セミの声が少し遠くなる日
朝の商店街は、いつもより静かだった。
空は青い。
夏の朝らしい、明るい空。
けれど、何かが少し違っていた。
時計屋の石段で、ガブが目を開ける。
隣では、ふわが丸くなって眠っていた。
ガブがゆっくり体を起こす。
ふわも目を覚ます。
二匹はいつものように石段を下りた。
朝の見回り。
八百屋。
魚屋。
パン屋。
喫茶ひだまり。
いつもの道。
いつもの匂い。
いつもの人たち。
けれど、歩き始めてすぐに、ふわが立ち止まった。
耳を動かしている。
ガブも立ち止まる。
二匹はしばらく動かなかった。
聞こえてくるのは、風の音。
店を開ける音。
遠くを走る自転車の音。
そして、かすかな蝉の声。
じじじ……。
いつもなら、商店街を包むように鳴いている。
けれど今日は、その声が少し遠かった。
八百屋のおばさんも気づいていた。
店先に水をまきながら、空を見上げる。
「蝉の声、少し静かになったねえ」
ちょうど通りかかった時計屋のおじいさんが、耳を澄ます。
「そうだな」
短い返事。
でも、その顔には少しだけ夏の終わりを感じるような表情が浮かんでいた。
まだ暑い。
まだ夏だ。
それでも、何かが変わり始めている。
喫茶ひだまりの前では、女性が朝の準備をしていた。
店先の朝顔には、新しい花がひとつ咲いている。
「今日はきれいに咲いたね」
女性が水をやる。
ふわが近づいて、花を見上げる。
青い花びら。
その向こうから、蝉の声が聞こえる。
じじじ……。
ふわは少しだけ耳を傾けた。
それから、また歩き始める。
昼になる。
太陽は高い。
暑さはまだ厳しい。
子どもたちが商店街を走っている。
「暑い!」
「水飲もう!」
喫茶ひだまりの前で、みんなが休憩する。
ガブとふわも日陰で休んでいる。
子どもたちのひとりが、ふと空を見上げた。
「ねえ」
「なに?」
「蝉、少なくない?」
みんなで耳を澄ます。
しばらくすると、遠くから声が聞こえてくる。
じじじ……。
誰かが言う。
「ほんとだ」
「昨日はもっと鳴いてたよね」
子どもたちは少し不思議そうな顔をする。
でも、すぐに別の話を始める。
夏休みの宿題。
昨日見た花火。
かき氷。
そんな話をしながら笑っている。
ガブは目を閉じている。
ふわも隣で横になっている。
蝉の声は、二匹の頭上を通り過ぎていく。
少し遠く。
夕方。
太陽が傾く。
いつもと同じように、二匹の影が石畳に伸びていく。
けれど今日は、もうひとつ違うものがあった。
蝉の声が少ない。
代わりに、虫の声が少しずつ聞こえ始めている。
りん。
りん。
まだ小さな音。
でも、確かにそこにある。
ふわが耳を動かす。
ガブも少しだけ顔を上げる。
二匹はその音を聞いた。
商店街の人たちも気づいていた。
八百屋のおばさんが店先で言う。
「秋が近づいてきたのかねえ」
時計屋のおじいさんが笑う。
「まだまだ暑いけどな」
「そうだねえ」
二人とも笑う。
まだ夏は終わっていない。
朝顔も咲いている。
かき氷もまだ食べたい。
子どもたちの夏休みも、まだ残っている。
それでも、季節は少しずつ動いている。
夜。
ガブは時計屋の石段で丸くなった。
ふわは木の塀の近くで眠る。
少し離れた二つの寝場所。
でも、二匹の耳には同じ音が届いていた。
遠くの蝉の声。
そして、その向こうから聞こえる小さな虫の声。
りん。
りん。
ふわが目を閉じる。
ガブも目を閉じる。
夏の夜は、静かに深くなっていった。
野良猫ガブは、今日も何もしない。
ただ、少し遠くなった蝉の声を聞いていただけだった。
その隣で、ふわも新しい季節の音を聞いている。
まだ夏。
けれど、商店街のどこかで、次の季節が小さな声で始まっていた。




