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位置について  作者: はる
第二章 マインド・クラッシュ編
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流れ弾の雨

 ()(ひと)の部屋のドアが閉まると、背後で小さく鍵の噛み合う音がした。

 湿った空気がさわさわと吹き始めている。(あきら)はキャップを深く被り直し、階段を降りた。

 手元の黒い紙袋には、真人がくれたデラウェアと、例のボンビーが入っている。

 前のめりに歩きながら、晃は自分の身体から湧き起こる怒りに震えていた。


 楽しい楽しい外出を。

 どこの馬の骨とも知らん肉食ウサギに全部持ってかれた!

 おれが今日、真人の一日を笑顔で終わらせるためにどれだけ徳を積んだと思ってんだ。くそっ、まじで腹立つ。


 顔の見えない不審者に腸の煮え繰り返る思いを抱えつつも、晃の脳内では緊急会議が始まっていた。

 誰だよ、ボンビーの送り主は。

 まさか、真人の言ってた中学の告白男じゃねーだろうな。運び屋のイタリア人経由で何かやり取りしたんじゃ……いや、流石に妄想が過ぎる。

 大学の友人か? 八王子の大学からわざわざ夜の都心で待ち合わせる用事が? 失礼だが真人にそんなフットワーク軽い友達がいる気がしない。

 あるいは、芸能関係者、または子役時代の知り合い。

 同じ業界に身を置く立場として胸糞悪いが、それが一番しっくりきた。

 真人は「ニートだった」とか「暗黒期」だとかお茶を濁していたが、あれは芸能界をやめた後の話だったんじゃないのか。

 変なやつに付き纏われてメンタル病んだとか、そういう話なんじゃねーのか。

 もしそうだとすれば、その輩は、今のおれの周囲と繋がっていてもおかしくない。

 いや、それどころか……おれの知り合いだったりして。

 その仮説が脳裏をよぎった瞬間、晃は立川駅のコンコースへ向かうエスカレーターの前で足を止めた。

 まさかね、と思いつつ、晃はスマホを引っ張り出し、控えておいたAirTagの電話番号を、仕事用の連絡先検索に叩き込んだ。

 一秒の静寂の後。

 画面に『千木良 いのり』という名前が表示された。

「……は?」

 エスカレーターのベルトが、晃の困惑を置き去りにして、無機質に上へと昇っていった。


 芸能人の夜は長い。今頃真人はすやすや夢の中だろうが、晃は日付を越えた後も分解したAirTagとボンビー入りの紙袋を自宅のデスクに広げて睨めっこしていた。

 本来なら今頃、あの真人の瑞々しいスケッチを持ち帰って眺めているはずだったのに。それがどうして、こんな可愛げのない肉食ウサギを飼う羽目になっているのか。

 真人の挙動がどこか幼いせいで、電話番号の主は勝手に屈強な男だと想像していた。だが、判明したのはまさかの女。しかも真人の古巣と同じ、()(いき)所属の女優。

 望月(もっちー)じゃないが、あの女……すげー嫌い。

 千木良(ちぎら)いのり。特徴的な泣きぼくろと、丁寧にまとめられたお団子頭が脳裏に浮かび上がる。

 晃は今更になって、千木良にまつわるおぼろげな記憶を必死に手繰り寄せた。

 そもそも、なぜおれはあの女の電話番号知ってるんだ。普段、連絡交換なんてほとんどしないよな。

……そうだ。まだ今ほど売れていなかった当時、LINE交換を迫られて断ったんだった。そしたらあの女、「私のこと、嫌いー?」と、他のキャストが大勢いる前で、困り顔で覗き込んできた。周囲が「どうしたの、いのりちゃん」と集まってくると、「晃くんに嫌われてるみたいです、私」と泣きついていた。

 初対面から「お兄ちゃんみたーい!」「絶対妹いるでしょ?」と、やたら顔に手を当てて小顔アピールしてた女。

「緊急時の連絡用」と仕事の番号を教え、やり過ごしたんだった。

 その後一度も使わなかったその番号が、今、真人の部屋で見つかった。

 この黒い紙袋も、もしかして、御域の備品じゃないのか。ロゴこそないが、あの事務所のイメージカラーだ。

 真人はあの日、御域プロダクションに行ってたのか?

 面会相手を頑なに伏せていたのは、古巣への出入りを知られたくなかったからか。だとしたら、パニック発作はその相手と会った直後に起きたことになる。

 引越し直後のタイミングで、辞めた場所に足を踏み入れたのか。

 待てよ。そもそも、おれが助けた相手が神谷真人だったっていう事実を、瓶子はどこから仕入れたんだ。

 まさか、真人を監視してたのか? このAirTagで?

