秋の匂いがした朝
朝。
ガブが目を覚ました。
いつもの段ボールの家。
いつもの商店街。
隣では、ふわがまだ丸くなって眠っている。
ガブはゆっくりと顔を上げた。
そして、鼻を動かした。
すん。
もう一度。
すん。
何かが違う。
何が違うのかは、ガブにも分からない。
昨日と同じ場所なのに。
昨日と同じ朝なのに。
空気の中に、これまでとは違うものが混じっていた。
ガブは段ボールの家から出た。
空はよく晴れている。
建物の間から朝の光が差し込み、商店街の道を細長く照らしていた。
けれど。
暑くない。
もちろん、涼しいと言うほどでもない。
昼になれば、きっと今日も暑くなる。
それでも朝の空気だけは、少し軽かった。
ガブはその場に座った。
風が吹く。
ふわり。
片方だけ欠けた耳が、わずかに動いた。
その風には、夏の盛りにあったむっとするような熱がなかった。
ガブが振り返る。
段ボールの家から、ふわが顔を出していた。
「にゃ」
小さな声。
ふわも外へ出る。
そしてガブと同じように鼻を上げた。
すん。
すん。
ふわの耳が動く。
ガブを見る。
ガブは何も言わない。
もちろん、ふわも何も言わない。
それでも二匹は、同じものを感じているようだった。
朝の見回りが始まった。
ガブが歩く。
ふわがその隣を歩く。
最初は八百屋。
ガラガラガラ。
ちょうどシャッターが開いた。
「おはよう」
八百屋のおばさんが顔を出す。
「今日も二匹そろって早いねえ」
ふわが店先を覗く。
ガブはいつものように通り過ぎようとした。
そのとき。
「ん?」
おばさんが立ち止まった。
両手を腰に当てて、空を見上げる。
「今日はちょっと涼しいね」
ガブの足が止まった。
「やっと朝だけは楽になってきたかねえ」
八百屋のおばさんはうれしそうだった。
夏のあいだ。
毎日のように、
「暑いねえ」
と言っていた。
それが今日は初めて、
「涼しいね」
に変わった。
ガブとふわは歩いていく。
時計屋の前。
おじいさんは、いつものように店先を掃いていた。
シャッ。
シャッ。
シャッ。
「おはようさん」
二匹に声をかける。
そして。
「おや」
ほうきを止めた。
「今日は風が違うな」
ガブが顔を上げた。
ちょうどそのとき。
商店街を風が抜けていった。
時計屋の前に吊るされた小さなのれんが揺れる。
八百屋の葉物が揺れる。
ふわの毛も揺れる。
ガブのひげも揺れる。
風はそのまま、商店街の向こうへ消えていった。
「秋かねえ」
時計屋のおじいさんが呟いた。
魚屋のおじさんが、店の中から声を出した。
「まだ早いだろ!」
「朝だけだよ」
「昼になったら、また暑いぞ!」
「分かっとる」
そんなやり取りが聞こえる。
ガブとふわには、秋という言葉は分からない。
ただ。
気持ちのいい朝だった。
二匹は喫茶ひだまりへ向かった。
店の前には、今日も水が置かれている。
ガブが飲む。
ふわも隣で飲む。
ぺろ。
ぺろ。
夏のあいだは、ここへ来ると二匹とも長いこと水を飲んでいた。
今日は少しだけ飲んで、ガブが先に顔を上げた。
喫茶ひだまりの中では、いつものおじいさんがコーヒーを飲んでいた。
窓の外を見る。
「来たな」
店主が笑う。
「毎日同じ時間ですね」
「猫のほうが時計より正確かもしれんな」
窓の向こうでは、ガブが歩き始めていた。
ふわも続く。
おじいさんはコーヒーカップを口元へ運んだ。
そして、ふと窓が少し開いていることに気づいた。
「今日は冷房じゃないのか」
「朝は窓を開けたほうが気持ちいいんですよ」
店主が答える。
そこへ風が入ってきた。
コーヒーの香りが、店内にふわりと広がる。
おじいさんは目を細めた。
