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位置について  作者: はる
第二章 マインド・クラッシュ編
13/28

招かれざる客

 ちゃぶ台の上に置かれた皿へ目を落とすと、大ぶりに切られたじゃがいもと、人参の欠片(かけら)が、薄い湯気の中に沈んでいた。

 向かいの()(ひと)は、(あきら)の顔を窺いながらもぞもぞと床に座り直した。

「……食っていいの?」

「うん」

 真人がさっと両手を合わせたので、晃もそれに倣った。

「……いただきます」

 スプーンで掬った人参は、一口噛むだけで溶けてしまった。

 晃が顔を上げると、食レポを待つかのような目で見つめられて、思わず笑みが溢れた。

「ありがとう。美味いよ。自炊頑張ってるんだな」

 真人は満足そうに小さく頷いて、ようやくスプーンを動かし始めた。

「まだまだ修行中です。ポトフはチャットGPTに勧められて作りました。晃さんは料理得意ですか?」

「そうだね。男の割にはマメなほうかも」

「そうなんだ。すごいなぁ。晃さん、なんでもできるなぁ」

「……絵は描けないよ、真人みたいには」

「絵」

 真人は小さく繰り返した。

「描くことは好きですが、大学じゃ、全然上手いほうじゃないんです。ゼミの人たちの作品を見ると、おれなんか、まだまだだなって」

「こんなに上手いのに」

 真人は苦笑した。

「……積み上げてきたものの差、なのかなあ。おれより年下の子のほうが多いのに、一緒に並ぶと、自分の絵が霞んで見えるんです」

「真人だって、こんだけ描けるようになるまで、相当練習したんじゃねえの?」

 崩れたじゃがいもを口に運びながら、真人は首を傾げた。

「どうかな。空白の二年が、もったいなかったかも」

 晃は眉を顰めた。

「高校を卒業したあと。色々嫌になっちゃって、二年間ニートしてました」

「……そうだったんだ」

「それで、大学も遅れて入って。あれは、本当にもったいなかった。いつも、スタートラインに立つのに遅れるんです」

 真人ははっとして晃を睨んだ。

「そういえば、晃さんは四月生まれじゃなかったですか?」

「えっ。はい、そうですけど」

 何で知ってんの。検索したのか。

 なぜか不機嫌な真人は、いよいよ顔を顰めた。

「四月生まれは、周回遅れの劣等感がわからないんですよ。おれ、生まれたときから出遅れてる。不公平だ」

「待てよ、なんでいつの間に誕生月で恨まれてんだよ、おれ」

 晃が狼狽えると、真人は満足したのかクスクスと笑った。

 芸能界を辞めたのは、その時期か?

 二年間の空白と、過去を話したがらない理由には、何か関係がある?

