やさしい名前
晃の実家は、立川から多摩川を越えた先、日野市新町にある。
家のすぐそばを流れる小川では、今日も水車がカタカタと回っていた。
晃は自宅の理髪店の前に車を停め、シートベルトを外した。
店舗のガラス戸の奥で、母親の春枝が常連客のパーマをあてている横顔が見えた。
運転席のドアを開けたまま店のガラス戸を引くと、ビートルズのBGMが耳に飛び込んでくる。
カラン、とドアのベルが鳴り、春枝と常連客の高齢の女性が、ほぼ同時に晃を振り向いた。
「おふくろ、ちょっと緊急。こっち来て」
「まあ、晃ちゃん」
鮮魚の鶴田のおばあさんが、晃ににっこりと手を振った。すみません、と春枝がおばあさんに会釈をして、どうしたのよ、とやや眉を顰めてこちらへ駆けて来た。
晃はくい、と後部座席をジェスチャーで指して、「友達。体調めちゃくちゃ悪い。男の子」と手短に説明した。
晃は後部座席に回り、リアドアを開けた。
「真人。立て……ないか。いい、抱える。おふくろ、手間取らせて悪いけど、勝手口開けて」
晃は真人をブランケットで包んだまま横抱きにして、店舗の入り口ではなく、外から回ったところにある勝手口のノブを春枝に開けてもらった。
大丈夫、息してる。
真人、もうちょっとだ、頑張れ。
「大丈夫? 本当に調子悪そうよ。病院連れてったほうが良いんじゃないの?」
「落ち着いたら考える。でも、今は病院も無理だ」
晃は言いながら乱暴にスニーカーを脱いでタタキから上がり、春枝に促して真人の靴を脱がしてもらった。
「ありがとう。鶴田さんのパーマ、あとどんぐらいかかる?」
「わっかんないな~。あの人おしゃべりが好きで来てるからね…ま、いいよ、あと三十分。あと三十分で終わらせる」
「ありがとう。ここで真人と待ってる」
春枝は急いで店舗へと戻った。居間の真ん中に鎮座するこたつテーブルの脇へ運んだ。
「真人、降ろすぞ」
ゆっくり腰を下ろし、足先から畳につけ、近くの座布団を二枚重ね、真人の頭の下に差し込んだ。
変わらず息は浅い。
真人を怖がらせないよう、晃は真人の耳元で優しく囁いた。
「真人、よく頑張った。ここ、わかるか? 俺の実家」
晃はスマホを開いた。二十分ほど前、望月からの不在着信があったらしい。
LINEを開くと、ARCと望月のグループLINEにメッセージが何件か入っている。不在着信のすぐ後に送られてきたようだった。
望月がボム兵の爆発するスタンプを送り、その下で宗馬がマリオたちの万歳するスタンプを返していた。意味が全くわからん。
とりあえずあとで折り返すとして、晃は真人の様子を観察した。
メガネはずり落ちて、鼻あてはほとんど意味をなしていない。痛そうなのでゆっくり取り外し、テンプルを畳んでこたつテーブルに置いた。
目は薄く開いているものの、焦点は合っておらず、起きているのか寝ているのか、判断がつかない。
「真人、水飲もう。あのとき一口飲んだきりだろ」
真人は小さく瞬きをした。晃はリュックから飲みかけのペットボトルを出して、キャップを緩める。
「じいちゃんが死んだ。火村さんも。もう、おしまいだ」
……知ってたのか。
「……水飲もう。起きれるか?」
「帰らない。全然楽しくない。何も、楽しくない」
真人の目はまったく晃を見ていなかった。
「嘘つき。無理って言った、おれ。ずるい、嘘つき。三谷は嘘つきだ」
わからん。こういうときはどう対応するのが正解なのだ。
とにかく水を飲んで欲しかった。
いつもはふっくらと艶やかな唇が、今はかさかさと荒れていて、血の気が全くない。
「……みんな嫌い。大嫌い」
「真人、落ち着いて。ここには誰もいない。お前に酷いことをする人はいないよ。大丈夫だから」
「……晃さん、優しい。晃さん、可哀想」
潤んだ声だった。少し鼻にかかる、甘い声が耳に痛い。
ここで、おれかよ。勘弁してくれ、と晃は目眩を覚えた。
畳に手をついて、真人にはっきりと訴えた。
「おれは、可哀想じゃない」
声が耳に届いたのか、真人の瞳に、ふっと焦点が戻った。
