ところでそいつはわたしの猫さ
家に帰ってベッドに寝そべると、晃は大きく息を吐いた。
ついに引き返せないところまで来てしまった。
ことの成り行きによっては、ARCを脱退することになるかもしれない。そうなったら、凌也も宗馬もどうなるんだろうか。
……情けないな。あんだけカッコつけて、啖呵切っといて。まだ手が震えてら。
晃は目を閉じて、二日前にかかってきた電話のことを思い出した。
火村修司。晃が高校三年生のときに共演した際、ロケの帰り道に春木屋に連れて行ってくれた大先輩。
あのときの自分はメジャーデビューできるかもわからない、ただの悪ガキだったにもかかわらず、色々とアドバイスをくれた。
その火村から、数年ぶりに連絡が来た。一線を退いてからというもの久しく耳にしていなかった火村の声は、記憶よりずっと深く掠れていた。
晃が体調を案じるも、「いいから、よく聞け」と、火村は言葉を継いだ。
「マー坊が、あぶない」
火村は、晃と知り合う以前、真人が中学生の頃まで付き合いがあったのだという。
真人は風変わりな子だった。
撮影の合間、小道具だから触るなと言われていたはずのギターの前でじっと座り込んでいたかと思うと、人差し指を伸ばして弦を弾いていた。
音が鳴るたびに身体をびくりと震わせて、一本一本の弦の音を確かめるように爪で引っ掻いている姿は、まるでいたずら猫のようだった。
案の定スタッフに見つかり、雷を落とされそうになったところを火村が庇ったことで、真人は火村に懐くようになった。
「ありがとう。火村さんを見てると、死んだじいちゃんが生き返ったみたい」
屈託なく笑う真人に、不謹慎だと文句を言いつつも、悪い気はしなかった。
高校に入学したあたりから、真人は仕事が忙しくなり、同年代の俳優たちと過ごす時間も増え、火村との関係は自然に疎遠になったという。寂しくはあるものの、ようやく活躍の芽が出てきたことを火村は喜んでいた。
ところが、である。
ある日、現場で会った御域のスタッフから、あの子なら辞めましたよ、と言われて、火村は腰を抜かした。
慌てて連絡を取ってみたが、留守電につながるばかりで、御域の他の俳優に聞いてみても「さあ?」と首を傾げられたのだそうだ。
その「さあ?」の、あまりにも邪気のない無関心な物言いに、火村はやるせない気分になった。
「辞めた人間にそんな態度をしていたような女が、今更になってストーカーをするとは思えないけどな」
というのが、千木良いのりに対する火村の見解だった。
先日、久しぶりに連絡を取ってみたところ、真人はすっかり痩せてしまっていて、「実家には帰らない」「晃には自分の芸能活動の話を絶対にするな」と、つっけんどんな態度を取られて、とても悲しかったらしい。
まあ、こうして火村と話していることも含めて、とっくにバレてるんだけど。
それでも、そんな真人の頼みをすっぱり裏切って、晃に連絡を寄越して来た火村に晃は感謝した。
真人の過去を調べていく中で、晃には一つ、気になることがあった。
手水監督。
昔、問題を起こして失脚した監督の作品に、神谷真人のクレジットがあった。
そのことと、真人の引退に何か関係があるのか知っているか、と晃が火村に尋ねると、火村はわからない、と答えた。
「多分、マーの場合はそうじゃない。何か一つのことがあいつを壊したわけじゃない。業界そのものに蔓延る悪意が、ひとりの人格を壊したんだ」
おれは振られちまった。
あとは若いもんに任せることにする。
マーのことを頼む、おれはこれから高齢者教習と通院で忙しいんだ、じゃあな。
そう言って、火村は一方的に電話を切った。
……火村さん、ゲイなんだよな。
マー坊、大きくなったなぁ、とか言ってセクハラしてたら許さんぞ。
っつーか、マー坊って何だよ。変な呼び方。
今は都心を離れて小金井に住んでるって言っていたな。
今度、お見舞いがてら釘を刺しに行ってみるか。
晃は少し目を閉じてから、LINEを開いて、真人との他愛ないトーク履歴を何度か読み返した。
『返信遅くなりました。
防犯ブザー、受け取りました! ありがとうございます。
今度晃さんがやってきた時には、高らかにこのブザーを鳴らしてお出迎えしようと思います。
チョコリエールとソイジョイまでつけてくださって、ありがとうございます。
ピーラーは余計ですが☹️』
あーあ、人の気も知らねえで。呑気なやつ。
『ジョジョ、読み始めました。リサリサ先生とお近づきになりたいです』
『いいペースですね! 頑張ってください✌️』
なあ真人。おれ、結構頑張ってるよ。
ほんの少しだけ、真人に甘えたくなった。
おれのこと褒めてよー、と言いたいが、そんなことは言えないので、晃は文面を考えては消して打った。
『お疲れ様。
実は、明日から一週間くらい仕事休むことになった』
しばらく待ってみたが、既読にならない。
もう零時を回ってるし、寝てるのかな。
ちゃんと飯食ってんのかな。
しばらく雨降ってたけど、風邪引いてないかな。
会いたいな。声が聞きたい。
無事かどうか確認して、安心したい。
しばらく画面を眺めたが、やはり動きはなく、晃は観念して続きを打った。
『休みの間に会えないかな。春木屋行こうぜ。お勧めの本も何冊か持ってくよ』
晃は送信ボタンを押してから、ぱたんとスマホを置いた。
朝、そのままの姿勢で目が覚めた。
明かりもつけたまま、テレビも流しっぱなしで眠っていたらしい。ずいぶん気の抜けた活動自粛初日だ。
はっとして、手元のスマホを開くと、真人からの返信が来ていた。
晃は口角を上げて画面をタップした。
『ミュートメッセージで失礼します。
色々考えたのですが、晃さんに甘えすぎてしまったように思います。
しばらく、自分に向き合って、生き方を見直してみようかと思います。
ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
休養されるとのことですので、晃さんがゆっくりされて日頃の疲れを癒やす時間になるといいな、と思ってます。
井の頭公園で過ごした時間はぼくの人生の大事な思い出です。
貴重な時間をありがとうございました。
どうか、お元気で。』
──は?
