神隠しの北杜
「雪子さん、雪子さん」
何度か声をかけられていたのに、気づいていなかったらしい。
はっと顔を上げると、婦人たちが心配そうに雪子の顔色を窺っていた。
礼拝後のホールに響く、雨の音。
丸く席を囲んだ婦人たちの後ろで、子どもたちが紙飛行機を飛ばしていた。
「大丈夫? ここ最近、なんだか元気がないわ」
「どこか具合でも悪いの?」
「いえ……そんなことは」
雪子は苦笑して、パイプ椅子に座り直した。
「雪子さん、寂しいのよ。だって、まひちゃん、東京で一人暮らしし始めたんでしょう? 手塩にかけた一人息子がいなくなったら、そりゃあ寂しくなるわよ」
婦人会で最年長のおばあさんが、隣の雪子の肩を優しく撫でさすった。
「真人くん、ちゃんと一人暮らしできてるの?」
「はい。おかげさまで」
「あら。ご飯はどうしてるのかしらねえ」
「うちの葡萄、送ってあげようかしら」
「うちも、倅の工場のほうとう、分けてあげましょうかね」
口々に名乗り出る婦人会のおばあさんたちの輪の中に、雪子と同世代の夏美がコーヒーカップを配りにやって来た。
「ふふ。世話を焼きたい人が多くて、参っちゃうわね、雪子さん」
夏美は婦人たちにカップを一つずつ慎重に手渡した。
ぼんやりしていた。いつもなら自分が率先して淹れるのに。
謝る雪子に、夏美は苦笑して首を振った。
「まひちゃん、来年から社会人なの?」
「はい。少し遅れましたけど、その予定です」
「そうなの。もう、まひちゃん、なんて呼んだら怒られちゃうかしらねえ」
「私たちの中じゃ、まだ幼稚園のまひちゃんだものねえ」
そうか。ここに息子を連れてきたのは、幼稚園のときが最後だったか。
小学校に上がってしばらくしてから、「もう行かない」って言われたんだっけな。
雪子は手元の紙コップに視線を落とした。コーヒーの水面が、手の震えに合わせて僅かに揺れている。
「本人が、自分で出ていく、って言ったんです」
雪子が徐に口を開くと、笑っていた婦人たちはおしゃべりをやめた。
「本来なら、自立を喜ぶべきなのかもしれません。でも、毎日、心配で心配で。なかなか連絡を寄越さない息子に、つい苛立ってしまって」
雪子の声は途中からどんどん小さくなった。丸まった雪子の背中に、夏美がそっと手を添えた。
「……仕方ないわよ。まひちゃん、長いこと体調を崩していたもの」
「自粛期間の頃だったわね。時期が時期だけに、お見舞いにも行けなくて」
一瞬、輪の中が静まった。
「私たちですら心配だったんだから、雪子さんはたまらなかったでしょう」
雪子は曖昧に笑った。
「お母さん、頑張ったわよ」
「偉いわ。よくここまで支えたわよ」
雪子は慌てて首を振った。
「いえ、そんな……皆さんが思うほど、上手くはやれてないです」
「そう?」
「いつからだろう。息子から、距離を取られちゃってて。なんだか、疎まれてるみたい」
すると、婦人たちは顔を見合わせてふっと笑った。
「男の子なんて、そんなもんよ」
「それが親離れってやつ。元気になった証拠じゃない」
「前は家から出なかったんでしょう? 今度は帰ってこないのよ」
また笑いが起きる。
「そのうち、彼女連れて帰ってくるわよ」
「雪子さん、お嫁さんとうまくやれる?」
「案外息子びいきするんじゃない? 雪子さん、真人くんのこと大好きだもの」
雪子は顔を赤くした。
「そ、そんなことありません」
「あります」
「あります」
「あります」
また笑い声が上がった。
雪子もとうとうつられて笑ってしまった。
ほどなく、話題は斜向かいの老婦人に初孫が生まれるという話へ移った。
雪子は滲んだ目元をこっそり拭って、周囲に合わせて笑った。
教会からの帰り道、雪子はハンドルを握りながら、小さく息を吐いた。
……ああ、ずるいなあ。
都合のいいところだけ切り貼りして、普通の悩みみたいに相談しちゃった。
それでも、「それは普通のことよ」と言ってもらえるあの空間が、ありがたかった。
家に戻ると、正悠がダイニングでNスペの録画を観ていた。
「あ、おかえり。パスタ、今から茹でるよ」
「……ありがとう」
雪子はそのまま二階へ上がった。
もう入る用事などないのに、時折こうして息子の部屋を開けてしまう。
静まり返った部屋には、布団だけがなくなったベッド。
壁の収納棚にはぎっしりと本が収められていて、フィッツケースの中の服も、ほとんどは残ったままだった。
自転車も持って行かないなら、なんでわざわざ、トラックなんか。
