↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/15

第8話「誰も泣かない街」

三日目の朝。


ユーゴが二人に町を案内した。


「今日は、この町を一緒に歩こう。お前たちが見るべきものを、俺が案内する」


「見るべきもの?」


「ああ。誰も泣かない街を」


ユーゴが先を歩いた。朝の通りは穏やかだった。白い服の人々が通りを歩いている。昨日と同じ風景。


でも、昨日とは違うものが、カイの目に映り始めていた。


ユーゴに「感情の配給制」の話を聞いてから、町の見え方が変わった。


通行人とすれ違うたびに、カイは彼らの目を見た。


目が——揺れていなかった。


何を見ても、何を聞いても、反応の幅が狭い。怒りも、喜びも、驚きも、ほとんど表情に出ない。ただ、穏やかな表情が貼り付いている。リーンが「みんなに見せる方の笑顔」と呼ぶあの表情が、大量に並んでいる。


「カイ」リーンが小声で言った。「この人たち、本当に——感情が配給されてる感じがする」


「わかるのか」


「うん。目の動きが、全員同じ周波数で動いてるみたい。生まれた感情じゃなくて、受信した感情」


受信。


リーンが使う言葉が、時々カイの言葉ではない。機械的な、端末の言葉が混じる。


カイはリーンの手を握った。


リーンがカイを見上げた。


「大丈夫」カイが言った。「お前は違う」


リーンが少しだけ微笑んだ。本物の方の笑い方で。


   *


ユーゴが公園に入った。


ベンチが並び、緑の芝生が広がっている。子どもたちが遊具で遊んでいた。


滑り台。ブランコ。シーソー。


「カイ、見て」リーンが囁いた。


子どもたちは遊具の上にいた。でも——笑い声がなかった。


滑り台を滑る。登る。また滑る。同じリズムで。同じ速度で。顔は穏やか。だが、笑っていない。


「遊んでるのに、楽しそうじゃない」リーンの声が震えた。


ユーゴが静かに言った。


「遊びの感情が、今日の配給に含まれていないからだ」


「え?」


「管理者は、子どもたちにも『今日の感情』を配給している。今日は『協調性』と『穏やかさ』が設定されている。『喜び』は限定配布だ。だから遊具で遊んでも、笑えない」


「そんな——」


リーンが絶句した。


カイも黙っていた。


昨日までは、この光景を「生きている感じがしない」としか表現できなかった。道筋を使えば分析できたかもしれないが、使えなかった。だから言葉が浅かった。


ユーゴが言葉を与えてくれた。


感情が、配給されている。


「昔は——」ユーゴが呟いた。「ここでも子供たちが笑っていた」


「昔?」


「管理者が完全に機能する前。管理者の配給システムが発達する前。ほんの十年ほど前までは、まだ笑い声が残っていた。少しずつ、配給の精度が上がって——今は、ほぼ全員が配給通りに生きている」


カイは公園の端を見た。


ベンチに、一人の少女が座っていた。


茶色い髪をおさげにしている。十歳くらい。紙に、何かを描いていた。


「あの子——」


絵を描いていた。


不器用な手つき。でも真剣だった。目が紙に集中していた。他の子どもたちが機械的に遊具で遊んでいる中で、その少女だけが、違う時間を生きていた。


「ミーラだ」ユーゴが言った。「この町で唯一、絵を描く子だ」


「唯一?」


「他の子は描かない。描く必要がないからだ。花の画像は端末でいつでも見られる。手で描くのは非効率だと配給されている」


「でもミーラは描く」


「描く。ミーラは——配給にバグがある」


バグ。


カイの体が、ぴくりと反応した。頭の奥で、何かが引っかかった。


「バグ?」


「そうだ。管理者の配給システムは完璧じゃない。時々、個体によって配給が届かないことがある。ミーラは——特定の時間帯に、管理者の信号が届かない。だから『描きたい』という感情が残ってしまう。本来なら配給外の、生の感情だ」


