第3話「壁に書いた空」
その夜、カイは壁に触れた。
配管の裏の、誰にも知られていない二畳のスペース。その奥の、錆がほとんど剥がれかけている一角。
指でなぞる。凹凸が残っている。七年前の、九歳の自分が書いた文字。
「空」。
「カイ?」
リーンが振り返った。端末の基板を弄っていた手を止めて、カイの背中を見ていた。
「何してるの」
「……思い出してる」
リーンは何も言わなかった。ただ、膝を抱えたまま、待ってくれた。
カイは壁に背を預けて座り込んだ。指先にはまだ、壁の感触が残っていた。
「母さんと、ここにいた。蛍光灯が消えた夜に」
*
カイが八つか九つの頃だった。
蛍光管は廃棄層で一番最初に消耗する設備だった。切れては替え、切れては替え、時々、替えが間に合わずに区画全体が暗くなる夜があった。
その夜もそうだった。
第五層の奥、配管の裏の狭い空間。真っ暗だった。カイは目を見開いても何も見えず、自分の指先すらも輪郭を失っていた。
「カイ。見てごらん」
母の声が、闇の中で聞こえた。
「暗くて見えないよ」
「目じゃなくていい。指で覚えなさい」
母がカイの小さな手を取って、壁の表面に導いた。ざらざらした錆の感触。その上を、母の指がなぞる。一画ずつ。
「これが『空』。そらって読むの」
「そら?」
「この地下世界の天井の、ずっと上にあるもの。果てがなくて、色が変わるの。朝は白くて、昼は青くて、夜は黒くなる」
「嘘だ。天井は動かないよ」
「嘘じゃないよ」母が笑った。低くて、温かい笑い方だった。「お母さんは見たことないけどね。でもきっとある。だって、こんなにたくさんの言葉があるんだもの。空、風、海、星。言葉があるってことは、それが本当にあるってことでしょ」
カイは母の指に導かれるまま、壁に文字を書いた。空。風。海。星。読み方も、意味も、この世界にないものの名前ばかりだった。
「お母さん」
「ん?」
「空って、どんな青?」
母が少し黙った。
「……わからない」
「わからないの?」
「見たことないから。でも」
母の指が、暗闇の中でカイの頬に触れた。
「きっと、こんな感じだと思う」
「え?」
「温かくて、怖くなくて、ずっと先まで続いてる。そういう青だと思う」
カイは意味の半分もわからなかった。けれど、母の指の温度と、壁の錆の感触と、「空」という字の形だけは、体が覚えた。
「お母さん」
「ん?」
「いつか、ここの上に行ける?」
母が、さらに長く黙った。
それから、カイの髪を撫でた。錆の匂いのする手。でも温かかった。この世界で唯一温かいものだった。
「カイ。一つだけ約束して」
「何?」
「考えることをやめるな」
母の声が変わった。優しいまま、でも芯が通った声になった。
「ここでは番号で呼ばれて、命令に従って、考えなくても生きていける。でも、それは生きてるって言わない。考える力だけが、お前を自由にする。だから——何があっても、考えることをやめないで」
「うん」
意味の半分もわかっていなかった。でも母の手の温かさと、壁に書いた文字の感触だけは、体が覚えた。
「それからね、カイ」
「うん」
「いつか、連れてってあげる」
「どこに」
「空の下に」
母はそう言って、カイの手を握った。錆びた壁と、母の手と、暗闇の中で書いた「空」の字。
九歳のカイは、深く考えなかった。母が言うなら本当なのだろうと、それだけ思った。
三年後、母は死んだ。
崩落の夜、右の道を選んで、瓦礫に挟まれて、カイの手に冷たさだけを残して死んだ。
空の下に連れていく、という約束は、果たされなかった。
*
「それが、この壁」
カイは指で、今の「空」の文字をなぞった。七年の錆に埋もれた、読めるか読めないかの凹凸。
リーンは壁の前に来ていた。カイの指の動きを、追っていた。
「見えないね。もう」
「ああ」
「でも指は覚えてる」
「ああ」
カイが顔を上げた時——リーンの頬が濡れていた。
銀色の前髪の下、灰色の瞳から、音もなく、涙が一粒、零れ落ちていた。
二粒目が、顎を伝って、膝の上に落ちた。
「……リーン?」
リーンは、自分の頬に触れた。濡れていることに、リーン自身が驚いていた。指先の濡れ方を、しばらく見つめていた。
「え、あれ……」
声が、少し裏返った。
「なんで泣いてるんだろう、あたし」
「……」
