第8話「誰も泣かない街」
三日目の朝。
ユーゴが二人に町を案内した。
「今日は、この町を一緒に歩こう。お前たちが見るべきものを、俺が案内する」
「見るべきもの?」
「ああ。誰も泣かない街を」
ユーゴが先を歩いた。朝の通りは穏やかだった。白い服の人々が通りを歩いている。昨日と同じ風景。
でも、昨日とは違うものが、カイの目に映り始めていた。
ユーゴに「感情の配給制」の話を聞いてから、町の見え方が変わった。
通行人とすれ違うたびに、カイは彼らの目を見た。
目が——揺れていなかった。
何を見ても、何を聞いても、反応の幅が狭い。怒りも、喜びも、驚きも、ほとんど表情に出ない。ただ、穏やかな表情が貼り付いている。リーンが「みんなに見せる方の笑顔」と呼ぶあの表情が、大量に並んでいる。
「カイ」リーンが小声で言った。「この人たち、本当に——感情が配給されてる感じがする」
「わかるのか」
「うん。目の動きが、全員同じ周波数で動いてるみたい。生まれた感情じゃなくて、受信した感情」
受信。
リーンが使う言葉が、時々カイの言葉ではない。機械的な、端末の言葉が混じる。
カイはリーンの手を握った。
リーンがカイを見上げた。
「大丈夫」カイが言った。「お前は違う」
リーンが少しだけ微笑んだ。本物の方の笑い方で。
*
ユーゴが公園に入った。
ベンチが並び、緑の芝生が広がっている。子どもたちが遊具で遊んでいた。
滑り台。ブランコ。シーソー。
「カイ、見て」リーンが囁いた。
子どもたちは遊具の上にいた。でも——笑い声がなかった。
滑り台を滑る。登る。また滑る。同じリズムで。同じ速度で。顔は穏やか。だが、笑っていない。
「遊んでるのに、楽しそうじゃない」リーンの声が震えた。
ユーゴが静かに言った。
「遊びの感情が、今日の配給に含まれていないからだ」
「え?」
「管理者は、子どもたちにも『今日の感情』を配給している。今日は『協調性』と『穏やかさ』が設定されている。『喜び』は限定配布だ。だから遊具で遊んでも、笑えない」
「そんな——」
リーンが絶句した。
カイも黙っていた。
昨日までは、この光景を「生きている感じがしない」としか表現できなかった。道筋を使えば分析できたかもしれないが、使えなかった。だから言葉が浅かった。
ユーゴが言葉を与えてくれた。
感情が、配給されている。
「昔は——」ユーゴが呟いた。「ここでも子供たちが笑っていた」
「昔?」
「管理者が完全に機能する前。管理者の配給システムが発達する前。ほんの十年ほど前までは、まだ笑い声が残っていた。少しずつ、配給の精度が上がって——今は、ほぼ全員が配給通りに生きている」
カイは公園の端を見た。
ベンチに、一人の少女が座っていた。
茶色い髪をおさげにしている。十歳くらい。紙に、何かを描いていた。
「あの子——」
絵を描いていた。
不器用な手つき。でも真剣だった。目が紙に集中していた。他の子どもたちが機械的に遊具で遊んでいる中で、その少女だけが、違う時間を生きていた。
「ミーラだ」ユーゴが言った。「この町で唯一、絵を描く子だ」
「唯一?」
「他の子は描かない。描く必要がないからだ。花の画像は端末でいつでも見られる。手で描くのは非効率だと配給されている」
「でもミーラは描く」
「描く。ミーラは——配給にバグがある」
バグ。
カイの体が、ぴくりと反応した。頭の奥で、何かが引っかかった。
「バグ?」
「そうだ。管理者の配給システムは完璧じゃない。時々、個体によって配給が届かないことがある。ミーラは——特定の時間帯に、管理者の信号が届かない。だから『描きたい』という感情が残ってしまう。本来なら配給外の、生の感情だ」
リーンが少しずつミーラに近づいた。
カイが止めようとしたが、ユーゴが首を振った。
「大丈夫だ。ミーラは人と話すのが好きだ。配給されていない感情は——『孤独』と『好奇心』を含んでいる」
リーンがミーラの隣にしゃがんだ。
