クラリネット壊しちゃった
雨の金曜一限。
久しぶりに顔が見られると思っていたのに、実習明けの綾波は来なかった。
「あだっちー、なに黄昏れてるの?」
となりの倉田が話しかけると、足立は大きく伸びをした。
「ううん。なんでもない」
綾波の心配してる場合じゃないんだよなー。就活そろそろ決めないと。
黒くなった髪がまだ馴染んでいない気がして、肩にかかった毛先を掻き上げた。
倉田は公務員試験を受けるらしい。
デザイン関係の仕事に見切りをつけて、実家の市役所で働くと聞いて、正直ちょっとがっかりした。
倉田は所在なさげな足立の様子を気にするそぶりも見せず、口を開いた。
「そうそう、綾波が帰ってきたら、慰労会開かない?」
「慰労会ぃ?」
足立は眉を顰めた。
「……そんなん、綾波が来るかなあ。あいつ、これまでコンパも全然参加してないし」
「そこでだよ、あだっちーが誘うの」
「私?」
「綾波、あれであだっちーのことはそんなに嫌いじゃないと思うんだよね」
倉田の丸眼鏡が傾いて、細い目が弧を描いた。
「この時期、やめたほうがいいと思う」
「えー。なんで」
だってあいつ、去年も、一昨年も、この時期大学休んでたし。
そう言いかけて、足立は口をつぐんだ。
「いや、今内定とか出てる人とそうじゃない人とがいるからさ、前期終わりくらいにするのが良くない?」
「そっか……」
肩を落とす倉田の顔を足立は覗き込んだ。
「倉田、優しいじゃん。なんやかや愛されてるよね、綾波」
「向こうは私らのこと好きじゃなさそうだけどね」
「ね。愛されるのが下手くそ」
足立は言いながら笑った。
「ねえ、実際あだっちーって綾波のことどう思ってるの?」
「どうって……」
足立が口を尖らせると、倉田が一段トーンを落として、小声で続けた。
「うかうかしてるとさ、取られちゃうかもよ、植原とかに」
「げ。まじ? あいつソッチの気あるの?」
「こないだ、口説いてるところ見たよ。可愛いって」
足立は頭を抱えた。
「うわ。綾波、どうしてた?」
「特に。されるがまま」
「……」
綾波に、友達がいますように。
ゼミ生じゃなくていい。私じゃなくていいから、だれか一人でも、本音をぶつけられる友達がいますように。
「あ、そうそう。綾波の教務課呼び出し事件、覚えてる?」
俯く足立に倉田が話しかけた。
「覚えてるよ。春休み前の話でしょ?」
「あれさあ。事務所からの呼び出しだったらしいよ?」
「事務所?」
「内緒だよ? 植原から黙ってて、って言われたんだから」
「なんで植原が知ってんの」
「綾波、呼び出しにビビってたから、植原が付き添ってついてったんだって。そしたら、こわーい顔のマネージャーっぽい人二人組が教務課のデスクんとこで待ってて。綾波連れて、奥の相談室に消えてったんだって」
「何それ……」
「怖すぎない? 大学だよ? 大学にまで来るんだね、あーいう世界の人たちって」
「……」
「っていうか、綾波って、まだ芸能活動続けてるってこと?」
「……いや、まさか」
無理だろ。綾波には。
口元が引き攣った。
「綾波、ワンチャン、晃くんと繋がってたりして。あだっちー、晃くんのサインとか、頼んでみれば?」
「……倉田、ごめん。その冗談、今あんまり笑えない」
引っ越したことって、まさか、それと関係ある?
