第5話「選べない道」
決行の刻。
カイは配管の裏で、最後に道筋を展開した。
目的:三人で第五層を脱出し、第一層の地上接続口に到達する。
金色の線が、視界いっぱいに広がった。複雑に分岐し、交差し、一部は霧に消え、また現れる。今まで見た中で最も密度の高い道筋だった。
三段階。各段階で最低二つの分岐。変数は監視員の位置、隔壁の電子錠の反応速度、排水路の水位、ガルドの体力。そして——
リーンの未来に、相変わらず空白が点在していた。昨夜、気づいた。小さな穴が、リーンの未来のあちこちに開いている。まるで——データが欠損しているかのように。けれど、今夜の計画の範囲には、重なっていない。それだけが救いだった。
全てを頭に入れた。
目を開けた。
「行くぞ」
リーンが頷いた。右手に端末を握っている。この三十日以上をかけて修理した、上層の通信端末。完全には直っていないが、短時間なら動く。左の作業服のポケットには、金属片が入っている。
ガルドが立ち上がった。六十を超えた体が、今夜だけは若い頃のように力強く見えた。
カイはガルドの横顔を見た。
この男がいなければ、カイは三年前に死んでいた。母の託した約束を、ガルドは二十年近く、自分の中で守り続けてきた。
「カイ。集中しろ」
ガルドの声で、我に返った。
「第一段階。現在時刻は二十一時十分。上昇試験の第二段階実技が二十一時に始まっている。監督官は試験場に集中。隔壁の監視員は通常二名だが、今は一名。グレオが試験場に呼ばれている」
「監視員は誰?」リーンが聞いた。
「フェルツ。左目の視力が弱い。巡回周期は三分。隔壁から離れる時間は四十秒」
「四十秒で電子錠を解除するの?」
「できるか」
リーンが端末を見た。それから隔壁の方向を見た。
「できるよ。だってあたし、ずっと練習してたんだから」
ガルドが小さく咳払いをした。
「緊張感がないな」
「緊張してますよ」リーンが言った。「あたし、緊張するとふざけるタイプなの。覚えてないけど、たぶん」
「覚えてないのにタイプは覚えてるのか」カイが言った。
「体が覚えてるの。いつものやつ」
「行くぞ」カイは言った。
三人は影のように動き出した。
*
通路は暗かった。上昇試験の日は照明が試験場に集中するため、他の区画は最低限の明かりしかない。
道筋が示す。右の通路。十二歩直進。左に曲がる。
隔壁が見えた。
灰色の金属壁。高さ三メートル。中央に電子錠つきの扉。赤いランプが点灯している。
その前に、監視員フェルツが立っていた。
カイは壁の影に三人を押し込んだ。
道筋を展開。フェルツの巡回。あと四十秒で隔壁を離れる。
「リーン。フェルツが動いたら走れ。電子錠まで十五歩。解除に使える時間は四十秒。足りるか」
「足りる」
断言だった。迷いがなかった。
フェルツが動いた。
「今だ」
リーンが飛び出した。銀色の髪が暗闇の中で一瞬だけ光った。十五歩を五秒で駆け抜け、電子錠の前にしゃがみ込んだ。
端末を電子錠のパネルに押し当てた。画面に文字が流れる。リーンの指が走った。迷いなく、正確に、まるで百回やったことがあるかのように。
十秒経過。第一認証突破。
二十秒経過。端末の画面が赤から黄に変わった。第二認証突破。
三十秒。
リーンの指が止まった。
「リーン」
「待って。最後の認証が——暗号キーが違う——」
三十五秒。フェルツの足音が戻ってくる。
道筋が叫んでいる。あと五秒。
「リーン!」
リーンが左手をポケットに突っ込んだ。金属片を取り出した。パネルに押し当てた。
端末と金属片が同時にパネルに触れた瞬間——電子錠のランプが赤から緑に変わった。
ロック解除。扉が開いた。
「行け!」
三人が滑り込んだ。扉が閉まった。
フェルツの足音が隔壁の前に戻ってきた。数秒の沈黙。足音が遠ざかった。
カイは息を吐いた。
「第一段階完了」
*
第四層。