「確かにな」
外では。
ガブとふわが商店街の端まで来ていた。
いつもなら、夏の朝でもこのあたりまで来るころには日差しが強くなり始める。
けれど今日は違った。
ふわが立ち止まる。
道の端に、一枚の葉っぱが落ちていた。
まだ緑色だった。
ほんの少しだけ、端が黄色くなっている。
ふわが近づく。
すん。
前足で触る。
カサ。
葉っぱが動いた。
ふわも一歩下がる。
また近づく。
ちょん。
カサ。
ふわの耳がぴくっと動く。
ガブは少し離れたところから見ている。
風が吹いた。
葉っぱが転がった。
カサカサカサ。
ふわが追いかける。
葉っぱが止まる。
ふわも止まる。
また風が吹く。
カサカサ。
また追いかける。
ガブは動かない。
しばらくすると、葉っぱは道路の隅で止まった。
ふわはその前に座る。
じっと見つめる。
動かない。
前足で触る。
やっぱり動かない。
興味をなくしたらしい。
ふわはガブのところへ戻ってきた。
ガブが歩き出す。
ふわも並ぶ。
朝の見回りは終わった。
二匹は時計屋の前の石段へ戻ってきた。
ガブがいつもの場所に座る。
ふわもその隣。
日差しが少しずつ強くなってきた。
それでも。
まだ日陰を探さなくても大丈夫だった。
ガブは前足を伸ばした。
そのまま伏せる。
ふわも横になる。
しばらくして。
遠くから声が聞こえた。
「行ってきまーす!」
子どもの声だった。
ガブの耳が動く。
ふわは顔を上げた。
商店街の入り口を、ランドセルを背負った子どもたちが通っていく。
昨日までなら、朝からこちらへ走ってきた子たちだ。
今日は学校へ向かっている。
一人が二匹に気づいた。
「あ! ガブ! ふわ!」
立ち止まりそうになる。
すると別の子が言った。
「遅れるよ!」
「あ、そうだった!」
それでも。
「ガブー! ふわー! またあとでねー!」
大きく手を振った。
ふわが立ち上がる。
数歩だけ、その方向へ歩いた。
けれど子どもたちは学校へ向かっていく。
ふわは止まった。
その背中を見送る。
ガブは石段から動かなかった。
やがて。
ふわも戻ってきた。
ガブの隣に座る。
二匹は、遠ざかっていく子どもたちを眺めていた。
八百屋のおばさんがその様子を見て笑った。
「夕方になったら、また来るよ」
ふわが振り返る。
「それまではガブと一緒にいな」
ふわは再びガブの隣で丸くなった。
ガブも目を閉じる。
しばらくすると。
商店街には静かな朝が戻った。
蝉が鳴いている。
けれど、ずっとではない。
鳴いて。
止まって。
しばらく静かになって。
また遠くで鳴き始める。
その間から、小さな鳥の声が聞こえた。
風が通る。
カサ。
さっきの葉っぱが、また少しだけ動いた。
昼になれば。
今日も暑くなるだろう。
蝉も、もう一度元気に鳴くかもしれない。
かき氷だって、まだおいしい。
夏はまだ完全にはいなくなっていない。
けれど。
朝だけは。
少しずつ違う季節になり始めていた。
ガブは目を閉じたまま。
ふわも、その隣で眠り始める。
風が二匹の間を抜けていく。
夏の匂い。
土の匂い。
店から漂う野菜や魚の匂い。
喫茶ひだまりから流れてくるコーヒーの匂い。
そして、その中に。
ほんの少しだけ。
昨日まではなかった匂いが混じっていた。
それが何なのか。
ガブには分からない。
ふわにも分からない。
それでも二匹は、その風の中で気持ちよさそうに眠っていた。
野良猫ガブは、今日も何もしない。
ただ、少しだけ変わった朝の空気の中で、ふわと一緒に眠っていただけだった。
商店街には、まだ夏が残っている。
けれど、そのすぐ隣まで。
秋が静かにやって来ていた。




