↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/15

第3話「壁に書いた空」

挿絵(By みてみん)


その夜、カイは壁に触れた。


配管の裏の、誰にも知られていない二畳のスペース。その奥の、錆がほとんど剥がれかけている一角。


指でなぞる。凹凸が残っている。七年前の、九歳の自分が書いた文字。


「空」。


「カイ?」


リーンが振り返った。端末の基板を弄っていた手を止めて、カイの背中を見ていた。


「何してるの」


「……思い出してる」


リーンは何も言わなかった。ただ、膝を抱えたまま、待ってくれた。


カイは壁に背を預けて座り込んだ。指先にはまだ、壁の感触が残っていた。


「母さんと、ここにいた。蛍光灯が消えた夜に」


   *


カイが八つか九つの頃だった。


蛍光管は廃棄層で一番最初に消耗する設備だった。切れては替え、切れては替え、時々、替えが間に合わずに区画全体が暗くなる夜があった。


その夜もそうだった。


第五層の奥、配管の裏の狭い空間。真っ暗だった。カイは目を見開いても何も見えず、自分の指先すらも輪郭を失っていた。


「カイ。見てごらん」


母の声が、闇の中で聞こえた。


「暗くて見えないよ」


「目じゃなくていい。指で覚えなさい」


母がカイの小さな手を取って、壁の表面に導いた。ざらざらした錆の感触。その上を、母の指がなぞる。一画ずつ。


「これが『空』。そらって読むの」


「そら?」


「この地下世界の天井の、ずっと上にあるもの。果てがなくて、色が変わるの。朝は白くて、昼は青くて、夜は黒くなる」


「嘘だ。天井は動かないよ」


「嘘じゃないよ」母が笑った。低くて、温かい笑い方だった。「お母さんは見たことないけどね。でもきっとある。だって、こんなにたくさんの言葉があるんだもの。空、風、海、星。言葉があるってことは、それが本当にあるってことでしょ」


カイは母の指に導かれるまま、壁に文字を書いた。空。風。海。星。読み方も、意味も、この世界にないものの名前ばかりだった。


「お母さん」


「ん?」


「空って、どんな青?」


母が少し黙った。


「……わからない」


「わからないの?」


「見たことないから。でも」


母の指が、暗闇の中でカイの頬に触れた。


「きっと、こんな感じだと思う」


「え?」


「温かくて、怖くなくて、ずっと先まで続いてる。そういう青だと思う」


カイは意味の半分もわからなかった。けれど、母の指の温度と、壁の錆の感触と、「空」という字の形だけは、体が覚えた。


「お母さん」


「ん?」


「いつか、ここの上に行ける?」


母が、さらに長く黙った。


それから、カイの髪を撫でた。錆の匂いのする手。でも温かかった。この世界で唯一温かいものだった。


「カイ。一つだけ約束して」


「何?」


「考えることをやめるな」


母の声が変わった。優しいまま、でも芯が通った声になった。


「ここでは番号で呼ばれて、命令に従って、考えなくても生きていける。でも、それは生きてるって言わない。考える力だけが、お前を自由にする。だから——何があっても、考えることをやめないで」