教育実習、どうするんだよ。
綾波、ぼーっとしてるから知らないかもだけど、教師って公僕なんだぞ。芸能活動なんか、できないんだぞ。
綾波に先生なんか向いてないよ、って、からかったことあったけどさ。
芸能人なんか、もっと向いてない。
ごめん、綾波。悪かった。
謝る、謝るから。頼むから、そっち行くな。
「ごめん、あだっちー。そんな怒んないでよ」
倉田の苦笑いに愛想笑いを返す余裕はなかった。
足立はLINEを開いた。
ゼミのLINEでは何度もやり取りしているのに、個人のトークルームには、二年前のグループ課題でのやり取りが最後だった。
なんと送れば良いのやら、次の講義の学生に追い出されるまで、狼狽える倉田の隣で足立は途方に暮れた。
*
「ねぇ、凌也?」
晃は虚空を一点に見つめたまま、晃の背中を枕にしてSwitchに興じる凌也に声をかけた。
「なーに? 晃くん」
画面内の敵を鮮やかに撃破しながらも、凌也は晃のトーンに合わせて湿っぽく返事をするのを忘れない。
しかし、当の晃は揶揄われている自覚すらないようで、そのまま「はあ……」と深く頭を垂れて肩を落とした。
「どうした。珍しく落ち込むじゃん」
「……凌也ってさぁ、メンヘラと付き合ったことある?」
その言葉に、凌也の【面白いことセンサー】が音を立てて発動し、弾かれたように跳ね起きた。
相手がこちらを見ていないのをいいことに、凌也は悪どい笑顔を浮かべた。
何、こいつ。まじ、うける。
凌也はSwitchを置き、晃の横顔をまじまじと確認する。
やばい、見たこともないような変な顔をしている。スマホに収めたい。
最近様子が変だと思ってたが、やっぱりな。
「メンヘラに振り回されてるのか、晃くん。スーパーアイドルともあろう晃くんがメンヘラにご執心なんて知れたら、担当ちゃんたちはさぞかし悲しむだろうよ」
凌也は言いながら晃を優しくバックハグした。
「ちげーよ。友達が付き纏われてるんだよ、メンヘラに」
「あ?」
「ストーカーされてるかもしんない」
「まじかー。それは心配だねえ。可愛いんだ? その子」
凌也が晃を抱きしめたまま首を傾げる。
「まあ、うん。しかも、そのストーカーが、有名人だった場合、どうする?」
「そんな面白……げふん。いや、それ、なりすましじゃねぇの? 名前とか見た目とか、芸能人ならツラ割れてるし、いくらでも誤魔化せるだろ」
「なりすまし……まあ、そうだな。その可能性もちょっと考えた」
晃はくそ、と言って親指を噛んだ。
「はあはあ、なるほどね。それでマリオくんったら気に病んでるのか。クッパの魔の手から、ピーチ姫を守りたいんだね?」
凌也は晃をよしよし、と撫でてやるが、晃は全く意に介さない。
「はあ……どうしよう。こうしている間にも何か起きてるんじゃねーかと心配すぎて、さっきカンペ噛んじゃった」
晃はもう否定すらしなくなった。
この間抜けな顔をもう少し見ていたいが、凌也は一応釘を刺すことにした。
「晃くん。こないだ受けた講習、思い出せよ」
「……なんのこと」
「接近、相談、秘密の共有。全部、ハニトラのテンプレじゃん」
「……ハニトラぁ?」
まるで初めて聞いた言葉のように晃は眉を顰めた。
凌也はわざとらしく眉を下げて頷いた。
「ストーカーも仕込みで、晃に近づくための演技だったら、どうすんの」
「……あれが、演技?」
「可能性の話な」
晃は頭を押さえていた手を解いて、両掌を凝視した。
「肉食ウサギに泣いて、壁に頭ぶつけて、見ないでって丸まってた、あれが……」
「……知らんけど」
晃の顔がみるみる赤くなり、また腕で顔を覆った。
「……くそっ。違う、違う! そうじゃない。何考えてんだ、おれ」
「もう駄目じゃん」
「あれ? なんの話?」
楽屋に宗馬が戻ってきた。