リーンが少しずつミーラに近づいた。


カイが止めようとしたが、ユーゴが首を振った。


「大丈夫だ。ミーラは人と話すのが好きだ。配給されていない感情は——『孤独』と『好奇心』を含んでいる」


リーンがミーラの隣にしゃがんだ。


ミーラが顔を上げる前に——リーンの目から、涙が一粒、零れた。


カイは驚いた。


リーンは、ミーラの絵をまだ正面から見ていない。少女の顔も見ていない。近づいてしゃがんだ、それだけだ。それなのにリーンは、もう泣いていた。


「……リーン?」


リーンも、自分の涙に気づいて、指で拭った。戸惑っている顔で。


「あ。ごめん、カイ。なんで今——」


ミーラが顔を上げた。


大きな目だった。他の住人の目と違う。光があった。感情が動いていた。


リーンが絵を見た。空の絵。鳥の形の雲。


リーンの口が、勝手に動いた。


「この絵——いつかミーラが描くの、待ってた」


ミーラが小さく首を傾げた。


「待ってた……? わたし、今、描いてるよ」


リーンが息を呑んだ。自分が今、何を言ったのか、数秒遅れて理解した顔で。


「あ——」


リーンが頬に手を当てた。


「ああ、逆だ。ごめん、逆だった」


「逆?」


「うん。待ってたんじゃなくて——今、出会ったの。初めて」


でもリーンの目は、初めての相手を見る目ではなかった。長く離れていた誰かを、ようやく見つけた目だった。カイだけが、そのズレに気づいた。


「こんにちは」リーンが言い直した。


「こんにちは」


ミーラが答えた。


「あなたの目、他の人と違う。ちゃんと、中身がある」


ミーラが首を傾げた。


「そうなの? みんなと同じだよ、わたし」


「ううん、違う。目の動きが違う」


ミーラが絵に目を戻した。


「わたし、絵を描くのが好きなの。他の子は描かないけど」


「描いてる絵、見ていい?」


「いいよ」


ミーラが紙をリーンに見せた。


空の絵だった。青い空。白い雲。雲の形が——鳥だった。翼を広げた鳥の形の雲。


リーンが絵を見つめた。


「鳥——」


「うん。雲って、時々、鳥みたいな形になるよね」


「鳥、見たことある?」


ミーラが少し黙った。


「ううん。ない」


「ない?」


「鳥は、この町にはいないの。管理者が、鳥は『非効率な動物』だから、町の空気を浄化する時に全部遠ざけちゃったって、お父さんが昔言ってた」


リーンが絵を見つめた。


絵の中の雲は、鳥の形をしていた。


ミーラは、鳥を見たことがなかった。


見たこともない鳥の形を、雲の中に見出して、描いている。それは——記憶にないもの、配給されたことのないものを、心の中で作っている。


「ミーラ」リーンが言った。「あなたの絵、すごくきれい」


「ありがとう。でも、うまく描けないの。色がはみ出す」


「はみ出していい。そのはみ出した色が、きれい」


ミーラが顔を上げた。


「はみ出した色が、きれい?」


「うん。きれいに揃った色より、はみ出した色の方が、生きてる感じがする」


ミーラが少し黙った。それから、小さく笑った。


周りの子どもたちとは、違う笑い方だった。本物の笑い方だった。


「お姉ちゃん、変なこと言うね」


「言われる。よく言われる」


「でも、好きかも」


リーンもミーラを見て、笑った。


カイはその光景を見ていた。


二人の笑い方が——同じ種類だった。カイが知っている、リーンの「本物の方の笑い方」。ミーラの笑い方も、それと同じ。


配給されていない笑い方だ。


自然に生まれた笑い方だ。


   *


ミーラが、ふと思い出したように呟いた。


「筆が折れちゃったの」


「え?」


「この間。絵を描いてる時に、筆の先が折れちゃった。新しい筆、売ってないの。管理者が『絵は非効率』って判断してから、文房具の配給が減ったから」


ミーラが手に持っている、短い棒のようなものをリーンに見せた。先端が欠けていた。それでも何とか絵を描ける状態だったが、不自由そうだった。


リーンが少し考えた。


それから、自分の銀髪の一本を指で挟んだ。


「これ、使える?」


「え?」


「あたしの髪。一本、あげる。筆の先に結びつけたら、細い線が描けるかも」


リーンが自分の髪を、一本引き抜いた。


カイは見ていた。リーンの髪を抜く時、リーンは少しも躊躇しなかった。他人に自分の一部をあげることに、迷いがなかった。


「痛くないの?」ミーラが聞いた。