「カイのお母さんの話を聞いてたら、勝手に。初めて聞いた話なのに。会ったこともない人なのに、なんか……すごく懐かしくて。もう一回聞いてるみたいで。あれ、おかしいね、意味わかんない」
リーンは慌てて頬を拭った。拭っても、涙は止まらなかった。
記憶のない少女が、カイの母の「空」の話に、カイより先に泣いていた。
カイは、何も言えなかった。
壁の「空」の字に当てたままの指が、ほんの少しだけ、震えた。
リーンが自分の指を壁に当てた。カイがなぞった後を、そのままなぞった。
「空、って書いてあるね」
「わかるのか」
「うん。なんとなく」
いつもの「なんとなく」だった。けれどカイの耳には、その「なんとなく」が、少しだけ湿って聞こえた。
「カイ」
「何だ」
「お母さんの約束、叶えようね」
カイは答えられなかった。
リーンは続けた。
「空って、どんな青なのかな」
「……母さんは、温かくて怖くない青だって言ってた」
「温かくて、怖くない」
リーンは指を壁から離した。自分の頬に、さっきのカイの指が触れていた場所に。
「——カイ、連れてって」
声が、小さかった。
カイはリーンを見た。銀色の髪が蛍光灯の下で揺れていた。灰色の瞳が、壁の「空」を見ていた。
「俺が?」
「うん」
「お前は、自分でも行けるだろう」
「一人じゃ、たぶん、見ても青ってわからないんだと思う。温かくて怖くないって、あたしはまだそれを知らないから」
カイは黙った。
「カイと一緒なら、温かいってわかる気がする」
その言葉が、カイの胸の奥で、長いこと留まった。
*
翌日、ジンが作業場で倒れた。
倒れる、というより、崩れた。足が止まって、膝が折れて、体が壁に寄りかかった。咳が止まらない。肩が上下している。顔が青白い。
監督官のデッラが歩み寄った。
「立て」
ジンは立てなかった。
デッラが蹴った。ジンの体が廃液の溜まりの手前まで滑った。
「使えねえ奴は廃棄層でも要らねえんだよ。立て」
カイの拳が握られた。爪が食い込む前に、足が動きかけた。道筋が二本視えた。助けに入る線。助けに入らない線。
助けに入れば、脱出計画が崩れる。論理的には、見捨てるのが正解。
でも——
「五一七」
デッラが振り返った。
「何見てる」
「いえ」
「ん?」
デッラの目が、カイの顔を観察した。カイは目を伏せた。ジンを見るのをやめた。
「五一九はいつ倒れてもおかしくねえ」デッラが言った。「お前もだぞ、五一七。無事なふりしやがって、どこまで続くかなあ」
デッラが行ってしまった。
ジンがゆっくりと立ち上がった。誰にも助けられずに、壁に手をついて、自分の力で。
通り過ぎざまに、ジンの手が、カイの手の甲に触れた。
一瞬だった。咳のふりで、ジンの手がカイの手の甲を叩いた。
カイはジンを見た。
ジンは、言葉を発さなかった。代わりに、口だけを動かした。
「——い、い」
いい。そう言ったのだと、カイは理解した。
助けなくていい。俺のことはいい。お前は計画を続けろ。ジンはそう言っていた。
喋らないジンが、三年間の沈黙を破って、口だけを動かして、カイに言葉を送った。
カイは顎を引いた。ジンも、顎を引いた。
ジンが通り過ぎた。
カイの拳には、また爪の跡がついていた。
*
その夜、カイはガルドの区画に向かった。リーンと一緒に。
ガルドは第五層の東端に住んでいる。他の奴隷が寄りつかない区画だ。廃液の排出口に近く、空気が悪い。だがその代わり、監督官の巡回ルートからも外れている。ガルドが二十年かけて確保した静寂だった。
「来たか」
カイが配管の隙間を抜けると、ガルドは壁に背を預けて座っていた。白髪。深い皺。だが目だけが若い。諦めていない目だ。
「リーンも一緒だ」
「聞いてる。銀髪の新入りだろう。噂になっとる」
リーンがカイの後ろから顔を出した。
「噂? あたし何かした?」
「何もしとらんから噂になっとるんだ。新入りが二十日経っても怪我一つしない。普通じゃない」
「カイが守ってくれてるから」
「守ってない」カイは即座に否定した。「助けてるんじゃない。ただ——その——」
言葉が滑って、何も出てこない。「管理」でもない。「見てるだけ」でもない。
ガルドがカイを見た。
「管理、と言いたかったんだろう。お前の母と同じだな。あの人も『助けてるんじゃない、見てるだけだ』と言いながら、周りの奴隷に食料を分けとった」
カイの口が引き結ばれた。何も言い返せなかった。
リーンがカイの顔を覗き込んだ。
