第6話「空」
朝日が昇りきった。
カイとリーンは丘の上に立っていた。地下からの出口——錆びた金属の蓋を閉めた場所から、もう五十歩も離れていた。
リーンは空を見上げていた。
ずっと見上げていた。首を反らしたまま、動かなかった。
銀色の髪が風に煽られて、顔にかかる。いつもなら口に入って騒ぐところだ。「暴れる」とか「入った」とか。カイが黙って袖を破って渡すまでの一連のやり取りがあるはずだった。
今朝は、髪が顔にかかっても、リーンは気にしなかった。
空だけを見ていた。
「リーン」
返事がなかった。
「おい、リーン」
カイは近づいた。リーンの横顔を見た。
灰色の瞳に、空が映っていた。青い空だ。夜明けの残りの紫を吸い込みながら、徐々に深い青に変わっていく空。雲一つない、完全な青。
リーンの口が動いた。
「空って、こういう青なんだ」
小さな声だった。
風の音に溶けそうなほど小さな声。でもカイの耳には、はっきりと届いた。
その声の抑揚が——カイには、初めて聞く声なのに、どこかで聞いた声に似ていた。三年前、母がまだ生きていた頃、壁の「空」という字を書いた時の声。
(——なぜ、リーンの声が、母の声の節回しで出てくる)
カイは自分の耳を疑った。聞き違えだと思った。でも、違った。リーンの中に、母の声のパターンが、どこかに入っている。そんな錯覚がした。
「ああ」
「あたし、もっと白いと思ってた。地下の照明みたいな白。でも——青なんだ。こんなに、青なんだ」
リーンが空に向かって手を伸ばした。
指先が震えていた。
触れるはずがない空に、リーンは手を伸ばしていた。掴もうとしているのではない。確かめようとしているのでもない。ただ——届かないものに、届かないと知りながら手を伸ばしていた。
「カイ。あたしの手、青くなってる」
「なってない。空気は色を持ってない」
「でも、青い気がするの。空を見上げてると、体の中まで青くなる気がする」
カイは何も言わなかった。
リーンの手が、ゆっくりと下りてきた。指先がまだ震えている。
その震えが、手のひら全体に広がっていた。肩も震えていた。膝も。リーンの体が、小刻みに震えていた。
寒さではない。朝日が二人を照らしている。暖かい朝だ。
恐怖でもない。誰も追ってきていない。
ただ——震えていた。
*
カイは道筋を展開しなかった。
昨夜、ノーグの存在を道筋が警告してきた。道筋を使うたびに位置が漏れるかもしれない。今は温存するのが正解だ。
だからカイは、自分の目だけでリーンを見た。
リーンは笑っていなかった。
二種類の笑い方のどちらも使っていなかった。みんなに見せる方でも、カイだけに見せる方でもなく、ただ無表情だった。
いや、違う。
表情がないのではない。表情を作る余裕がないのだ。顔の筋肉の全てが、何か別のものに使われている。
リーンの目が、膨らんでいた。
灰色の瞳の表面に、水の膜が張っていた。朝日がその膜に反射して、一瞬だけ光った。
カイの心臓が止まった。
水。
目の表面に、水がある。
リーンの目から、一粒だけ、水が零れ落ちた。
頬を伝って、顎から落ちた。草の上に、小さな点を作った。
カイは動けなかった。
リーンも動かなかった。
二人とも、草の上に落ちた一粒の水を見ていた。
やがて、リーンが自分の頬に触れた。
指先に水がついた。
リーンが指先を見た。しばらく見ていた。それから、もう一度頬に触れた。また水が指についた。
さっきよりも、たくさん。
「カイ」
声が震えていた。
「これ——何」
「……涙だ」
「なみだ」
リーンが繰り返した。初めて聞く言葉のように。
「なみだって、こういう風に——勝手に出てくるの?」
「ああ」
「あたし、泣いてるの?」
「ああ」
リーンが自分の頬を触り続けた。何度も。水が出てくることを確かめるように。指先が濡れるたびに、灰色の瞳が少しずつ揺らいだ。
「あたし、泣けないはずなのに」
「泣けてる」
「なんで。なんで今——」
「わからない」
「あたしもわからない」
リーンの頬を、また水が伝った。今度は一粒ではなかった。続けざまに二粒。三粒。止まらなくなっていた。
リーンの顔が歪んだ。
笑顔の反対だった。初めて見るリーンの表情だった。眉が寄り、口角が下がり、目が細くなり、そして——口が開いた。
小さな声が漏れた。
「ひっ——」
泣き声だった。
人が泣く時の、一番最初に喉から漏れる音。喉が震えて、息が切れて、言葉にならない音だけが出てくる。
リーンは泣いていた。
