第4話「道を組む者たち」
ガルドの区画で計画を詰め終えた翌朝、廃棄層の空気は、普段より冷たかった。
カイは作業割当板の前に立っていた。今朝の割当を確認するためだった。
班B。廃液処理。五一七、五一八、五一九——
カイの目が、五一九で止まった。
ジンの番号が、いつもと同じ位置にあった。いつもと同じ作業。いつもと同じ区画。いつもと同じ班。
けれど、昨夜の夢を思い出した。
カイはいつもの四角い光の夢を見なかった。代わりに、ジンの夢を見た。ジンが壁に背を預けて、咳をしていた。その咳が止まった瞬間、ジンが微笑んだ。カイは目が覚めた。胸に嫌な予感が残っていた。
「カイ」
リーンが後ろから来た。割当板を見て、口を閉じた。
「ジンさん、今日も廃液処理」
「ああ」
「あの人、咳ひどくなってない?」
「……ひどくなってる」
リーンが、何か言いかけて、やめた。
*
点呼の後、朝の配給を受け取る列で、リーンがジンの隣にいた。
ジンは咳をこらえていた。配給の器を両手で持つ手が震えていた。痩せた指が、皿の縁に貼りつくように力を入れていた。
リーンがジンに、少しだけ身を寄せた。
小声だった。カイが背中越しに、かろうじて拾えるほどの声だった。
「ジンさん」
ジンが顔を上げた。青白い顔が、少しだけ、リーンの方に傾いた。
「……ありがとうね」
ジンは、咳を飲み込んだまま、リーンを見た。視線が、意味を探るように動いた。
「なんで」
掠れた声だった。三年間、ほとんど言葉を発さなかった少年の、今朝、今日最初の一言だった。
「なんとなく」
リーンは、笑った。いつもの笑い方だった。けれど目の奥は、笑っていなかった。
「カイに、干し肉を転がしてくれた話、聞いた。三年前の夜の。それの、お礼。あたしからも」
ジンは、しばらくリーンを見ていた。
それから、短く、顎を引いた。
カイは、列の少し後ろで、その一部始終を聞いていた。廃液処理まであと三時間。リーンの「今日、誰か死ぬかも」という昨日の呟きが、頭の隅で、冷たく点滅していた。
「なんとなく」が、いつもの「なんとなく」じゃない気がした。それが何かは、わからなかった。
*
廃液処理の現場は、今日も蒸気で充満していた。
カイは道筋を展開していた。飛沫を避けながら、容器を運ぶ。いつもの手順。
ジンの姿を、視界の端で確認し続けていた。
ジンは、いつもより動きが遅かった。容器を持つ手が震えていた。咳を飲み込んでいるのが、遠くからでもわかった。声を出さずに咳をしようとすると、肺がもっと苦しくなる。それでもジンは、声を出さなかった。
監督官のデッラが、巡回していた。
デッラの足音が、ジンの方向に近づいた。
カイの道筋が枝分かれした。
——ジンが咳をする。デッラが見る。殴られる。
——ジンが咳をこらえる。デッラが通り過ぎる。だが肺が——
道筋の二本目の線の先が、短かった。
カイの足が、動こうとした。けれど、ジンが前日の夜に言った言葉を、カイは思い出した。
「俺は囮にはならない。俺にできるのは、違う場所で咳をすることだ」
ジンは、自分で自分の役割を決めていた。カイが今介入すれば、ジンは自分で決めた役割を失う。それは、ジンにとっての恥辱だった。
カイは足を止めた。
ジンが、一瞬だけカイの方を見た。咳をこらえたまま。目で、何かを伝えた。
「大丈夫」だと、言ったのだと思う。
そしてその次の瞬間、ジンの足が滑った。
足場が崩れたのではない。肺が、もうこれ以上保たなかった。
ジンの体が、廃液の溜まりの方に傾いた。容器を持ったまま。
「ジン!」
カイの声が、口から出た。
三年間、呼ばなかった名前だった。
カイの体が動いた。道筋も、計算も、合理性も、今朝のカイは全部捨てていた。ただ、ジンの名前を呼んで、走った。
ジンの体が、廃液の溜まりの手前で、踏みとどまった。
ジンの目が、カイを見た。
咳が、止まっていた。永遠に止まっていた。
ジンは、自分の力で、踏みとどまっていた。だが息をしていなかった。足を踏みとどめるために使った最後の力が、息を止めたのだった。
「ジン——」
カイがジンの体を支えた。軽かった。ひどく軽かった。三年間、同じペーストを食べてきたはずなのに、ジンはもう、ほとんど骨だけだった。