本棚に並ぶ児童書も、雪子の父に買ってもらった絵本も置き去りにされて、部屋の主人だけが、その場からいなくなってしまった。
本棚の一角、昔の卒業アルバムが目に留まって、雪子は一冊ずつ取り出して、机の上に積み上げた。
幼稚園の頃の真人。
女の子とよく間違えられたなあ。
小学校の卒業アルバムを開くと、真人は一気に六年生になった。
もう、この頃は芸能活動を始めていた。
真人のとなりで目を細めて笑っている男の子を見つけて、つい「てっちゃんだ」と雪子は口にした。
てっちゃんは、真人が小学校で最も仲良しだった友達。小学校卒業とともに海外転勤で引っ越してしまった。
中学のアルバム。
ああ、やっぱり、この頃の真人、表情が固い。
楽しそうに笑っていた小学校の写真とは裏腹に、作り笑いすら浮かべず、口をきゅっと結んでカメラを見つめる息子の顔。
やはり、自分とは似ていない。正悠にも。
歳を重ねるごとに、遠くなる息子。
高校のアルバムを開くか、一瞬迷った。
恐る恐るページを開くと、倒れる前の真人が、細い肩を制服に包んで立っていた。
高校生になった真人は、仕事が増えて、東京に泊まり込むことも多かった。
ちょうど、三年生の頃に自粛期間になってしまって、アルバムに写る行事の写真は、二年生のものばかり。
美術部の写真も、二年生のときの文化祭のものが採用されていた。まだ美術部を辞めていなかった頃の真人。美術部でお揃いのTシャツを着て、楽しそうに笑う真人。
中学で陰鬱としていた息子は、高校に入ってしばらくすると、「美術部に入る」と言った。
仕事と両立できるのかと心配したが、美術部にいた頃の真人は、溌剌として毎日楽しそうだった。
もったいない。
どうして、辞めてしまったのだろう。
アルバムのページをめくっていると、急に手書きの文字が目に飛び込んだ。
白地の見開きページ。その真ん中に、“たまちゃん”と大きく書かれた文字と、眼鏡をかけた真人の似顔絵。
思い出した。
このアルバムは、美術部の子たちが家に届けてくれたものだった。
真人は、卒業式に出られなかったから。
カラフルなペンで彩られたページには、部員からのメッセージがたくさん書き込まれていた。
早く元気になって、という右上がりの字。
ハートマークの横に、小さな絵の具のチューブの絵。
なんで。どうして、うちの子だけが。
雪子は唇を噛み締めた。
「さすがに何週間も寝ていたら餓死するでしょう。数時間は起きてるってことですか?」
眠り続ける息子の前に現れた瓶子のことを、雪子はよく覚えている。
「はい。起きたときに、どうにか食べさせています。あ、あと、お風呂も……湯船に浸からせるのは怖いので、シャワーだけ」
質問に答えているだけなのに、雪子はなぜか顔を上げられなかった。
「じゃあ、そのときだけは会話できるんですか」
「……ええ。一応。でも、またすぐ眠ってしまいます。時間もまちまちで」
「病院はなんて?」
「ストレスによる抑うつか、自律神経の乱れか……なにぶん、本人が何も言わないので、診断がつかないんです」
「はー。困りますね。お母さんの心労はいかほどか」
瓶子は眠る真人に視線を落とした。
真人は頭上の会話などまったく聴こえていないかのように、枕に半分くらい顔を埋めて、寝息を立てていた。
瓶子はゆっくりと布団へ手を伸ばし、腰のあたりまでずらした。コットンの長袖パジャマが露わになり、雪子は何をするのかと息を呑んだ。
瓶子はパジャマ越しに、真人の肩の肉づきを確かめるように掴んだ。
真人はわずかにみじろいで、薄く開いた唇を閉じた。
「……痩せたな」
瓶子はまた布団をかけ直して、顔を上げた。
「仕事のことは、回復してから考えましょう」
「……」
「こちらからもときどき、様子を窺いに連絡を入れていいですか」
「……あの」
切れ長の目が雪子を見下ろした。
息子は、この人の下で働いていた。
怖気付いている場合ではない。
そう叱咤して、雪子は声を上げた。
「真人、倒れる少し前から、様子が変だったんです」
「……」
「楽しく通っていた高校の部活も、辞めてしまって。仕事ももちろん忙しくなってきてましたし、最初は疲れなのかと思っていました」
「……はあ」
「何か、心当たりはありませんか。お恥ずかしいんですが、私、親なのに、息子のことをよくわかってやれていないんです。倒れる少し前から、何を聞いても上の空で……」
「まあ、思春期の息子の親への態度なんて、そんなもんですよ。お母さんが自分を責める必要はない」