「ちょっとだけ。でも、平気」


リーンが髪をミーラに渡した。


「なんで、髪を?」


「なんとなく」


「なんとなく?」


「うん。きっといい絵になるから」


ミーラが髪を受け取った。指先でそっと扱った。壊れ物みたいに。


「ありがとう」


「どういたしまして」


ミーラがその髪を、折れた筆の先に結びつけた。小さな指で、器用に。


新しい筆ができた。


ミーラが紙に試し書きをした。細い線。銀色の光を含んだ、薄い色の線。


「……すごい」


「うまく描ける?」


「うん。細い線が、描けなかったの、これまで。でもこれなら——」


ミーラの手が動いた。


新しい線が紙に走った。雲の縁取り。繊細な、生きている線。


リーンが笑った。


「ほらね。いい絵になった」


「うん。お姉ちゃんの髪、魔法みたい」


「魔法じゃないよ。ただの髪」


「ううん。魔法だよ」


ミーラが本気で言っていた。魔法を信じる十歳の目で。


カイは見ていた。リーンが「なんとなく」で誰かに何かを与える光景を、何度か見た。地下の食堂で、弱ってる奴隷にペーストの自分の分を半分渡した時。排水路で、ガルドの体を支えようとして手を伸ばした時。


リーンの「なんとなく」は、いつも何かを渡す方向に動いていた。


   *


公園の端から、何かが近づいてきた。


白い球体。直径三十センチほどの、滑らかな白い球体が、地面から数十センチ浮いた状態で移動している。音もなく。影もなく。


カイの体が固まった。


「あれは——」


「管理端末だ」ユーゴが静かに言った。「管理者の目であり、手であり、声だ」


白い球体がミーラに近づいた。


ミーラの手が止まった。少女は球体を見上げた。


球体から、声が流れた。穏やかな声。性別のない、感情のない声。


「ミーラ。本日の絵画活動は推奨時間を超過しています」


ミーラが球体を見つめた。


「……もう少しだけ」


小さな声。震えていた。


「最適化された時間配分は、あなたの健康と成長に最も効果的です。絵画活動の継続は非推奨です」


非推奨。禁止ではない。強制でもない。ただ「非推奨」。


ミーラの手が、ゆっくりと紙から離れた。


リーンが——動いた。


ミーラとの間に体を入れた。球体に向かって。


「ちょっと待って」


球体が止まった。


「リーン、あなたは地上に登録されていません。本端末の指示対象外です」


「じゃあ、指示しないで。あたし、この子と話してるの」


「ミーラの健康維持のため——」


「健康? 絵を描くのが健康に悪いの? こんなに集中して、こんなに楽しそうにしてるのに?」


球体が沈黙した。


データ処理をしているような、短い沈黙。


「感情の高揚は計測されていますが、長期的な最適化においては——」


「長期的な最適化ってなに」


リーンの声が強くなった。


「未来の何かのために、今の楽しみを奪うの? 今の楽しみが積み重なって、未来ができるんじゃないの?」


球体が、また沈黙した。


それから、穏やかな声で言った。


「ミーラ。本日はこのまま絵画活動を継続しても構いません。ただし六十分後、再評価を行います」


球体が離れていった。


ミーラが目を丸くして、リーンを見た。


「球体、退いた」


「うん」


「こんなの、初めて見た」


「あたしもだよ。言ってみたら、通じた」


リーンが笑った。


「リーンは——」ユーゴが呟いた。声が小さかった。「面白いな」


ユーゴの目が、リーンを見つめていた。興味深そうに。観察するように。一瞬だけ。すぐに穏やかな表情に戻った。


カイはそれを見ていた。見ていたが、言わなかった。


   *


ミーラと別れて、三人は公園を離れた。


町の通りを歩きながら、カイはリーンを見た。


「さっきの——どうやった」


「わかんない。でも、あたしが話しかけたら、球体が止まった」


「止まっただけじゃない。退いた」


「うん」


リーンが首を傾げた。


「あたしは——管理者のシステムと、何か関係があるのかも」


ユーゴが静かに言った。


「お前は、管理者の配給の影響を受けない。逆に——お前の言葉が、管理者のシステムに影響を与える」


「え?」


「お前は人工人間だ。いや、もう察している頃だろう。お前の体はこの世界のシステムと同じ素材で作られている。だから——お前の言葉は、システムに対して『内部からの指示』として機能する」