「うん」


意味の半分もわかっていなかった。でも母の手の温かさと、壁に書いた文字の感触だけは、体が覚えた。


「それからね、カイ」


「うん」


「いつか、連れてってあげる」


「どこに」


「空の下に」


母はそう言って、カイの手を握った。錆びた壁と、母の手と、暗闇の中で書いた「空」の字。


九歳のカイは、深く考えなかった。母が言うなら本当なのだろうと、それだけ思った。


三年後、母は死んだ。


崩落の夜、右の道を選んで、瓦礫に挟まれて、カイの手に冷たさだけを残して死んだ。


空の下に連れていく、という約束は、果たされなかった。


   *


「それが、この壁」


カイは指で、今の「空」の文字をなぞった。七年の錆に埋もれた、読めるか読めないかの凹凸。


リーンは壁の前に来ていた。カイの指の動きを、追っていた。


「見えないね。もう」


「ああ」


「でも指は覚えてる」


「ああ」


カイが顔を上げた時——リーンの頬が濡れていた。


銀色の前髪の下、灰色の瞳から、音もなく、涙が一粒、零れ落ちていた。

二粒目が、顎を伝って、膝の上に落ちた。


「……リーン?」


リーンは、自分の頬に触れた。濡れていることに、リーン自身が驚いていた。指先の濡れ方を、しばらく見つめていた。


「え、あれ……」


声が、少し裏返った。


「なんで泣いてるんだろう、あたし」


「……」


「カイのお母さんの話を聞いてたら、勝手に。初めて聞いた話なのに。会ったこともない人なのに、なんか……すごく懐かしくて。もう一回聞いてるみたいで。あれ、おかしいね、意味わかんない」


リーンは慌てて頬を拭った。拭っても、涙は止まらなかった。

記憶のない少女が、カイの母の「空」の話に、カイより先に泣いていた。

カイは、何も言えなかった。

壁の「空」の字に当てたままの指が、ほんの少しだけ、震えた。


リーンが自分の指を壁に当てた。カイがなぞった後を、そのままなぞった。


「空、って書いてあるね」


「わかるのか」


「うん。なんとなく」


いつもの「なんとなく」だった。けれどカイの耳には、その「なんとなく」が、少しだけ湿って聞こえた。


「カイ」


「何だ」


「お母さんの約束、叶えようね」


カイは答えられなかった。


リーンは続けた。


「空って、どんな青なのかな」


「……母さんは、温かくて怖くない青だって言ってた」


「温かくて、怖くない」


リーンは指を壁から離した。自分の頬に、さっきのカイの指が触れていた場所に。


「——カイ、連れてって」


声が、小さかった。


カイはリーンを見た。銀色の髪が蛍光灯の下で揺れていた。灰色の瞳が、壁の「空」を見ていた。


「俺が?」


「うん」


「お前は、自分でも行けるだろう」


「一人じゃ、たぶん、見ても青ってわからないんだと思う。温かくて怖くないって、あたしはまだそれを知らないから」


カイは黙った。


「カイと一緒なら、温かいってわかる気がする」


その言葉が、カイの胸の奥で、長いこと留まった。


   *


翌日、ジンが作業場で倒れた。


倒れる、というより、崩れた。足が止まって、膝が折れて、体が壁に寄りかかった。咳が止まらない。肩が上下している。顔が青白い。


監督官のデッラが歩み寄った。


「立て」


ジンは立てなかった。


デッラが蹴った。ジンの体が廃液の溜まりの手前まで滑った。


「使えねえ奴は廃棄層でも要らねえんだよ。立て」


カイの拳が握られた。爪が食い込む前に、足が動きかけた。道筋が二本視えた。助けに入る線。助けに入らない線。


助けに入れば、脱出計画が崩れる。論理的には、見捨てるのが正解。


でも——


「五一七」


デッラが振り返った。


「何見てる」


「いえ」


「ん?」


デッラの目が、カイの顔を観察した。カイは目を伏せた。ジンを見るのをやめた。


「五一九はいつ倒れてもおかしくねえ」デッラが言った。「お前もだぞ、五一七。無事なふりしやがって、どこまで続くかなあ」


デッラが行ってしまった。


ジンがゆっくりと立ち上がった。誰にも助けられずに、壁に手をついて、自分の力で。


通り過ぎざまに、ジンの手が、カイの手の甲に触れた。


一瞬だった。咳のふりで、ジンの手がカイの手の甲を叩いた。


カイはジンを見た。


ジンは、言葉を発さなかった。代わりに、口だけを動かした。


「——い、い」


いい。そう言ったのだと、カイは理解した。


助けなくていい。俺のことはいい。お前は計画を続けろ。ジンはそう言っていた。


喋らないジンが、三年間の沈黙を破って、口だけを動かして、カイに言葉を送った。


カイは顎を引いた。ジンも、顎を引いた。


ジンが通り過ぎた。


カイの拳には、また爪の跡がついていた。


   *


その夜、カイはガルドの区画に向かった。リーンと一緒に。


ガルドは第五層の東端に住んでいる。他の奴隷が寄りつかない区画だ。廃液の排出口に近く、空気が悪い。だがその代わり、監督官の巡回ルートからも外れている。ガルドが二十年かけて確保した静寂だった。