瓶子はそう言うと、真人の部屋をぐるりと見渡した。
「鷹見の件では、申し訳ないことをしました」
「……」
「初めて見たとき、噂に違わぬ美しい子だと思いましたよ。このまま大人になったら、一般社会では生きづらいだろうな、とも」
「……」
「早く復活できることを祈っています。何か真人が訴えることがあれば、教えてもらえますか」
「……はい」
夜、体温を測りに雪子がドアを開けると、真人が起きていた。
「だれか、きたの?」
真人が首を傾げた。
「ねえ、ラベンダー、だれがくれたの? おれ、ラベンダー、すきじゃないから、いらない」
幼子のような舌足らずな喋り方に、雪子は思わず顔を顰めた。
「ラベンダー、瓶子さんが持ってきてくれたのよ。真人が、寝てばかりだから、匂いがわかるように、って」
「へいし……?」
真人はぽつりと復唱した後、みるみる顔をこわばらせた。
「いやだ!!!」
突如として大声を出したかと思うと、真人はベッドを蹴り上げるようにしながら背中を壁にくっつけた。
「いやだ! きらい! だいきらい! しごと、しない! かえって!」
「お、落ち着いて、真人。瓶子さんはもう、帰ったよ」
真人はガタガタと震えながら、首をぶんぶんと振って、布団を胸元まで引き上げた。
「教えて。ねえ、仕事で何かあったの?」
「やだ! しらない! しらない!」
「真人。ちゃんと説明してよ……」
「いやだ!」
「ねえ、私、辛いよ、そんな真人見てるの」
「触らないで!」
伸ばした手を思い切り振り払われて、雪子は呆然と立ち尽くした。
真人はまるで怯えた子どものように、瞳に涙を浮かべ、枕を抱きしめて肩を震わせた。
もう、直視できなかった。
物音を聞きつけて正悠が現れると、雪子は逃げるように部屋を出た。
ガチャンと閉めたドアの奥で、真人の嗚咽が聞こえた。
「契約は更新しません」
電話口で雪子は声を震わせながら言った。
『それは本人の意思ですか?』
「……はい」
『本人と話させてほしいのですが、代わって貰えますか』
受話器を持つ手が震えた。
「契約したとき、あの子は未成年でした。仕事をさせたのは私の責任です。終わらせるのも、私の責任だと思っています」
『……』
「ご期待に沿う活躍ができず、本人も心を痛めています。申し訳ありませんでした」
『……本当に、それでいいんですか』
「これからは、家族三人、なるべく穏やかに暮らしていきたいと思っています。大変お世話になりました」
なぜ、私は。
この人に謝らないといけないのだろう。
息子を、返してほしい。
笑って高校に通っていた、あの子を。
この人のせいじゃないのかもしれない。
でも、あんまりじゃないか。
真人を事務所へ招いたマネージャーは、途中で辞めてしまった。信頼できる相手もいない場所で、あの子はいつから、何をひとりで抱え込んでいたのだろう。
瓶子に心の中で恨み言を言わなければ、何もかも、許せそうもなかった。
半年ほど経ち、起きていられる時間が少しずつ長くなると、真人は、自分が眠っていた間のことをぽつぽつと雪子に尋ねるようになった。
雪子は高校の卒業アルバムを開き、寄せ書きのページを真人に見せた。
「これ、美術部の子たちが、卒業式のあとに持ってきてくれたのよ」
「……そう」
真人は寄せ書きをろくに見もせず、アルバムを閉じてしまった。
仕事の契約を更新しなかったことも伝えた。
狼狽えるか、何か反発があることを覚悟していたが、真人は、ふうん、とどこか他人事だった。
不気味に思いながらも、雪子は安堵した。また、パニックを起こされたらたまったものではなかった。
雪子は、家からテレビを撤去した。正悠は何も言わなかった。
それ以降、過去の活動のことは、一切触れなかった。
あれが、もう五年も前の話。
遠方の大学に通えるほどに回復した。
教職課程に進んだ。
一人暮らしをしたいと言って、勝手に出ていった。
息子の自立を、もっと喜ぶべきなのかもしれない。
でも、肝心なことはひとつもわかっていない。
これでいいのだろうか。
母親の正解が、わからない。
当たり前だ。自分だって、捨て子だったんだから。
ごめんね、真人。
いろんなこと、きっといっぱい間違ってる。
でも、難しいよ。
自分を捨てた母親と、そっくりな顔のあなたを、どう愛したらいいのか、今でもわからない。
神様。
どうか、私に代わって、息子をお守りください。
雪子はその場に跪いて祈るしかなかった。




