29 欠けた部分を埋め合って
桔梗と小雪が薫野湖から帰る頃、桜一朗は花菜と共にスーパーフローリアで買い物をしていた。
桜一朗が押すカートの中には、ニンジンとじゃがいもと豚肉、玉ねぎが入っている。これからカレールーを取りに行くつもりだ。
「桜一朗、今日は家族サービスありがとね」
花菜が桜一朗を見て微笑む。
「桜舞も一緒に遊べて喜んでたし、ばあちゃんも……久しぶりに姉弟揃って嬉しそうだった」
「花菜ちゃんに『自分だけじゃ会う自信ないから、一緒にいて』って言われた時はびっくりしたよ。そんな緊張することあるのかなって」
クスクス笑う桜一朗に、花菜は恥ずかしそうに笑った。
「へへ……だって、もう四年ぶりだったからさ。しかも桜一朗を置き去りにして家出したから、きっとばあちゃんもカンカンだろうなって心配で」
「ううん、ずっと心配してたよ」
桜一朗は静かにそう言って、カレールーの棚からいつもの黄色い箱の物を取る。
「ねえ、ばあちゃん、年取ったでしょ」
カレールーをかごに入れながら、桜一朗は目を伏せた。
「この前、急須を落として割っちゃってさ。……認知症とかではないけど、俺一人で一緒に暮らすの、ちょっと心配なんだ」
桜一朗が本音を零すのを聞いて、花菜は眉を下げた後……落ち着いた声で、告げた。
「ばあちゃん、何かある前にホームに入ってもらう?」
「え……老人ホームってこと?」
「うん。それで、桜一朗は私達のところで暮らすの。関東に引っ越すことになるけど」
花菜の顔は真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
しかし、それを聞いて桜一朗の頭に過ったのは、小雪のことだ。
(引っ越したら、小雪とは離れ離れになるんだよな)
彼女が傍にいない日常。それを受け入れるのは怖かった。
そもそもの話、桜一朗は「忘れることができない」のだ。彼女と離れたところで、思い出に縋って余計に苦しくなるのが目に見えていた。
「離れたくない、好きな人がいて」
桜一朗は小さな声で答える。
「ごめん、言い出したのは俺だけど、今はその人の傍にいたいから、薫野に残る」
「……そっか」
花菜は優しく微笑んで、頷く。
「でも、何か困ったことがあったら、いつでも頼ってね。電話でもなんでも、待ってるから」
姉が見せてくれた、懐かしくて頼もしい笑顔。この笑顔に、桜一朗はいつも救われていた。
今も、胸が熱くて泣きそうになるぐらい、彼女の笑顔が支えとなった。
「……うん」
桜一朗はそっと頷き、柔らかい笑顔を花菜に向ける。
「お会計しようか」
「うん。行こう」
二人は昔のように微笑み合って、レジの方へと歩いて行った。
* * *
会計を終えて、買い物かごを花菜が借りてきたレンタカーに乗せる。
今いるスーパーは薫野東店だ。春馬家は薫野中央方面だから、車で五分ほど走ることになる。
花菜が運転席に乗り、桜一朗も助手席に乗ろうとドアに手を掛けたその時だ。
「ここまでで平気か?」
聞き覚えのある、涼し気な男子の声がした。
胸がもやつく感覚がし、声がした方を見てみる。
すると、思った通り桔梗の姿があった。
それだけではない。彼の向かい側には小雪が微笑みながら立っていたのだ。
「うん。夕飯の買い物して帰るから、ここまでで平気」
「そっか。今日はありがとう。お陰で、胸のつっかえが取れた」
「ううん、私こそ……少しだけど、昔の事を思い出せてよかった」
親し気に話す二人から目が離せない。
体育祭の時、ぎくしゃくしたままで保健室に顔すら出せなかったことを思い出す。
そして、体調を崩した彼女を保健室に連れていく桔梗の後姿もフラッシュバックした。
――臆病である故に、他人を傷つけてしまうその行動……父さんから聞いた君の父親とそっくりだ。
あの時の彼の言葉。
――もしかして、俺は……もう修復不可能なぐらい、小雪のことを傷つけてしまったんじゃないか。臆病な自分の、自分勝手な行動のせいで。
息が詰まり、呼吸の仕方が分からなくなる。
もう、彼女とは一緒にいられないんじゃないか――。
「桜一朗?」
花菜に声を掛けられ、ハッと我に返る。
彼女の方を見ると、運転席から心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫? どうかした?」
「あ……」
花菜の顔を見ているうちに、土曜日に彼女を追いかけた時の事を鮮明に思い出した。
夕暮れの空。胸が痛くて張り裂けそうで、でも追いかけなきゃと必死に走った駅前通り。喉が痛くなるのもかまわずに彼女の名前を呼んだ事。
――大事な人には臆病にならなくたっていいんだよ!