声を上げて泣いているのではない。大袈裟に泣いているのでもない。ただ、体から押し出されるように、声と水が漏れていた。
「ひっ——ひ——」
「リーン」
「あたし——あたし、なんで泣いてるんだろう」
「わからない」
「泣きたいって、思ってないのに——」
「ああ」
「体が勝手に——」
リーンの膝が折れた。
草の上に崩れた。両手で顔を覆った。指の隙間から水が零れて、手首を濡らした。
カイはリーンの隣にしゃがんだ。
道筋を展開する前に、体が動いていた。第四話の排水路の時と同じ。第五話の昇降機の時と同じ。リーンに対してだけ、体が先に動く。
でも何をすればいいのか、わからなかった。
リーンが泣いているのは、初めて見る光景だった。地下の廃棄層で出会ってから今日まで、リーンは一度も泣かなかった。ガルドと別れた排水路でも泣かなかった。第二層の研究施設で体が強張った時も泣かなかった。泣きたいと言っても、涙は出なかった。
リーンは「泣けない少女」だった。
それが——今、泣いている。
「カイ」
「ああ」
「泣くの、やめたい」
「やめなくていい」
「でも、止まらないの」
「止めなくていい」
リーンが顔を覆った手を、ゆっくりと下ろした。
赤い目が、カイを見た。水で濡れた頬が、朝日を反射していた。
「泣いていいの?」
カイは一瞬、言葉に詰まった。
何を言うべきか、わからなかった。道筋なら正解を教えてくれる。道筋がない今、カイには自分の言葉しかない。
でも、口が動いた。
「泣いていい」
声が少し震えた。
「泣いていいんだ、ここは」
ここは。
地下ではない。廃棄層ではない。番号で呼ばれる場所ではない。
ここは——地上だ。
空があって、風があって、光があって、草があって。そして、泣くことが許される場所だ。
「ここは——泣いていい場所だ」
リーンの顔が、また歪んだ。
今度は、さっきよりも大きく。声が喉から押し出された。「ひっ」ではなく、「うっ」に近い、低い音。
「うっ——」
「うあ——」
「あああ——」
リーンが泣いた。
声を上げて。全身で。膝を草の上に折って、両手を地面について、口を大きく開けて。
十六年分の涙が、一気に噴き出したかのようだった。
いや、十六年ではない。リーンの年齢は、設計書に書かれている通りなら「十五歳固定」だ。でも今、リーンが泣いている涙は、十五年では足りない。もっと長い、もっと深い、体の中に溜め込まれてきた何かが、一気に溢れ出していた。
記憶がない少女の、記憶にない時間の涙だった。
カイはリーンの背中に手を置いた。
触れるか触れないかの距離ではなく、はっきりと。第二層の研究施設でリーンが震えた時、カイがリーンの手を握ったのと同じように。
リーンの背中は温かかった。いつも冷たいリーンの体が、今は温かかった。泣いているから。泣くことで、体が熱を持っているから。
「カイ——」
「ああ」
「あたし、人間みたいだね」
「人間だ」
「わかんない。でも、泣いてる今だけは——人間みたい」
リーンが小さく付け加えた。
「……なんで、こんなに懐かしいんだろう、この泣き方」
カイはその言葉を聞き流しそうになった。聞き流せなかった。生まれて初めて泣く人間が、「懐かしい」という言葉を使うはずがない。
「ああ」
カイの頬も、いつの間にか濡れていた。
自分が泣いていることに、気づくのが遅れた。リーンを見ていて、自分のことは後回しになっていた。
でも涙は出ていた。カイも泣いていた。
ガルドのために。母のために。十六年間泣けなかった全ての出来事のために。そしてリーンが初めて泣いていることのために。
二人は草の上で泣いた。
空の下で。朝日の中で。誰にも見られない丘の上で。
泣くことだけで、時間が流れていった。
*
リーンの涙が、やがて止まった。
嗚咽が小さくなり、肩の震えが静まり、呼吸が整っていった。
リーンは草の上に座り直した。膝を抱えて。目を赤くして。
カイも隣に座った。涙の跡を袖で拭った。
二人ともしばらく黙っていた。
風が吹いた。リーンの銀髪が揺れた。髪が口に入った。
いつもなら、リーンが騒ぐところだ。
今は、騒がなかった。
ただ、片手で髪を払って、また膝を抱えた。
「カイ」
「ああ」
「あたし、泣いたね」
「ああ」
「生まれて初めて、かな」
「かもしれない」
「なんでだろう」
リーンが空を見上げた。涙の跡が残る顔で。
「空を見たら、泣けた。理由はわかんない。空があまりに青くて、風があまりに優しくて、草があまりに柔らかくて——それで、体が壊れたみたいに泣けた」
