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商店街に焼き芋の匂いが広がる日

朝の商店街には、まだ金木犀の香りが残っていた。


時計屋の横にある小さな木には、オレンジ色の花がいくつも咲いている。


風が吹くたび、その甘い香りが通りをゆっくり流れていった。


時計屋の前の石段では、ガブが朝の日差しを浴びていた。


茶灰色の背中が、やわらかな光に照らされている。


左耳の先が少し欠けた、いつもの姿。


その隣では、ふわが毛づくろいをしていた。


前足を舐めては顔をこする。


右。


左。


もう一度、右。


ずいぶん念入りだった。


ガブはそんなふわを一度だけ見て、また目を細めた。


「おはようさん」


時計屋のおじいさんが店から出てきた。


手には、いつものほうき。


「今日はいい天気だな」


空は青かった。


夏のころとは違って、どこか高く見える。


おじいさんは店先に落ちていた小さな葉っぱを掃き集めた。


カサ。


カサカサ。


その音に、ふわが顔を上げた。


少し前なら、飛びついていたかもしれない。


けれど今日は、ほうきの先をじっと見つめるだけだった。


「もう飽きたのか?」


おじいさんが笑う。


ふわは返事をしない。


代わりに立ち上がり、大きく伸びをした。


ガブも石段から下りた。


朝の見回りの時間だった。


二匹は並んで歩き始めた。


八百屋の前。


魚屋の前。


喫茶ひだまり。


いつもの道。


けれど、その朝。


八百屋の前には、いつもと少し違うものが置かれていた。


大きな段ボール箱だった。


一つ。


二つ。


三つ。


八百屋のおばさんが、その箱を開けている。


「よいしょっと」


中には、土のついたサツマイモがぎっしり入っていた。


細長いもの。


丸々と太ったもの。


少し曲がったもの。


大きさも形もばらばらだった。


「おや、ガブ。ふわ。おはよう」


おばさんが二匹に気づいた。


ガブは箱の前で立ち止まった。


ふわも近づく。


鼻を寄せる。


すん。


すん。


土の匂いがした。


ふわは少し首を傾げた。


「サツマイモだよ」


おばさんが笑う。


「秋のおいしいものが届いたんだ」


ふわには分からない。


けれど、箱の中身は気になるらしい。


前足を箱の縁にかけようとした。


「こらこら、商品だよ」


おばさんがやさしく声をかける。


ふわは前足を下ろした。


ガブは、その様子を少し離れたところから見ていた。


「今年はいい芋が入ったんだよ」


おばさんは一本取り上げた。


ずんぐりと太った、立派なサツマイモだった。


「これなら、焼き芋にしたらおいしいだろうねえ」


ちょうどそこへ、魚屋の大将が通りかかった。


「焼き芋?」


「そう。いい芋が入ったからね」


「そりゃいいな」


「どうせなら、店先で焼いてみようかと思って」


「おっ、いいじゃないか」


大将の声が少し大きくなった。


「俺にも一本頼むよ」


「まだ焼いてもいないのに」


「予約だよ、予約」


二人が笑った。


その話を聞いていた時計屋のおじいさんも、ほうきを持ったまま顔を出した。


「何の騒ぎだ?」


「焼き芋をするんだって」


「ほう」


おじいさんの顔が、少しだけ明るくなった。


「それは楽しみだな」


「おじいさんも食べる?」


「一本もらおうか」


「はいはい」


八百屋のおばさんは笑いながら、サツマイモを箱から取り出した。


ガブとふわは、そんな人間たちの話を聞きながら、いつもの見回りへ戻っていった。


もちろん、焼き芋が何なのかなど、二匹には分からなかった。


⸻


昼前。


八百屋の店先に、小さな電気式の焼き芋器が置かれた。


おばさんがサツマイモをきれいに洗い、水気を拭き取ってから、一本ずつ並べていく。


「さて、うまく焼けるかねえ」


スイッチを入れる。


最初は、何も変わらなかった。


いつもの八百屋。


いつもの野菜。


いつもの通り。


ガブは時計屋の石段で眠っている。


ふわも、その隣で丸くなっていた。


やがて。


ほんの少しずつ。


八百屋の前に、いつもとは違う匂いが漂い始めた。


最初に気づいたのは、ふわだった。


鼻が動く。


すん。


もう一度。


すん。


目が開いた。


顔を上げる。


何かが匂う。


金木犀とは違う。


魚屋の匂いでもない。


喫茶ひだまりのコーヒーとも違う。


もっと温かくて。


どこか甘い。


ふわは立ち上がった。


石段を下りる。


鼻を上げる。


すん。