 いや、まさか。仮にも芸能事務所だぞ。やり口が反社すぎるだろ。

 この仮説を立証できるか、Googleマップで御域から立川までのルートを出す。おすすめは四ツ谷駅での乗り換え。どう考えても神楽坂駅は経由しない。

 晃はふーっと天井を仰ぎ見た。

 あの日、一体どこで、何してたんだろ、あいつ。

 第一、倒れたときにこの袋を持っていたという真人の記憶自体、正しいのか。パニックの混乱に乗じて、誰かに紛れ込まされた可能性はないのか。

 もう一度改めて聞いてみたいが、あの“絶対にその件に触れてほしくなさそうな顔”を思い出すと、晃は閉口せざるをえなかった。


 そしてここまで考えて、やっと気づく。

 いよいよもってかなりまずいことに首を突っ込んでいる。

 NFCの情報を真人には黙っているくせに、自分はしっかりスクショして持ち帰ってきてしまったし、しかもそれが自分の知り合いで、御域の女優だという情報まで内密に手に入れてしまった。

 でもほっとけない。AirTag発見で怯える真人を前に、「怖いならおれん家来る?」とまで言いそうなくらいだった。

 現状、唯一の清涼剤である真人の家から持ち帰ったデラウェアは、晃の膝の上にある。ジップロックを開けて手を突っ込み、一粒摘んで口に含むと、弾ける果汁が喉に沁みた。


──千木良いのりの番号はブラフで、本当は別の人間のものだったりして。


 真人の過去の共演者関係、とか?


 晃ははっと目を見開いて、上体を起こした。衝撃でジップロックが膝から滑り落ち、拾い上げながら晃は三十秒の葛藤を抱えた。

──ごめん!

 手をパン、と合わせて一応謝ると、晃はデスクのパソコンで、検索キーに「神谷真人」と打ち込んだ。

 勝手に過去を詮索することへの後ろめたさを感じる間にも、画面には検索結果が浮かび上がる。

 公式なページこそないものの、いくつかの記事がヒットした。

 十歳で芸能界入り。映画やウェブドラマの子役。ときどき地上波のドラマにも出演していたようだ。デジタル配信されたカバー曲もひとつ。

 その後、映画『失われた思い出』の主演俳優の学生時代役を、体調不良で途中降板。これが十七歳のとき。真人の言っていたニート期間って、ちょうどこの後のことだ。

 ふと、別の記事に目を通したときのことだった。

『小学生のとき、ブレイムエージェンシーにスカウトされて、芸能界入り』

 ブレイム? 御域ではなく? この記事、本当かよ。

 どこかのタイミングで系列の御域に移ったってことか。

 待てよ。ってことはうちの将軍と、顔見知りだったりするのか?

 晃は貧乏ゆすりしながら画面をスクロールした。

──あれ? 真人、音痴って言ってなかったか。

 お世辞にもそこまで売れていない音痴が、曲の配信なんかさせてもらえるのか?

 まだ配信が生きていたりするのかと、試しにiTunes Storeで「神谷真人」と検索してみると、一件ヒットした。

 カバーソングらしい。キリンジの『Drifter』の弾き語り。

 当時十六歳で、キリンジか。渋い選曲だな。

 255円、今買ったら真人にもお金は入るんだろうか。

 神谷真人十六歳のモノクロの横顔ジャケットの下に、1『Drifter』の文字。

 ここを押せば、試聴が始まる。

 心拍が速かった。

……どうなんだ、これ。

 本人の承知していないところで歌声をこっそり聞くというのは悪趣味な気もするし、でも正直めちゃくちゃ聞いてみたい気もする。晃は頭を抱えた。

「本当に音痴なのかなぁ、神谷くん。あれは照れ隠しで、究極の美声で晃を惑わさないための嘘だったんじゃないの? 試聴と言わず購入してじっくり確かめてみたら?」

という(りょう)()の悪魔の囁きと、

「それは違うだろ! 神谷くんは過去の活動のことに触れてほしくなさそうにしてるんだから、勝手に聴くのは良くないよ」

と叱咤する(そう)()の声が背後で喧嘩している。

 待て。おれは何をしているのか。

 AirTagの混入について考えるはずが、なぜいつの間にか真人の歌を聞こうとしているのか。

 よし、一旦置いとこう。今はそれどころじゃない。

 気を取り直してポケットからスマホを取り出し、明日の集合時間を確認する。現場五時。いい加減もう寝ないとまずい。

 晃は観念して、ヨドバシ.comのページから商品をいくつかタップした後、スマホを置いてそのまま目を閉じた。


         *


朝、目を覚ますと、部屋が少し片付いていた。昨日着ていたセットアップのジャケットがハンガーにかけてあり、シンクの水切りに、洗った覚えのない食器が干されている。張り付いたままのワンデーコンタクトが目の中でゴロゴロしていた。