「来たか」


カイが配管の隙間を抜けると、ガルドは壁に背を預けて座っていた。白髪。深い皺。だが目だけが若い。諦めていない目だ。


「リーンも一緒だ」


「聞いてる。銀髪の新入りだろう。噂になっとる」


リーンがカイの後ろから顔を出した。


「噂? あたし何かした?」


「何もしとらんから噂になっとるんだ。新入りが二十日経っても怪我一つしない。普通じゃない」


「カイが守ってくれてるから」


「守ってない」カイは即座に否定した。「助けてるんじゃない。ただ——その——」


言葉が滑って、何も出てこない。「管理」でもない。「見てるだけ」でもない。


ガルドがカイを見た。


「管理、と言いたかったんだろう。お前の母と同じだな。あの人も『助けてるんじゃない、見てるだけだ』と言いながら、周りの奴隷に食料を分けとった」


カイの口が引き結ばれた。何も言い返せなかった。


リーンがカイの顔を覗き込んだ。


「今の沈黙、恥ずかしい沈黙だ」


「違う」


「違わないよ。耳が赤くなってる」


「暗くて見えないだろ」


「見えなくても、声のトーンでわかるの」


ガルドが二人を交互に見て、小さく笑った。笑うと皺が深くなるが、目元だけは柔らかくなる。


「若いっていいな」


「そういう関係じゃない」カイが即座に否定した。


「そういう関係って何?」リーンが首を傾げた。


カイは口を閉じた。ガルドが肩を揺らして笑っている。


「座れ。話を聞こう」


三人が狭い空間に座った。カイとリーンが向かい合い、ガルドが横に。


「単刀直入に言う」カイは言った。「上昇試験の日に隔壁を突破する。ガルド、力を貸してほしい」


ガルドの表情は変わらなかった。


「続けろ」


カイは計画を話した。上昇試験の出来レース。監視の穴。グレオの十五分。実技時間中の監視員減少。リーンの電子錠解除。そして端末から得た「地上接続口——第一層天蓋区画」の情報。


ガルドは黙って聞いていた。


「第四層に入ってからの排水路のルートは把握している。だがその先の情報が足りない。第四層から第三層への道を知りたい」


「それでわしか」


「ガルドは第四層から落とされてきた。上の層の構造を知ってるはずだ」


ガルドが目を細めた。


「カイ。お前は、わしが誰に言われてお前に食料を運んでいたか、知っとるか」


カイの胸が止まった。


「……誰に」


「お前の母だ」


言葉が、出なかった。


「崩落事故の三日前のことだ。お前の母がわしのところに来た。『もし自分に何かあったら、カイを頼む』と」


「——嘘だ」


「嘘じゃない。彼女は何かを感じ取っていたのかもしれん。あるいは、ただ備えていただけかもしれん。『この子を地上に出してほしい。この子は地下にいるべき子じゃない』と、そう言った」


ガルドの目が、過去を見ていた。


「それからもう一つ、彼女は言った。『考えることをやめるな、とカイに伝えてほしい』と」


カイの膝が震えた。


「三年間。わしが毎朝お前に言ってきた言葉は、わしの言葉じゃない。お前の母の言葉だ」


「……なぜ、今まで」


「言わなかったか? 言う必要がなかったからだ。お前は毎日、お前の意思で考え続けた。そのことに、母の言葉は関係ない。お前が考える限り、お前は自由だ。言葉の出所なんぞ、どうでもいい」


