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第2話「なんとなくの少女」

挿絵(By みてみん)


翌朝、リーンは予想通りの場所にいた。


カイが起きる前に配管の隙間から抜け出して、廃棄層の作業割当板の前に立っていた。錆びた金属板に刻まれた番号と区画の対応表を、指でなぞりながら読んでいる。


「早いな」


「カイのほうが遅い」リーンは振り返らずに言った。「ねえ、この割当ってどうやって読むの」


カイは割当板の前に立った。


「左の列が班。A、B、C、D。右の列が区画。廃液処理、瓦礫撤去、配管整備、食料配給。中央の番号が、その日の担当者だ」


「カイは?」


「五一七。今日は班B。廃液処理」


リーンが指で板をなぞった。五一八、五一九、五二〇と番号を追っていく。その指が五一九で止まった。


「五一九って、昨日カイと目を合わせてた人?」


「……見てたのか」


「うん。二人とも、ほとんど同じタイミングで顎を引くんだもん。気づくよ」


カイは口を閉じた。三年間誰にも見られていないと思っていた小さなやり取りを、新入り一日目の少女が見抜いている。


「ジンだ。五一九。同い年」


「友達?」


「違う」


「でも顎を引き合う相手でしょ」


「……違う」


リーンは「ふーん」と言って笑った。否定でも肯定でも追及でもない、あの「ふーん」だった。カイは逃げるように作業割当板の別の場所を指さした。


「それより、ここを見ろ」


「ここって?」


「監督官の配置表。デッラ、グレオ、フェルツ。各班に一人ずつ付く。ローテーションは月に一度」


リーンの目がすっと鋭くなった。


「逃げ方の話をするんでしょ? 逃げるなら、まず監視の穴を探すのが先じゃない?」


正しい。論理的に正しい。カイが三年かけて辿りついた結論の、最初の一歩と同じだ。


「……座れ。点呼まで二十分ある」


二人は配管の裏に戻った。カイは壁に背を預け、リーンは膝を抱えて向かい合う。


「まず前提を共有する。廃棄層から出るには二つの方法がある」


「一つは上昇試験。もう一つは?」


「力ずくで突破する」


「試験のほうが安全じゃない?」


「安全だが、条件がある。第五層から第四層への上昇試験は年に一度。定員は五名。応募資格は監督官の推薦が必要だ」


「デッラに推薦してもらうの? あの人、カイのこと殴ってたよね」


「だから試験は使えない。少なくとも正規のルートでは」


リーンが首を傾げた。目の奥がまた鋭くなる。


「正規じゃないルートがあるってこと?」


カイは道筋を展開した。


目的:リーンに計画を説明する。


金色の線が現れる。話すべき順序が示される。


「上昇試験の仕組みを——」


言いかけて、詰まった。


昨日の配管の裏と同じだった。道筋のことを説明しようとすると、喉の奥で語彙が抜け落ちる。上昇試験の手順を語ろうとすると、「試験場の隔壁」「認証」「移動時間」——単語はあるのに、それらを繋ぐ言葉が見つからない。


