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雨上がり、金木犀の香り

朝。


ガブが目を覚ましたとき。


雨の音は、もう聞こえなかった。


昨日は一日中。


しと。


しと。


しと。


段ボールの屋根を叩いていた雨。


けれど今朝は静かだった。


ガブは顔を上げた。


隣では、ふわがまだ眠っている。


体を丸くして。


ガブの背中に、ほんの少しだけくっついていた。


ガブが立ち上がる。


その気配で。


ふわの耳が動いた。


目が開く。


「にゃ」


小さく鳴いて。


ふわも立ち上がった。


ガブが段ボールの家から顔を出す。


雨は上がっていた。


空にはまだ灰色の雲が残っている。


けれど、その隙間から。


少しずつ朝の光が差し込んでいた。


道は濡れている。


店先の軒から。


ぽつ。


ぽつ。


昨日の雨が残した水滴が落ちている。


道路の端には小さな水たまり。


黄色い落ち葉が一枚。


ぺたりと地面に張りついていた。


ふわも外へ出る。


前足を地面につける。


少し濡れている。


ふわは前足を上げた。


ぺろ。


舐める。


もう一度歩く。


また濡れる。


また舐める。


ガブは気にせず歩いていく。


「待って」


とでも言うように。


ふわが小走りで追いかけた。


朝の見回りが始まった。


八百屋。


時計屋。


魚屋。


喫茶ひだまり。


昨日は雨で歩けなかった、いつもの道。


ガブはゆっくり歩く。


ふわも、その隣。


ガラガラガラ。


八百屋のシャッターが開いた。


「おはよう」


おばさんが顔を出す。


「あら」


すぐに二匹を見つけた。


「今日は見回りできるねえ」


ふわが顔を上げる。


ガブはそのまま歩く。


「昨日は退屈だったろ?」


おばさんが笑った。


そのとき。


ふわが止まった。


鼻が動く。


すん。


もう一度。


すん。


顔を上げる。


右を見る。


左を見る。


何かを探している。


「どうしたの?」


八百屋のおばさんが聞いた。


ふわは答えない。


鼻を動かす。


すん。


すん。


ガブは数歩先まで歩いていた。


けれど。


ふわが来ないことに気づく。


止まる。


振り返る。


ふわはまだ何かの匂いを嗅いでいた。


ガブは少し待った。


やがて。


ふわが歩き始める。


八百屋の前。


すん。


違う。


魚屋のほう。


すん。


魚の匂い。


ふわは一瞬そちらを見た。


けれど。


探しているのは、それではないらしい。


また歩く。


ガブも歩き出した。


時計屋の前まで来た。


ふわが。


また止まった。


すん。


すん。


さっきより。


鼻がよく動く。


一歩。


二歩。


時計屋の横へ。


ガブは石段に座った。


ふわだけが歩いていく。


そこには。


小さな木があった。


夏のあいだ。


ずっと緑の葉をつけていた木。


子どもたちも。


商店街の人たちも。


毎日のようにその前を通っていた。


けれど。


今朝。


その緑の葉の間に。


小さなオレンジ色の花が咲いていた。


一つ。


二つ。


いや。


よく見ると。


たくさん。


ふわが木の下まで行く。


鼻を上げる。


すん。


甘い香り。


昨日の雨で洗われた朝の空気の中に。


やわらかな甘い匂いが漂っている。


ふわは木を見上げた。


そのとき。


時計屋の扉が開いた。


「おや」


おじいさんが出てくる。


ふわを見る。


そして。


木を見る。


「咲いたか」


おじいさんが近づいた。


金木犀。


小さなオレンジ色の花。


「今年も秋だな」


ふわは、おじいさんを見る。


もちろん。


秋という言葉は分からない。


金木犀という名前も知らない。


ただ。


いい匂いがする。


それだけだった。


おじいさんは石段を見る。


ガブが座っている。


「お前は知ってたのか?」


ガブは目を細めた。


「そういえば、お前は毎年ここにいるもんな」


ガブは答えない。


おじいさんが笑った。


「ふわは初めてか」


ふわは、まだ金木犀の下にいる。


鼻を動かす。


すん。


すん。


そこへ。


八百屋のおばさんがやって来た。


「何してるの?」


「咲いたぞ」


「何が?」


おじいさんが木を指さす。


「あら」


おばさんの顔がほころんだ。


「金木犀」


一歩近づく。


「ああ、いい匂い」


深く息を吸う。


「昨日まで気づかなかったねえ」


「雨で分からなかったんだろう」


「そうかもね」


魚屋のおじさんも顔を出した。


「なんだ、集まって」


「金木犀が咲いたよ」


「もうそんな時期か」


「さっきから、そればっかりだね」


「だって早いだろ」


三人が笑った。


ふわは。


人間たちの話など聞かず。


まだ花を見上げていた。


ガブが石段から下りる。


歩き始める。


ふわは気づかない。


ガブが少し進む。


止まる。


振り返る。


まだ来ない。


待つ。


しばらくして。


ふわがガブを見る。


タタタッ。


追いつく。


二匹はまた並んだ。


「結局、待つんだねえ」


八百屋のおばさんが言った。


時計屋のおじいさんは笑った。


「もう癖になったんだろ」


ガブの耳が。


ぴくっと動いた。


二匹は喫茶ひだまりへ向かった。


店の前。


