赤とんぼがやって来た日
朝の商店街に、細い風が通り抜けた。
少し前までなら、朝から空気の中に夏の熱が残っていた。
けれど今日は違う。
シャッターの隙間を抜けてくる風も。
店先ののれんを揺らす風も。
どこか軽い。
時計屋の前の石段では、ガブが座っていた。
前足をきちんとそろえ、いつものように通りを眺めている。
その隣では、ふわが眠っていた。
丸くなった灰色の背中が、呼吸に合わせてゆっくり上下している。
八百屋のシャッターが開いた。
ガラガラガラ。
「おはよう、ガブ」
おばさんが顔を出した。
ガブの耳が少しだけ動く。
「ふわはまだ寝てるのかい」
ふわは起きない。
「涼しくなったから、よく眠れるのかねえ」
おばさんは笑いながら、開店の準備を始めた。
少しして。
魚屋のシャッターも開いた。
喫茶ひだまりの扉も開く。
コーヒーの香りが漂い始める。
いつもの朝。
夏休みが終わってから、商店街の朝は少し静かになった。
子どもたちは学校へ行く。
昼過ぎまでは、大人たちとガブとふわの時間だ。
ガブが立ち上がった。
朝の見回りへ行くらしい。
石段を一段下りる。
すると。
ふわの耳が動いた。
もう一度。
ぴくっ。
目が開く。
ガブは少し先まで歩いていた。
ふわが慌てて立ち上がる。
大きく伸びをしてから、
タタタッ。
ガブの隣まで走った。
二匹は並んで歩き始めた。
八百屋。
魚屋。
喫茶ひだまり。
毎朝歩いている道。
特別なものなど、何もない。
少なくとも。
そのときまでは。
商店街の端まで来たところで、ふわが急に止まった。
ガブは二歩ほど先へ進んでから振り返る。
ふわは空を見ていた。
正確には。
空と地面の間。
何もないように見える場所を見ている。
ふわの頭が動く。
右。
左。
また右。
何かを目で追っていた。
一匹の小さな虫が、ふわの前を横切った。
すーっ。
止まる。
空中で少し揺れる。
そしてまた、
すーっ。
飛んでいく。
赤とんぼだった。
ふわの目が丸くなる。
体を低くした。
お尻が少し上がる。
尻尾の先が動く。
ガブは座った。
どうやら待つことにしたらしい。
赤とんぼが、ふわの前を横切る。
ふわの頭が動く。
右。
左。
上。
そして。
ぴょん。
前足を伸ばした。
当然、届かない。
赤とんぼは何事もなかったように飛んでいく。
ふわは着地すると、すぐに振り返った。
また追う。
タタタッ。
赤とんぼが上へ。
ふわも顔を上げる。
下へ。
ふわがしゃがむ。
右へ。
ふわも右へ。
左へ。
ふわも左へ。
ガブは動かない。
ただ見ている。
赤とんぼが、低い柵の上に止まった。
ふわも止まる。
そーっと。
一歩。
もう一歩。
体を低くして近づいていく。
あと少し。
ふわが前足を浮かせる。
その瞬間。
赤とんぼは飛んだ。
「あ」
声がした。
ふわが振り返る。
八百屋のおばさんだった。
店先から二匹を見ていたらしい。
「赤とんぼじゃないか」
時計屋のおじいさんも出てきた。
「どこだ?」
「ほら、あそこ」
赤とんぼは商店街の真ん中をゆっくり飛んでいた。
おじいさんが目を細める。
「もうそんな時期か」
「この前まで蝉ばっかりだったのにねえ」
「早いもんだな」
ふわには、そんな話は関係ない。
赤とんぼしか見ていなかった。
再び近づく。
ぴょん。
逃げられる。
追いかける。
止まる。
また追いかける。
ガブはまだ座っている。
「ガブは追いかけないのかい」
八百屋のおばさんが聞いた。
ガブの耳だけが動いた。
「興味ないみたいだな」
時計屋のおじいさんが言う。
「大人だからねえ」
「猫に大人も子どももあるのか?」
「あるんじゃない?」
二人が笑った。
その間も。
ふわは忙しかった。
赤とんぼが飛ぶ。
ふわが追う。
赤とんぼが止まる。
ふわも止まる。
赤とんぼがまた飛ぶ。
ふわも走る。
しばらくすると、赤とんぼは高く上がった。
ふわも見上げる。
どんどん高くなる。
やがて、屋根の向こうへ消えてしまった。
ふわはその場に座った。
しばらく空を見ている。
待っているのかもしれない。
けれど、赤とんぼは戻ってこなかった。
ガブが立ち上がった。
歩き始める。