「……ここは?」
真人は起き上がろうとして手をついたが、堪えきれずにがくっと身体が揺らいだ。晃は咄嗟に肩を支えた。
「俺の、実家、ここ」
「……」
「恥ずいから何回も言わせないでくれよ、頼むから」
晃はあぐらをかいて体勢を整えた。
口元にペットボトルを添えると、真人は晃の手の上からペットボトルをそっとにぎり、ゆっくり水を飲んだ。本当に長い時間をかけて、半分くらい残っていた500ミリペットボトルを飲み干すと、けほ、と咳き込んで真人は鼻を啜った。
三十分と言っていたが、結局一時間くらい経って春枝は帰ってきた。
「ごめんね~。鶴田さんの奥さん、話し出すと止まらなくて。晃、その子は調子どうなの」
春枝が言いながら居間の明かりをつけた。ブランケットの上から撫でていた晃の手が灯りに照らされる。
「あ、ついてなかったのか。気づかなかった」
「この子、寝てるの?」
「今寝たところ」
「じゃ、豆にしとこうか」
春枝はせっかくつけた明かりを二段階落とし、どれどれと膝をついて真人の顔を覗き込んだ。
「可哀想に。お顔が真っ青ね。なんか作る? この子いつから食べてないの」
「はい、まさにその言葉を待ってました、母上」
晃はそう言うと膝を立てて立ち上がった。
「うー。痺れる。痛い」
「何がいいかね。消化にいいものだよね。ごはんは冷凍したやつがあるけど、寝てるなら柔らかめに炊き直そうか。あとは御御御付けと、お漬物があったわ。納豆と、あとは、お魚はしゃけが一切れ余ってたかな。あれを焼こうか」
聞いているだけで晃も腹が減ってきた。しかし、自分はやるべきことがある。終わってからご相伴に与ることにする。
「はい、今のラインナップで完璧かと思います。よろしくお願いします」
「晃、どっか行くの?」
「うん。真人の荷物を取りに立川にチャリで行ってくる。この子の近くにいてやってくれ。ひとりにしたら危ないから」
「……わかった」
「真人が起きたら、鍵借りたって言っといて」
晃は言いながら屈伸をして帽子を被り直した。
「真人、待ってろな。すぐ戻る」
いつものネイビーのキャップにボストンバッグを肩からかけて、晃は長年愛用するMTBに跨った。軽量アルミ素材でできた青いボディに、GIANT TALONの白いロゴが映えている。
ペダルをひと踏みすると、軽い車体はすっと前へ滑り出した。
黒いボストンバッグを肩に掛け、晃は曇天の下を泳ぐように走った。
真人の生活必需品。着替えと、スマホと……あとは何だろうか。スケッチブックと、コンタクトは最低限。大学の荷物。そもそも、あんな調子で大学なんか行けるんだろうか。
いつもならサイクリングロードを走ってのんびり風に吹かれて行くが、今日はそんなことをやっている場合ではない。
晃は最短ルートである都道256号を経由して、日野橋を目指した。
多摩川を越え、焼肉屋と寿司屋の列を通り過ぎ、ホテルマイステイズを越えると、ようやく立川駅が見えてくる。
──時間局って誰なんだよ。たぶん御域プロの連中だよな。
あいつら、まだウロウロしてんのかな。
もしこちらが見つかったら、どうなるのか。
あいつら、カタギだよな? 大勢相手に徒手空拳で戦うことになったらどうしよう。
一応中学まで続けた空手は黒帯を取っているが、もう何年も使っていない拳はいささか心許ない。
ああ、親愛なる親父とおふくろ。おれは今日無職になるかもしれません。
申し訳ありませんが、家のリフォーム代はご自身の力でお返しあそばせください。もしよろしければその際はバーバーサンライズに雑用係として就職させてください。
そんなことを心の中で嘯いて、マスクとサングラスを身につけると、駅前の家電量販店へと寄った。
真人の家の近くの公園にMTBを停め、アパートの様子を窺うが、時間局と呼ばれた連中の姿は見当たらない。
晃は預かった家の鍵を取り出して、ドアをカチャリと開けた。
家は相変わらずの散らかりようだった。
ちゃぶ台には、晃がネットで注文したチョコリエールと、防犯ブザー。
