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半ば物思いに耽りながら、ヴィオレッタはもう一度ティーカップへ手を伸ばした。
伏せた睫毛の陰から、眺めるともなくウォルター様の姿をなぞる。静かに考えに耽っていらっしゃるよう。
ヴィオレッタも静かに、ただ唇をカップの縁に置いた。
王族の政治的利でないならば、もちろん。
それは王族の私情でしょう。
(マリアンさん。可愛らしい方でしたものねえ。)
心の中でしみじみと思い返し、ふふ、と思わず声が漏れた。
愛人にしても良いはずだけれど、そこまで踏み切れないのは若さかしら。可愛らしい。
もしかしたら今後、マリアンさんとご一緒になられるなら、わたくしがいたときよりも大変な思いをするかもしれないけれど。大事な人なのだものね。殿下にはぜひとも頑張っていただきたいわ。
男の子ですからねえ。愛する人のためにはこのくらい、安いものでしょう。
馴染みない味だけれども、なかなか美味しい。
宮廷では、前世で言う紅茶と同じようなお茶の、厳格に厳選された茶葉ばかりを使っていた。
あれはあれでとても美味しいものだけれど、このような、雑多......と言うのは言葉が悪いかもしれないけれど、様々な植物が配合されたお茶はあまり経験がない。
前世でも、ハーブティーのような洒落たものなんて、あまり飲まなかった。新鮮ねえ。
そっとカップ越しに眺めるウォルター様は、机上のカップに目を伏せながら、お髭を撫でられた。
机上に拳を作って、開いて、そしてもう一度撫でられた。
考えるように手を止めて......もう一度。
......あらまあ。
とても困ってらっしゃる。
一見そうとは伺えないけれど、とても、困っていらっしゃる。
もはやとうに貴族令嬢の身代に馴染んだといえど、レイモンド殿下と自分の婚約が決まったと知ったときを思い出してしまって、少し憐れみ混じりにヴィオレッタは小さく微笑む。
突然、孫ほども年下の子供が嫁いできたんだものねえ。しかもそれが自分の元生徒なのだから......気持ちが忍ばれる。
(貴族としてはそれほど珍しくもないけれど...平民の生まれの方ですからねえ。お可哀そうだこと。)
ひとしきり同情すると、ヴィオレッタは自分のカップを傾けた。
完全に他人事の顔だ。
だって、もう決まってしまったことですものね。
残念ながら、ここ以外わたくしに行くところもないのだし。修道院や働き口、以前の伝手を頼りに身を寄せるところを探せないこともないでしょうけれど。
今のところ、そうする理由もない。
ヴィオレッタはもう一度、まだ思い悩んでいる様子のウォルターを見て、そっとカップの後ろに微笑んだ。
(...何にせよ、優しそうな方で良かったわ。)
視線を感じたのか目が合ったので、にっこり笑いかけてカップを置いた。どちらにしろ、もうとっくに空だった。
同じようにカップを下げたウォルター様は、何かを思い定めたようで、真っ直ぐにわたくしへ目を向けてきた。
「本日、書類を受け取られましたな?」
「ええ」
「今日のパーティーを楽しむ時間があったならばよろしいが」
これまた直截な言い方で、ヴィオレッタは思わず、はたと口元を押さえてしまった。そうしなければ笑いそうで。
「あまり時間はありませんでしたわねえ。さわりだけならば、楽しませて頂きましたけれど」
「...私がレイモンド殿下に挨拶申し上げた頃には、既におられなかった」
とうとう、ヴィオレッタは軽い笑いを零しながら頷く。
「あら、行き違いになってしまったようですねえ。そのときには諸々の書類を手渡されて、学園を出ていたころでしょう」
「...学園パーティーで?」
「ええ」
「......殿下から直接」
「ええ。他にも、殿下の御学友もいらっしゃいましたわ。いつの間にあんなにお友達が増えていらしたのかしら」
「ほう」