すん。


匂いのするほうへ歩き始めた。


ガブは片目を開けた。


ふわが遠ざかっていく。


少しして、ガブも立ち上がった。


ゆっくりと後を追う。


八百屋の前まで来ると、ふわは足を止めた。


甘い匂いが、さっきよりずっと強い。


「おや」


おばさんが気づいた。


「ふわ、いい鼻してるねえ」


ふわは焼き芋器のほうを見ている。


「もうすぐ焼けるよ」


そのとき、ガブもやって来た。


「ガブまで来たのかい」


おばさんは笑った。


「二匹とも、匂いにつられたのかねえ」


ガブは焼き芋器には近づかず、少し離れた日陰に座った。


ふわも、しばらくするとその隣へ戻った。


焼き芋器からは、甘い香りが漂い続けている。


そこへ魚屋の大将がやって来た。


「どうだ、焼けたか?」


「もうちょっと」


「まだかあ」


「さっきからそればっかりだね」


「匂いがしてきたからな」


大将は鼻を動かした。


「うん、いい匂いだ」


時計屋のおじいさんもやって来た。


「ずいぶん甘い匂いがするな」


「もう少し待っててね」


おばさんは焼き具合を確かめた。


一本取り出して、竹串を刺す。


すっと通った。


「よし」


おばさんが笑った。


「焼けたよ」


魚屋の大将が手を叩いた。


「待ってました!」


「子どもみたいだねえ」


「焼き芋の前じゃ、大人も子どももないさ」


その言葉に、時計屋のおじいさんまで笑った。


焼きたてのサツマイモが紙袋に入れられる。


大将は一本受け取った。


「熱っ!」


思わず声が出た。


「焼きたてなんだから、当たり前だよ」


おばさんが呆れた顔をする。


大将は少し冷ましてから、サツマイモを割った。


ほくっ。


中から、きれいな黄色が現れた。


湯気がふわりと立ち上る。


「おお」


大将の顔がほころんだ。


「これはうまそうだ」


小さく一口。


ゆっくり噛む。


「……うまい!」


その声に、時計屋のおじいさんも笑った。


「大げさな」


「いや、本当にうまいぞ」


おじいさんも一本受け取った。


熱い芋を両手で持ちながら、少しずつ皮をむく。


湯気が上がる。


一口食べる。


「……うん」


おじいさんは目を細めた。


「これは、うまいな」


「だろ?」


大将が得意そうに言った。


「お前が焼いたわけじゃないだろう」


「まあ、そうだけどな」


また笑い声が起きた。


その足元では、ふわが鼻を動かしていた。


すん。


すん。


甘い匂い。


温かい匂い。


人間たちが楽しそうにしている匂い。


ふわは、魚屋の大将の足元へ近づいた。


「おっ、ふわも欲しいのか?」


大将がしゃがむ。


ふわはサツマイモを見る。


「これは猫のごはんじゃないぞ」


そう言いながら、大将は芋を自分の口へ運んだ。


ふわはじっと見ている。


「そんな顔で見られると食べにくいなあ」


八百屋のおばさんが笑った。


「ふわは何でも気になるんだよ」


ガブは少し離れたところに座っていた。


焼き芋よりも、日差しの当たる石段のほうが気に入っているようだった。


⸻


午後。


学校が終わる時間になると、商店街に子どもたちの声が戻ってきた。


「ガブー!」


「ふわー!」


三人の子どもたちが、ランドセルを背負ってやって来た。


けれど、その日は途中で足が止まった。


「あれ?」


一人が鼻を動かした。


「なんか、いい匂い!」


「ほんとだ!」


「何の匂い?」


三人が辺りを見回す。


八百屋のおばさんが手を振った。


「こっちだよ」


子どもたちが駆け寄る。


「あっ!」


焼き芋器を見つけた。


「焼き芋だ!」


「食べたい!」


「僕も!」


おばさんは笑った。


「まずはランドセルを置いておいで」


「えー!」


「逃げやしないよ」


「本当?」


「本当だよ」


三人は顔を見合わせた。


そして。


「すぐ戻ってくる!」


そう言って走っていった。


時計屋のおじいさんが、その後ろ姿を見て笑った。


「今日は帰るのが早いな」


「焼き芋の力だねえ」


八百屋のおばさんも笑った。


ガブは石段に座っていた。


ふわは、その隣で子どもたちの帰っていった方向を見ている。


しばらくすると。


「戻ったー!」


三人が駆けてきた。


今度はランドセルがない。


「早かったねえ」


おばさんが驚く。


「走ってきた!」


「転ばないようにしなよ」


「はーい!」


おばさんは焼き芋を三つ、小さな紙袋に入れた。


「熱いから、気をつけて食べるんだよ」


「ありがとう!」