「……えっと」


「ゆっくりでいいよ」


リーンは急かさなかった。ただ、膝を抱えたまま待っていた。


カイは息を吸った。語彙が抜け落ちた分を、身振りと単語で埋めていった。


「試験。三段階。筆記、実技、面接。場所は第四層との境界。試験期間中は——第五層と第四層の間の壁が、少しだけ開く」


「少しだけ開く」


「受験者が移動する間。朝十五分。昼十分。夕方十五分。合わせて四十分」


「その四十分で逃げる」


「……そうだ」


リーンが頷いた。


「それを言うのに三年かかったんだが」


「ごめん」リーンが笑った。「でも合ってるでしょ?」


合っている。完全に。


「問題は、その四十分の中でも、一番監視が薄い時間帯を見つけないといけない。それと——壁を開ける鍵を、俺たちは持っていない」


「鍵」


「電子制御の隔壁だ。認証が要る」


リーンは少し黙った。膝に頬を乗せた。その姿勢のまま、目だけが配管の天井を動いていた。何かを考えている。


「カイ」


「何だ」


「昨日のさ、説明できない感じ。今もあった?」


「……あった」


「それ、カイが教えてくれる情報が全部、カイ経由の言葉になるってことだよね」


カイはリーンを見た。


「カイが見たこと、カイが考えたこと。全部、カイの頭の中にある。それを外に出そうとすると、言葉が抜け落ちる。だからカイはずっと一人で、頭の中だけで考えてきたんでしょ」


沈黙。


「あたしが、外にいてあげる」


「……は?」


「情報を集める係。カイが説明できない場所を、あたしが代わりに見に行く。それで二人で組み立てる」


提案だった。押しつけがましくない、ただの事実を言うような声で。


カイは頷くしかなかった。


   *


三日が経った。


リーンの観察力は異常だった。


三日目の夜、配管の裏で報告を聞いた。


「監督官デッラ。巡回ルートは固定。朝六時に東通路、六時十五分に中央広場、六時半に西通路。ただし水曜だけ中央広場を飛ばす。たぶん水曜の朝は腹を下してる。トイレに行く時、右手で腹を押さえてたから」


カイは黙って聞いていた。


「グレオ。巡回は不規則に見えて、実は配管の音に反応してる。カンカンって金属音が鳴ると必ず音のほうを見る。条件反射っぽい。あと、左目の視力が悪い。左から近づく人間に気づくのが遅い」


「三番通路の蛍光灯。点滅周期は約四十秒。消えている時間は三秒。その三秒間、通路の中央六メートルが完全な暗闇になる」


全て正確だった。カイが道筋で確認しても矛盾がない。しかもカイが三年かけて把握した情報に、新しい要素がいくつも加わっている。


「お前の目は何でできてるんだ」


「普通の目だよ」リーンは笑った。「たぶん」


「もう一つ」リーンが指を立てた。「上昇試験の裏の仕組み、見つけた」


「何を」


「試験の合格者は、毎年必ず同じ班から出てる。班A。班Aの班長はデッラの弟のムーロ。つまり——」


「出来レースか」


「うん。推薦から合格まで全部決まってる。でも大事なのはそこじゃない」


リーンの目が光っていた。


「出来レースってことは、試験中の警備が緩いの。だって結果が決まってるんだもん。不正を警戒する必要がない。特に第二段階の実技の時間。受験者は試験場にいて、監督官も試験場に集中する。その間、隔壁の監視員が一人減る」


カイの頭の中で、計画が組み変わっていく。三年間温めてきた計画が、リーンの情報で一気に精度を上げた。


道筋を展開した。


目的:上昇試験中に隔壁を通過する。


金色の線が変わった。グレオの五分間に向かっていた線が、枝分かれして新しいルートを描いた。第二段階の実技時間。監視員が一人減るタイミング。隔壁の電子錠——


「リーン。隔壁の電子錠、見たことあるか」


「あるよ。昨日、配管整備の時にわざと近くを通った」


「型式は」


「わからない。でも端末と同じ系統だと思う。基板の配置が似てた」


「端末?」


「あ、まだ言ってなかった。これ」


リーンが作業服の内側から何かを取り出した。


黒い箱。表面にひびが入り、ケーブルが千切れている。


「三番通路の瓦礫の中にあった。上層から落ちてきた端末だと思う」


「ゴミだろ」


「待って」リーンが端末を裏返した。「ここ、パネルが外れそう」


細い指が背面のパネルをスライドさせた。迷いのない動きだった。まるで何度もやったことがあるかのように。


ふと、リーンの指が一瞬だけ止まった。

それから、誰にも聞かせるつもりのない小声で、呟いた。


「……この操作、もう知ってる」


「は?」


リーン自身が驚いた顔をした。自分の口から出た言葉に、自分で遅れて反応する、という変な間があった。


「あれ、ごめん。口が勝手に。今のなし」


「『もう知ってる』って、どういう意味だ」


「わかんない。触ったことないのに、手順が先に見えるの。スライドして、爪で引っかけて、パネルを外して——って、体の中で順番が再生される感じ。ほんとに、なんとなくなんだけど」


