30 過去の自分に別れを告げて
翌日、桜一朗が教室に入るなり、友部が笑顔で駆け寄ってきた。
「春馬、おはよー! 昨日送ったメッセージ見てくれた?」
「ああ、修学旅行の班の事でしょ。見た」
「よかった。なあ、一緒に班組まない?」
友部が屈託のない笑顔で尋ねてくるのを目の当たりにして、桜一朗は笑顔を作りつつも首を傾げる。
「俺でいいの? 他に組みたい人、いるんじゃない?」
「うーん、まあいるにはいるけど……今回はさ、お前と一緒がいいなって」
「なんで?」
「仲良くなれたのが嬉しいから!」
何の裏表もなくそう言い切ってしまう友部を見て、桜一朗は「ふは」と笑ってしまった。
「何それ。別にいいけどさあ」
「じゃあ決まりな! 最低四人で一班だから、あと二人ぐらい……あ、一原さんとこ誘う?」
「いいの?」
「全然。俺、河原さんと沖浜さんともそれなりに話せるし。誘いにいこ」
友部に促され、桜一朗は苑香の席で談笑している三人の元へと歩み寄った。
「お三方ー! ちょっといい?」
友部が声を掛けると、三人が振り向いてくれる。
「どうかしたー?」
可憐が尋ねると、友部は明るい笑顔で尋ねた。
「修学旅行の班、俺と春馬と一緒に組まない?」
「それいいね。小雪ちゃんと春馬君のこともあるし……そのちゃんもいい?」
「あ、うん! 大丈夫……」
苑香の言葉尻が萎んでいく。顔も心もち赤い。彼女の些細な変化に、小雪はすぐに気づいた。
(苑香ちゃん、どうしたんだろ……)
「じゃあ決まりね。これから色々決める事とかあると思うけど、よろしく!」
友部が笑顔を見せて去っていくのを、苑香は見つめるのが辛くて目を伏せていた。
彼の事が嫌いなのではない。ただ、意識してしまって以降、彼を見つめるとどうにも胸が苦しいのだ。
彼女の反応を見た小雪と可憐は、顔を見合わせた後、小さな声で呟く。
「分かりやすい……」
「そのちゃん、後でちょっと詳しく教えて」
「え……何を?」
あくまでも白を切ろうとする苑香だったが、二人は顔をぐいっと近づけて頬を赤らめるのだ。
「友部君と、何かあったんだよね……?」
「恋バナを聞かせろ! 恋バナをー!」
「ちょ、近い近い……分かったよ。今度、話すから」
照れ笑いする苑香を見て、二人は楽しそうに笑ったのだった。
それを桜一朗は、自分の席に戻って眺めていた。
(小雪、本当に変わったな……もう、『氷の女王』なんかじゃない。俺と一緒にいることを、後ろめたく思う様子だってなかった。それに引き換え、俺は……)
桜一朗は目を伏せる。
教室の外から、伊瀬と木野がこちらを見ていることにも、とっくに気づいていた。
「ねえ、やっぱり春馬君って一原さんと付き合ってるのかな……」
「まだ分かんなくない? だって、一原さんは春馬君の事好きかもしれないけど、春馬君にとっては他人とそんなに変わらないかもしれないじゃん」
「それなー。だって私も、はっきり振られた訳じゃ無いし」
「もう一回、告ってみたら? お菓子でも持ってさあ。春馬君、甘いもの好きだし、案外オッケーしてくれるかもよ」
自分を軽く見られているような会話が、どうしてもはっきり聞こえてしまう。
舐められているのは自分の態度に問題があるからだと分かってはいる。でも、もっと許せないのは小雪への想いを軽く見られていることだ。
(角は立てたくない。でも……いつまでもこのままにしておく訳にはいかない)
桜一朗は小さく覚悟を決めて、膝の上の拳をぎゅっと握った。
* * *
その日の放課後、案の定、桜一朗は伊瀬に呼び出された。
いつもは小雪と旧校舎で過ごす時間だ。その特別な時間を削り取られていることすら、腹立たしく思ってしまう。
しかし、ここでけじめをつけておかなければ、伊瀬はきっと引き下がらないだろう。長期的に考えれば、小雪に危害を与える可能性だってあるのだ。