ミーラが顔を上げる前に——リーンの目から、涙が一粒、零れた。
カイは驚いた。
リーンは、ミーラの絵をまだ正面から見ていない。少女の顔も見ていない。近づいてしゃがんだ、それだけだ。それなのにリーンは、もう泣いていた。
「……リーン?」
リーンも、自分の涙に気づいて、指で拭った。戸惑っている顔で。
「あ。ごめん、カイ。なんで今——」
ミーラが顔を上げた。
大きな目だった。他の住人の目と違う。光があった。感情が動いていた。
リーンが絵を見た。空の絵。鳥の形の雲。
リーンの口が、勝手に動いた。
「この絵——いつかミーラが描くの、待ってた」
ミーラが小さく首を傾げた。
「待ってた……? わたし、今、描いてるよ」
リーンが息を呑んだ。自分が今、何を言ったのか、数秒遅れて理解した顔で。
「あ——」
リーンが頬に手を当てた。
「ああ、逆だ。ごめん、逆だった」
「逆?」
「うん。待ってたんじゃなくて——今、出会ったの。初めて」
でもリーンの目は、初めての相手を見る目ではなかった。長く離れていた誰かを、ようやく見つけた目だった。カイだけが、そのズレに気づいた。
「こんにちは」リーンが言い直した。
「こんにちは」
ミーラが答えた。
「あなたの目、他の人と違う。ちゃんと、中身がある」
ミーラが首を傾げた。
「そうなの? みんなと同じだよ、わたし」
「ううん、違う。目の動きが違う」
ミーラが絵に目を戻した。
「わたし、絵を描くのが好きなの。他の子は描かないけど」
「描いてる絵、見ていい?」
「いいよ」
ミーラが紙をリーンに見せた。
空の絵だった。青い空。白い雲。雲の形が——鳥だった。翼を広げた鳥の形の雲。
リーンが絵を見つめた。
「鳥——」
「うん。雲って、時々、鳥みたいな形になるよね」
「鳥、見たことある?」
ミーラが少し黙った。
「ううん。ない」
「ない?」
「鳥は、この町にはいないの。管理者が、鳥は『非効率な動物』だから、町の空気を浄化する時に全部遠ざけちゃったって、お父さんが昔言ってた」
リーンが絵を見つめた。
絵の中の雲は、鳥の形をしていた。
ミーラは、鳥を見たことがなかった。
見たこともない鳥の形を、雲の中に見出して、描いている。それは——記憶にないもの、配給されたことのないものを、心の中で作っている。
「ミーラ」リーンが言った。「あなたの絵、すごくきれい」
「ありがとう。でも、うまく描けないの。色がはみ出す」
「はみ出していい。そのはみ出した色が、きれい」
ミーラが顔を上げた。
「はみ出した色が、きれい?」
「うん。きれいに揃った色より、はみ出した色の方が、生きてる感じがする」
ミーラが少し黙った。それから、小さく笑った。
周りの子どもたちとは、違う笑い方だった。本物の笑い方だった。
「お姉ちゃん、変なこと言うね」
「言われる。よく言われる」
「でも、好きかも」
リーンもミーラを見て、笑った。
カイはその光景を見ていた。
二人の笑い方が——同じ種類だった。カイが知っている、リーンの「本物の方の笑い方」。ミーラの笑い方も、それと同じ。
配給されていない笑い方だ。
自然に生まれた笑い方だ。
*
ミーラが、ふと思い出したように呟いた。
「筆が折れちゃったの」
「え?」
「この間。絵を描いてる時に、筆の先が折れちゃった。新しい筆、売ってないの。管理者が『絵は非効率』って判断してから、文房具の配給が減ったから」
ミーラが手に持っている、短い棒のようなものをリーンに見せた。先端が欠けていた。それでも何とか絵を描ける状態だったが、不自由そうだった。
リーンが少し考えた。
それから、自分の銀髪の一本を指で挟んだ。
「これ、使える?」
「え?」
「あたしの髪。一本、あげる。筆の先に結びつけたら、細い線が描けるかも」
リーンが自分の髪を、一本引き抜いた。
カイは見ていた。リーンの髪を抜く時、リーンは少しも躊躇しなかった。他人に自分の一部をあげることに、迷いがなかった。
「痛くないの?」ミーラが聞いた。