「おかえり、宗馬! お前はまだ知らない方が面白いから」
凌也は晃から腕を解いて、今度はぽかんとしている宗馬の肩を組んだ。
「ケータリング行こーぜ。今日はきっと飯が美味いゾォ」
凌也はスキップで楽屋のドアを開けた。
「ねえねえ、ここ数日の晃、笑ったり怖い顔したり、変じゃない?」
「おっ! とうとう宗馬まで気づいちゃったかあ」
「何でそんな楽しそうなの、凌也」
「んふふ。おれはね、あのバカが狼狽える姿が何よりの好物なんだい。っと」
ハイテンションでスキップしていたら、向こうから歩いてくる男女二人組と肩がぶつかってしまった。
「す、すみません。いい年して。あ……」
宗馬の目線が上を向く。長身の男と、ハイソールを履いたスレンダーな美女の二人組が凌也たちを見下ろしていた。
「お久しぶりです。えっと、そちらは……」
宗馬がもう一人の女に目線をスライドすると、ロングヘアの女が「白石エマです」と答えた。ARCの二人は深く頭を下げた。
「こんにちは。ARCの宗馬です。先輩とは高校の同級生で。その節はどうも……あ、こっちはメンバーの凌也」
凌也が手を挙げて笑顔で挨拶した。
「ARC。急に露出増えたよね」
白石が言うと、宗馬が嬉しそうに頷いた。
「はい! おかげさまで。ありがたいことです、本当に。ね、凌也」
「馬車馬のように働かされてますよ。楽しくやらせていただいてます」
「……楽しく」
宗馬の先輩がそう反復した。
「ねえねえ、ARCって、なんでアイドル名乗ってるの? ぜんっぜんアイドルぽくないって皆言ってるよ。不良っていうか……まあ、それが人気の秘訣って感じ?」
凌也はニコニコと作り笑いを浮かべながら、宗馬の肩を組んだ。
「アイドルを名乗らせたのは、先代の社長です。それをおれらは守ってるだけ。ね、宗馬」
「はい! アイドルたるもの、タイシュウにジュンぜよ、です!」
「大衆?」
「ま、アンパンマンみたいなもんですよ。アーティストが個人の幸せを歌うなら、自分を捨てて尽くすのがアイドル。おれらは別に作詞も作曲もしないんでね」
「へー。なんか、よくわかんないけど……大変そう」
白石が苦笑いすると、となりの男が目を伏せた。
「行こう。ここ、通路だし。話すとこじゃない」
「すみません! 行こ行こ、宗馬。お前の好きなカツ丼があるらしいから……」
宗馬が何か言うのを遮って、その肩を押しながら凌也はスタコラと廊下を駆け行った。
「何、あのちんちくりん。あれで売れてるの?」
白石が鼻で笑うと、男はぽつりとつぶやいた。
「ARCか……もう一人はいなかったな」
*
救護室を出るとき、駅員がビニール傘を渡してくれた。
「ありがとうございます」と言うと、何か声をかけられたが、よく覚えていない。
午後の講義に出る気にはなれなくて、かといってまた電車に乗る気も起きなくて。
どこをどうやって歩いたのか、アパートに着いたのは空が暗くなり始めた頃だった。
ポストに入っていたヨドバシの袋をプラプラと手から下げて、玄関のドアを閉めると、オートロックのかかる音がした。
部屋の中にも染み込む雨の匂い。
朝、脱ぎっぱなしにしていたセットアップが床に散乱し、炊飯器の蓋が開いたままになっていた。
──面接、出られなかったな。ゼミも休んじゃった。
真人は万年床に倒れ込んだ。
本当にこの時期はきつい。
ちらとカレンダーを見ると、あの日付が目に入って、思わず首元を抑えて目を伏せた。
スーパーに買い出しに行こうと思ってたけど、いいや。また明日で。
──もし、何か身の回りで変な人がいたり、声かけられたりしたら、ひとりで抱えずに相談しなね。
いい人だな。
あんなにいい人、芸能界にもいるんだなあ。
井の頭公園、楽しかったな、最初から最後まで全部、楽しかったな。
