初めて落ち葉を追いかける日
朝の商店街に、風が吹いた。
少し前までなら、朝の風にも夏の熱が残っていた
けれど今朝の風は違う。
冷たいというほどではない。
それでも、肌に触れたときに、どこか軽く感じる。
商店街の店先に吊るされたのれんが揺れた。
喫茶ひだまりの前に置かれた小さな看板も、ほんの少しだけ動いた。
そして。
時計屋の前の石段に座っていたガブのひげも、風に揺れた。
ガブは目を細めた。
その隣では、ふわが前足を伸ばして寝ている。
灰色の体を長くして、石段の端から尻尾だけを垂らしていた。
「おはようさん」
時計屋のおじいさんが店から出てきた。
手には、いつものほうき。
ガブの耳が動く。
ふわは起きない。
「今日はよく寝とるな」
おじいさんは笑った。
そして店の前を掃き始める。
シャッ。
シャッ。
シャッ。
昨日までなら、砂や小さなごみを集めるくらいだった。
けれど今日は。
シャッ。
ほうきの先に、一枚の葉っぱが引っかかった。
おじいさんが手を止める。
「あれ」
葉っぱを見た。
緑ではない。
黄色。
まだ全体が黄色くなったわけではなく、ところどころに緑を残している。
それでも。
昨日まで木の上にあった葉っぱが、一枚、商店街に落ちていた。
「落ち始めたか」
おじいさんが呟いた。
その声に反応したのか。
ふわの耳が動いた。
片方。
もう片方。
ゆっくり目を開ける。
そして。
目の前の葉っぱを見る。
おじいさんがほうきを動かした。
カサ。
葉っぱが少し動く。
ふわの目が大きくなった。
カサ。
また動く。
ふわが起き上がった。
ガブは隣で座ったまま。
ふわが石段を一段下りる。
葉っぱに近づく。
鼻を寄せる。
すん。
すん。
何の匂いがしたのか。
ふわは少し首を傾げた。
前足を伸ばす。
ちょん。
カサ。
葉っぱが動いた。
ふわが一歩下がった。
じっと見る。
動かない。
もう一度。
ちょん。
カサ。
今度は少しだけひっくり返った。
ふわの耳が前を向く。
「何してるんだ?」
時計屋のおじいさんが笑った。
ふわは聞いていない。
葉っぱしか見ていない。
ガブは石段の上から、その様子を眺めていた。
そこへ。
風が吹いた。
ふわっ。
葉っぱが浮いた。
ほんの少しだけ。
そして。
カサカサカサ。
商店街の真ん中へ転がっていく。
ふわが固まった。
一瞬だけ。
そして。
タタタッ。
追いかけた。
「おっ」
おじいさんが声を上げる。
葉っぱは風に押されて転がっていく。
カサカサ。
ふわも走る。
タタタッ。
葉っぱが止まる。
ふわも止まる。
体を低くする。
尻尾の先が左右に揺れる。
じっと狙って。
ぴょん。
前足で葉っぱを押さえた。
「捕まえたか」
時計屋のおじいさんが言う。
ふわは前足の下を見る。
葉っぱは動かない。
ふわは前足を離した。
葉っぱを見る。
やっぱり動かない。
鼻を近づける。
すん。
そのとき。
また風が吹いた。
葉っぱが逃げた。
カサカサカサ。
ふわが追う。
「ははは」
おじいさんが笑った。
八百屋のおばさんも、ちょうど店を開けたところだった。
「どうしたの?」
「ふわが葉っぱと遊んどる」
「葉っぱ?」
おばさんが通りを見る。
黄色い葉っぱ。
その後ろを追いかける灰色の猫。
「まあ」
おばさんも笑った。
「昨日は赤とんぼで、今日は葉っぱかい」
ふわは忙しい。
葉っぱが右へ行けば右。
左へ行けば左。
止まれば、ふわも止まる。
風が吹けば、また追いかける。
ガブは。
まだ石段にいた。
「ガブは行かないの?」
八百屋のおばさんが聞く。
ガブの耳だけが動いた。
「ガブは、そういうの卒業したんじゃないか?」
時計屋のおじいさんが言う。
「本当に?」
「知らん」
二人が笑った。
やがて。
風が止んだ。
葉っぱも止まった。
ふわは、その前に座る。
待つ。
葉っぱは動かない。
前足で触る。
カサ。
それだけ。
もう一度。
ちょん。
カサ。
ふわは首を傾げた。
さっきまで逃げていたのに。
今は逃げない。
しばらく待った。
それでも動かない。
ふわは葉っぱから顔を上げた。
そして。
ガブを見る。
ガブは石段の上。
いつもの場所で待っていた。
ふわは葉っぱを一度振り返った。
それから。
タタタッ。
ガブのところへ戻った。
ガブが立ち上がる。
朝の見回りの時間だった。
二匹は並んで歩き始めた。
八百屋の前。
魚屋の前。
喫茶ひだまり。
いつもの道。
喫茶ひだまりの前には、今日も水が置いてある。
ガブが飲む。
ふわも飲む。
ぺろ。
ぺろ。
店の中では、いつものおじいさんがコーヒーを飲んでいた。
窓越しに二匹を見る。
「今日も一緒か」
店主が答える。
「毎日ですね」
「最初のころとは大違いだな」
「そうですね」
ガブが先に顔を上げた。
ふわは、もう少しだけ水を飲む。
ガブは歩き出さない。
少し先で待つ。
やがてふわが顔を上げる。
ガブを見る。
そして小走りで追いついた。
おじいさんが目を細めた。
もう。
誰もそのことを珍しいとは思わなくなっていた。
ガブが待つ。
