停止した。
「晃さんの友達です。よろしくお願いします」
「あいつ……どういうつもりだ。こんな、松本零士の画風みたいな子、うちみたいなボロい家に上げるのはマズイだろ」
「ごめんね、まひちゃん。声は大きいのに、話は全然聞かないの、あの人」
「大丈夫です。晃さんに、ちょっと似てますね」
真人はクスクス笑った。
騒ぎを聞きつけて急いで晃が風呂から出ると、なぜかドライヤーの仕上げを照夫がやっていて、わざと顔に風を送られた真人がきゃー、と顔をくしゃくしゃにして笑っている。
「おい……」
晃は青筋を立てて照夫を睨みつけた。
「おう、バカ息子。見ろ、お前の友達はおれに懐いたぞ。わっはっは。この子は今日からうちの子にしよう」
照夫を睨みつける晃に真人は冷たい目を向けた。
「お父さんにそういう態度、良くないと思う」
真人は照夫と顔を見合わせて、ケタケタ笑っていた。