数歩進んで止まった。
振り返る。
ふわはまだ空を見ている。
ガブは待つ。
やがて。
ふわが気づいた。
タタタッ。
ガブのところへ戻る。
そして二匹は、また並んで歩き始めた。
朝の見回りの続きだった。
昼になると。
やっぱり暑くなった。
「まだ秋じゃないねえ」
八百屋のおばさんが額の汗を拭いた。
「朝だけだな」
時計屋のおじいさんが答える。
ガブとふわは日陰にいた。
ガブは眠っている。
ふわも横になっている。
けれど、ときどき目を開ける。
何かが飛ぶたびに顔を上げた。
小さな虫。
鳥。
風に飛ばされた葉っぱ。
そのたびに。
赤とんぼではないかと確かめているようだった。
けれど、赤とんぼは現れなかった。
午後。
学校が終わる時間になった。
遠くから子どもたちの声が聞こえてくる。
「ガブー!」
「ふわー!」
ふわが起きる。
子どもたちがランドセルを背負ったまま走ってきた。
「ただいま!」
「今日もいた!」
一人がふわの前にしゃがむ。
八百屋のおばさんが声をかけた。
「今日ね、ふわが赤とんぼ追いかけてたよ」
「赤とんぼ!?」
子どもたちの目が輝いた。
「どこ!?」
「もういないよ」
「えー!」
「ふわ、捕まえた?」
ふわは子どもを見る。
「捕まえてないよ」
おばさんが笑う。
「ずっと追いかけてたけどね」
「見たかった!」
子どもたちは空を探し始めた。
「いないかな」
「あっ!」
「いた!?」
「違った。鳥だった」
「大きすぎるでしょ」
商店街に笑い声が響いた。
ガブはその少し離れたところに座っていた。
夕方。
子どもたちはランドセルを家に置き、また戻ってきた。
空は少しずつ橙色になっている。
ガブとふわは石段にいた。
子どもたちも近くに座る。
昼間より、ずっと涼しい。
風が通る。
ふわの毛が揺れた。
そのとき。
「あっ!」
一人の子が立ち上がった。
「いた!」
みんなが見る。
一匹の赤とんぼが飛んでいた。
朝の赤とんぼと同じなのか。
別の赤とんぼなのか。
誰にも分からない。
けれど。
ふわには、そんなことは関係なかった。
すぐに立ち上がる。
目で追う。
赤とんぼが低く飛ぶ。
ふわも走る。
「ふわ、行った!」
「がんばれ!」
「捕まえちゃダメだよ!」
「どっちだよ!」
また笑い声が起きる。
赤とんぼは、ふわの少し先を飛んでいく。
ふわは追う。
けれど今度は飛びつかなかった。
ただ、その後ろを小走りでついていった。
赤とんぼは夕日の中を進んでいく。
その小さな羽が、光を受けてきらりと輝いた。
やがて。
すーっと高く上がる。
ふわが止まる。
赤とんぼは商店街の屋根より高いところへ上がり、そのまま夕暮れの空へ消えていった。
ふわは見上げている。
ガブがやって来た。
ふわの隣に座る。
二匹で同じ空を見た。
子どもたちも並んで空を見る。
「夏、終わるのかな」
一人が言った。
「もう終わってるんじゃない?」
「でも今日暑かったよ」
「じゃあ、まだ夏?」
「分かんない」
時計屋のおじいさんが、少し離れたところから言った。
「季節なんて、今日から秋ですって変わるもんじゃないさ」
子どもたちが振り返る。
「じゃあ、いつ秋になるの?」
「気づいたときには、なっとる」
「なにそれ」
「そんなもんだ」
子どもたちには、よく分からなかった。
けれど。
ガブとふわには、もっと分からなかった。
それでいい。
昨日まで聞こえていた蝉の声。
今朝の少し涼しい風。
端が黄色くなった葉っぱ。
そして今日、商店街へやって来た赤とんぼ。
小さな変化が、一つずつ増えていく。
夕方の風が吹いた。
ガブが立ち上がる。
ふわも立ち上がった。
二匹は並んで歩き始める。
その後ろを、子どもたちがついていく。
空には、もう赤とんぼはいなかった。
けれどふわは、ときどき空を見上げた。
また飛んでくるかもしれない。
そう思っているのかもしれなかった。
野良猫ガブは、今日も何もしない。
ただ、赤とんぼを夢中で追いかけるふわを待ち、また一緒に歩き出しただけだった。
商店街にはまだ夏の名残が残っている。
けれど、その上を吹き抜ける風の中には。
秋が、昨日よりほんの少しだけ増えていた。