「今の沈黙、恥ずかしい沈黙だ」
「違う」
「違わないよ。耳が赤くなってる」
「暗くて見えないだろ」
「見えなくても、声のトーンでわかるの」
ガルドが二人を交互に見て、小さく笑った。笑うと皺が深くなるが、目元だけは柔らかくなる。
「若いっていいな」
「そういう関係じゃない」カイが即座に否定した。
「そういう関係って何?」リーンが首を傾げた。
カイは口を閉じた。ガルドが肩を揺らして笑っている。
「座れ。話を聞こう」
三人が狭い空間に座った。カイとリーンが向かい合い、ガルドが横に。
「単刀直入に言う」カイは言った。「上昇試験の日に隔壁を突破する。ガルド、力を貸してほしい」
ガルドの表情は変わらなかった。
「続けろ」
カイは計画を話した。上昇試験の出来レース。監視の穴。グレオの十五分。実技時間中の監視員減少。リーンの電子錠解除。そして端末から得た「地上接続口——第一層天蓋区画」の情報。
ガルドは黙って聞いていた。
「第四層に入ってからの排水路のルートは把握している。だがその先の情報が足りない。第四層から第三層への道を知りたい」
「それでわしか」
「ガルドは第四層から落とされてきた。上の層の構造を知ってるはずだ」
ガルドが目を細めた。
「カイ。お前は、わしが誰に言われてお前に食料を運んでいたか、知っとるか」
カイの胸が止まった。
「……誰に」
「お前の母だ」
言葉が、出なかった。
「崩落事故の三日前のことだ。お前の母がわしのところに来た。『もし自分に何かあったら、カイを頼む』と」
「——嘘だ」
「嘘じゃない。彼女は何かを感じ取っていたのかもしれん。あるいは、ただ備えていただけかもしれん。『この子を地上に出してほしい。この子は地下にいるべき子じゃない』と、そう言った」
ガルドの目が、過去を見ていた。
「それからもう一つ、彼女は言った。『考えることをやめるな、とカイに伝えてほしい』と」
カイの膝が震えた。
「三年間。わしが毎朝お前に言ってきた言葉は、わしの言葉じゃない。お前の母の言葉だ」
「……なぜ、今まで」
「言わなかったか? 言う必要がなかったからだ。お前は毎日、お前の意思で考え続けた。そのことに、母の言葉は関係ない。お前が考える限り、お前は自由だ。言葉の出所なんぞ、どうでもいい」
ガルドが、目尻を拭った。
「だがな、カイ。今夜お前が地上に出ると言ったから、わしも言う必要があると思った」
カイはうつむいた。
三年間。ガルドが食料を運んでくれたのも。文字を教えてくれたのも。ジンが倒れた夜に毛布を持ってきたのも。全て——母との約束だった。
「……母さん」
カイの声が震えた。
「——あんたは」
顔を上げた。ガルドを見た。
「あんたは、母さんと約束してくれた人だ」
ガルドは答えなかった。ただ、カイの肩に、大きな節くれだった手を置いた。
*
リーンが、二人の横で静かに座っていた。
カイの肩に置かれたガルドの手を、じっと見ていた。カイの目が濡れていることにも、気づいていた。
「ガルドさん」
リーンが口を開いた。
「何だ、嬢ちゃん」
「あたし、お母さんがいないの。記憶がなくて、そもそもいたかどうかもわかんないけど」
「うむ」
「でもね、さっきカイのお母さんの話を聞いてたら、胸が温かくなった」
リーンは自分の胸に手を当てた。
「あたしには記憶がない。でも、誰かが誰かを守ろうとする気持ちは、わかる気がする」
ガルドが、リーンをじっと見た。
「嬢ちゃん」
「はい」
「お前さんは、人間かどうかじゃない。そういう話を、わしがしたら、お前さんは気にするか」
リーンの目が、一瞬だけ揺れた。
「……気にする」
「だろうな。だが一つ言っておく」
ガルドが腰の脇から、小さな金属の欠片を取り出した。二十年前から持っていると言った。リーンが何も言っていないのに。
「わしが第四層から落とされた時に、これを持ち出した。研究区の床に落ちていた。似たような金属片が、たくさんあった」
リーンが息を呑んだ。
自分の作業服のポケットから、同じような金属片を取り出した。
二つを並べた。ほぼ同じ形だった。表面の刻印だけが、違った。
「わしのは、『参考資料七号』とだけ書かれとる。お前さんのは」
リーンが自分の金属片を見た。
「……『実験体七号』」
沈黙。
「実験体」リーンが繰り返した。「何のこと?」