「壊れたんじゃない」
「壊れたんだよ、きっと。十六年分の我慢が」
「壊れたっていうより——」
カイは言葉を探した。
「溶けた、って言うのかもしれない」
「溶けた」
「地下では、凍ってた。何もかも。泣く機能も、多分。でもここに出てきて、光が当たって、風が当たって——氷が溶けた」
リーンがカイを見た。
「カイ、詩人みたい」
「うるさい」
「でも、そうかも。あたしの中の氷が溶けた」
リーンが笑った。
本物の方の笑い方だった。口角が小さくて、目が細くなる笑い方。泣いた直後なのに、笑えていた。目が赤いまま、笑えていた。
カイの胸の奥で、何かが温かくなった。
「カイ」
「何だ」
「あたし、泣くって気持ちいいんだね。体が軽くなる。何かが抜けていく」
「ああ」
「カイは——よく泣くの?」
「三年前に母さんが死んでから、昨夜まで一度も泣かなかった」
「三年」
「ああ」
「じゃあカイも、ここで氷が溶けたんだね」
カイは空を見上げた。
青い空。果てしない青。母が壁に書いてくれた「空」という文字。それが、確かにここにあった。そして——泣くことが許される場所に、カイは辿り着いた。
「ああ。溶けた」
風が吹いた。
二人の涙の跡を、風が乾かしていった。
*
しばらく座っていた。
太陽が高くなっていく。気温が上がっていく。地下では感じたことのない熱が、体全体を包んでいった。
「カイ。暑い、ってこういうことなんだ」
「ああ」
「地下では寒いか普通しかなかったのに」
「俺もだ」
「全部、初めてだ」
リーンが立ち上がった。まだ足がふらついていた。泣いた後だから。
カイは手を差し出した。
リーンが、その手を取った。
冷たくない手だった。泣いたことで温かくなった手。震えていない手。
「ありがとう」
「何だ」
「泣いていいって、言ってくれて」
カイは目を逸らした。
「そんなの——ただ、思っただけだ」
「でも、言ってくれた」
リーンがカイの手を握ったまま、歩き出した。
「行こう、カイ」
「どこへ」
「町の方」
二人は丘を下り始めた。
リーンの足取りは、まだ少し不確かだった。でも確実に前に進んでいた。カイの手を握ったまま。
途中で、リーンが立ち止まった。
「カイ。あたし、もう一回空を見てもいい?」
「好きなだけ見ればいい」
リーンが振り返って、空を見上げた。
青い空。白い雲が少しだけ浮かんでいる。鳥が一羽、遠くを飛んでいた。
リーンはじっと空を見つめた。
「あたし、この青を覚えておく」
「ああ」
「いつか、忘れちゃうかもしれないから。記憶、入ってないから。またすぐに忘れちゃうかもしれないから——今、覚える」
リーンが目を閉じた。しばらく閉じたまま。それから、ゆっくりと開いた。
「うん。覚えた」
カイも空を見上げた。
覚えられるかどうか、わからなかった。道筋で計算すれば完璧に記憶できる。でも今は、そうしたくなかった。
ただ、見た。
ただ、覚えようとした。
道筋を通さない記憶の仕方を、カイも初めてしていた。
*
二時間ほど歩いて、森を抜けた。
目の前に、町があった。
白い建物が整然と並んでいる。花壇。石畳。噴水。地下では考えられない光景が、そこに広がっていた。
「きれい」リーンが呟いた。
「ああ」
「でも——」
リーンが言葉を切った。
「でも?」
「なんか、さっきの空ほどじゃない」
「町が?」
「うん。町は、きれいに作られてる。でも、空はきれいに作られてない。自然にきれいなの。違いがある」
カイはリーンの観察力に、また驚いた。泣いた直後なのに、この少女の目はもう動き始めていた。
「行くぞ」
「うん」
町に入ろうとした瞬間、カイの足が止まった。
道筋が、一瞬だけ光った。
展開したわけではない。勝手に、光った。
警告だ。
ノーグの気配ではなかった。もっと近い。この町の中に——何かがある。
「カイ?」
「……何でもない。行こう」
カイはリーンの手を握り直した。
町に一歩を踏み入れた。
温度が変わった。外の草原では風が吹くたびに暑さが変わったのに、ここでは完璧に均一。湿度も同じだ。人工的に管理されている。
通行人とすれ違った。白い服の男性。三十代くらい。
「おはようございます」
男が言った。
声は穏やかだった。抑揚もあった。目も合った。
リーンの手が——カイの手を、きゅっと握った。