 そうだ、あのまま寝ちゃったんだ。

 最悪。晃さん、怒ってないかな。

 口元でかぴかぴになっているよだれを乱暴に擦っていると、描きかけの絵が目に飛び込んだ。

 静まり返った部屋で、真人はしばらく自分の描いた絵を見つめた。

──下手くそ。

 晃さんのこと、もっと上手に描きたかったなぁ。

 子供の頃の晃さんとか、照れ隠ししてないで、ちゃんと真面目に本人をスケッチさせてもらえば良かった。

 情けないなぁ。ポトフでお礼のつもりが、お世話になりっぱなしだ。

 真人がお詫びを打とうとスマホを開くと、すでに晃からメッセージが届いていた。

『昨日はありがとう。

昨日のAirTagの件、しばらくはうちで預かっておきます。

やっぱり警察に行きたくなったときは、構わず連絡してください。

身の回りで変な人がいたり、声かけられたりしたら、通報して、ちゃんと相談すること。

あと、戸締りもしっかりお願いします。

ベランダの鍵が開いてたので、閉めておきました。

・オートロックだからって油断しない

・不審な業者には出ない

念のため、防犯ブザーをヨドバシ.comで頼みました。

たぶん今日中に立川の家に届きます。

緊急時にすぐ使えるハンズフリータイプです。

外出するときは、必ず持ち歩くようにしてください』

……晃さんの中では、晃さんは不審者ではないのだろうか。

 真人が画面をスクロールして読み返していると、ふと画面左上の現在時刻に目が止まった。既に八時を回っていた。

──やばい!

 真人は急いで着替えて、そのまま鞄を掴んで走り出した。


 やばい、やばい。今日は、大学で面接の練習があるんだった。

 昨日の快晴が嘘のように、空には低い雲がかかって、今にも雨が降り出しそうだった。

 真人は息を切らせながら立川の駅まで辿り着き、改札を抜けてホームへと駆け降りる。

 膝に手をついて息を整えていると、さあああ……という嫌な音が聞こえて、真人は顔を顰めた。

 雨だ。最悪。折りたたみ傘、忘れた。

 到着した電車に乗り込むうちにも、車窓から見える雨足はどんどん強くなった。

 真人は息を整えながら、目を閉じた。

 雨が続く季節は、決まって喉の奥が砂を噛んだようにザラつく。

 あと二週間。カレンダーがその日に近づくほど、真人の世界から色が抜けていく。

 大丈夫、去年だってなんとか梅雨を乗り越えた。だから、今年も大丈夫。

 自分にそう言い聞かせて、真人は大きく息を吐いた。

 ふいに、こめかみの奥がズキリと痛んだ。低気圧頭痛だ。傘を持ってない人間が頭痛薬なんて持っているはずもなく、真人はまた目を瞑ってやり過ごした。

「真人、大丈夫か」

 暗闇のなかで、晃の尋ねる声が聞こえた気がした。

 大丈夫ですよ、晃さん。

 おれ、ズボラだし要領悪いけど、それなりにやってきたんで。

 この時期が苦手なだけ。

 この時期を過ぎたら、夏だし、もう寒いなんて言ってられないし。かき氷も食べられるし。

 あー、コメダのかき氷食べたいんだけど、食べる前に溶けちゃいそうなんだよな。晃さん、半分食べてくれないかな。


 炊飯器メニュー、ちゃんと作れて良かったな。今度は、何作ろうかな。ピラフとか、晃さんは好きかな。


 そういえば、そんな名前のキャラクターがいたな。絶対に開けちゃいけない炊飯器を、間違えてうっかり開けちゃうの。

 それで、どうなったんだっけ。あれ? 何の作品だ?


 頭痛のせいか、うまく頭が回らない。

 八王子駅に到着し、車両から降りると雨の音が一段と濃くなった。

 頭痛で転ばないよう、ゆっくり階段を登って改札を抜ける。北口のペデストリアンデッキでデカデカと光るいつもの大型ビジョンから映像が鳴っていた。

──家に帰ったら、ジブリ美術館のチケットを検索してみよう。

 土星座、来月は何を上映してるのかな。晃さんは何が好きかなあ。

 屋上の石盤でムスカの真似ごっこしたら、晃さん笑ってくれるかな。

 いつもならちゃんと視線を外してやり過ごすのに、ふと空を見上げた瞬間、大画面に映る人物と、目が合ってしまった。


 なんて事のない、ただの広告。ただのCM。

 早く行こうよ、見惚れてないでさっさと歩きなよ、と頭の中で叱咤するのに、真人の身体は石のように固まって動かない。

 息の仕方すら忘れてしまい、真人はその場にガクンと膝を折った。

『コンタクトレンズ、始めてみませんか?』

 世界で一番聞きたくない声をしっかり被曝してしまって、真人はもう手遅れだとわかりつつ、耳を塞いだ。

『痛くない、初めての方におすすめの新商品。ぜひこちら六階の──』

 雨の雑踏を行き交う人たちが驚いた顔で真人を一瞥した。


 ああ、だめだ。今年は、壊れてしまった。


 三年間、ここを通るときはずっと気をつけていたのに。油断した。

 悔しい、悔しい。

 なんとかここまで擬態できていたのに。こんな、傘を忘れただけで。頭痛に気を取られただけで。

 違う。浮かれていたせいだ。昨日の幸せな時間のせいで、つい忘れてしまっていた。

 普通になれる気がしていた。でも、やっぱり無理なんだ。


 駆けつけた駅員が真人の肩に触れた瞬間、真人は絶叫し、激しく抵抗した。

 雨の八王子駅前は、一瞬で騒然となった。

 何人かが、泥を捏ねるように暴れる真人の姿を、無機質なスマホのレンズで切り取っていた。

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