夏休み最後の日
朝の商店街に、いつものようにシャッターの開く音が響いた。
ガラガラガラ。
一軒。
少し間を置いて、また一軒。
夏のあいだ、毎朝繰り返されてきた音だった。
ガブは、いつもの段ボールの家から顔を出した。
まだ朝だというのに、空は明るい。
けれど、少し前までとは何かが違っていた。
照りつけるようだった朝の日差しが、ほんの少しだけやわらかくなっている。
ガブの隣から、ふわも顔を出した。
「にゃ」
小さく鳴いて、外へ出る。
ガブも続いた。
二匹の朝の見回りが始まる。
八百屋の前。
時計屋の前。
魚屋の前。
そして、喫茶ひだまり。
もうすっかりおなじみになった道だった。
「おはよう、ガブ。ふわ」
八百屋のおばさんが声をかける。
ふわは一度だけ振り返った。
ガブはそのまま歩いていく。
「相変わらずだねえ、ガブは」
おばさんが笑った。
けれど、そのあとで店先に並べていた野菜から顔を上げ、商店街を見渡した。
「あれ?」
何かが足りない。
いつもの夏休みの朝なら、そろそろ聞こえてくるはずの声があった。
走ってくる子どもたちの声だ。
ところが今日は、まだ静かだった。
しばらくして。
「ガブー!」
遠くから声がした。
ガブの耳が、ぴくっと動いた。
「ふわー!」
二人の子どもが走ってくる。
その後ろから、もう一人。
三人とも、いつものように元気だった。
けれど今日は、一人の子が肩から小さなバッグを下げていた。
「いた!」
子どもたちは二匹の前まで来ると、しゃがみ込んだ。
ふわは慣れた様子で近づいていく。
ガブは少し離れたところで座った。
「今日で夏休み終わりだよ」
一人の子が言った。
もちろん、ガブには夏休みが何なのか分からない。
ふわにも分からない。
けれど、声がいつもより少しだけ静かなことには気づいたのかもしれない。
ふわがその子の顔を見上げた。
「明日から学校かあ」
「やだなあ」
「でも友達に会えるじゃん」
「会えるけどさあ」
三人でそんな話をしている。
八百屋のおばさんが笑った。
「長かった夏休みも終わりかい」
「短かった!」
「そうかい?」
「めちゃくちゃ短かった!」
「大人になるとねえ、一か月なんてあっという間だよ」
「子どもでもあっという間だよ!」
そのやり取りを聞いて、時計屋のおじいさんまで店の奥で笑っていた。
子どもたちは、そのままガブとふわについて歩き始めた。
今日は夏休み最後の日。
だからなのか、特に何をするでもなく、二匹と一緒にいたかった。
ガブが歩く。
ふわが歩く。
その後ろを、子どもたちがついていく。
魚屋の前を通る。
「おっ、今日は大行列だな」
魚屋のおじさんが言った。
先頭はガブ。
その横にふわ。
後ろに子どもが三人。
「ガブ探検隊だな」
「違うよ!」
子どもがすぐに答えた。
「ふわもいるから、ガブふわ探検隊!」
「長いなあ」
みんなが笑った。
ガブだけは何事もなかったように歩いている。
商店街の端まで行くと、二匹は立ち止まった。
少し風が吹いた。
昨日までと同じようで、少し違う風。
いつかの夕方に吹いていた、あの涼しい風に似ていた。
今日は朝にも、その気配が混じっている。
子どもの一人が言った。
「ちょっと涼しくなったね」
「うん」
「夏終わるのかな」
誰もすぐには答えなかった。
まだ蝉は鳴いている。
まだ半袖で十分だ。
昼になれば、きっと暑い。
それでも。
夏の真ん中ではないことだけは、みんな何となく分かっていた。
昼になると、やっぱり暑くなった。
商店街のアスファルトが明るく照らされる。
ガブとふわは日陰へ移動した。
子どもたちも喫茶ひだまりへ逃げ込んだ。
「暑いー!」
「さっき涼しかったのに!」
店主が笑いながら、水を出してくれた。
「夏はそんな簡単には帰らないよ」
窓の外では、ガブが寝ている。
そのすぐ近くで、ふわも横になっていた。
二匹の間には、もうほとんど隙間がなかった。
子どもたちは窓越しにその姿を見る。
「最初、ふわってこんなにガブと一緒じゃなかったよね」
一人が言った。
「うん」
「ガブ、最初ちょっと嫌そうだった」