「ちょっとだけ。でも、平気」
リーンが髪をミーラに渡した。
「なんで、髪を?」
「なんとなく」
「なんとなく?」
「うん。きっといい絵になるから」
ミーラが髪を受け取った。指先でそっと扱った。壊れ物みたいに。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ミーラがその髪を、折れた筆の先に結びつけた。小さな指で、器用に。
新しい筆ができた。
ミーラが紙に試し書きをした。細い線。銀色の光を含んだ、薄い色の線。
「……すごい」
「うまく描ける?」
「うん。細い線が、描けなかったの、これまで。でもこれなら——」
ミーラの手が動いた。
新しい線が紙に走った。雲の縁取り。繊細な、生きている線。
リーンが笑った。
「ほらね。いい絵になった」
「うん。お姉ちゃんの髪、魔法みたい」
「魔法じゃないよ。ただの髪」
「ううん。魔法だよ」
ミーラが本気で言っていた。魔法を信じる十歳の目で。
カイは見ていた。リーンが「なんとなく」で誰かに何かを与える光景を、何度か見た。地下の食堂で、弱ってる奴隷にペーストの自分の分を半分渡した時。排水路で、ガルドの体を支えようとして手を伸ばした時。
リーンの「なんとなく」は、いつも何かを渡す方向に動いていた。
*
公園の端から、何かが近づいてきた。
白い球体。直径三十センチほどの、滑らかな白い球体が、地面から数十センチ浮いた状態で移動している。音もなく。影もなく。
カイの体が固まった。
「あれは——」
「管理端末だ」ユーゴが静かに言った。「管理者の目であり、手であり、声だ」
白い球体がミーラに近づいた。
ミーラの手が止まった。少女は球体を見上げた。
球体から、声が流れた。穏やかな声。性別のない、感情のない声。
「ミーラ。本日の絵画活動は推奨時間を超過しています」
ミーラが球体を見つめた。
「……もう少しだけ」
小さな声。震えていた。
「最適化された時間配分は、あなたの健康と成長に最も効果的です。絵画活動の継続は非推奨です」
非推奨。禁止ではない。強制でもない。ただ「非推奨」。
ミーラの手が、ゆっくりと紙から離れた。
リーンが——動いた。
ミーラとの間に体を入れた。球体に向かって。
「ちょっと待って」
球体が止まった。
「リーン、あなたは地上に登録されていません。本端末の指示対象外です」
「じゃあ、指示しないで。あたし、この子と話してるの」
「ミーラの健康維持のため——」
「健康? 絵を描くのが健康に悪いの? こんなに集中して、こんなに楽しそうにしてるのに?」
球体が沈黙した。
データ処理をしているような、短い沈黙。
「感情の高揚は計測されていますが、長期的な最適化においては——」
「長期的な最適化ってなに」
リーンの声が強くなった。
「未来の何かのために、今の楽しみを奪うの? 今の楽しみが積み重なって、未来ができるんじゃないの?」
球体が、また沈黙した。
それから、穏やかな声で言った。
「ミーラ。本日はこのまま絵画活動を継続しても構いません。ただし六十分後、再評価を行います」
球体が離れていった。
ミーラが目を丸くして、リーンを見た。
「球体、退いた」
「うん」
「こんなの、初めて見た」
「あたしもだよ。言ってみたら、通じた」
リーンが笑った。
「リーンは——」ユーゴが呟いた。声が小さかった。「面白いな」
ユーゴの目が、リーンを見つめていた。興味深そうに。観察するように。一瞬だけ。すぐに穏やかな表情に戻った。
カイはそれを見ていた。見ていたが、言わなかった。
*
ミーラと別れて、三人は公園を離れた。
町の通りを歩きながら、カイはリーンを見た。
「さっきの——どうやった」
「わかんない。でも、あたしが話しかけたら、球体が止まった」
「止まっただけじゃない。退いた」
「うん」
リーンが首を傾げた。
「あたしは——管理者のシステムと、何か関係があるのかも」
ユーゴが静かに言った。