ウォルターは、また自分のカップに視線を落とした。
ウォルター様のカップも空ではないかしら。
自分のためにポットを引き寄せるついで、ヴィオレッタは声をかけてみる。
「おかわりはいらっしゃる?」
軽く持ち上げられた年齢に深く彫られた目が、射るようにヴィオレッタを真正面から見つめた。
「......ああ、ありがとう」
一拍遅れて、気がついたようにウォルター様の目元は緩んだ。
と、思い出した素振りでトン、と指でテーブルを叩く。
そこに瓶そのままのミルク、砂糖壺そのままの砂糖、そして後付けに空のミルクポットとシュガーポットが現れる。
「すまない、忘れていた。お好みの飲み方はありましたかな?」
「いえいえ、ミルクとお砂糖でも美味しくいただきますけれど、ストレートでも十分です。特にこの茶葉はとても美味しいものですから、味わわせていただいています」
「そう言っていただけると、有難い。私はどうも気が利かない」
安心したように肩を落としながら、その指先は、タタンッ、と規則的にテーブルを踊った。
途端に色とりどりの火花を散らして、現れたときと同じように茶器たちは突然消える。
「まあ...」
目を上げると、ウォルターはヴィオレッタを微笑んで見ていた。
ヴィオレッタも、上げたカップに笑みを隠す。
きっとこれは、わざとでしょう。緊張を解こうとしてくれたのね。
ウォルター様の、まだどこか緊迫している目を見る限り、自分の気を散らそうというのもあったのかもしれないわねえ。上手なやり方をなさるわ。
ウォルター様がしっかりとカップを置くころには、目に見える緊迫の一切はなくなっていた。
「お茶をありがとう」
そう伝える声さえも、穏やかで揺らぎない。
静かに椅子を浮かせて、ウォルターは立ち上がった。
「申し訳ない......庭を見ればおわかりでしょうが、若いお嬢さんどころか、客人を迎える準備すらろくにできていない家でしてな」
少しばかりお道化た苦笑は、ヴィオレッタが今までに見かけたとおりの“学園長”らしいものになっていた。
「あら、いいえ。いきなり押しかけてしまったのはこちらですもの...」
ヴィオレッタも後を追って立ち上がる。
ということは、寝所をご一緒するつもりはないということなのねえ...。今のところ、わたくしは客人の扱いかしら。
ウォルター様がどのような距離を望んでいらっしゃるのか、手がかりのひとつとして拾い上げておく。
ウォルターはすかさず数歩近づき、ヴィオレッタの椅子をテーブルに押し戻した。
礼を言うと、ただ口髭の下でにっこり笑って返される。
「しかし、どうにかいたしましょう。急ごしらえで申し訳ない。そのときに、家の案内も共にいたしますぞ。どうですかな?」
「ええ、もちろんですわ。わざわざありがとうございます」
「なんの。狭苦しい平民の家です、大した労はかかりますまい」
ウォルター様は手早く自分とヴィオレッタのティーカップを持ち上げて、流し台へ向かってしまった。
まるで置き忘れられたような他の茶器類を思わず振り返ると、ヴィオレッタが手に取る間もなくそれらのポットたちはふわりと浮いて、まるでカルガモの雛のようにウォルターの背を追った。
まあ...。
ヴィオレッタは口に手を当てた。この家に来てから、もう幾度もこのような魔法を見てもなお、思わず足を止めてそれを見守る。
先ほどから、ウォルター様は自分の手足のように自然に魔法を使っていらっしゃる。器用なものねえ。
一歩遅れて、ヴィオレッタもウォルターを追った。
「お手伝いできますかしら」
すでにローブごとシャツの袖を捲り上げていたウォルターは、一瞬、何を言われたのかわからない様子だった。
それから、手にしたスポンジを見下ろす。
きっと、一人暮らしの間に自分で洗い物をするのが習慣になっていらっしゃるのね。とヴィオレッタは黙想してみる。
「いやいや、私とて魔法以外にも、割らずに茶器を片付けるくらいはできますぞ」