頭が真っ白になった。気づけばそのまま真人へ電話をかけていた。
呼び出し音が鳴る。しかし、何度かけても出なかった。ブロックされたかと思い、今度は直接電話番号にかけ直してみても、やはり出ない。
メッセージの送信時刻は、03:41。かなり早朝だ。
現在時刻、07:58。
まだ寝てるのか? それとも出かけた?
嫌な想像が次々に膨らんだ。
しばらく雨続きで、精神的に参ってしまっていたのでは。
空っぽの冷蔵庫。
あの日から、飯を食ってなかったら。
御域の誰かに何か吹き込まれたのでは。
まさか、まさかあのAirTagの相手と会って、何か言われたのか。
──おれのこと、嫌いになった? いつから?
鼻の奥が痛くなる。
違う。そうじゃない、今考えるべきはそんなことじゃない。
晃は、肩口が少し開いたカーキ色のラフな部屋着に膝までの短パンのまま、壁にかけていた大きめのリュックを掴んだ。
車のキーをポケットに突っ込んで、地下の駐車場へ向かった。
おれがどう思われているかは問題じゃない。
またひとりでパニックを起こしていたら。
それを誰にも言えない状態で、変な気を起こしていたら。
もしそうならば、もう真人は完全に平常心を失っている状態だ。誰かが、助けなきゃ。
そんな状態で勝手に今生の別れみたいな連絡よこしやがって、ふざけてんのか。
何より、何もなくたって、普通に生きてるだけであいつ、苦しそうなんだ。
晃は舌打ちしてシートベルトを引き寄せた。
*
会場のロビーは、平日の午前らしく中途半端に静かで、スーツの擦れる音と紙コップのコーヒーの匂いが漂っている。会合が始まる少し前の時間だった。
鷹見は、この集まりに来るのも今日が最後になるかもしれないと予感した。
惰性で積み上げられた言葉と、予定調和の進行。しかしそこで下された決定は法より重い。普段なら部下を送るが、今日は自分が顔を出さないわけにはいかなかった。
──来た。
ロビー奥の自販機コーナーで待ち構えていると、向こうから歩いてくる視線がぶつかった。
御域プロダクションの、瓶子理一郎。ピリピリとした空気が頬を刺した。
「鷹見さん、お久しぶり」
こうして対峙するのは何年ぶりだろうか。瓶子は柔らかい笑顔を浮かべて近づいてきた。
「……どうも」
「先日はうちの神谷がお世話になりました。晃くんには是非直接会って話してみたかったんですがね」
鷹見はその言葉を無視して、口を開いた。
「最近、物騒でね。うちの子がファンからもらったプレゼントに、GPSが入ってて。正直、焦りましたよ」
あくまで世間話。あくまでブラフ。
晃の名前は出さず、鷹見は相手の表情を追った。
瓶子は、少しだけ目を丸くして、すぐに笑った。
「それは怖いですね。しかし、それにすぐ気づく鷹見社長は優秀ですよ」
自分も飲み物を買いに来ただけだ、とでもいいたげなように、瓶子もミネラルウォーターのボタンを押した。ガコン、と排出されたペットボトルを拾い上げると、ベンチに腰掛けた。
「そういえば……うちの神谷に持たせていたAirTagなんですがね、おたくの晃くんに、返すように言っていただけませんか」
鷹見の背中に、冷たい汗が走る。
「神谷が、あの一件以来、晃くんと仲良くしてるみたいで」
瓶子は続ける。
「あの子、ドジなので、うちのものが管理の意味も込めて持たせていたんですが……」
ミネラルウォーターを一口飲んで、瓶子は口角を上げた。
「恋人に取られた、と言うんですよ」
鷹見は、視線を逸らした。
「恋人って誰、と聞いたら……まさかの晃くん」
瓶子は、肩を揺らして笑った。
「アイドルが美少年にお熱だなんて、バレたら一大スキャンダルだろうなあ」
瓶子は、まるで冗談の続きを言うかのように、軽く言い添えた。
「いいんです、いいんです。彼、昔から妄りがましいところがあって、こちらも手を焼いてるんですよ。晃くんのことを責めるつもりはありません。若い子の一時の気の迷いでしょう」
