32 逃れられない現実
旧校舎の三年六組の教室で、五人はテスト範囲のワークを広げてシャーペンを走らせていた。
どんどんと、日が傾いていく。運よく雨が止み、六月最後の夕日が眩しくなった頃、友部と可憐が達成感に満ちた顔で伸びをした。
「終わったー!」
「これでテスト前の課題はバッチリだー!」
心底嬉しそうな顔でハイタッチする二人を見て、桜一朗はにこやかな顔で「国語だけね」と付け加えた。
現実を突きつけられ、二人は苦い顔をする。
「う……そうだけど……」
「春馬君は現実を見過ぎなんだよー! ちょっとぐらい喜びを噛みしめたっていいでしょー!」
「はいはい。よく頑張りました」
桜一朗が柔らかく微笑むのを見て、小雪も嬉しそうに笑う。
「ふふ……楽しかったし、勉強も進んでよかった。親睦も深められたんじゃないかな?」
小雪の言葉に、苑香も「そうだね」と頷いてくれた。
「せっかくだし、今度どこかで集まってさ、修学旅行の行先を考えたりできたらいいよね」
「そのちゃん名案! みんないつ空いてる?」
可憐が尋ねると、友部が「夏休みに入ってからにしない?」と笑顔で提案した。
「俺、ついでにどっか遊びに行きたいんだよな! そうだ、海行こうよ! 海!」
はしゃぐ友部に、苑香がパッと表情を明るくして提案してくれる。
「じゃあ、浪ヶ沢とかどう? あそこ、八月に海前通りでアートマーケットやってるよ」
「あー知ってる! じゃあその日に合わせて海に行ってさ、花火とかしようよ。お昼もどっかで食べてさ、その時に修学旅行の日程、話合おう。どうかな?」
友部の提案に全員が賛成し、予定が決まる。
夏が近づく旧校舎の教室。楽し気に話す三人の脇で、小雪が桜一朗に、こそりと微笑む。
「楽しみだね」
彼女が嬉しそうに微笑んでくれているのを見て、桜一朗も穏やかな顔で笑った。
「うん。楽しみ」
その後、また天気が悪くなる前に帰ろうということになり、五人は教室から出て、一緒に帰り道を歩き出したのだった。
* * *
新しくできた予定を楽しみにしながら、桜一朗は帰り道を歩いていた。
あんな風に、友達との予定を楽しみに思えるようになるなんて、今までの自分では考えられなかったことだ。
鞄を見れば、小雪とお揃いで買ったレオネードのキーホルダーが揺れている。
前を向けば、住宅の間に、夕方と夜の間のピンクと紫のグラデーションが掛かった空が見える。
春、彼女と出会ってから積み重ねてきた思い出を、こんな沈みかけの夕日を見る度に思い出すのだ。
彼女と出会えてよかった。彼女と出会えたから、少しずつ変わることができた。そんな幸せを噛みしめながら、桜一朗が自宅の玄関を開けた時だ。
ガシャン! と、何かが床に落ちる音が聞こえた。
(え……?)
一体何があったのか、疑問に思いつつも、静かな家の中に入っていく。
「ただいま……」
居間に行くが、祖母がいつもの場所にいない。
嫌な予感が激しい動機を呼び起こす。桜一朗は大慌てで台所の扉を開けた。
「ばあちゃん!」
台所の流しの前、床に落ちた肉じゃがと、倒れて呻く祖母の姿。
「う、うう……」
「ばあちゃん、大丈夫!?」
呼びかけるが、呻くばかりで返事が返ってこない。
――頭を打ったのか? 怪我をしたのか、それとも病気か? もし……もし、命に関わることだったら、どうすれば――。
桜一朗はパニックになりながら、スマホを開く。
(どうすればいい? どうすればいい? 誰に助けを求めればいい?)
震える手で、混乱しながら開いたのは、連絡先の一番上にあった小雪のアカウントだ。
彼女なら助けてくれると思ったからかけた、というだけではない。
救急の番号を忘れたどころか、救急に連絡することすら頭から飛んでしまったのだ。
誰かに頼らなければ。自分一人じゃどうすることもできない。しかし、かつて親に虐げられていた時の記憶が頭に浮かぶ。
――お前は本当に力が無いな。
――あなたの力じゃ誰の役にも立てないわね。
かひゅ……と、呼吸が乱れる。
心臓のうるささと、こめかみを伝う冷や汗、スマホを持つ手の震え。
コール音が耳に鳴り響いている間、桜一朗は自分を保つのに必死だった。
少しでも気を緩めたら、自分の意識も飛んでしまいそうな心地がした。
『……もしもし、桜一朗?』
車が走る音と共に、大好きな彼女の声が聞こえた。
「あ……小雪……」
『何かあったの? 大丈夫?』
桜一朗の様子がただ事じゃないと気づいたのか、小雪の声に緊張感が走った。
「ばあちゃんが、倒れてて……どうしたらいいか、分からなくて」
桜一朗はスマホを必死に握りしめながら目をぎゅっと閉じる。
「助けて……」
桜一朗の言葉を聞き、小雪はすぐに返事をする。
『今からそっちに戻る。だから、救急車呼んで待ってて。119番、分かるよね?』
「う、うん……」
『すぐそっちに行くから、一回電話切るね。じゃあ、待ってて!』
電話が切れる。
彼女が来てくれる――それが分かっただけで、僅かに心が安心した。
桜一朗は呼吸を整えて、119番に電話を掛ける。
「もしもし――」
* * *
小雪が春馬家に来た頃には、もう救急車が到着していた。
車両内に担架で運び込まれる桜一朗の祖母を見て、一瞬息を飲む。
しかし、その横で状況を説明している桜一朗の姿を見て、急いで彼に駆け寄った。
「桜一朗……!」
小雪に気づいた桜一朗は、救急隊員に「よろしくお願いします」と頭を下げて、彼女の方を向く。