 浮かんだ問いをポトフと一緒に飲み込むと、真人が首を傾げた。

「……そうだ。四月で思い出しました」

 真人は鼻を指で掻きながら、立てた膝を組み替えた。

「笑って聞いて欲しいんですけど、引越しトラックの運転、告白してきた彼に頼んだんですよ」

 晃はスプーンを止めた。

「えええ? ……なんで」

「なんか、それで手打ちにしてやろうかな、って」

 全く意味がわからなかった。

 困惑する晃をよそに、真人は目を細めて話を続けた。

「でも、結局仕事の都合がつかないとか言って、当日やってきたのはカタコトのイタリア人。おれ、山に埋められるんじゃないかって、着くまでドキドキ」

「……」

「笑って聞いてほしかった」

 晃はため息をついて項垂れた。

「何やってんだよ。いくらでもほかに頼みようあるだろ? 何で、危ない橋を渡りたがるんだよ」

 口を尖らせている真人に、晃は苦笑した。

「真人が無事で良かったよ。イタリア人がいいやつで助かったな」

「ジョジョ知識が役に立ちました。イタリア語の勉強にもジョジョは最適です。五部です。いいですか、晃さん。五部」

 真人は手をパーにして、晃に訴えた。

「ブチャラティが出るまでは、長い道のりです。しかし、すっ飛ばさずに一部から読んでください、ちゃんと」

「……ジョジョは置いとくとして、おれは、真人の絵を描いてるところが見たいな」

 真人はぱちくりと目を見開いた。

「どんなふうに描いてんのかなって。とくに、さっきのブーケガーデンの絵みたいなやつ。思い出して描いてるんだろ? 今日のことも、描けたりできるのかなって」

「……そりゃあ、描けと言われたら描きますけど。見てて面白いかなぁ」

「面白そうだよ、すごく」

「てっきり、おれの似顔絵描いて、とか言われるのかと……」

「ああ、それでもいいけど。こんな良い男、描くの緊張するだろ?」

 晃がちゃぶ台に頬杖をついてニヤッと笑うと、真人は呆れた顔をした後、くすっと笑った。

 真人はポトフが半分くらい残った皿を脇へ寄せた。

「いいよ、食べ終わってからで」

「ううん、言われたのはすぐやりたいので」

 真人はスケッチブックを立てた膝に抱え込むと、ペンを握った。

「まずは、吉村昭書斎」


 真人のミリペンは澱みなく、紙面を滑る。

 晃は空になった皿をちゃぶ台の端へ寄せ、描く手を邪魔しないよう、真人の隣へ移った。

「実家の書斎とそっくりなんです」

 天井から吊り下げられた本棚、円錐型の照明、書きかけの原稿。

 今朝、この書斎を眺めながら、「今すぐにでも本人が戻ってきそうだな」と笑ったのを思い出した。

 次のページを捲った真人が描き出すのは、吉村昭氏と津村節子氏が寄り添う姿。

 たしか、交流棟から書斎棟へ抜ける出入り口の近くにポスターが貼られていた。

 扉に凭れる吉村氏と、その隣で穏やかに微笑む津村氏。外階段や玄関の意匠まで、真人のペンは迷いなく再現していく。晃はただただ感心するしかなかった。

 ペンの音は止まらない。次に描いているのは、手に握られた香ばしそうな焼き串と、その向こうで外の景色を眺めるキャップの青年。自分だ、と気づくと、晃は身を乗り出して画面を凝視した。だが、画角の関係で顔は小さく、表情までは判別できない。じれったくなって真人を盗み見たが、当の本人は隣の視線など気にも留めず、作業に没頭していた。

 井の頭公園のアヒルボートに並走する鴨。その後ろへ広がる波紋と、水面に届きそうなほど低く枝を伸ばした木々。「ぶつかるよ」と指を差す、骨張った男の腕――間違いなく、晃自身のものだ。

 思い返せば今日、二人は一度もスマホを構えなかった。

 普段なら当たり前のようにレンズ越しの景色を切り取るはずなのに。「一瞬」への切実な真人の眼差しが、記録に頼る隙を与えなかったのかもしれない。

 止まっているのに、動いて見える。不思議だ。

「色は塗らないの?」

 晃が尋ねると、真人はじゃあ塗る、と言って、床に落ちていたソフトパステルのケースを開けた。モノクロだった世界に、じわりと体温が灯っていく。

「ああ、まずい。汗が前髪に……ちょっと待って」

 真人は一度パステルを置き、粉のついた指を払った。

 引き出しから取り出したのは、一枚の手拭い。

 “心技体一致”と墨字で書かれた布をぴんと広げて、後頭部に当てた。

 布を締めながら側頭部へと回し、額で交差させ、耳の上で留めてから端を折り上げる。

 凛とした動きに、晃は思わず見惚れた。

「武道やるの?」

「いえ。これは、じいちゃんの形見です。何個か残ってて、勝手に使ってます」

 真人は「よし」と呟いて、ふと晃を見た。前髪はすべて布の中に収まり、露わになった額には薄く汗が滲んでいる。

「晃さん、武道やってますか? そんな感じします」

「空手やってた。昔だけど」

「やっぱし。じいちゃんと所作が似てるから、晃さんもそうかなって。じいちゃんは剣道ですが」

「真人はやらなかった?」

「うん。じいちゃん、おれが小一のときに死んじゃったんです。おれは結局剣道はやらずじまい」

「でも、手拭いの巻き方は覚えてたんだ」

「うん。何回も見てたから」

 真人はくすっと笑い、またミリペンを握った。

「晃さんの帯、何色でした?」

 新しいページに、小さな子どもを描き始めた。子どもは深く腰を落とし、片足を高く蹴り上げている。

「似てますか?」

 真人は言いながら描いた絵を晃に見せた。真人の想像した、少年時代の晃。意志の強そうな目はそのままに、輪郭は丸みを帯びていて、腕も足も短い。でも、晃には、これが自分だということが一目でわかった。スケッチブックを受け取って、しばらくページを繰ったり戻したりしては、真人の描いた幼い自分を見返した。