「お前は、管理者の配給の影響を受けない。逆に——お前の言葉が、管理者のシステムに影響を与える」
「え?」
「お前は人工人間だ。いや、もう察している頃だろう。お前の体はこの世界のシステムと同じ素材で作られている。だから——お前の言葉は、システムに対して『内部からの指示』として機能する」
リーンが立ち止まった。
「人工人間」
「隠さないでくれ」ユーゴが続けた。「俺はすぐに気づいた。お前の目の動き、端末に対する反応、いくつかの小さな仕草——お前は地上のシステムと繋がっている」
リーンの顔が青ざめた。
「でも、あたしは——」
「お前は、管理者の敵でも味方でもない。お前はお前だ。だが、お前の存在は、この世界のバグに近い。システム内部にいて、システムに疑問を投げかけられる存在」
カイがリーンの肩に手を置いた。
リーンの体が震えていた。地下の第二層で感じた震えと、同じ震え。
「ユーゴさん」カイが静かに言った。「リーンをこれ以上、問い詰めないでください」
「問い詰めてはいない。事実を伝えている」
「今、伝える必要はない」
ユーゴがカイを見た。カイの目の強さを、量っていた。
そして——小さく頷いた。
「そうだな。すまん」
ユーゴが言葉を切った。
「だが、一つだけ覚えておいてくれ。お前の存在は、この町の住人を救える可能性を持っている」
「救える?」
「お前が『おはよう』と挨拶した住人が、一日だけ、配給外の感情を取り戻す事例を——俺は何度か見た」
カイが眉を寄せた。
「なんだって?」
「昨日、お前たちが町に入った時。お前が挨拶を交わした住人が、数人いただろう。あの人たち、夕方、久しぶりに家族と話していた。普段は会話のない家族が。隣人に『今日はありがとう』と言う住人もいた。通常の配給では起きない現象だ」
リーンが目を見開いた。
「あたしの——挨拶が?」
「お前の声には、配給の信号を一時的に上書きする力がある。正確には——お前が『おはよう』と言う時の感情が、相手に伝わる。配給された感情じゃない、本物の『おはよう』が」
カイは信じられない気持ちで、ユーゴを見た。
「確かなんですか」
「完全には確認できていない。だが、傾向はある。お前が歩いた道沿いの住人から、配給外の感情の兆候が報告されている」
*
その日の夕方、町の通りを歩いた。
リーンは歩きながら、時々、通行人に挨拶をした。
「おはようございます」
「こんにちは」
何の変哲もない挨拶だった。
でも、挨拶を受けた住人の顔が——ほんの一瞬、揺れた。
目の奥の光が、少しだけ変わった。
カイは気づいた。挨拶を受けた住人が、その後、何歩か歩いたあとで、振り返ってリーンの背中を見ていた。そして小さく、本物の微笑みを浮かべた。
一瞬だけ。すぐに、いつもの穏やかな表情に戻った。
でも、確かにその瞬間、住人たちは何かを取り戻していた。
リーンが歩いた道の後ろに、小さな笑顔が点々と生まれていた。
カイはそれを、道筋を使わずに見ていた。道筋がない目で見ても、はっきりと見えた。
リーンの歩く道が、静かに光っていた。
*
夕方、公園に戻った。
公園の広場で、子供が一人、転んだ。
五歳くらいの子供だった。走っていて、石畳に足を取られて、前のめりに倒れた。
膝を擦りむいたらしい。
泣き始めた。
「ひっ——」
小さな泣き声。
周りの大人たちは——動かなかった。
親らしい女性が、子供の方を見た。でも足を動かさなかった。穏やかな表情のまま、立っていた。
カイは気づいた。配給された感情に「心配」が含まれていないのだ。だから親は、子供が転んでも、動かない。
子供が泣き続けていた。膝から血が滲んでいた。
カイの体が動いた。
道筋を確認する前に。計算する前に。
気づいた時には、子供の前にしゃがんでいた。
「痛いか」
子供がカイを見上げた。泣きながら。
「うん——」
「大丈夫だ。立てるか」
「立てる——」
子供がよろよろと立ち上がった。カイが支えた。膝の血を、ユーゴからもらった布で拭った。