ガルドが、目尻を拭った。


「だがな、カイ。今夜お前が地上に出ると言ったから、わしも言う必要があると思った」


カイはうつむいた。


三年間。ガルドが食料を運んでくれたのも。文字を教えてくれたのも。ジンが倒れた夜に毛布を持ってきたのも。全て——母との約束だった。


「……母さん」


カイの声が震えた。


「——あんたは」


顔を上げた。ガルドを見た。


「あんたは、母さんと約束してくれた人だ」


ガルドは答えなかった。ただ、カイの肩に、大きな節くれだった手を置いた。


   *


リーンが、二人の横で静かに座っていた。


カイの肩に置かれたガルドの手を、じっと見ていた。カイの目が濡れていることにも、気づいていた。


「ガルドさん」


リーンが口を開いた。


「何だ、嬢ちゃん」


「あたし、お母さんがいないの。記憶がなくて、そもそもいたかどうかもわかんないけど」


「うむ」


「でもね、さっきカイのお母さんの話を聞いてたら、胸が温かくなった」


リーンは自分の胸に手を当てた。


「あたしには記憶がない。でも、誰かが誰かを守ろうとする気持ちは、わかる気がする」


ガルドが、リーンをじっと見た。


「嬢ちゃん」


「はい」


「お前さんは、人間かどうかじゃない。そういう話を、わしがしたら、お前さんは気にするか」


リーンの目が、一瞬だけ揺れた。


「……気にする」


「だろうな。だが一つ言っておく」


ガルドが腰の脇から、小さな金属の欠片を取り出した。二十年前から持っていると言った。リーンが何も言っていないのに。


「わしが第四層から落とされた時に、これを持ち出した。研究区の床に落ちていた。似たような金属片が、たくさんあった」


リーンが息を呑んだ。


自分の作業服のポケットから、同じような金属片を取り出した。


二つを並べた。ほぼ同じ形だった。表面の刻印だけが、違った。


「わしのは、『参考資料七号』とだけ書かれとる。お前さんのは」


リーンが自分の金属片を見た。


「……『実験体七号』」


沈黙。


「実験体」リーンが繰り返した。「何のこと?」


「わからん。ただ、わしが第四層にいた頃、第二層の研究施設から文書が流れてきたことがある。『人工人間計画』と呼ばれていた」


リーンの体が、わずかに強張った。


「この地下世界には、人間が作ったものではない技術がある。能力の付与。層の構造。廃棄層の自動維持システム。全て、人間の技術ではない」


「では何が作った」


「わからん。文書にはただ『管理者』と書かれとった。管理者が地下世界を設計し、能力を人間に付与し、層の秩序を維持している。そして——管理者が、人間を作ることもある」