第五層とは空気が違った。廃液の匂いがない。壁が滑らかだ。
試験期間中で、通路は無人だった。
道筋を展開。排水路に向かう。
「こっちだ」
配管室に着いた。ガルドが壁のパネルを外した。
「ここだ。入れ」
排水路の入口。暗い穴。水の音が聞こえる。
カイが先に入った。水が足首まであった。冷たい。
リーンが続いた。水の中に足を下ろした瞬間、小さく声を上げた。
「冷たっ——」
「静かに」
「ごめん。でもこれ、すっごく冷たいよ。あの灰色のペーストの方がまだぬるかった」
「今、ペーストと比較したのか」
「した。だって毎日食べてるんだもん、比較対象がそれしかない」
「ペーストは温度で語るものじゃない」
「じゃあ何で語るの」
「不味さだ」
リーンが口を押さえて笑った。暗闇の中で、笑いをこらえる気配が水面に伝わった。
ガルドが後ろで、咳を混じらせて笑った。
「お前さんたち、こんな状況で漫才しとるのか」
「緊張してるんです」リーンが答えた。
「緊張には見えんな」
「だから、いつものやつで誤魔化してるんです」
ガルドが笑いを飲み込んだ。
「第二段階開始」カイは構わず先に進んだ。「排水路を二十分歩く。途中に狭い場所が一箇所ある。注意しろ」
ガルドが最後に入った。体が大きいため、入口で少し苦労した。
三人は暗闇の中を進んだ。
カイの道筋が先を照らす。見えない光だが、カイには見える。右に曲がれ。段差がある。頭上に配管。しゃがめ。
リーンはカイの服の裾を掴んで歩いていた。暗闇の中では観察力が使えない。
「右に半歩」
「うん」
「三歩直進。しゃがめ」
「うん」
リーンは一度も文句を言わなかった。カイの指示に完全に従った。
十五分が経過した。狭い場所が近い。
「止まれ」
三人が止まった。
前方に、排水路の壁が両側から迫っている場所があった。幅五十センチ。カイとリーンは問題なく通れる。
「ガルド。ここだ」
ガルドが前に出て、狭い場所を見た。
「行ける。待っとれ」
ガルドが横向きになって壁の間に入った。肩が壁に擦れる。服が破れる音がした。
「くっ——」
ガルドがゆっくりと狭い場所を通り抜けていった。カイは道筋を見ていた。ガルドの線は揺れているが、消えていない。通れる。
ガルドが狭い場所を抜けた瞬間——
上の配管から、重い音がした。
経年劣化で緩んでいた天井の一部が、ガルドの振動で崩れた。
「ガルド!」
瓦礫が、ガルドの右脚の上に落ちた。
重い音。水が跳ねた。ガルドが息を詰めた。
「——くっ」
「ガルド!」
カイは狭い場所を通り抜けて、ガルドのもとに駆け寄った。リーンも続いた。
ガルドは倒れていた。右脚が瓦礫と壁に挟まれていた。水の中で、ガルドの顔だけが上を向いていた。
「動かせるか」
「動かねえ。完全に挟まれとる」
カイが瓦礫を押した。重かった。男三人がかりでも動きそうにない重さだった。
道筋を展開した。
目的:ガルドの脚を瓦礫から外す。
金色の線が——
消えた。
いや、違う。線が現れたが、それを辿った先には、時間がなかった。瓦礫を動かすために必要な時間、道具、人手。全てが、今ここにはなかった。
後方から、何かの音が聞こえてきた。瓦礫が落ちた時の振動で、監視員が気付いた可能性があった。
「カイ」
ガルドが、静かに言った。
「脚、終わった。骨がやられた。動かねえ」
「——嘘だ」
「嘘じゃない。脚の感覚が、ない」
カイはガルドの脚を見た。水の中で、血が滲んでいた。細く赤い糸が、水に溶けていく。
「リーン。端末で、地下の緊急医療コードを調べられるか」
リーンが端末を取り出した。指が走った。
「……ある。でも、この場所は廃棄層扱いの扱いで、コードは機能しない。瓦礫が動かせても、医療は来ない」
「なら瓦礫を動かして、連れていく」
「カイ」
「動かす方法がある。リーンの金属片で、排水路の閉鎖弁を動かして水位を上げて、浮力で——」
「カイ」