──くそ。そういうことか。
鷹見は舌打ちして瓶子に向き直った。
この値踏みするような目。こんな人間が重用される事務所に心底嫌気が差して、かつて自分はブレイムから逃げた。
差し伸べた手を振り払った真人の本心は、今でもわからない。
ただ、あのとき置いてきた子を巡る因縁が、今になって襲いかかってくるとは。
「……今おっしゃったことが全て本当とは思えません。所属タレントを、信じます」
信じるしかない、晃を。
私欲に流されるな、大衆に殉ぜよ。
そう、教えたはずだ。先代も、私も。
「晃くんにこんなことでケチがつくのは勿体ないですよ」
瓶子は飲み干したペットボトルを丁寧に潰して、立ち上がった。
「彼、いい目をしてる。俳優向きなんじゃないですかね」
瓶子はニヤリと笑って鷹見を見据えた。
「……ご忠告どうも。この件については、真偽が分かり次第、こちらで処理させていただきます」
鷹見は頭を下げなかった。お互いの鋭い眼光が交差する。
こっから先は化かし合いだ。受けて立つよ。
鷹見は缶コーヒーをゴミ箱に投げ捨て、会合へと向かった。
*
晃は真人の家のインターホンを押すが、反応がない。
仕方なくドアをドンドンと叩く。
「……おれだ、真人。開けてくれ」
傍から見れば完全に不審者だが、なりふり構っていられない。中で倒れてんじゃねーだろうな。
六月の土日は家に籠って教採の勉強に充てます、って言ってたよな、真人。
ダンダン、と乱暴に階段を降りて、ポストの中身を確認した。一応ヨドバシの袋は回収されているようだった。近所のコンビニにでも行ってるのか、あるいは──
踵を返し、ベランダ側から中の様子を見ようと道路に出たときだった。
「……晃さん?」
前の道路を通りかかった青年に声をかけられた。
ボサボサの髪に瓶底メガネ。ダルダルのジャージ姿。
「……真人?」
晃は戸惑いながら歩み寄った。
少し髪が伸びた気がする。前髪がかかった分厚いメガネの奥で、いつも以上に大きな目が、どうして? と訴えている。
オーバーサイズのジャージはいっそう痩せた真人の身体の細さを隠してはくれず、華奢な肩はかすかに震えていた。
「……言いたいことは色々あるけど、とりあえず、死んではないな。ちゃんと飯食ってたか? なんか、すげー痩せてないか?」
途端に、真人の目つきが鋭くなった。狼狽える晃を尻目に、真人は家を素通りして歩き始めた。
「おい、待てよ。何そんなに怒ってんだよ」
何がそんなに地雷だったのか。
冷たい態度取るなよ、傷つくだろうが。
「家、そこだろ。どこ行くんだよ」
真人の前に回り込んで、晃は目の前のアパートを指差した。
「……コンビニで頭痛薬買おうと思ったら、なかったので今から薬局に行きます」
「……頭痛いのか」
「ついてこないでください」
真人はまた晃の脇をふらっと通り抜けて歩き始めた。
「頼むよ、そんなふうに、拒まないでくれよ。普通にきつい。普通に、悲しい」
真人の背中を見つめながら、晃は情けない声を漏らした。
「なんであんな……なんであんなメッセージ寄越すんだよ」
真人は足を止めて、ジャージのズボンを握りしめた。
「急にあんな連絡、やめろよマジで。心臓に悪い。お前に何かあったかと……」
晃は言いながら膝に手をついた。
「……良かった、生きてて」
立ち止まっている二人の脇を、散歩中のボストンテリアと飼い主が通り過ぎた。すれ違いざま、晃は唸り声をあげられた。
「おれ、薬局……」
そうぽつりと呟いて、真人は顔を俯けた。
晃は顔を上げ、真人の顔を覗き込む。
「頭、痛いのか。いつから」
「わかんない。ずっと痛い」
晃はため息をついた。
自分が代わりに買ってくると言えば、拒むだろうと晃は思った。
「薬局、ついていっていいか」
「……勝手にすれば」
真人は振り向かないまま、またふらふらと歩き出した。