カイは黙った。


この少女は、機械の勘が良すぎる。良すぎて不自然だった。廃液処理の場では、監督官の足音の周期をたった一日で把握した。端末の基板を見たのも今日が初めてのはずなのに、指は一度も迷わない。「なんとなく」で片付けるには、当たりすぎている。


「リーン。お前、機械を触ったことがあるのか」


「ないよ。でも……なんとなく」


また「なんとなく」だ。


パネルが外れた。中に小さな基板が見える。リーンの指が基板の上を走った。


「ここが電源。ここが通信モジュール。これは……記憶装置かな」


「なぜわかる」


「わからない。でも指が知ってる」


リーンの指が一点で止まった。


「ここ。接触不良だと思う。押さえたら——」


端末の表面に、一瞬だけ光が走った。文字が浮かんで消えた。


カイの目が捉えた文字列は一つだけだった。


「ABYSS-OS v4.7」


意味はわからない。だが頭の奥で何かがちらついた。「OS」という文字の並びに、知らないはずの親しみを感じた。


「動かないか。電力が足りないのかも」リーンは残念そうに端末を置いた。「でもこれ、上層の通信端末だと思う。直せたら情報が取れるかも」


「直せるのか」


「わからない。でもやってみたい」


その時、リーンがふと指の動きを止めた。


唇が、小さく動いた。


音にならない何かを、口ずさんでいた。旋律。抑揚。でも歌詞はない。


カイは息を潜めた。


子守唄だ。


記憶のない少女が、知らないはずの歌を、端末の基板の上で無意識に歌っている。


しばらくして、リーンがぱっと顔を上げた。


「……あれ。あたし、今なんか鼻歌歌ってた?」


「歌ってた」


「うそ。なんの歌?」


「知らない。俺が聞いたこともない歌だ」


「変なの」


リーンは首を傾げて、それから笑った。カイは笑わなかった。


覚えていないのに、歌が出てくる。


リーンの中には、リーン自身も知らないリーンが、いる。


   *


廃液処理の作業中のことだった。


カイは黙々と作業をしていた。道筋を展開し、飛沫を避け、容器を運ぶ。いつもの手順だ。


ふと、ポッツが作業場の危険区域に踏み込みかけた。足場が不安定で、一歩間違えれば廃液の溜まりに落ちる。


カイの道筋が走った。介入すべきか。


——体が動いていた。


考える前に。自分の容器を置く動作に見せかけて、ポッツの足元に小石を蹴り込んでいた。液面が揺れ、飛沫が逆方向に飛び、ポッツの足が踏んだ場所はわずかに乾いた床だった。


ポッツは気づかなかった。自分でバランスを取り直したと思っている。


カイは拳を握った。右手の爪が、掌に食い込んでいた。我慢した痕、ではない。動いてしまった痕だ。三年間、道筋が「自分の安全」しか指していなかった場所で、体が勝手に別の線を辿った。その痕だ。