リーンが立ち止まった。


「人工人間」


「隠さないでくれ」ユーゴが続けた。「俺はすぐに気づいた。お前の目の動き、端末に対する反応、いくつかの小さな仕草——お前は地上のシステムと繋がっている」


リーンの顔が青ざめた。


「でも、あたしは——」


「お前は、管理者の敵でも味方でもない。お前はお前だ。だが、お前の存在は、この世界のバグに近い。システム内部にいて、システムに疑問を投げかけられる存在」


カイがリーンの肩に手を置いた。


リーンの体が震えていた。地下の第二層で感じた震えと、同じ震え。


「ユーゴさん」カイが静かに言った。「リーンをこれ以上、問い詰めないでください」


「問い詰めてはいない。事実を伝えている」


「今、伝える必要はない」


ユーゴがカイを見た。カイの目の強さを、量っていた。


そして——小さく頷いた。


「そうだな。すまん」


ユーゴが言葉を切った。


「だが、一つだけ覚えておいてくれ。お前の存在は、この町の住人を救える可能性を持っている」


「救える?」


「お前が『おはよう』と挨拶した住人が、一日だけ、配給外の感情を取り戻す事例を——俺は何度か見た」


カイが眉を寄せた。


「なんだって?」


「昨日、お前たちが町に入った時。お前が挨拶を交わした住人が、数人いただろう。あの人たち、夕方、久しぶりに家族と話していた。普段は会話のない家族が。隣人に『今日はありがとう』と言う住人もいた。通常の配給では起きない現象だ」


リーンが目を見開いた。


「あたしの——挨拶が?」


「お前の声には、配給の信号を一時的に上書きする力がある。正確には——お前が『おはよう』と言う時の感情が、相手に伝わる。配給された感情じゃない、本物の『おはよう』が」


カイは信じられない気持ちで、ユーゴを見た。


「確かなんですか」


「完全には確認できていない。だが、傾向はある。お前が歩いた道沿いの住人から、配給外の感情の兆候が報告されている」


   *


その日の夕方、町の通りを歩いた。


リーンは歩きながら、時々、通行人に挨拶をした。


「おはようございます」


「こんにちは」


何の変哲もない挨拶だった。


でも、挨拶を受けた住人の顔が——ほんの一瞬、揺れた。


目の奥の光が、少しだけ変わった。


カイは気づいた。挨拶を受けた住人が、その後、何歩か歩いたあとで、振り返ってリーンの背中を見ていた。そして小さく、本物の微笑みを浮かべた。


一瞬だけ。すぐに、いつもの穏やかな表情に戻った。


でも、確かにその瞬間、住人たちは何かを取り戻していた。


リーンが歩いた道の後ろに、小さな笑顔が点々と生まれていた。


カイはそれを、道筋を使わずに見ていた。道筋がない目で見ても、はっきりと見えた。


リーンの歩く道が、静かに光っていた。


   *


夕方、公園に戻った。


公園の広場で、子供が一人、転んだ。


五歳くらいの子供だった。走っていて、石畳に足を取られて、前のめりに倒れた。


膝を擦りむいたらしい。


泣き始めた。


「ひっ——」


小さな泣き声。


周りの大人たちは——動かなかった。


親らしい女性が、子供の方を見た。でも足を動かさなかった。穏やかな表情のまま、立っていた。


カイは気づいた。配給された感情に「心配」が含まれていないのだ。だから親は、子供が転んでも、動かない。


子供が泣き続けていた。膝から血が滲んでいた。


カイの体が動いた。


道筋を確認する前に。計算する前に。


気づいた時には、子供の前にしゃがんでいた。


「痛いか」


子供がカイを見上げた。泣きながら。


「うん——」


「大丈夫だ。立てるか」


「立てる——」


子供がよろよろと立ち上がった。カイが支えた。膝の血を、ユーゴからもらった布で拭った。


親らしい女性が、遠くから見ていた。動かないまま。


カイは親の方を見た。何か言いたい気持ちがあった。でも言っても無駄なのだと、ユーゴの話で理解していた。


代わりに、子供の目を見た。


「親のところに戻れ」


「うん——」


子供が親の方に歩いていった。親が子供を迎えた。手を引いた。でも、抱きしめなかった。心配もしなかった。ただ、配給された「養育」という行動パターンに従って、子供を連れて歩き去った。