だから、今日で終わりにする。小雪が桔梗とのことに答えを出してくれたように――。
「小雪。今日、ちょっと遅くなる」
桜一朗は、自分の席で帰り支度をする小雪に声を掛ける。
「先に旧校舎に行っててくれる?」
「いいよ。でも……なんの用事?」
「三組の伊瀬さんに、特別棟の裏に呼び出されてるんだ」
伊瀬という名前を聞いて、小雪は不安げに眉を下げる。
「桜一朗に気がある人、だよね……」
彼女の元気が目に見えて無くなっていく。
それはそうだろう。だって、自分のライバルになる女子の呼び出しに好きな人が赴くというのだから。
彼女の不安を、桜一朗は痛いほど理解できてしまった。だって、彼女と桔梗が一緒にいた時、自分も同じように不安だったのだから。
「不安にさせてごめん。でも、大丈夫。ちゃんと断る。そして……中途半端な自分をやめる」
桜一朗は真剣な顔でそう告げた。
桜色の瞳が、小雪の顔を真っすぐに見つめている。
こんなに真剣な顔で嘘を吐けるほど、彼は器用ではない。
彼は、隠し事をすることはあっても、小雪に嘘は吐かないのだ。だから、今回もきっと大丈夫――。小雪はそう思い、こくりと頷いた。
「分かった……信じて待ってる」
彼女が頷いてくれたのを確認し、桜一朗は伊瀬が指定した特別棟の裏へと足を運んだ。
* * *
桜一朗が特別棟の裏に向かうと、そこには伊瀬が紙袋を持って立っていた。
「あ、春馬君!」
伊瀬が桜一朗を見るなり笑顔で駆け寄ってくる。
「待ってたよー。来てくれてありがとう!」
愛くるしい笑顔で、上目遣いで見つめられる。声は猫撫で声で、あからさまに媚びを売ろうとしているのが分かった。
「あのね、今日は話があって呼び出したの。でも、その前にこれ……」
計算され尽くされた笑顔で、紙袋を手渡される。
「春馬君、甘いものが好きだって聞いてたから、今日来てくれたお礼に!」
快活な笑顔で差し出された紙袋。
彼女の態度がこちらに向けてくるものが、感情が……何もかも胡散臭く感じる。いや、事実、全て嘘で作りものなのだ。
今までだったら、そうと気づいていても笑顔を作って誤魔化していた。そうすることで、相手からの敵意を避けて自分の身を守るためだ。
しかし、もうそんな自分はやめると決めた。
桜一朗は笑顔を浮かべることもなく、静かで冷たい表情で伊瀬を見下ろしていた。
「な、何……? 今日の春馬君、なんか怖くない?」
伊瀬の顔が引き攣る。
「なんで、いつもみたいに笑ってくれないの? いつもだったらもっとヘラヘラして受け取ってくれるじゃん」
彼女の声色に余裕が無くなっていく。感じ取れるのは、怒りと恐怖だった。
「なんで急に冷たくなる訳?」
眉間に皺を寄せながら取り乱していく彼女を見て、桜一朗は静かに口を開く。
「君と木野さんが、『春馬君に気に入られたら将来安泰だよね』って教室で言ってたこと、聞いちゃったんだよね」
「は……?」
「それだけじゃない。今朝の声も聞こえてたよ。俺がお菓子で釣れるみたいな話、してたでしょ? そういうのさ、他人に聞かれないところで言いなよ。俺は相手の気持ちに敏感だからそれでも察しちゃうけどね」
桜一朗は冷たい表情のまま、吐き捨てる。
彼が思惑通りに動かない様子を見て、伊瀬は紙袋の持ち手を強く握りしめた。
「何なのよ……春馬君に近づく人の大半はそう思ってるでしょ。私だけじゃない」
伊瀬は春馬を強く睨みながら、怒鳴った。
「みんな、あんたのことを利用したくて近づいてんだよ! そうじゃなかったら、誰に対してもいい顔する人間になんて告白したりしないし! 今まであんたに近づいた女子全員……一原小雪だってそう思ってるに決まってる!」
本性を見せた彼女の、鬼のような形相。鋭い怒鳴り声。それ以上に桜一朗の胸を抉った「一原小雪だってそう思ってるに決まってる」という言葉。
何もかも、忘れることができない。今も胸が締め付けられて、油断すると耳を塞いでしゃがみ込んでしまうような精神状態だ。