ガルドが、もう一度、名前を呼んだ。
「聞け」
「聞かない。助ける」
「カイ」
ガルドの声が、静かに強かった。
「お前の母親に、約束したんだ」
カイの世界が、止まった。
「お前を、地上に出すと」
水音が遠くなった。後方の音も、リーンの息遣いも。全部が遠くなった。ガルドの声だけが、カイの耳に入った。
「三年かかった。長くかかりすぎた。だが——今、果たす」
「何を言っている」
「わしはここに残る。お前たちを、先に行かせる」
「ふざけるな」
カイの声が、震えた。
「置いていけない」
「置いていくんじゃない。わしが自分で残るんだ」
ガルドが、微笑んだ。二十年分の皺が、全て柔らかくなる笑みだった。
「嬢ちゃん。そこの隔壁のレバーが見えるか」
リーンが振り返った。狭い場所のさらに奥、昇降機に続く通路の入口に、古い隔壁があった。緊急用の手動隔壁。一度閉めれば、こちら側からは開けられない。
「……見えます」
「あれを閉めろ。わしを残して」
「そんな——」
「嬢ちゃん。カイを、頼む」
リーンが、カイを見た。
カイは首を振っていた。拳を握っていた。爪が掌に食い込んでいた。血が滲んだ。
「ふざけるな、ガルド。三年間、母さんと約束したって——昨日聞いて——今夜離すのか」
「約束を果たすのが今夜だからだ」
「そんな約束いらない! 母さんはそんなつもりで——」
「いや」
ガルドの声が、静かだった。
「あの人は、こういう夜を想定しとった。お前を誰かに託すということは、誰かがお前を守って死ぬ夜が来るということだ。お前の母親は、それを承知で、わしに託した」
カイは膝が折れた。水の中に沈んだ。冷たかった。感覚がなかった。
「嘘だ……」
「嘘じゃない。お前の母は強い女だった」
「死ぬな。死なせない。脚だけだろ。脚だけなら、ここで医者を呼んで——」
「医者は来ない」
「なら俺が——」
「カイ」
ガルドの声が、何かを諦めた声だった。
「死なん」
カイは、顔を上げた。
「え?」
「わしは死なん。脚を失うだけだ。ここに残って、脚を引きずって、生きる」
「でも、医者が来ないなら——」
「出血は、自分で止める。廃棄層で二十年生きてきた。出血の止め方は知っとる」
「そんな——」
「カイ。よく聞け」
ガルドが、カイの手を取った。血の滲んだ、拳を握ったままの手を、ゆっくりと開かせた。
「わしは、生きる。脚を失って、廃棄層の奥で、生きる。お前は、地上に出る。それが今夜の分担だ」
「……でも」
「いつか、お前が地上で力を得たら、戻ってこい。わしを迎えに。その時まで、わしは生きる」
カイは、ガルドの目を見た。
ガルドの目は、諦めていなかった。脚を失う覚悟をしながら、死ぬ覚悟は、していなかった。
「約束だ、カイ」ガルドが言った。「迎えに来い」
「……約束する」
声が、震えていた。
「でも、今、置いていくのは——」
「——俺を一人にするなよ」
カイは言った。
三年間、一度も口にしなかった言葉を。ガルドの前で。リーンの前で。
冷たいカイ。冷静なカイ。道筋で全てを計算するカイ。
その仮面が、砕けていた。
ガルドの目が——一瞬だけ、揺らいだ。
「一人じゃないだろう」
ガルドの目が、リーンに向いた。
「嬢ちゃんがおる」
*
後方の音が、近づいてきた。監視員の足音だった。複数。三人か四人。
「嬢ちゃん。閉めろ」
リーンの手が、隔壁のレバーにかかった。震えていた。
「カイ、お願い」リーンが言った。「閉めないと、みんな捕まる」
カイは動けなかった。
「カイ」ガルドが最後に言った。「考えることをやめるな」
母の言葉と、同じだった。
カイの膝から、力が抜けた。
「ガルド——」
「行け。嬢ちゃん、頼んだ」
リーンが、レバーに力を込めた。
けれど、その前に、最後に一度だけ、レバーから手を離した。
リーンは、ガルドの方を向いた。
水の中で、背筋を伸ばした。