いつもの水入れ。


昨日の雨水が少し入っていたが。


店主がきれいな水に入れ替えていた。


「おはよう」


ガブが飲む。


ふわも飲む。


ぺろ。


ぺろ。


その途中で。


ふわが顔を上げた。


風が吹いた。


ふわり。


甘い香りが流れてくる。


ふわの鼻が動く。


金木犀の香り。


ここまで届いていた。


ふわは時計屋のほうを見る。


店主も気づいた。


「あ」


窓を開ける。


風が店内へ入る。


「金木犀」


いつものおじいさんがコーヒーカップから顔を上げた。


「咲いたのか」


「みたいですね」


おじいさんも窓の外を見る。


風に乗って。


ほんの少し。


甘い香りが入ってくる。


「秋だな」


おじいさんが言った。


店主が笑う。


「みんな今日は同じこと言いますね」


昼。


雲がなくなった。


青い空。


太陽も出ている。


けれど。


真夏のような暑さではない。


日陰へ入れば涼しい。


ガブは石段で眠っていた。


ふわも隣で眠っている。


風が吹くたび。


金木犀の香りが流れてくる。


ふわの鼻が。


ときどき。


眠ったまま動いた。


午後。


学校が終わった。


「ガブー!」


「ふわー!」


いつもの声が戻ってくる。


三人の子どもたち。


ランドセルを背負ったまま走ってきた。


「いた!」


ふわが起きる。


ガブも顔を上げる。


「ただいま!」


一人の子がしゃがんだ。


ふわが近づく。


「今日ね、学校で――」


そこまで言って。


子どもが止まった。


「ん?」


鼻を動かす。


「なんかいい匂いする」


もう一人も。


すん。


「あ、本当だ」


「何の匂い?」


三人で辺りを見る。


八百屋のおばさんが教えた。


「時計屋さんの横を見てごらん」


子どもたちが行く。


ふわもついていく。


ガブは。


行かない。


石段で座っている。


「あ!」


子どもが見つけた。


「オレンジの花!」


「ちっちゃ!」


「いっぱいある!」


一人が顔を近づける。


「いい匂い!」


「金木犀っていうんだよ」


八百屋のおばさんが言った。


「きん……」


「もくせい」


「キンモクセイ」


三人が声をそろえる。


「これが秋の匂いなんだよ」


「秋の匂い?」


「そう」


子どもたちはもう一度。


すん。


すん。


「じゃあ、ふわも秋の匂い嗅いでるの?」


「朝からずっと嗅いでたよ」


「ふわ、知ってたの?」


ふわは花を見上げる。


「ガブは?」


子どもたちがガブを見る。


時計屋のおじいさんが言った。


「ガブは前から知っとるだろう」


「なんで?」


「何年もここにいるからな」


子どもたちはガブを見る。


ガブは。


いつもの顔。


「ガブ、すごい」


「何もしてないぞ」


「でも知ってるんでしょ?」


「たぶんな」


「やっぱりすごい」


ガブは目を細めた。


夕方。


雨で濡れていた道は。


ほとんど乾いていた。


水たまりも小さくなった。


昨日。


雨の中で地面に張りついていた黄色い葉っぱも。


乾き始めている。


風が吹く。


カサ。


葉っぱが動いた。


ふわが見る。


昨日までなら。


追いかけていたかもしれない。


けれど今日は。


葉っぱより。


風の匂いが気になった。


鼻を上げる。


すん。


金木犀。


ふわは時計屋の横を見る。


オレンジ色の小さな花。


夕日の中で。


昼間より少し濃い色に見えた。


ガブが歩き出す。


ふわも今度はすぐについていく。


二匹が並ぶ。


その後ろを。


子どもたちが歩く。


「いい匂いだね」


「明日もするかな」


「するんじゃない?」


「ずっと?」


「ずっとじゃないよ」


時計屋のおじいさんが後ろから言った。


「花が終われば、匂いもなくなる」


子どもたちが振り返る。


「いつ終わるの?」


「さあな」


「知らないの?」


「知らん」


「時計屋さんなのに?」


「時計屋は花の時間までは分からん」


みんなが笑った。


ガブとふわは。


そのまま歩いていく。


昨日の雨の匂いは。


もうほとんど消えていた。


濡れた土の匂いも。


水たまりの匂いも。


少しずつ薄くなっている。


その代わり。


商店街のどこを歩いていても。


風が吹けば。


ふわり。


甘い香りがする。


金木犀。


秋の匂い。


ふわにとっては。


初めて知った匂い。


ガブにとっては。


きっと。


何度目かの秋の匂い。


けれど今年は。


その匂いを。


一匹ではなく。


二匹で嗅いでいた。


夕暮れ。


二匹は時計屋の前の石段へ戻った。


ガブが座る。


ふわも隣に座る。


金木犀の花が。


風に揺れた。


ふわり。


甘い香りが二匹を包む。


ふわは鼻を上げた。


ガブは目を細めた。


何も起こらない。


誰も急がない。


ただ。


秋の風だけが。


ゆっくりと商店街を通り抜けていく。


野良猫ガブは、今日も何もしない。


ただ、雨上がりの商店街で。


初めて金木犀の香りを知ったふわと。


いつものように並んで座っていただけだった。


小さなオレンジ色の花から漂う甘い香りは。


夕暮れの商店街を静かに満たしながら。


今年も秋が来たことを。


そっと知らせていた。

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