「ジン、起きろ。ジン」
ジンは目を開けたまま、微笑んでいた。
夢の中と、同じ微笑みだった。咳が止まった瞬間の、微笑み。
デッラが来た。
「何をやってる、五一七」
カイは答えなかった。
デッラがジンを見た。舌打ちをした。
「廃棄物係、五一九を回収しろ」
たった一言だった。
「廃棄物」。
三年間カイの隣で息をしていた少年の名前は、デッラの口の中で、廃棄物に変わった。
カイは、ジンの体を抱えたまま、動けなかった。
リーンが近づいてきた。ポッツも、遠くからこちらを見ていた。廃棄層の全員が、カイとジンを見ていた。けれど、誰も近づかなかった。近づけば、次は自分だった。
「五一七」デッラが言った。「離れろ。お前も廃棄物になりたいか」
カイは、ジンを床に横たえた。
ジンの微笑みは、消えなかった。
*
作業が終わった後、カイはジンの寝床にいた。
ジンの私物はほとんど何もなかった。毛布一枚。ボロボロの配給袋。小さな金属の破片を集めた箱。そして、干し肉の切れ端がいくつか。
カイは干し肉を一つ、手に取った。
三年前の夜、ジンが最初に転がしてきたのと同じ種類のものだった。配給を残して、乾かして、こっそり隠しておいた干し肉。
「カイ」
リーンが来ていた。声を殺していた。
「ジンさん」
「死んだ」
カイは短く答えた。
リーンが横に座った。
「カイ、泣いてないね」
「……泣けない」
「涙が出ないの?」
「出る。でも今は出ない。今はまだ、やることがあるから」
カイはジンの毛布を畳んだ。配給袋の中身を確認した。金属片の箱を開けた。
「これ、なに?」リーンが覗き込んだ。
「ジンが集めてたものだ」
カイは箱を見た。中には小さな金属片や、壊れた配線の切れ端や、ネジや、そういうものが入っていた。配管整備の時にジンが拾い集めたのだろう。
なぜジンがこんなものを集めていたのか。カイには、理由が一つだけ思い当たった。
「隔壁の電子錠の部品だ」
「え?」
「型が、リーンが触った電子錠と同じだ。ジンは、自分でも脱出を考えていた。俺の計画を三年聞いていて、自分なりの道具を揃えていた」
リーンが、箱の中身を見つめた。
「……ジンさんも、空を見たかったんだね」
「ああ」
カイは箱の蓋を閉めた。そっと、ジンの毛布の上に置いた。
*
三十七日目の決行前夜。
夜更け。配管の裏の二畳の空間で、カイは一人、壁の前に座っていた。
リーンは端末の最終確認のため、別の場所にいた。
カイの前には、ジンから預かった細い金属ピンがあった。配管整備用の針金。先端だけが細く尖っている。ジンが「計画に使ってくれ」と渡してくれたものだった。
カイは、自分の左手の小指を見た。
内側。誰にも見えない側。
そこにピンを当てた。
五一九。
ジンの番号だ。
カイは、ピンの先端を、自分の皮膚に差し込んだ。
痛みは、遠かった。ジンを失った痛みの前では、皮膚の痛みなど、ほとんど何も感じなかった。
血が滲んだ。
五。一。九。
小指の内側に、ジンの番号を、数字の形で浅く彫った。
血が指を伝い、床に落ちた。
カイは小指を見つめた。彫ったばかりの数字は、まだ血で滲んでいて、正確には読めなかった。それでも、彫った事実は、変わらなかった。
「カイ?」
リーンの声がした。戻ってきたのだった。
カイの手元を見て、息を呑んだ。
「……何してるの」
「ジンの番号を、刻んでる」
「なんで、体に」
「外側から消えたから、内側に刻んだ」
リーンは、カイの小指を見つめた。
静かに、隣に座った。
「痛くない?」
「痛い。でも、それでいい」
「……」
リーンが、自分の服の袖を破った。細く裂いて、カイの小指に巻き付けた。
血が袖を染めた。リーンの手が震えていた。
「カイ、泣いてるよ」
「え?」
カイは自分の頬に触れた。濡れていた。
いつから泣いていたのか、わからなかった。ピンを差した時か、血が流れた時か。あるいはもっと前から、ずっと。
「ジンさんは、五一九だった」
リーンが、静かに呟いた。
「カイの隣で、三年間、息をしていた」
カイは頷いた。
声に出せなかった。
ジンの番号は五一九。俺の隣で、三年間、息をしていた。