「わからん。ただ、わしが第四層にいた頃、第二層の研究施設から文書が流れてきたことがある。『人工人間計画』と呼ばれていた」
リーンの体が、わずかに強張った。
「この地下世界には、人間が作ったものではない技術がある。能力の付与。層の構造。廃棄層の自動維持システム。全て、人間の技術ではない」
「では何が作った」
「わからん。文書にはただ『管理者』と書かれとった。管理者が地下世界を設計し、能力を人間に付与し、層の秩序を維持している。そして——管理者が、人間を作ることもある」
リーンの灰色の瞳が揺れた。
「嬢ちゃん。これはただの仮説だ。確証はない」
「言って」リーンの声は静かだった。「知りたい」
「実験体は全部で十二体あったとされとる。人間に限りなく近い、だが人間ではないもの。何の目的で作られたかは、わしにもわからん。文書はそこで途切れとった」
リーンは金属片を見つめた。
「あたし、人間じゃないの?」
声が震えていなかった。むしろ静かすぎるほど静かだった。
「わからん」ガルドが言った。「だが嬢ちゃん。人間かどうかは、出自で決まるものじゃない」
リーンは黙って頷いた。笑顔を作ってみせた。いつもの笑い方で。
「そっか。うん、そうだよね。ありがと、ガルドさん」
カイはその笑顔を見た。
完璧だった。いつもの笑顔と同じ——いや。違う。
口角の上がり方は同じだ。声のトーンも同じだ。でも目が違う。カイの前で見せる笑顔とは、目の奥の光が違う。
カイだけが知っている笑顔がある。口角が小さくて、目が細くなる、あの笑い方。あれが本物だとしたら——今のは、演技だ。
「リーン」
「何? 大丈夫だよ、あたしは」
「お前の笑顔、二種類あるな」
リーンの笑顔が、固まった。
ガルドが息を呑む気配がした。
「一つはみんなに見せる笑顔。完璧で、明るくて、誰も心配させない笑顔。今のがそれだ」
カイはリーンの目を見た。
「もう一つは——俺の前でだけ見せるやつ。口の端が小さくて、目が細くなって、作り物じゃないやつ」
リーンの唇が震えた。
「……バレた?」
小さな声だった。笑顔が外れた。演技でも、観察者の鋭さでもない。ただの——怖がっている少女の顔。一瞬だけ見える、素のリーン。
「カイの前だと、うまくできないんだ。なんでだろう。みんなの前では完璧にできるのに」
「完璧すぎるから逆に嘘くさいんだよ」
「ひどい」
「事実だ」
リーンが笑った。今度は——小さな笑い方だった。目が細くなる、カイだけが知っている方の笑い方。
ガルドはそのやり取りを黙って見ていた。二十年分の皺の奥で、何かを確認するような目をしていた。
*
三人で計画を詰めた。
ガルドの情報が加わったことで、第四層以降のルートが見えてきた。
「第四層から第三層への移動は、物資輸送用の昇降機がある」ガルドが言った。「月に一度、第三層から食料が降りてくる。その昇降機は帰りは空で戻る。乗り込めば第三層に行ける」
「昇降機の運行日は?」カイが聞いた。
「毎月十五日。上昇試験は二十日だ。間が合わん」
「じゃあ昇降機は使えない」
「待って」リーンが手を挙げた。「その昇降機、手動で動かせないの?」
ガルドが首を振った。「電子制御だ。第三層からの認証がないと動かん」
「認証」
リーンが端末を取り出した。指で表面をなぞりながら、少し考えた。
「端末と、金属片」
「金属片?」
「認証キーとして使えるかもしれない」リーンは自分の金属片を見た。「これ、実験体七号って刻印があるってことは、何かのシステムに登録されてた可能性がある」
カイは道筋を展開した。
目的:修理した端末と金属片で昇降機の認証を突破する。
金色の線が現れた。細い線だ。ほとんど見えないほど細い。だが——消えていない。
「可能性はある」カイは言った。「低いが、ゼロじゃない」
「それで十分だ」ガルドが頷いた。「計画をまとめろ」
カイは壁に指で図を描いた。
「第一段階。上昇試験の第二段階実技の時間に、隔壁の電子錠を解除して第四層に入る。リーンが電子錠を担当。俺が道筋で監視の穴を見つける」
「第二段階。第四層の排水路を通り、昇降機に到達する。排水路のルートは俺が把握している」
「第三段階。昇降機を起動して第三層に移動する。リーンの端末で認証を突破する。ここが最大のリスクだ」
「ガルドの役割は?」リーンが聞いた。
「第四層の地理案内。それと、昇降機に到達するまで、最後尾で監視員に気付かれた時の足止め」