吉村昭書斎、誘ってもらわなかったらきっと一生行かなかった。吉村昭さんと津村節子さんの写真を眺めることだって、きっとなかった。
焼き鳥美味しかったな。晃さん、ハツばっかり食べてたな。
井の頭公園、楽しかったな。アヒルボートに鴨がたくさん並走してきたの、可愛かったなぁ。
家、引かれただろうな。でも、ボンビーもやっつけてくれて、優しいな。
──おれ、晃さんに嫌われたくないなぁ。
鳩尾がぎゅうっと締め付けられた。
真人はそのまま膝を抱いてこの痛みが過ぎるのを待つしかなかった。
晃さんは、おれのことを全部知ったら……どんな顔をするんだろ。
こんなやつだったのか、って、がっかりするのかな。
気持ち悪い、触るな。
晃の声で、その言葉が再生された。
涙が後から後から頬を伝って、床を汚していく。
「男の人に告白されたこと、ありますか?」だって。笑える。
まるでそれが自分の中の最大のコンプレックスです、みたいな顔して。
それで、それはもう過去のことで乗り越えてます、って顔で、嫌われないように伏線回収した振りしてさ。
そうじゃ、ないじゃん。
三谷のことなんて、どうだっていい。
バレたら一番引かれるの、その話じゃないし。
だいたい、三谷のことだって嘘ついた。本当に言いたいことは、違うことだった。
──まひちゃんのこと好き。大好き。
三谷に何度そう言われても、よくわからなかった。
自分は彼に一体何を求められているのか。
「三谷くんは、おれと、何かしたいの?」
真人の問いかけに、三谷は、ぱあ、と顔を上げて、真人の手を握った。
「おれ、キスしたい。まひちゃんと」
相手の脈の拍動が伝わる。見たことのない目をして三谷は縋ってきた。
「……キス、は、無理かも」
やっとのことでそう言ったのに、三谷は引き下がらなかった。
「お願い、一度だけ。一生の思い出にする。お願い」
断れなかった。彼の一生がそれで幸せになるなら、いいか、って。
家に帰って、すぐにうがいをした。
何度も何度も口を濯ぐのに、ナメクジがまだ口の中で動いている気がして、トイレで吐いた。
でももう、そんなことだってどうでもいい。
芸能界にいたときのことに比べたら、あんなことはどうだって。
──でも、三谷の話ひとつ、まともに晃さんに話せなかった。
晃さんに、この話をしただけで嫌われる可能性を考えたら、言えなかった。
ベンチの横の誠実な目が、軽蔑の色に変わるのが怖かった。
最低だ、こんなのペテンだ。狡い、醜い。
──あのAirTag。
晃さんが持って帰ってった、あのボンビーは、誰のものなのだろう。
瓶子や御域の誰かがふざけて入れたのだったら、まだいい。
もし、あの人だったら。
もしそうなら、もう逃げられない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「助けて……」
声を押し殺してそう言うと、もう止まらなかった。息が上がる。身体が硬直して、そのまま呼吸がどんどん荒くなる。
助けて、助けて……晃さん。
「やめて!!」
晃さんだけは。晃さんだけには知られたくない。全部知って嫌われるくらいなら、死んだほうがましだ。
ねえ、晃さん。おれ、歌っちゃいけないんだよ。
歌ったら、ダメなんだ。
歌、好きだった。大好きだった。
でも、そんなことしたら、汚れる。空気が汚れる。
真人は口元を押さえて、迫り上がる吐き気に身体を折り曲げた。
じいちゃん、ごめん。本当にごめん。
貝の火、割っちゃったの。
もう無理なんだ。取り返しがつかないんだ。
降り頻る雨の音。自分のしゃくり上げる声。身じろぎしたときの服の擦れた音。
噛み合わない歯を止めるように、真人は両腕で膝を抱え、目を瞑った。
真人は時計の針が音を立てるのをひたすら聞き続けた。