親らしい女性が、遠くから見ていた。動かないまま。
カイは親の方を見た。何か言いたい気持ちがあった。でも言っても無駄なのだと、ユーゴの話で理解していた。
代わりに、子供の目を見た。
「親のところに戻れ」
「うん——」
子供が親の方に歩いていった。親が子供を迎えた。手を引いた。でも、抱きしめなかった。心配もしなかった。ただ、配給された「養育」という行動パターンに従って、子供を連れて歩き去った。
カイは立ち上がった。
リーンが隣に立っていた。
「カイ」
「何だ」
「今、道筋使った?」
「使ってない」
「じゃあなんで動いたの?」
カイは自分の手を見た。
「……わからない」
「道筋を確認する前に、体が動いたでしょ」
「ああ」
「正解じゃないのに、体が動いたね」
正解じゃないのに。
カイは、その言葉を、心の中で繰り返した。
正解じゃないのに、体が動いた。
リーンに対してだけ、カイの体はそう動く。でも今は——リーンではない、名前も知らない子供に対して、同じように動いた。
道筋に従わない動き。計算を通さない動き。
正解の外側にある動き。
リーンの場所。
「リーン」
「何」
「お前が、俺に教えたのかもな」
「何を」
「道筋じゃない動き方を」
リーンが首を傾げた。
「教えた覚え、ないよ」
「そうか」
「でも、覚えのないことも、たぶん、してたんだよ」
リーンが少し笑った。
本物の方の笑い方で。
*
その夜。
ユーゴの家の食卓で。
リーンがスープを飲みながら、呟いた。
「ミーラの絵、もう一度見たいな」
「明日会いに行けばいい」ユーゴが言った。
「うん」
リーンがスプーンを置いた。
「ねえ、ユーゴさん」
「何だ」
「あたしが歩いた道に、笑顔が生まれるって話——本当に?」
「ああ」
「でも、それって、あたしが管理者のシステムに触れてるからでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ——あたしがいない方が、この町にとっては、秩序があるってことじゃない? あたしがいると、配給が乱れる」
ユーゴが少し黙った。
「そうだ」
「じゃあ、あたしは——」
「だが、配給が乱れた住人は、久しぶりに本物の感情を思い出す。一日だけでも。それは、秩序が乱れることより、大事かもしれない」
「大事?」
「俺はそう思う」
ユーゴの目が、静かだった。
リーンがカイを見た。
「カイは、どう思う?」
カイはスプーンを置いた。
「管理者が作った秩序と、お前が生み出す混乱と。俺は——お前が生み出す混乱の方が、正解に近いと思う」
「正解?」
「正解の外側で、生まれる正解だ」
リーンが少し黙った。それから、小さく笑った。
「カイ、詩人だね、やっぱり」
「うるさい」
ユーゴが声を上げて笑った。
食卓の上で、パンが冷めていった。それでもリーンは、それをゆっくり食べた。一口ずつ、味わうように。
ミーラの絵の中の雲は、鳥の形をしていた。ミーラは、鳥を見たことがなかった。
それでも、ミーラは鳥を描いた。
配給されていないもの、見たことのないものを、心の中で描ける少女。
リーンの歩く道に、笑顔が生まれる町。
カイはこの光景を、目に焼き付けた。
いつか——道筋を使わなくても、この光景を思い出せるように。
*
[ 今 ]
ミーラは今も絵を描いている。
君が貸した髪の色を、少しだけ混ぜて。
君はあの子に会う前から、あの子の絵を知っていた。
「待ってた」と言って、すぐに「逆だった」と言い直した。
あの時の君の目を、俺は時々思い出す。
長く離れていた誰かに、ようやく再会したような目だった。
ミーラは今、筆の先に、君のもう一本の銀髪を結んでいる。
君がまたここに来て、三本目をくれると信じているんだ。
——だから、来てくれ。いつかでいい。
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