「……晃さんって、トトロ見たことありますか?」

「トトロ?」

 唐突な話題転換に晃は面食らったが、真人は真剣な目で晃の返答を待っている。

「……見たことあるよ。映画館でなら」

 真人はがっくりと肩を落とした。

「そっちじゃない。実際にあるかって話です」

 真人は口をへの字に曲げた。

「あるって返答を期待したのかよ」

「晃さんなら、ワンチャンありそうと思ったのに」

 真人は膝に抱えたスケッチブックに凭れてぼんやりと晃を見つめた。

「晃さん、映画館でトトロ観たんですか?」

「大昔にね。リバイバル上映とかだったんじゃねーのか」

「へえ。いいなあ」

 真人はくしゃりと笑った。

「……真人こそ、見たことねーのかよ」

 真人は首を振った。

「でも、“まだ狙ってる”って児童には言いました。子供の心を忘れなければ、きっと会えるよって」

「はは。真人らしいな」

「児童にはそう言ったけど、正直、自信ない」

 真人は抱えた膝に顎を埋めた。

「本当は目の前にいるのに、気づけていないだけなのかもしれないって」

 そんなことない。

 晃はそう言いたかった。

 でも、晃はまだ、真人のことを全然知らない。


 だから、真人のことを知りたい、もっと。


 言いかけた、その時だった。

 真人のスマホが、無機質な通知音を立てた。


「……あれ、まただ。何なんだよこれ。うっとーしーなあ」

「何?」

「晃さんてITに明るいですか?」

「はあ、まあ一応」

「AirTagがどうの、って通知が最近来るんですよ。意味わからん」

 真人はスマホの画面を晃に差し出した。

「おれ、ほんとこういう系苦手で。セキュリティソフトアップデート、とかもよく来ません?」

 呑気にぼやく真人の横で、晃の脳内には緊急サイレンが鳴り響いた。

 晃はスケッチブックを置き、鋭い視線で部屋の隅々を見渡す。

「真人、そのスマホ貸して」

 晃が画面をタップした直後、キッチン側の壁際から、電子的な警告音が規則正しく響いた。

 作り付けの戸棚の中、黒い光沢のある紙袋が目に留まった。あの中から音がする。

「真人、あれ何?」

 晃が尋ねると、真人ははっとした顔でまた頭を抱えた。

「ああ! 思い出してしまった!」

「どういうこと? あの袋に何かあるのか?」

「あの中に、ボンビーがいるんです。ダメです。呪いのアイテムなんです。いつか開封しないとと思って、放置してました……」

「ボンビーって、何か生き物が入ってんのか」

「やめてえええ……想像したくない!」

「中身、見ていい?」

 真人はぶんぶんと首を振った。

「あれ、晃さんに助けてもらったときに持ってた袋です」

「おれが助けたとき? ああ、電車のときか」

 確かに倒れた真人を運んだ記憶はあるが、晃には紙袋の存在まで意識が及んでいなかった。

「前も何度かピーピー鳴いてました。気のせいと思ってたけど、やっぱし生きてたんですね……」

 晃は思わず額を押さえた。

「……まあ、よくわかんないけど、怖いのね。中身見てやるよ」

「あ、でも、中身の書類は見られたらだめなやつです。ボンビーが、ボンビーさえいないとわかればいいんですが」

「わかった。書類の中身は見ないよ。ボンビーとやらが入ってたら始末すりゃいいんだな」

「だめです! ボンビーはくっついた人になすりつけられるんです!」

 ビビりまくる真人の姿を見ているうちに、だんだんこの状況が面白くなってきた。晃は問答無用で紙袋を戸棚から取り出した。

「ああ、だめ! 晃さん、逃げて!」

「ハサミ貸して」

 真人は目を瞑ったまま、机のペン立てを指さした。どんだけビビってんだよ。

 何の防御になっているのかはわからないが、真人は万年床の枕で頭を覆い、ビクビクしている。先ほどまできりっと決まっていた手拭いも解けて、ほっかむりのように垂れていた。晃は構わず紙袋の中身を取り出した。