ガルドが頷いた。
「できる限りのことをやる」
*
二十五日目の夜。
ジンが配管の裏を通りかかった。
咳をしていた。いつもより弱い咳だった。咳そのものが、力を失いかけているようだった。
ジンがカイの前に、何かを落とした。
丸めた布の切れ端だった。
ジンは何も言わず、顎を引き、通り過ぎていった。
カイは布を広げた。
中に、小さな金属のピンが入っていた。配管整備の時に使う、細い針金のような道具。隔壁の電子錠の近くで、配線の隙間に差し込むことができる太さ。
一緒に、折り畳んだ薄い紙片。表面に、炭で書かれた文字。
「手伝う」
二文字だけだった。
カイは、しばらくその紙片を見つめていた。
ジンが計画を察していた。おそらく最初から。カイとリーンが配管の裏で交わしていた会話を、どこかで聞いていた。だが何も言わずに、三年と同じ沈黙を続けて、今夜、これだけを持ってきた。
「カイ?」リーンが近づいてきた。「何それ」
「……ジンだ」
「ジンさん」
「計画に入れてくれと言ってる」
リーンが紙片を見た。短く息を呑んだ。
「咳、止まってないよね。あの人」
「止まってない」
「大丈夫なの」
カイは答えられなかった。
道筋を展開した。
目的:ジンを含めた四人で脱出する。
金色の線が——走った。走ったが、ジンの線だけが、最初から途中で霧に消えていた。霧ですらなかった。ただ消えた。
「……」
「カイ?」
「ジンの線が、見えない」
「見えない?」
「道筋が、ジンを映さなくなっている」
カイは自分の言葉に戦慄した。
道筋は人間を映す。リーン以外は。けれどその「リーン以外」の中に、もう一人、映らない人間が現れた。
違う。映らないのではない。「もう映らない」のだ。
ジンの先が、ない。
「カイ」
リーンが、カイの肩に手を置いた。
「連れていこう」
「でも」
「先がなくても、今日があるじゃん。今日、ジンさんは自分で手伝うって言った。その手を取るのは、今日のカイだよ」
カイは紙片を握りしめた。
*
その夜、三人が出た後の、二人きりの時間。
リーンはカイの隣で、端末の基板を弄り続けていた。時々、手を止めて、自分の金属片の表面を指でなぞった。
「実験体七号」
小さく呟いた。
「カイ」
「何だ」
「あたしが、もし本当に人間じゃなかったら、カイはどうする?」
カイは壁に背を預けたまま、少し考えた。
道筋を展開しなかった。これは道筋で答えを出す話じゃない。
「……変わらない」
「変わらない」
「お前は笑う。怒る。呆れさせる。腹が立つほど鋭い。面倒くさいほど正直だ。それは——俺が知ってるお前だ。金属片に何が書いてあろうが、それは変わらない」
リーンが目を見開いた。長い沈黙があった。
「……カイって、たまにすごいこと言うよね」
「うるさい」
「照れてる」
「照れてない」
「照れてる。だって今、『うるさい』って言おうとして一回言葉に詰まったもん」
カイは口を閉じた。この少女は、どこまで読んでいるのだ。
リーンが笑った。本物の方の笑い方で。
「……お前といると本当に——」
「疲れる、でしょ。知ってる知ってる」
カイは顔を背けた。耳は——確かに熱かった。
*
リーンは、カイが眠った後も、目を閉じなかった。
配管の裏の暗闇の中で、右手の中の金属片を見つめていた。
実験体七号。
ガルドの前では、笑ってみせた。みんなに見せる方の笑顔で。
カイにはバレた。いつもバレる。
でも、バレていい相手がいるってことを、あたしは知った。
リーンは壁の方を向いた。カイがさっき指でなぞっていた、「空」の文字のある壁。
暗闇の中で、リーンも指を伸ばした。ざらざらした錆の感触。その上の、小さな凹凸。カイと同じ動きで、文字の形をなぞった。
空。
温かくて、怖くない青。
記憶のないあたしには、それが何かわからない。でも、カイが壁に指を当てた時の、あの指の優しさだけは、わかった気がする。
——カイ、連れてって。
リーンは目を閉じた。
空って、どんな青なのかな。──カイ、連れてって。
*
[ 今 ]
母さんの筆跡の「空」は、今、俺の机の上にある。
七年分の錆を、壁ごと削り取って持ち帰った。
君が読むかもしれない。
読んでくれたら、またあの日みたいに、泣いてくれてもいい。
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