それだけだった。
それが全てだった。
*
カイは壁の前に立った。
七年前に母と書いた「空」の字のある壁。
指を伸ばした。錆の感触の上に、指を当てた。
「母さん」
誰も聞いていなかった。リーンは少し離れた場所で、端末を握っていた。
「俺は、明日、空の下に出る」
壁の文字は、変わらずそこにあった。
「ガルドが連れていってくれる。あんたが託した人が。今になって、あんたの約束を知った。遅すぎた。でも——遅すぎても、果たす」
カイは指を壁から離した。
「ジンも、連れていきたかった。でも間に合わなかった。俺の道筋は、ジンを映さなくなっていた。昨夜から」
カイの拳が震えた。
「それでも、ジンは俺の隣で、三年間、息をしていた」
小指の血が、まだ滲んでいた。リーンが巻いた袖は、赤く染まっていた。
「行くぞ、母さん」
カイは壁に、最後に一度、手のひらを当てた。
冷たかった。けれど、指先には、「空」の形が残っていた。
*
リーンが、カイの隣に立った。
壁を見つめていた。
「カイ」
「何だ」
「この壁、あたしも触っていい?」
「……ああ」
リーンが指を壁に当てた。カイがなぞった後を、そのままなぞった。
「空」の字の形を、指で覚えた。
「覚えた」
リーンが言った。
「これで、あたしも持っていける。空の形を」
カイは、リーンの顔を見た。
笑っていた。本物の笑い方で。
「ジンさんの分も、覚えたよ。ジンさんも、空を見たかったんでしょ」
「……ああ」
「じゃあ、連れていこう。体はなくても、空の形は、あたしたちの指が持ってる」
カイは、しばらく、何も言えなかった。
それから、頷いた。
「ああ」
*
夜が更けた。
決行の時刻まで、あと三時間だった。
カイとリーンは、配管の裏の二畳のスペースで、最後の休息を取っていた。並んで壁に背を預けて。
リーンが、ふと、小さな旋律を口ずさんだ。無意識だった。
子守唄。いつもの、覚えていないはずの歌。
カイは聞いていた。
今夜は、少しだけ、違う歌だった。いつもの旋律の中に、もう一つの旋律が混じっていた。
「リーン」
「ん?」
「今夜の歌、違うぞ」
「違う?」
「いつものやつと、もう一つ、別の旋律が混じってる」
リーンが自分の唇に触れた。
「わからない。でも、今日はジンさんのことを考えてたから、かもしれない」
「ジンの歌?」
「知らないよ。でも、体が勝手に歌ったの。ジンさんの分の旋律を」
カイは、目を閉じた。
リーンの歌は、続いた。
覚えていないはずの子守唄に、死んでしまった少年の旋律が混ざって、二つの音が配管の中を流れていった。
リーンは、その意味を覚えていない。
カイは、生涯忘れないだろう。
*
「カイ」
「何だ」
「あたし、今夜、生き延びたい」
リーンが言った。
「前は、生き延びても死んでも、どっちでもいいと思ってた。記憶がないから、何が自分にとって大事かわからなくて。でも今は、生き延びたい」
「なぜ」
「カイが泣いてる顔を、もう見たくないから」
カイは目を開けた。リーンを見た。
灰色の瞳が、暗闇の中で薄く光っていた。
「ジンさんが死んで、カイが泣いた。ガルドさんがもし死んだら、カイはまた泣く。だから、あたしはガルドさんと一緒に地上に出る。カイが、もう泣かなくていいように」
リーンの声には、強さがあった。
「あたし、人間じゃないかもしれない。でも、カイを泣かせないことはできる。それだけは、できる」
カイは答えられなかった。
ただ、隣のリーンの肩に、自分の肩を触れさせた。
冷たい肩だった。けれど、確かにそこにあった。
「……行こう、リーン」
「うん」
「全員で、生きて、出る」
「うん」
嘘かもしれなかった。けれど、その嘘を信じる権利が、今夜の二人にはあった。
ジンの番号は五一九。俺の隣で、三年間、息をしていた。
*
[ 今 ]
ジンの519は、俺の指にまだ残っている。
皮膚の下の、小さな瘢痕として、いつでも触れる。
君が触れば、思い出すかもしれない。
三時間前に「ありがとうね」と言った自分のことを。
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