 どこだ、AirTag。出てこい。


 中にはいくつかの封筒に分けられた書類と、包装紙に包まれた“何か”が入っていた。

 これが真人の言うボンビーの正体か。

 ふかふかとした感触。それに、軽い。ぬいぐるみだろうか。

「開けるとき言ってください! 目を瞑るので!!」

「開けまーす」

「うわあああ!」

 真人の悲鳴をBGMに、ラッピングをバリバリと破り捨てる。

 現れたのは、凶暴な顔のウサギのぬいぐるみだった。その首に、AirTagが括り付けられていた。

 晃は自分のiPhoneをかざし、NFCタグを読み取ってみた。


 090-××××-××××

 持ち主です。連絡待ってます。


 表示された電話番号と文面をスクリーンショットに残すと、晃は手早くぬいぐるみからAirTagを引き剥がした。

 本体を分解して、ボタン電池を抜き取った瞬間、スマートフォンの画面から通知が消えた。

「真人、終わったよ。目、開けていいよ」

 真人はよろよろと這って、申し訳なさそうに晃のそばまで寄ってきた。

「晃さん、大丈夫でしたか?」

 真人は目にうっすら涙を浮かべていた。

「いたのはこれでした」

 晃の片手に収まるサイズのウサギを真人の前に差し出すと、真人は自分の肩を抱いて、心底嫌そうに身をすくめた。

「うわぁ、不気味。ウサギのくせに歯が肉食動物の形してる。禍々しすぎる……!」

 ビビるの、そこじゃないんだよな。

 晃は握っていた手を開き、白い円盤を見せた。

「真人さぁ、通知何度も来てなかった? 二週間くらい無視してたってこと?」

「え、やばかったですか?」

 恐る恐る晃に尋ねる真人に、晃は大きく息を吐いた。

「AirTagって言って、GPSみたいに場所を知らせる端末なんだ。真人、持ち主の心当たりあるか? この紙袋は、どんな人から受け取ったの?」

「……」

 真人の表情が、目に見えて暗く沈んだ。

「この二週間の間、誰か変なやつ来なかったか。端末を悪用してストーカー紛いなことするやつもいるから、心配なら、交番に届けてもいいと思う。どうする?」

 晃が問いかけると、真人は俯いた。

「変な人は、来てない」

「そうか」

「…この紙袋をもらった人に、連絡しないとダメですか?」

 心底嫌そうに尋ねる真人に、晃は首を振った。

「本当に探してたら、真人に連絡寄越すだろ。こないだ渡した荷物に私物が紛れてなかったかって。だから、放置でもいいよ。落とし物は落としたやつが悪い」

 本来であれば、NFCに表示された電話番号も真人に伝えるだろう。しかし、教えてしまうと、大真面目に連絡して不審者を呼び寄せてしまいそうな気がした。

「放置って、このボンビーと生活するってこと? この肉食ウサギと?」

 真人はちゃぶ台の上のボンビーをちらっと盗み見て、目を泳がせた。

「これ、最近流行ってるキャラなんじゃないの? 案外メルカリで高値で売れたりして」

「やめて。ほんとに呪われそう」

 真人は目を閉じて顔を顰めた。

「きっと変な物件買わされるんだ……最悪、ボンビラス星に連れてかれる」

 しゅんとしている真人を見て、晃はウサギのぬいぐるみを掴んだ。

 とことこ歩かせて真人の前に差し出した。

「真人、おれのこと嫌い?」

 ウサギを「ねえねえ」と揺らし、裏声で問いかけた。

「嫌い。見たくない」

 真人がぷいっと顔を背けた。

「ぐわー!」

 晃がウサギを真人の顔の前にわっと近づけると、わあああ! と声を上げて真人はのけぞった。そのまま、勢い余ってゴチンと壁に頭をぶつけ、万年床へと倒れ込んでしまった。

……完全に間違えた。笑わせるつもりだったのに。

「ごめん。大丈夫?」

「……見ないで」

 真人はごろんと横向きに寝返りを打った。

「紙袋とボンビーは、一旦おれが引き取るよ」

「……はい、お願いします……すみません……」

「書類関係は中身見てないから。あとで確認してね」

「何から何まで、すみません……」

 晃は小さくため息をついた。

 一旦落ち着こう。少し、片付けるか。

 シンクに溜まっていた空のペットボトルのラベルを剥がして、潰した。

 床に散乱している服はまとめて椅子にかけた。紙袋から取り出した書類は、元の棚に立てかけた。

 ほんの五分ほどの作業だったが、入室した時よりは随分と見られる部屋になった。

「ポトフありがとう。美味かった」

「ん……」

「絵も見せてくれてありがとう」

「んん……」

 真人の返事は、次第に不明瞭な唸り声に変わっていく。

「真人、ごめん。おれ、そろそろ出ないと。ポトフ、冷蔵庫入れとく?」

 真人は質問に答えず、デラウェア、持って帰って、と晃に呟いた。

「開けていいの?」

 賞味期限切れの食べ物が大量に入っていたら嫌だなと身構えたが、ジップロックに小分けに入ったデラウェア以外は、冷蔵庫の中身はすっからかんだった。

 ちゃんと飯食ってるのか、こいつ。

 晃はジップロックを一つ取って、入れ替わりに食べかけのポトフを棚の真ん中に収めた。

「ありがとう。もらってくね」

「……」

 真人は穏やかな顔で、すう、すう、と寝息を立て始めた。

 まつ毛には先ほどの涙の粒が残り、葉先に溜まる露のように光っている。

 倒れ込んだ姿勢のまま眠ってしまったせいで、手拭いは床に落ち、柔らかな髪が白い布団の上に散っていた。

「……ったく」

 万年床に対して九十度の角度で気絶している真人を、よいしょ、と抱き上げて直してやった。やっぱり軽い。

 晃はしばらく真人の寝顔を見つめ、足元に丸まっていたボロボロのタオルケットをかけてやってから、静かに真人の家を後にした。

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