「さっきはありがとう。お陰で冷静になれた」
そう言いつつも、彼の顔には冷や汗が滲んでおり、制服の胸元を握る手はまだ震えている。動揺しているのが、よく分かった。
「これから、ばあちゃんの付き添いに行ってくるから……何かあったら連絡するね」
必死に笑顔を作ろうとする彼だったが、やはり無理をしているのだろう。かなりぎこちない笑顔だった。
小雪はそれを見て……制服を握りしめる彼の手を包み、真剣な顔で告げる。
「あなたが駄目そうなときも連絡して。話、聞く事しかできないけど……」
「……うん」
桜一朗の表情が、僅かに和らぐ。
「じゃあ、行ってくるね」
桜一朗が救急隊員と共に救急車で去っていくのを、小雪は不安げな顔で見送った。
また空が曇ってきた。今日は星が見えないだろう。きっと雨だ。
二人が出会ってから初めての夏を目前に、まだ梅雨は明けない。
* * *
薫野中央病院の手術室前の廊下で、桜一朗は一人、椅子に座っていた。
手術が開始してから、もうすぐ一時間が経つ。しかし、手術が終わる気配はない。
不安の最中、看護師から「ご家族に連絡を」とお願いされていたことを思い出し、スマホを開いて連絡先を確認した。
まずは花菜に連絡しようと思い、連絡先をスクロールしていく。すると、「春馬啓介」のアカウントから不在着信が掛かってきていたことに気が付いた。
(通知切ってたから気づかなかった……でも、連絡していいのかどうか……)
両親から叱責されていた時のことが蘇る。
先ほど、救急車を呼ぶときに思い出されたあの冷たい言葉も。
できることなら、連絡なんて取りたくない。
でも、こんな状況になってしまった以上、もうやむを得ない。
桜一朗は力の抜けた指でアカウントをタップし、電話を掛けた。
コール音が耳に聞こえてくる。
電話が取られるまでの数秒間が、永遠のように長く感じられてしまった。
このまま電話に出てくれなければいいのに。そんな気持ちもあった。
しかし、ガチャリと音がして、聞こえてきたのは父の厳しい声だった。
「……桜一朗」
名前を呼ばれただけなのに、心臓が凍り付くような心地がした。
桜一朗はグッと息を詰まらせ、落ち着いた声を作る。
「お久しぶりです。……父さん」
『何の用だ。昼間、こちらから電話をかけた時は無視しただろう』
「友達と勉強をしていたので、気づかなかっただけです」
『勉強など、一人ですればいい。大人数でやったところで、効率が下がるだけだ』
冷たく言ってのけられ、桜一朗は小さく俯く。
家を出てからもう四年なのに、両親は……いや、父親は、少なくとも何も変わっていないようだった。
「……すみません。でも、今はそんな話がしたい訳じゃなくて――」
『お前は才能を持っている側の人間なんだ。だから、それを自覚しろ。そして……才能を使うべく、うちに帰ってこい』
「……は」
――才能を持っている側の人間なんだ。
父の言っていることが、信じられない。
だって、あれ程……自分の事を「役立たずだ」と言ってきたじゃないかと、桜一朗は目を見開いた。
「なんて、言ったんですか?」
聞き返すと、父は溜息交じりに繰り返すのだ。
『お前には才能がある。だから、帰ってこい……いや、帰って来てくれ。悪いようにはしない』
これでどうだと言わんばかりの父の声色。明らかに苛立っていることも、自分が間違いを犯したことを認めていないことも、なんとなく察せられた。
そして、今、彼らの元へ戻ったとしても、また地獄を見るだけなのだということも……。
しかし、現状を顧みて、両親の元に帰ることが最善だとも思った。そう思うしかなかった。
だって、桜一朗は経済的に自立していない、ただの子どもだからだ。
しかし、頭に花菜の言葉が過る。
――何か困ったことがあったら、いつでも頼ってね。電話でもなんでも、待ってるから。
まず、彼女を頼りたい。そんな考えが浮かぶ。
その次に思い浮かんだのは、大切な恋人の真剣な顔だ。
――あなたが駄目そうなときも連絡して。話、聞く事しかできないけど……。
小雪と、離れたくない。離れたくない……。
色々な思いが脳を圧迫する。
「……少し、時間をください」
やっとのことで、そう伝えることができた。
「色々な事があって……急に、答えが出せないです」
『ああ、そうか。なら……夏休みに、一度実家に顔を出せ。そこで答えを聞かせて貰う』
父がぴしゃりと言い切った。
これ以上の譲歩は認めない。そういうつもりなのだろう。
こうなってしまった以上、もうどうにもできない。
桜一朗は諦めて、力なく頷く。
「……分かりました」
『こっちの話は以上だ。お前の用はなんだ』
「実は、ばあちゃんが倒れて。お医者様の話だと、心筋梗塞、だそうです」
『……そうか』
父の声色が静かになる。
些細な変化だったが、桜一朗が予想していなかった反応だった。
思わず、目を丸くして息を飲む。
しかし、その反応の真意を察する前に、父は短く言うのだ。
『経過が分かったら、また連絡してくれ』
「あ……はい」
『切るぞ』
ガチャリと音を立てて、電話が切れた。
通話アプリが閉じられ、ホーム画面に遷移する。
壁紙になっている、湖の夜桜の写真。これは昔、祖母と散歩した時に撮った写真なのだが、見ていると自然と小雪との邂逅を思い出した。
時間を確認すると、二十時四十分だった。少し遅い時間だが、まだ深夜ではない。
桜一朗はゆっくりとメッセージアプリを開き、彼女のトークルームに通話をかけた。