カイはその意味を理解した。この町は、地下より遥かに「整っている」。廃棄層の住人のような虚ろさはない。だからこそ——何かが、おかしい。
「おはようございます」カイが答えた。
男が笑った。きれいな笑顔だった。でも——「みんなに見せる方の笑顔」に似ていた。リーンが使う時の、あの笑顔の構造に。
「どちらから来られた方ですか」
「……旅の者です」
「そうですか。よい一日を」
男は歩き去った。
リーンがカイの顔を見上げた。
「カイ。あの人、目は合ったけど、こっちを見てなかった」
「ああ」
「笑顔も——あたしがみんなに使ってる方と同じ種類だ」
「気づいたか」
「うん。同じ種類の笑顔が、この町全体に並んでる」
カイは町の中を見渡した。通りを歩いている人々。全員が穏やかな表情。全員が同じ種類の笑顔。
まるで——リーンのみんなに見せる方の笑顔が、大量に配置されている光景。
「リーン」
「何」
「ここに長居はできない。でも、水と食料は要る。注意して歩くぞ」
「うん」
リーンがカイの手を離さなかった。泣いた後の温かさが、まだ残っていた。
町の奥に、広場が見えた。白い石畳。中央に噴水。水が透明で、光を弾いている。
そして、広場の端に——小さな絵が見えた。
ベンチの上に、一枚の紙。
風に煽られて、ぱたぱたと動いていた。
誰かが描いた絵だった。
*
リーンがそれを見つけた。
「カイ。あれ」
リーンが広場に向かって歩き出した。カイも続いた。
ベンチの上の紙には、絵が描かれていた。
花の絵だった。赤い花。青い花。黄色い花。不器用な線。はみ出した色。でも——生きていた。
誰かが、この町で、絵を描いていた。
カイは周囲を見た。誰もいなかった。広場の端に人が座っているが、全員が静かに座っているだけ。絵を描いている人間は、どこにもいなかった。
リーンが絵を手に取った。
「この絵——」
「ああ」
「描いた人が、どこかにいる」
「ああ」
リーンが絵を見つめた。絵の裏に、小さな文字が書かれていた。
「ミーラ、10さい」
子どもの字だった。
「十歳の子が、この町で絵を描いてる」リーンが呟いた。「この町で、唯一——」
「唯一、何だ」
「わからない。でも、唯一、何かをしてる人」
カイは絵を見た。
不器用な線。はみ出した色。完璧じゃない。でも——道筋で引いた線とは違う何かが、この絵にはあった。
正解じゃない線。でも、生きている線。
「帰ろう」カイが言った。
「え? この絵、どうするの」
「置いていく。描いた人のものだ」
「でも——」
「描いた人に、会う時が来る。その時にまた見ればいい」
リーンが絵をベンチに戻した。優しく、風に飛ばないように石で押さえて。
「うん」
二人は広場を離れた。
リーンが振り返って、絵を見た。もう一度、もう一度。
絵の中の花が、風に揺れているように見えた。紙が風に煽られているだけなのに。
*
夕方、町の外れに空き家があった。ユーゴと名乗る男に出会う前の夜。二人はその空き家に忍び込んで、床の上で眠った。
窓から月が見えた。丸い白い月。
リーンが月を見上げて、小さく呟いた。
「カイ」
「何だ」
「今日、あたし泣いた」
「ああ」
「忘れないよ」
「ああ」
「空も、覚えた。泣いたのも、覚えた。今日は——記憶に残る一日だよ」
リーンの声が、少し揺れた。
「記憶がないあたしでも、今日だけは覚えてる。絶対に」
カイは天井を見上げた。
答えなかった。答えられなかった。
リーンが「絶対に覚えてる」と言うのは——忘れるかもしれないことを、知っているからだ。
記憶がない少女が、初めて「忘れたくない」と思った日。
それが今日だった。
カイは目を閉じた。
リーンの寝息は——やはり、聞こえなかった。呼吸すら止まるほど静かに横たわっている。
でも、時々、微かに吐息が漏れていた。
「空って、こういう青なんだ」——リーンが呟いた声は、母のものによく似ていた。
似ていた、というより——カイの中で、二つの声が、同じ一つの声として重なった。
*
[ 今 ]
君が泣いたあの青を、俺は毎日思い出している。
間違っていないと思う。
君の「空って、こういう青なんだ」は、母さんの字と同じ声だった。
今になって、やっと、それが偶然ではなかったと分かる。
君の中には、俺の大切な人たちの声が、先に入っていたんだ。
君が出会う前から、君は、もう彼らに会っていた。
——でも、俺はあの時、それを知らなかった。
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