「嫌そうじゃないよ。ガブはいつもあんな顔だよ」
「確かに」
三人が笑った。
夏休みのあいだにも、いろいろなことがあった。
暑い日。
雨の日。
大きな水たまりができた日。
スイカを食べた日。
風鈴が鳴った日。
盆踊りの夜。
花火のあと。
朝顔が咲いた朝。
蝉の抜け殻を見つけた日。
そして、そのどの日にも。
商店街にはガブがいた。
いつの間にか、ふわもいた。
午後。
子どもたちは一度家へ帰った。
宿題を終わらせなければならないらしい。
「まだ終わってないのかい!」
八百屋のおばさんが驚いた。
「あとちょっと!」
「昨日もそう言ってなかった?」
「今日は本当にあとちょっと!」
走って帰っていく子どもたちを、ふわが目で追った。
ガブは寝ていた。
夕方。
空が少しずつ橙色に変わり始めたころ。
子どもたちは、また商店街へ戻ってきた。
「終わったー!」
大きな声が響く。
「宿題?」
八百屋のおばさんが聞く。
「終わった!」
「本当に?」
「たぶん!」
「たぶんって何だい」
また笑い声が起きた。
ガブとふわは、いつもの場所にいた。
子どもたちは二匹のそばに座った。
今日は何か特別な遊びをするわけでもない。
ただ、一緒に夕方を過ごした。
蝉の声が聞こえる。
けれど、少し遠い。
その代わり、植え込みのあたりから小さな虫の声が聞こえ始めていた。
風が吹く。
ふわが顔を上げる。
ガブの耳が動く。
子どもたちの髪も揺れた。
「明日から、朝来れないね」
一人が言った。
「学校だからね」
「ガブたち、どうするかな」
「どうするって?」
「朝、俺たちいないじゃん」
しばらく沈黙した。
三人とも、ガブを見る。
ガブは前足をそろえて座っていた。
いつもの顔だった。
「たぶん……」
一人が言った。
「普通に見回りするんじゃない?」
「するね」
「絶対する」
三人が笑った。
ガブにとっては、夏休みが始まった日も。
夏休み最後の日も。
たぶん、それほど変わらない。
朝になれば起きる。
商店街を歩く。
八百屋の前を通る。
時計屋の前を通る。
喫茶ひだまりの前を通る。
疲れたら休む。
暑ければ日陰へ行く。
そして今は、その隣にふわがいる。
それだけだ。
「明日、学校終わったら来るからね」
子どもがふわに言った。
ふわは、その子の指先の匂いを嗅いだ。
「ガブもね」
ガブにも言う。
ガブは一度だけ目を細めた。
返事なのかどうかは分からない。
でも子どもは、
「分かったって」
と言った。
「絶対分かってないよ」
「分かってるよ」
そんな話をしながら、子どもたちは立ち上がった。
「じゃあね、ガブ」
「ふわ、また明日!」
「明日は夕方ね!」
三人が帰っていく。
ガブとふわは、その背中を見送った。
ふわは少し長く見ていた。
やがて姿が見えなくなる。
そのとき。
風が吹いた。
昨日よりも、ほんの少しだけ涼しい。
商店街の風鈴が鳴った。
チリン。
ガブが歩き出す。
ふわも、その横に並ぶ。
二匹の影が、夕暮れの商店街に長く伸びた。
八百屋のおばさんが、その姿を見ていた。
「明日から静かになるねえ」
時計屋のおじいさんが答える。
「朝だけな」
「そうだね」
学校が終われば、また子どもたちはやってくる。
だからこれは、別れではない。
ただ、毎日朝から晩まで一緒だった時間が終わるだけ。
季節が少し進むだけ。
ガブとふわは、いつもの寝床へ戻った。
ふわが先に丸くなる。
ガブもその近くに座る。
しばらくして、ガブも体を横たえた。
ふわが少しだけ近づいた。
二匹の背中が触れる。
夜の商店街から、蝉とは違う虫の声が聞こえてきた。
夏休み最後の夜だった。
明日の朝。
子どもたちはランドセルを背負って学校へ向かう。
けれどガブは、きっといつも通り商店街を歩く。
そして、その隣にはふわがいる。
野良猫ガブは、今日も何もしない。
ただ、夏休み最後の日を、いつもの商店街で過ごしていただけだった。
その隣で、ふわも静かに眠っていた。
夏はまだそこにいる。
けれど夜の風の中には、ほんの少しだけ。
次の季節の匂いが混じり始めていた。