カイは立ち上がった。


リーンが隣に立っていた。


「カイ」


「何だ」


「今、道筋使った?」


「使ってない」


「じゃあなんで動いたの?」


カイは自分の手を見た。


「……わからない」


「道筋を確認する前に、体が動いたでしょ」


「ああ」


「正解じゃないのに、体が動いたね」


正解じゃないのに。


カイは、その言葉を、心の中で繰り返した。


正解じゃないのに、体が動いた。


リーンに対してだけ、カイの体はそう動く。でも今は——リーンではない、名前も知らない子供に対して、同じように動いた。


道筋に従わない動き。計算を通さない動き。


正解の外側にある動き。


リーンの場所。


「リーン」


「何」


「お前が、俺に教えたのかもな」


「何を」


「道筋じゃない動き方を」


リーンが首を傾げた。


「教えた覚え、ないよ」


「そうか」


「でも、覚えのないことも、たぶん、してたんだよ」


リーンが少し笑った。


本物の方の笑い方で。


   *


その夜。


ユーゴの家の食卓で。


リーンがスープを飲みながら、呟いた。


「ミーラの絵、もう一度見たいな」


「明日会いに行けばいい」ユーゴが言った。


「うん」


リーンがスプーンを置いた。


「ねえ、ユーゴさん」


「何だ」


「あたしが歩いた道に、笑顔が生まれるって話——本当に?」


「ああ」


「でも、それって、あたしが管理者のシステムに触れてるからでしょ?」


「そうだ」


「じゃあ——あたしがいない方が、この町にとっては、秩序があるってことじゃない? あたしがいると、配給が乱れる」


ユーゴが少し黙った。


「そうだ」


「じゃあ、あたしは——」


「だが、配給が乱れた住人は、久しぶりに本物の感情を思い出す。一日だけでも。それは、秩序が乱れることより、大事かもしれない」


「大事?」


「俺はそう思う」


ユーゴの目が、静かだった。


リーンがカイを見た。


「カイは、どう思う?」


カイはスプーンを置いた。


「管理者が作った秩序と、お前が生み出す混乱と。俺は——お前が生み出す混乱の方が、正解に近いと思う」


「正解?」


「正解の外側で、生まれる正解だ」


リーンが少し黙った。それから、小さく笑った。


「カイ、詩人だね、やっぱり」


「うるさい」


ユーゴが声を上げて笑った。


食卓の上で、パンが冷めていった。それでもリーンは、それをゆっくり食べた。一口ずつ、味わうように。


ミーラの絵の中の雲は、鳥の形をしていた。ミーラは、鳥を見たことがなかった。


それでも、ミーラは鳥を描いた。


配給されていないもの、見たことのないものを、心の中で描ける少女。


リーンの歩く道に、笑顔が生まれる町。


カイはこの光景を、目に焼き付けた。


いつか——道筋を使わなくても、この光景を思い出せるように。


   *


[ 今 ]


ミーラは今も絵を描いている。

君が貸した髪の色を、少しだけ混ぜて。


君はあの子に会う前から、あの子の絵を知っていた。

「待ってた」と言って、すぐに「逆だった」と言い直した。

あの時の君の目を、俺は時々思い出す。

長く離れていた誰かに、ようやく再会したような目だった。


ミーラは今、筆の先に、君のもう一本の銀髪を結んでいる。

君がまたここに来て、三本目をくれると信じているんだ。

——だから、来てくれ。いつかでいい。


────────────────


この物語は、フルボイス・360°背景のサウンドノベル版でも読めます。

ブラウザだけで、インストール不要・無料です。


▶ https://yuichi916.github.io/seikai.html


オープニング映像(92秒)

▶ https://www.youtube.com/watch?v=AYpOA6ArBCg


──────────

この物語には、フルボイス・360°背景の「サウンドノベル版」があります。

インストール不要・無料。ブラウザを開くだけで、この場面をそのまま遊べます。

https://yuichi916.github.io/seikai.html

──────────

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。