右手を、額の横に、ぴたりと当てた。
昔の兵の敬礼だった。カイは知らない動作。リーンも知らない動作。けれど、リーンの体が、その形を、勝手に覚えていた。
迷いが、一つもなかった。
リーンの指先が、肘の角度が、背筋の伸ばし方が、まるで何度も練習した動作のように揃っていた。初めての動きのはずなのに、関節がその形を知っていた。そして、それよりも——リーンの呼吸が、知っていた。「この瞬間に自分はこうする」と、肺が先に決めていた、そういう呼吸だった。
この別れを、彼女の体はすでに一度、終えていた。
論理に合わない感覚が、リーンの胸の奥で冷たく広がった。隔壁の向こうに老人を残して別れる——この構図を、もう知っている。悲しいのに、悲しみの頂点が少しだけ遅れて届く。まるで、一度泣き終えた後の涙を、もう一度流すみたいに。
「ガルドさん」
リーンが、敬礼のまま言った。
「必ず、迎えに来ます」
ガルドの目が、少しだけ濡れた。
ガルドも、敬礼を返した。水の中に座り込んだまま、右手だけを、額の横に当てた。
「待っとる」
リーンが、レバーに手を戻した。
引いた。
重い音とともに、隔壁が下りてきた。金属の音。水の飛沫。ガルドの姿が、ゆっくりと視界から消えていく。
カイは、その時、ガルドの最後の声を聞いた。
「カイ」
「ああ」
「考えることを——」
隔壁が、完全に閉じた。
「『カイ、考えることをやめるな』──ガルドの声は、閉まる隔壁の向こうで途切れた」
*
カイは、隔壁の前に、座り込んでいた。
リーンが、カイの肩に手を置いた。
「カイ。行かないと」
カイは動かなかった。
「カイ。ガルドさんが生きてるうちに、あたしたちが地上に出ないと、ガルドさんの今夜の選択が無駄になる」
「……」
「カイ。立って」
リーンの声が、強かった。
カイは、顔を上げた。
リーンが、泣いていなかった。泣けないはずの少女が、泣いていない目で、カイを見ていた。
「カイ」リーンが続けた。「ガルドさんが敬礼した意味、わかる?」
「……」
「『任せた』って意味だよ、あれ。昔の兵隊さんの敬礼。指揮を譲る時の敬礼」
「なぜわかる」
「わからない。でも体が覚えてた」
リーンが自分の右手を見た。
「あたしの体が、なぜかあの動きを覚えてた。それで、ガルドさんに返してあげたかった。最後の指揮は、受け取りましたって」
カイは、リーンの横顔を見た。
銀色の髪が、排水路の暗い水に濡れていた。灰色の瞳が、暗闇の中で光っていた。
「リーン」
「うん」
「お前は、何者だ」
リーンは少し黙った。
「わからない。でも今は、ガルドさんの指揮を受け取った人間」
「人間」
「今は、人間ってことにしておく。カイの隣にいる間は」
カイは、少しだけ、笑った。口の端だけの、小さな笑み。
それから、立ち上がった。
膝から力が抜けたわけではない。自分の意志で、立った。
「行くぞ、リーン」
「うん」
*
昇降機に到着した。
リーンが端末をパネルに押し当てた。金属片も添えた。
画面が光った。文字が流れた。リーンの指が叩いた。
昇降機のドアが開いた。
二人は飛び込んだ。
ドアが閉まった。昇降機が動き出した。上へ。
カイは壁にもたれて、息を切らしていた。
リーンがカイの隣に座った。冷たい肩だった。呼吸がほとんど聞こえない肩だった。
でも、確かに、そこに肩があった。
カイは、リーンの肩に、頭を預けた。
リーンは何も言わなかった。ただ、カイの頭の重みを、肩で受けた。
*
第三層。
ドアが開いた瞬間、カイは目を疑った。
光。第五層の蛍光灯とは比べものにならない光が、通路の天井から降り注いでいた。
「明るい……」リーンが目を細めた。
「動くぞ」
道筋を展開。
目的:第三層を突破し、第二層へ移動する。
金色の線が走る。
二人は走った。
*
第二層。
白い壁。白い床。白い天井。研究施設の層だった。