子どもたちは店先のベンチに座った。


紙袋を開く。


焼き芋を割る。


中から黄色い芋が顔を出す。


「わあ!」


「すごい!」


「いい匂い!」


一人が小さく一口食べた。


「甘い!」


もう一人も食べる。


「おいしい!」


三人の顔が、そろって笑顔になった。


その様子を、ふわが見ていた。


子どもの一人が気づく。


「あ、ふわ」


ふわが近づく。


「これ、おいしいんだよ」


子どもは焼き芋を見せた。


ふわは鼻を近づける。


すん。


すん。


「ふわも食べたいのかな」


そこへ八百屋のおばさんが声をかけた。


「人間のおやつは、無理にあげなくていいよ。猫には猫の食べ物があるからね」


「そっか」


子どもはうなずいた。


「じゃあ、匂いだけね」


ふわはもう一度、焼き芋の匂いを嗅いだ。


それから、子どもの足元に座った。


子どもたちは焼き芋を食べる。


ふわは、その近くでくつろぐ。


少し離れた石段にはガブ。


商店街の午後は、いつもより少しだけ賑やかだった。


⸻


夕方。


焼き芋は、ほとんど売り切れていた。


「今日はよく売れたねえ」


八百屋のおばさんが、焼き芋器を片づけながら言った。


魚屋の大将が顔を出す。


「明日もやるのか?」


「どうしようかねえ」


「やってくれよ」


「そんなに気に入ったの?」


「秋の楽しみが一つ増えたからな」


おばさんは笑った。


「じゃあ、またいい芋が入ったらね」


時計屋のおじいさんも店先に出てきた。


「それがいい」


「おじいさんまで」


「今日の芋はうまかったからな」


おばさんは少し照れたように笑った。


「じゃあ、また今度」


そのやり取りを聞きながら、喫茶ひだまりの店主も店から出てきた。


「今日はお店の中まで焼き芋の匂いがしてましたよ」


「迷惑だった?」


「いいえ」


店主は笑った。


「お客様が、秋らしくていいねって」


「そうかい」


おばさんの顔が明るくなった。


「それならよかった」


商店街には、まだほんのりと焼き芋の香りが残っていた。


金木犀の甘い香り。


焼き芋の香ばしい匂い。


喫茶ひだまりのコーヒーの香り。


それぞれが風に乗って、ゆっくりと混じり合っていく。


ガブは石段から立ち上がった。


ふわも続く。


二匹は夕方の商店街を歩き始めた。


子どもたちは、その後ろをついていく。


「今日の焼き芋、おいしかったね」


「うん!」


「また食べたい」


「明日もあるかな」


「おばちゃん、また今度って言ってたよ」


「じゃあ、今度だね」


三人が笑った。


ガブは、いつもの歩幅で進んでいく。


ふわは途中で一度、八百屋のほうを振り返った。


もう焼き芋器は片づけられている。


甘い匂いも、昼間ほど強くない。


それでも、ふわはしばらく鼻を動かしていた。


ガブが足を止めた。


ふわを待つ。


やがて、ふわが小走りで追いついた。


二匹はまた並んで歩き始めた。


夕日が商店街の屋根を照らしている。


時計屋の横では、金木犀の小さな花が風に揺れていた。


その下に、オレンジ色の花が一つ落ちている。


ふわは一瞬だけ足を止めた。


けれど、今日は追いかけなかった。


ただ鼻を近づけてから、ガブの隣へ戻った。


少し前まで、商店街には夏の匂いがあった。


雨上がりの熱いアスファルト。


打ち水。


スイカ。


そして、風鈴の音。


今は違う。


落ち葉が乾いた音を立てる。


金木犀が甘く香る。


そして今日は、焼き芋の匂いが商店街を包んだ。


季節が変わると、いつもの場所にも新しい楽しみが増えていく。


ガブにとっては、いつもの商店街。


ふわにとっても、少しずつ慣れてきた商店街。


けれど、二匹が知らないものは、まだたくさんあった。


夕暮れの石段に戻ると、ガブはいつもの場所に座った。


ふわも、その隣に座る。


時計屋のおじいさんが、店じまいをしながら二匹を見た。


「今日はいい匂いの一日だったな」


そう言って笑った。


ふわが鼻を上げる。


風が吹いた。


どこからか、まだ少しだけ焼き芋の香りがした。


ガブは目を細めた。


その隣で、ふわもゆっくりと体を丸くした。


野良猫ガブは、今日も何もしない。


ただ、秋の匂いに夢中になるふわと一緒に、いつもの商店街で一日を過ごしていただけだった。


二匹のそばを、夕方の涼しい風が通り抜ける。


その風には、金木犀と焼き芋の香りが、ほんの少しだけ残っていた。

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