「まあ、ふふふ。それは頼もしいですけれど、わたくしにも何かさせていただきたいわ」
スポンジを手にしたまま、ウォルターはヴィオレッタが笑っているのをしばし見つめていた。
それから、安心したように破顔する。先ほどと同じ、眉に皺を寄せた柔らかい苦笑だった。
「それでは、お任せしよう」
スポンジを水で濡らし、洗い粉を揉みこみながら、口髭と長い顎髭との間に笑みが覗く。
「安心致しました」
「あら。何に?」
「このような老いぼれに縁付いても、ヴィオレッタ嬢があまり気落ちしておられぬことに」
手際よく洗われていく食器を覗き込みながら、ヴィオレッタは壁に掛けられた布巾を取った。
男性の手が大きいからかしら。ヴィオレッタだと数度持ち替えなければいけないような食器を、ウォルターは一度くるりと片手でスポンジを巡らせるだけで洗う。
洗い物には魔法を使わないのねえ...。
そう思ったけれど、カップの中の水が、まるで前世の洗濯機のように独りでに渦を巻いている。カップを引っくり返して中の水を捨てれば、内側はピカピカに洗われていた。
これはまた細やかな制御...。
ウォルターから濡れたカップを受け取り、布巾を滑らせる。
「そうですねえ...気落ちはしておりませんわねえ...」
そうやってカップを手の中で回して、ヴィオレッタもゆったりと返事を答えだした。今度は持ち手を布巾で包み、続く言葉を考える。
今までの悩みようもなかなか気の毒だったけれど、このヴィオレッタを強く気にかけるような言葉を聞いて、さすがに可哀そうに思ったのだ。
風采どおりに若い娘であれば、これでヴィオレッタが勇気づけられることもあるかもしれない、しかし...ウォルターにほど近い年まで生きた記憶がある身としては...。
(ウォルター様からすると、わたくしは孫くらいに見えているのかもしれないわねえ...。)
それは心が痛むだろうと、こちらも心が痛む。
ひたすらに憐れみを感じる。
それで何かもうひとつ、ふたつ、言い添えてみることにした。
「わたくしとウォルター様は、平民の夫婦となりましたでしょう」
「......そのようですな」
(...あらまあ。諦めの悪い方。)
なんだか微笑ましいような心持ちで、ヴィオレッタは水滴を拭った茶器を丁寧に並べた。
「ですから...そうねえ、もう少し、軽く受け取ってみてはいかがかしら」
「ほう。軽く?」
ウォルターの相槌に、ヴィオレッタも優しく頷く。
そう、軽く。
「たとえこの婚姻に至るお考えが知れたとして...わたくしどもにできることはあまりないでしょう。けれど、仮にこの婚姻が情勢に影響を与えるとしても、わたくしとウォルター様に類が及ぶこともない。良しにつけ悪しきにつけ、これはあくまでも平民二人の契約に過ぎませんから」
黙してヴィオレッタに耳を傾けていたウォルターは、泡だらけの手を止める。
だからこの婚姻が結ばれたところで、自分たち二人の在り様が大きく変わることはない、とヴィオレッタは言っているのだ。
「そういうもの、ですかな」
「ええ、あまり重く考えなさらずに」
ヴィオレッタはおっとりと笑む。柔らかな眼差しでウォルターを見つめた。
「今は平和な時代ですからねえ。第二王子殿下のまわりが多少荒れましても、国が荒れることはございませんでしょう」
成り上がりで祖父ほども年嵩で、長く平民として生きた男は、凛と背を伸ばした、高貴な身分にあった年若い貴婦人を見てほんの少し眉を下げた。そして笑った。
彼女の生き様を否定するつもりはない。それもまた、尊く、美しいものだ。
「そういう......ものなのでしょうな。ヴィオレッタ嬢が言うならば」
「ふふ、ええ。そういうものですねえ」
「......であれば、私が言うことは何もない」
静かな視線と笑みとを交わしたあと、二人は精神年齢の高さが伺える沈黙に落ち着き、各々の思考と手仕事に戻った。