リーンの足が一瞬、止まった。
「どうした」
「……この場所、知ってる気がする」
リーンの声がいつもと違った。
カイはリーンの顔を見た。灰色の瞳が、壁の端末の光を反射している。
「行けるか」
「行ける」リーンが首を振った。「行こう」
カイは何も言わずに、少しだけ歩く速度を落とした。リーンが追いつける速度に。
中央昇降機までの道筋を辿った。リーンが端末をパネルに押し当てた。金属片も添えた。
「これ……知ってる。このプロトコル、知ってる」
「リーン?」
「待って。あと少し——」
リーンの指が走った。目の奥に、金色の光が一瞬だけ走った。
扉が開いた。
*
第一層「天蓋」。
昇降機を出た瞬間、カイの道筋が爆発的に広がった。
目的:地上への出口を見つける。
金色の線が一本に集約された。まっすぐ上に伸びている。
「こっちだ」
螺旋階段を上った。息が切れる。リーンも息を切らしている。だが二人とも止まらなかった。
階段の終点に、扉があった。
重い金属の扉。表面に文字が刻まれている。
「地上接続口。許可なき開門を禁ず」
リーンが端末を扉のパネルに押し当てた。金属片も添えた。
扉が振動した。重い音がして、ロックが外れた。
扉がゆっくりと開いた。
風が入ってきた。
知らない風だった。地下の空気ではない。生きている風だった。土の匂い。草の匂い。
カイは扉の向こうに一歩を踏み出した。
*
空があった。
広かった。果てがなかった。
夜だった。星が出ていた。無数の光の粒が、暗い幕の上に散らばっている。
カイの足が止まった。呼吸が止まった。
灼熱の荒野ではなかった。毒の大気ではなかった。
地上は——美しかった。
草が足元にあった。柔らかい。緑色の、生きている草だ。
空気を吸い込んだ。
甘かった。清潔で、冷たくて、甘かった。
カイの膝が折れた。地面に手をついた。草の感触が手のひらに伝わった。冷たい露が指を濡らした。
母が壁に書いた文字が、頭の中で光った。
空。
これが——空か。
母は見たことがないと言った。でもきっとあると言った。
あったんだ、母さん。
「嘘だったんだ……」
声が震えていた。
十六年間信じさせられてきた。地上は死の世界だと。全部、嘘だった。
ふと、指が、自分の左手の小指に触れた。リーンが巻いてくれた袖が、まだ血で赤く滲んでいた。
ジン。お前も見ただろうか。今、一緒に見ているだろうか。
ジンの番号は五一九。俺の隣で、三年間、息をしていた。
その番号を刻んだ小指で、カイは、地上の草に触れた。
*
「カイ」
リーンの声が聞こえた。
振り返った。
リーンが立っていた。扉の前に。銀色の髪が風に揺れていた。星明かりの下で、その髪が淡く光っていた。
リーンは空を見上げていた。驚いていなかった。
「お前、驚いてないな」
「驚いてるよ。でも——」
リーンが言葉を探していた。
「懐かしい」
「懐かしい?」
「うん。この空。この風。この匂い。全部、懐かしい」
リーンが、自分の右手を見た。まだガルドへの敬礼の形が、手の記憶に残っているようだった。
東の空が、薄く白んでいた。夜が明け始めていた。
リーンが東を向いた。
唇が、微かに動いた。いつもの子守唄の旋律が、少しだけ漏れた。けれど、途中で止まった。
代わりに、リーンは、別の言葉を発した。
「おはよう」
カイの心臓が跳ねた。
「おはよう、カイ。今日もよろしく」
——夢の中の言葉と、同じだった。
声が違う。場所が違う。何もかもが違う。なのに——同じだった。
声のトーン。語尾の跳ね方。
リーンが自分の唇に触れた。不思議そうな顔をしていた。
「……なんで今、この言葉が出たんだろう」
カイの頬が濡れた。
「ああ」
カイは答えた。
「おはよう。今日もよろしく」
言った瞬間、胸の奥の空洞が——ほんの少しだけ、埋まった気がした。
*
太陽が昇ってきた。