しかし、桜一朗は細く息を吐いて、落ち着いた声で告げる。
「君は何か勘違いしてるみたいだけど、小雪の方から俺に近づいたんじゃないよ。初めて話した時、彼女は俺のことなんて殆ど知らなかった。それだけじゃない、俺の言葉のせいで、俺の事を嫌いだとすら思ってたはずだよ」
「は……? 何が言いたい訳」
真っ赤な顔でこちらを睨む伊瀬に向かって、桜一朗は真剣な顔で言い放つ。
「彼女が俺を好きになったんじゃない。俺が彼女を好きになったんだよ」
言葉を失って目を見開く伊瀬に、桜一朗は静かに告げる。
「俺、一原小雪が好きなんだ。だから、もう俺に構わないでよ。小雪にも、手出ししないって約束してくれる?」
「……最悪。もういい」
伊瀬は潤んだ声で吐き捨てると、バタバタと走り去ってしまった。
彼女がいなくなり、一人きりになった特別棟の裏で、桜一朗はしゃがみ込み、耳を塞いだ。
――みんな、あんたのことを利用したくて近づいてんだよ! そうじゃなかったら、誰に対してもいい顔する人間になんて告白したりしないし!
あの怒鳴り声が、耳にこびりついて離れてくれない。
繰り返し、繰り返し、頭の中に反響する。
(俺の態度が招いた結果だ。だから、仕方ないんだ)
そう思って割り切ろうとするが、体が上手く動かせない。立ち上がって、旧校舎に歩き出すことすらできなかった。
――一原小雪だってそう思ってるに決まってる!
(それは違うって分かってる。小雪はずっと、俺の事を大切にしてくれていた。だから、落ち着け……)
桜一朗は深呼吸しながら「落ち着け」と念じるが、心臓はバクバクしているし、怖くて耳から手を離すことすらできない。
彼女を待たせているというのに、旧校舎に行かないといけないのに――。
桜一朗が、心の傷のせいで動けなくなっていたその時だ。
耳に当てていた手に、ひんやりとした柔らかい手が重ねられた。
「え……」
驚いて顔を上げる。すると、目の前に心配そうな顔をした小雪がしゃがみ込んでいた。
「遅いから、心配になって来ちゃった。大丈夫……?」
「あ……うん、平気……」
言葉とは裏腹に、目から涙が溢れてしまった。
彼女の前で泣くだなんて格好悪いと分かっていたのに、止めることができなかった。
「……ごめん。ちょっと、心が驚いてて」
「うん、そっか」
「落ち着くまで、少し時間かかりそう」
「それまで待つから大丈夫」
小雪に優しい声で告げられ、桜一朗は涙を流しながら笑う。
「はは……最近の俺、余裕なくて格好悪すぎ……」
力無く笑って、また鼻を啜る。
「ごめん、今、情けない顔してるでしょ?」
自嘲気味に笑って、彼女の顔を見つめる。そして、彼女の顔から目が離せなくなった。
「情けない顔でもいいよ」
彼女はそう言って、柔らかく目を細めていたのだ。
「弱いところも見せてくれるようになって嬉しい。だから……何も気にしないで、そのままのあなたでいて」
小雪は、春のように温かな笑顔で微笑んでいた。
彼女の微笑みに心を溶かされて、桜一朗は涙を流したまま、自然と笑って頷くことができた。
「うん……うん、約束する」
人気のない特別棟の裏。いつもとは違う場所、いつもよりも日が長くなった明るい空の下。前よりも穏やかに笑ってくれるようになった彼女の愛情の熱に触れて、桜一朗の心が満たされていく。
傷だらけで、もう傷をつける場所もないような心。
その心を必死に守るように覆ってきた、ハリボテの鎧。
その鎧を脱いで、傷を晒して、古傷の痛みに蹲って。
それでも大丈夫だと、包帯を巻いてくれる彼女に恋をして――。
(小雪を好きになってよかった)
桜一朗は微笑みながら、耳に当てていた自分の手を離して、彼女の手を逆に包み込んだ。
夕暮れが近づく黄色と青色の空に浮かぶうろこ雲が、二人を撫でるように流れていったのだった。