ふわが追いつく。
二匹が並んで歩く。
それが商店街の朝になっていた。
昼。
太陽が高くなる。
やはり暑かった。
「まだ昼は夏だねえ」
八百屋のおばさんが言った。
けれど。
木陰に入ると、少し前とは違った。
風が吹けば涼しい。
ガブとふわは、店の軒下で昼寝をしていた。
ふわは丸くなっている。
ガブは前足を伸ばしている。
その近くに。
朝の葉っぱがあった。
風に運ばれてきたらしい。
ふわは気づいていない。
眠っている。
風が吹く。
カサ。
ふわの耳が動いた。
カサカサ。
目が開く。
葉っぱが転がる。
ふわが起き上がった。
まただ。
タタタッ。
追いかける。
ガブが片目を開けた。
ふわが走っていく。
葉っぱを捕まえる。
逃げられる。
また追いかける。
ガブは目を閉じた。
どうやら、もう慣れたらしい。
午後。
学校が終わる時間。
「ガブー!」
「ふわー!」
子どもたちが帰ってきた。
ランドセルを背負ったまま、商店街へ入ってくる。
「いた!」
一人がふわを見つけた。
そのとき。
ふわは葉っぱを追いかけていた。
「あ!」
「何してるの?」
「葉っぱ追いかけてる!」
三人が走ってくる。
ふわは気にしない。
葉っぱしか見ていない。
「ふわー!」
葉っぱが飛ぶ。
ふわが追う。
「こっち来た!」
風に飛ばされた葉っぱが、子どもの足元へ転がった。
一人が拾おうとする。
「待って!」
別の子が止めた。
「ふわが追いかけてるんだから!」
「そっか」
三人は葉っぱを囲む。
ふわも囲む。
ガブは少し離れた場所に座っている。
風が止まった。
葉っぱも止まった。
全員が待つ。
ふわ。
子ども三人。
少し離れてガブ。
誰も動かない。
「……動かないね」
「風がないから」
「じゃあ」
一人の子が葉っぱに向かって息を吹いた。
ふーっ。
葉っぱが動いた。
カサカサ。
ふわが飛びついた。
「動いた!」
「ふわ、行け!」
もう一度。
ふーっ。
カサカサ。
ふわが追う。
子どもたちが笑う。
八百屋のおばさんが店先から言った。
「何してるんだい」
「ふわと遊んでる!」
「ふわが遊んでやってるんじゃないかい?」
「違うよ!」
「どっちでも同じだろ」
魚屋のおじさんまで笑った。
しばらく。
商店街の真ん中を、一枚の葉っぱと、一匹の猫と、三人の子どもが行ったり来たりした。
ガブだけは参加しなかった。
ただ。
みんなが動くたびに。
顔だけは、その方向へ向いていた。
夕方。
風が少し強くなった。
空は淡い橙色。
昼間の暑さが、少しずつ消えていく。
子どもたちは家にランドセルを置き、また商店街へ戻ってきていた。
ガブとふわは石段に座っている。
朝よりも。
落ち葉が増えていた。
一枚。
二枚。
三枚。
まだ少ない。
ほとんどの木には緑の葉が残っている。
けれど。
その中から。
少しずつ。
黄色くなった葉っぱが落ち始めている。
風が吹いた。
一枚の葉っぱが舞った。
ふわが顔を上げる。
子どもたちも気づく。
「あ」
葉っぱは空中でくるくる回った。
ふわが立ち上がる。
追いかけようとする。
けれど。
葉っぱは少し高いところを飛んでいく。
ふわはその場で見上げた。
くるり。
くるり。
葉っぱは夕日の中を舞いながら。
ゆっくり。
地面へ落ちた。
ふわが近づく。
今度は走らない。
葉っぱの前まで行く。
鼻を近づける。
すん。
そして。
隣に座った。
ガブもやって来た。
ふわの隣に座る。
一枚の黄色い葉っぱ。
二匹の猫。
長く伸びた二つの影。
子どもたちは、その後ろから眺めていた。
「葉っぱ、増えてきたね」
一人が言った。
「秋だから?」
「たぶん」
「昨日、赤とんぼもいたし」
「じゃあ秋だ」
時計屋のおじいさんが店先から聞いていた。
昨日、子どもたちに言った言葉を思い出す。
季節なんて、今日から秋ですと変わるものではない。
気づいたときには、なっている。
おじいさんは空を見上げた。
蝉の声は、もうほとんど聞こえない。
代わりに。
どこか遠くから。
リーン。
小さな虫の声が聞こえてきた。
風が吹く。
黄色い葉っぱが、少しだけ動いた。
ふわの前足が動きそうになる。
けれど。
今度は追わなかった。
ただ見ていた。
ガブも隣にいる。
しばらくすると。
ガブが立ち上がった。
ふわも立ち上がる。
二匹は並んで歩き始めた。
その後ろを、子どもたちがついていく。
風が吹くたび。
商店街のどこかで。
カサ。
カサカサ。
小さな音がする。
まだ落ち葉の季節には少し早い。
けれど。
昨日より一枚。
今日より、きっと明日はもう一枚。
そうやって。
商店街の景色は少しずつ変わっていく。
野良猫ガブは、今日も何もしない。
ただ、風に飛ばされる葉っぱを夢中で追いかけるふわを、いつもの場所から眺めていただけだった。
そして遊び終わったふわが戻ってくれば。
何事もなかったように立ち上がり。
また、その隣を一緒に歩いていく。
カサカサと鳴る落ち葉の音が。
二匹の後ろを追いかけるように、夕暮れの商店街を転がっていった。