地平線から、赤い光が溢れ出した。空が藍色から紫に変わり、紫から橙に変わり、橙から——
金色に変わった。
カイの道筋と同じ色だった。
世界が金色の光に包まれた。草が光り、木々が光り、リーンの銀髪が光り、全てが——
美しかった。
カイは立ち上がった。リーンも立ち上がった。
朝日を浴びて、二人は地上に立っていた。奴隷でもなく、能力者でもなく、実験体でもなく。ただの少年と少女として、朝日の中に立っていた。
「カイ」
「何だ」
「ガルドさんに、見せたい」
「ああ」
「ジンさんにも、見せたい」
「ああ」
「いつか、必ず」
「ああ」
カイは、小指の袖を、ほどいた。
血はもう乾いていた。
刻まれた番号。五一九。
カイは小指を、朝日に向けた。
「見えるか、ジン」
誰にも聞こえない声だった。
「青じゃない。今は金色だ。でも、これが空だ」
風が吹いた。
リーンの髪が風に巻き上げられた。顔中に張り付いて、口に入りかけている。
「髪が大変なことになってる」
カイが言った。
「だって口に入るんだもん。髪ってこんなに暴れるの? 地下にいた時は風なかったから——ぷっ、入った」
カイは、今度は声を出して、笑った。
たぶん三年ぶりに。
「何笑ってるの。助けてよ」
「自分でやれ」
「ひどい。パートナーでしょ」
「いつからパートナーになった」
「第五層の配管の裏からずっとだよ。不味いの概念を超越したペーストを一緒に食べた時から」
カイは一瞬、言葉を失った。それから、息を吐いた。笑いの余韻が胸に残っていた。温かかった。
*
少し離れた草の上に、二人は座り込んだ。
朝の光が二人を照らしている。
「ねえカイ」
「何だ」
「あたしたち、何なんだろうね」
「……何とは」
「友達……じゃないよね。でもパートナーって言うのもなんか違うし。仲間? チーム? でもそういうのでもなくて——」
リーンが首を傾げた。言葉を探している。
「カイは道が見えるんでしょ? あたしは……道がないの」
カイは、空を見ていた。
リーンの言った「道がない」の意味を、カイはすでに感じ取っていた。道筋を持たない者。道筋に映らない者。空白のある未来を持つ者。
けれど今日だけは、それが問題ではなかった。
「名前がつかない関係って、変かな」
「……わからない」
「わからないか」リーンが笑った。本物の方の笑い方で。「わからないのがいいのかもね」
カイはリーンの横顔を見た。
朝日に照らされた銀色の髪。灰色の瞳に映る金色の空。
「……ああ」
カイは呟いた。
「わからないのが、いいのかもしれない」
リーンが笑った。
カイは——今度は、はっきりと笑い返した。
*
少年はまだ知らない。
この美しい空の下で、何が人間を管理しているかを。
少女もまだ知らない。
自分が何のために作られ、何のために送り込まれたかを。
地下には、ガルドが残っている。片脚を失い、廃棄層の奥で、生きている。「考えることをやめるな」という言葉を、誰かが迎えに来るまで、噛み締めながら。
ジンは、もういない。けれど、カイの小指の内側に、その番号は刻まれている。五一九。俺の隣で、三年間、息をしていた。
二人の道は、ここから始まる。
正解の外側で。
いつか、少女が涙を流す日が来る。
いつか、老人が片脚で立ち上がる日が来る。
いつか、死者の番号が意味を持つ日が来る。
その日まで——
「カイ」
「何だ」
「おはよう」
「……ああ」
「おはよう」
「おはよう、リーン」
朝の風が、二人の間を通り抜けた。
*
[ 今 ]
ガルドは、まだ穴の底で生きている。
片脚で、息を整えながら、俺たちを待っている。
君を連れて行く約束は、まだ果たせていない。
だからこの手紙は、まだ終われない。
*
第一部「廃棄層脱出篇」完
────────────────
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