真人は、ここでなんとか生き延びようとしていたのだろうか。
この間ボンビーとともに封印されていた封筒の中身も、ちゃぶ台の上に出されていた。最初のページに「違約金」の文字が見えた。
これは、いま真人のいる場所へ持ち込んではいけない。そういう類のものだ。
その隣に、開封されたファンレターの中身が重ねられていて、何枚かの写真とともに、床に落ちていた。晃は手に取って束ねようとしたが、そのまま身体を硬直させた。
一瞬だけ視界に入ったそれを、脳が理解するより先に、手が止まった。
晃は写真を抜き取って、コンロの火をつけた。
焦げ臭い匂いが鼻を掠めて、換気扇のスイッチを押した。
これを燃やしたら、次、防犯カメラの設置。
それから洗濯物、コンタクトとスマホ。淡々とやろう、淡々と。
晃はそう叱咤して、それでもキッチンの壁を殴らずにはいられなかった。
*
ポール・マッカートニーとジョン・レノンの歌う声。懐かしい匂いがする。
重たい瞼を開くと、目の前に、畳と毛布の織り目があった。少し身体を起こせば、毛布の上から薄いタオルケットまで掛けられていた。
向こうの襖の奥から、ビートルズの曲が漏れ聞こえてくる。
ゆっくり上体を起こし、あたりの様子をぼーっと眺めていたら、
「あら起きたの? よかった。顔色、さっきより少し戻ったね」
ふくよかな女性がガラス戸から顔を覗かせた。
「まあ、まあ、まぁ……なんて可愛らしいのかしら。ちょうどよかった。今ね、ごはんできたのよ。お腹空いてるでしょう。遅くなっちゃってごめんね。ごはんだけ食べようね」
春枝はそういって、またガラス戸の奥に消えて行った。ガラス戸の奥は台所になっていて、観音開きの冷蔵庫が見える。
「あったー。これこれ。お盆どこに置いたかと思った。物忘れが多くて。はい、お待たせしました」
春枝はたくさんの食器を載せた盆を、真人の前のこたつへ慎重に置いた。
炊き立てのごはんと、味噌汁からは、白い湯気が立っていた。
「……?」
真人が不思議そうに春枝を見上げると、春枝はぱあ、と顔を綻ばせた。
「まぁ、こうして起きたらまた一段と綺麗だわ。なんて白くてすべすべなお肌なのかしら。私なんかもう、見てよこれ。シミだらけ」
と、勝手に盛り上がってケタケタ笑っている。
真人はもう一度お膳を見た。
この人が作ったのだろうか。
「食べて、天使ちゃん。おばちゃんとでよければ一緒に食べようか。今、残ってたの持ってくるね。ねこまんまにしようと思ってたの」
また春枝はガラス戸まで引っ込んでしまった。
パタパタと忙しない。忙しないのに、とても空気が柔らかい。
箸置きに目をやると、ARCのロゴ。晃のグループの名前だ。
「晃、の、家」
そうだ。おれ、晃に運ばれて、ここに来たんだ。
あの人は、晃のお母さん。晃のお母さんが、ご飯作ってくれたのか。
「お待たせ。食べよ、食べよ。私、春枝。晃のお母さん。天使ちゃんのお名前が聞きたいわ」
春枝が愛おしそうな眼差しで真人を見つめている。
真人は、震える唇で自分の名前を形作った。
「かみや、まひと」
うーん、と春枝は深く頷いて、手を組んで笑った。
「まひとくん。まひちゃん。まひちゃん! 名前も可愛い。なんて素敵なの、まひちゃーん、よろしくねぇ」
まひちゃん。
大嫌いな渾名のはずなのに、この人がいうと、まるで別の言葉に聞こえる。
「お箸持って」
春枝に促され、真人はお膳を手に取る。
「いただきます」
春枝に遅れること数秒、真人も小さな声で復唱した。
自分の茶碗の、味噌汁をかけたぐずぐずのご飯を口に運んで、「あー、今日も働いた」と春枝は笑っている。
真人は、おそるおそるごはんを一口分、ほんの少し箸にとって、口に含んだ。
柔らかくて、あたたかい、優しくて甘いごはんが、口の中でほどける。
涙が溢れた。堰を切ったように、、大粒の雫が両頬を伝い、ごはんを運ぶ口の中にまで入った。
鼻を啜りながら、おいしい、おいしい、と何度も呟いて、ごはんを頬張る真人の隣で、春枝は真人に麦茶を注いだ。