リーンの灰色の瞳が揺れた。


「嬢ちゃん。これはただの仮説だ。確証はない」


「言って」リーンの声は静かだった。「知りたい」


「実験体は全部で十二体あったとされとる。人間に限りなく近い、だが人間ではないもの。何の目的で作られたかは、わしにもわからん。文書はそこで途切れとった」


リーンは金属片を見つめた。


「あたし、人間じゃないの?」


声が震えていなかった。むしろ静かすぎるほど静かだった。


「わからん」ガルドが言った。「だが嬢ちゃん。人間かどうかは、出自で決まるものじゃない」


リーンは黙って頷いた。笑顔を作ってみせた。いつもの笑い方で。


「そっか。うん、そうだよね。ありがと、ガルドさん」


カイはその笑顔を見た。


完璧だった。いつもの笑顔と同じ——いや。違う。


口角の上がり方は同じだ。声のトーンも同じだ。でも目が違う。カイの前で見せる笑顔とは、目の奥の光が違う。


カイだけが知っている笑顔がある。口角が小さくて、目が細くなる、あの笑い方。あれが本物だとしたら——今のは、演技だ。


「リーン」


「何? 大丈夫だよ、あたしは」


「お前の笑顔、二種類あるな」


リーンの笑顔が、固まった。


ガルドが息を呑む気配がした。


「一つはみんなに見せる笑顔。完璧で、明るくて、誰も心配させない笑顔。今のがそれだ」


カイはリーンの目を見た。


「もう一つは——俺の前でだけ見せるやつ。口の端が小さくて、目が細くなって、作り物じゃないやつ」


リーンの唇が震えた。


「……バレた?」


小さな声だった。笑顔が外れた。演技でも、観察者の鋭さでもない。ただの——怖がっている少女の顔。一瞬だけ見える、素のリーン。


「カイの前だと、うまくできないんだ。なんでだろう。みんなの前では完璧にできるのに」


「完璧すぎるから逆に嘘くさいんだよ」


「ひどい」


「事実だ」


リーンが笑った。今度は——小さな笑い方だった。目が細くなる、カイだけが知っている方の笑い方。


ガルドはそのやり取りを黙って見ていた。二十年分の皺の奥で、何かを確認するような目をしていた。


   *


三人で計画を詰めた。


ガルドの情報が加わったことで、第四層以降のルートが見えてきた。


「第四層から第三層への移動は、物資輸送用の昇降機がある」ガルドが言った。「月に一度、第三層から食料が降りてくる。その昇降機は帰りは空で戻る。乗り込めば第三層に行ける」


「昇降機の運行日は?」カイが聞いた。


「毎月十五日。上昇試験は二十日だ。間が合わん」


「じゃあ昇降機は使えない」


「待って」リーンが手を挙げた。「その昇降機、手動で動かせないの?」


ガルドが首を振った。「電子制御だ。第三層からの認証がないと動かん」


「認証」


リーンが端末を取り出した。指で表面をなぞりながら、少し考えた。


「端末と、金属片」


「金属片?」


「認証キーとして使えるかもしれない」リーンは自分の金属片を見た。「これ、実験体七号って刻印があるってことは、何かのシステムに登録されてた可能性がある」


カイは道筋を展開した。


目的:修理した端末と金属片で昇降機の認証を突破する。


金色の線が現れた。細い線だ。ほとんど見えないほど細い。だが——消えていない。


「可能性はある」カイは言った。「低いが、ゼロじゃない」


「それで十分だ」ガルドが頷いた。「計画をまとめろ」


カイは壁に指で図を描いた。


「第一段階。上昇試験の第二段階実技の時間に、隔壁の電子錠を解除して第四層に入る。リーンが電子錠を担当。俺が道筋で監視の穴を見つける」


「第二段階。第四層の排水路を通り、昇降機に到達する。排水路のルートは俺が把握している」


「第三段階。昇降機を起動して第三層に移動する。リーンの端末で認証を突破する。ここが最大のリスクだ」


「ガルドの役割は?」リーンが聞いた。


「第四層の地理案内。それと、昇降機に到達するまで、最後尾で監視員に気付かれた時の足止め」


ガルドが頷いた。


「できる限りのことをやる」


   *


二十五日目の夜。


ジンが配管の裏を通りかかった。


咳をしていた。いつもより弱い咳だった。咳そのものが、力を失いかけているようだった。


ジンがカイの前に、何かを落とした。


丸めた布の切れ端だった。


ジンは何も言わず、顎を引き、通り過ぎていった。


カイは布を広げた。


中に、小さな金属のピンが入っていた。配管整備の時に使う、細い針金のような道具。隔壁の電子錠の近くで、配線の隙間に差し込むことができる太さ。


一緒に、折り畳んだ薄い紙片。表面に、炭で書かれた文字。


「手伝う」


二文字だけだった。


カイは、しばらくその紙片を見つめていた。


ジンが計画を察していた。おそらく最初から。カイとリーンが配管の裏で交わしていた会話を、どこかで聞いていた。だが何も言わずに、三年と同じ沈黙を続けて、今夜、これだけを持ってきた。