あの日、自分の背中を押してくれた友達の言葉。
あの声と言葉がもう一度、桜一朗の背中を押した。
「ごめん……会いたい人が、傍にいて。行ってきていいかな?」
桜一朗が、震える声を必死に落ち着けながらそう言うのを見て、花菜は穏やかな微笑みで頷いた。
「うん、待ってるから行っておいで」
姉の優しさが、乱れた心を僅かに落ち着けてくれる。
桜一朗はしっかりと頷き、駐車場の手前にいる小雪の元へと走り寄った。
「小雪……!」
彼女を呼んで、その手をそっと掴む。今度は傷つけることの無いように、優しく。
「え……」
振り向いてくれた小雪の目もとは赤くて、涙の跡があった。
それを見て、どうしようもなく胸が痛む。
どうして泣いていたのか。誰のせいなのか。何も分からないことが悔しくて、悲しくて……。
「泣いたの……?」
もっと他に言うべきことがあったはずなのに、口から出たのはそんな問いだった。
「あ……うん。ちょっとだけ」
小雪は、はにかみながら目元を擦る。
「でも、大丈夫。もう平気になったし……」
「……俺には」
「ん?」
「俺には、涙の理由を教えてくれないの?」
何でこんなことを言っているのか分からない。でも、彼女の事で「知らない事」があるのが、酷く不安だった。
「桜一朗……なんか今日、少し変」
「……はは、そうかも。そうかもね……」
気を紛らわせようと笑ってみるが、心は全く凪いでくれない。
自分の気持ちがどんなものなのか、桜一朗は一度目を閉じて考え込む。
小さく震える息を吐いて、やがて潤んだ桜色の瞳で小雪を見つめた。
「俺は……中途半端で、臆病で、そのせいで小雪に迷惑もかけてると思う。自分でも直したいけど、どう直せばいいか分からない。だけど……」
桜一朗は小雪を優しく抱きしめて、告げる。
「欠けてる俺だけど、君を守りたいんだ。君を守るのは、俺であって欲しいんだ……」
「そ、そっか」
急に抱きしめられ、驚いた小雪は顔を真っ赤にした。
桔梗の手前、抱きしめ返すのも躊躇われてできない。
「少しずつ、欠けてる部分を埋めていくから……それまで傍にいてくれないかな」
「うん……いる。いるから、ちょっと……」
小雪がまごついているのを見かねた桔梗が、溜息を吐いて口を開いた。
「おい春馬、見せつけるんじゃない」
桔梗は桜一朗をひと睨みした後、僅かに表情を和らげて告げる。
「でも、そのまま離すなよ」
それだけ言って、桔梗は立ち去っていった。
彼がいなくなった後で、桜一朗はゆっくりと小雪を解放する。
「ごめん……ちょっと不安定だった」
「ううん……びっくりしたけど、体育祭の後、全然話せなかったから、顔が見れて安心した」
小雪はそう言って、優しく微笑む。
「さっき泣いてたのはね、昔のこと、思い出したからなんだ。心が弱くて忘れてたときのこと、思い出して……昔からずっと私のことを大事にしてくれてた桔梗君の気持ちにも、応えられないって気付いたから、心がいっぱいいっぱいだったんだ」
「竹花が、小雪のことを……?」
桜一朗が不安げに眉を下げるのを見て、小雪は笑顔のまま首を横に振る。
「昔の話。私、ちゃんと断った。桔梗君は真っ直ぐで前向きで、誰かを守れる人だけど……私には眩しすぎるんだ」
小雪はそう言うと、桜一朗の手を握って微笑む。
「私には、似たもの同士のあなたがいいんだ」
柔らかく細められた薄紫色の瞳。梅雨を控えた湿り気のある空気と、目にしみるような夕焼け。親の権力の証である、スーパーフローリアの薫野東店にライトがついた、その瞬間に焼き付く光の跡。
何もかも、忘れられない。忘れたいぐらい苦しいけれど、それと同時に忘れたくもなかった。
彼女の積み重ねる一瞬一瞬が、桜一朗には酷く痛くて、でも幸せだった──。
目を潤ませたまま小雪を見つめる桜一朗。彼の桜色の瞳から目を離さないようにして、小雪は続ける。
「私の心の欠けた部分を埋めてくれたのが、あなたであるように」
いつもより夕暮れの色が濃い空の下。
「あなたの心の欠けた部分を埋めるのが、私でありますように」
二人で初めて出掛けたブルームランドの帰り道。まだ青い色だった光の中で抱きしめ合った時のように、小雪は彼の心を包み込んだ。
大好きな人の優しさの熱に触れて、桜一朗は潤んだ声で告げる。
「きっと……何か辛いことがあったら、今日のことを思い出すと思う。小雪がそうやって言ってくれたこと、何度でも思い出すと思う。だから……」
桜一朗は、潤んだ瞳を優しく細めて、微笑んだ。
「これからも、一緒にいさせて欲しい」
口から出た言葉とは裏腹に、花菜とした会話が脳裏に蘇った。
──ばあちゃん、何かある前にホームに入ってもらう?
──それで、桜一朗は私達のところで暮らすの。関東に引っ越すことになるけど。
永遠なんてものは無い。分かってる。
でも、死ぬときに頭に焼き付いている記憶の中に、少しでも多く彼女の姿がありますように──。
胸の痛みを堪えながら微笑み続ける桜一朗に、小雪も優しく頷いたのだった。