「カイ?」リーンが近づいてきた。「何それ」


「……ジンだ」


「ジンさん」


「計画に入れてくれと言ってる」


リーンが紙片を見た。短く息を呑んだ。


「咳、止まってないよね。あの人」


「止まってない」


「大丈夫なの」


カイは答えられなかった。


道筋を展開した。


目的:ジンを含めた四人で脱出する。


金色の線が——走った。走ったが、ジンの線だけが、最初から途中で霧に消えていた。霧ですらなかった。ただ消えた。


「……」


「カイ?」


「ジンの線が、見えない」


「見えない?」


「道筋が、ジンを映さなくなっている」


カイは自分の言葉に戦慄した。


道筋は人間を映す。リーン以外は。けれどその「リーン以外」の中に、もう一人、映らない人間が現れた。


違う。映らないのではない。「もう映らない」のだ。


ジンの先が、ない。


「カイ」


リーンが、カイの肩に手を置いた。


「連れていこう」


「でも」


「先がなくても、今日があるじゃん。今日、ジンさんは自分で手伝うって言った。その手を取るのは、今日のカイだよ」


カイは紙片を握りしめた。


   *


その夜、三人が出た後の、二人きりの時間。


リーンはカイの隣で、端末の基板を弄り続けていた。時々、手を止めて、自分の金属片の表面を指でなぞった。


「実験体七号」


小さく呟いた。


「カイ」


「何だ」


「あたしが、もし本当に人間じゃなかったら、カイはどうする?」


カイは壁に背を預けたまま、少し考えた。


道筋を展開しなかった。これは道筋で答えを出す話じゃない。


「……変わらない」


「変わらない」


「お前は笑う。怒る。呆れさせる。腹が立つほど鋭い。面倒くさいほど正直だ。それは——俺が知ってるお前だ。金属片に何が書いてあろうが、それは変わらない」


リーンが目を見開いた。長い沈黙があった。


「……カイって、たまにすごいこと言うよね」


「うるさい」


「照れてる」


「照れてない」


「照れてる。だって今、『うるさい』って言おうとして一回言葉に詰まったもん」


カイは口を閉じた。この少女は、どこまで読んでいるのだ。


リーンが笑った。本物の方の笑い方で。


「……お前といると本当に——」


「疲れる、でしょ。知ってる知ってる」


カイは顔を背けた。耳は——確かに熱かった。


   *


リーンは、カイが眠った後も、目を閉じなかった。


配管の裏の暗闇の中で、右手の中の金属片を見つめていた。


実験体七号。


ガルドの前では、笑ってみせた。みんなに見せる方の笑顔で。


カイにはバレた。いつもバレる。


でも、バレていい相手がいるってことを、あたしは知った。


リーンは壁の方を向いた。カイがさっき指でなぞっていた、「空」の文字のある壁。


暗闇の中で、リーンも指を伸ばした。ざらざらした錆の感触。その上の、小さな凹凸。カイと同じ動きで、文字の形をなぞった。


空。


温かくて、怖くない青。


記憶のないあたしには、それが何かわからない。でも、カイが壁に指を当てた時の、あの指の優しさだけは、わかった気がする。


——カイ、連れてって。


リーンは目を閉じた。


空って、どんな青なのかな。──カイ、連れてって。


   *


[ 今 ]


母さんの筆跡の「空」は、今、俺の机の上にある。

七年分の錆を、壁ごと削り取って持ち帰った。

君が読むかもしれない。

読んでくれたら、またあの日みたいに、泣いてくれてもいい。


────────────────


この物語は、フルボイス・360°背景のサウンドノベル版でも読めます。

ブラウザだけで、インストール不要・無料です。


▶ https://yuichi916.github.io/seikai.html


オープニング映像(92秒)

▶ https://www.youtube.com/watch?v=AYpOA6ArBCg


──────────

この物語には、フルボイス・360°背景の「サウンドノベル版」があります。

インストール不要・無料。ブラウザを開くだけで、この場面をそのまま遊べます。

https://yuichi916.github.io/seikai.html

──────────

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。