「違う」


カイは誰にも聞こえない声で呟いた。


「こいつが死ぬと、班が足りなくなるだけだ」


嘘だ。自分でもわかっていた。班の員数なんて、廃棄層の誰一人気にしていない。死ねば消される。消されれば番号が一つ繰り上がる。それだけの場所だ。


それなのに、俺は——


「カイ」


声が降ってきた。


リーンが隣の作業場から、カイの拳を見ていた。


見られた、と思った。


「今の、管理のため?」


「……ああ」


「管理」


リーンは首を傾げた。その首の傾げ方は、カイの言い訳を疑う時のそれだった。


「管理って、自分の胸に爪を立てながらやるもの?」


カイは答えなかった。


リーンはそれ以上追及しなかった。「ふーん」と言って、自分の容器を持ち上げた。けれどすれ違いざまに、小さな声で続けた。


「助けたじゃなくて、管理ね。はいはい」


「……うるさい」


「今のも管理?」


「管理だ」


「じゃああたしを管理するのもありなんだ」


「は?」


「カイがあたしを見てくれてるのも、管理。じゃあ安心した。助けてもらってるって思うと、重たいもんね」


リーンが笑った。いつもの笑顔よりも、少しだけ口角の上がり方が小さかった。


カイは自分の手元を見た。拳の爪の跡が、まだ残っていた。


ポッツが通りかかった。カイとリーンの会話を聞いていたらしい。


「お前、冷たいくせに面倒見いいよな」


「冷たくない。助けてるんじゃない。管理して——いや、管理でもない。ただ——」


カイは言葉に詰まった。「管理」でもなく「助けてる」でもなく、正確に言い表す言葉が見つからない。


「今の、何て言おうとしたの?」リーンが聞いた。


「……何でもない」


ポッツが肩をすくめた。「お前のその『管理』のおかげで、俺も先月の廃液飛散の時に助かったんだろうよ」


「偶然だ」


「とぼけるなよ」


ポッツが行ってしまった。


リーンがカイを見ていた。にやにやしている。


「何だ」


「さっきの言い間違い、面白かった」


「言い間違いじゃない」


「管理でもないし助けてるでもないなら、何なの?」


「……黙れ」


「カイって、自分の気持ちに名前つけるの、下手だよね」


カイは口をつぐんだ。


リーンが柔らかく笑った。この笑い方は、他の奴隷の前で見せる笑い方とは違った。口角の上がり方が小さくて、目が細くなる。作り物ではない、リーンだけの笑い方だった。


カイはそれに気づいていたが、言葉にはしなかった。


   *


夕方、ジンが咳をしながら配管の裏を通りかかった。


通り過ぎようとして、立ち止まった。カイの前に何かを転がした。


干し肉の切れ端だった。


カイは一瞬、固まった。


ジンは何も言わなかった。三年前の夜と同じように。ただ、咳を一度して、リーンを見て、それから顎を引いた。


リーンも、なぜか顎を引いた。


ジンが行ってしまった。


「今の、なに」リーンが聞いた。


「……昔、あいつが俺に干し肉を転がしてきた夜がある」


「三年前?」


「……よくわかるな」


「カイの沈黙でわかった。古い沈黙の種類」


カイは干し肉を拾った。固い。乾いている。食べるのに時間がかかる。つまり、配給を少しずつ残したものだ。


「あいつは、喋れないのか?」リーンが聞いた。


「喋れる。喋らないだけだ」


「なんで」


「ここで喋ると、殴られる回数が増える。デッラは口を開く奴隷を嫌う。だからジンは、ある時から喋るのをやめた」


「カイは喋るよね」


「殴られる分、慣れた」


リーンがカイの頬を見た。今朝デッラに殴られた左頬は、まだ少し腫れている。


「ジンさんは、カイに喋ってほしくないのかも」


「え?」


「自分の代わりに、誰かに喋っててほしかったのかも。自分は黙ってるしかないから」


カイは干し肉を見つめた。


三年間、あの夜の干し肉がなぜ自分のところに転がってきたのか、わからなかった。わからないまま、顎を引くだけの関係が続いた。


それだけじゃ、なかったのかもしれない。


「……次にジンに会ったら」


「うん」


「俺の分の配給を、半分置いとく」


「管理のため?」


「……いや」


カイは答えに詰まった。


リーンは笑わなかった。「ふーん」とも言わなかった。ただ、黙って頷いた。


   *


七日目。


計画はこう組み変わった。


上昇試験の第二段階実技の時間帯。監視員が一人減る隙を突いて、リーンが電子錠を解除する。カイが道筋で監視の穴を見つけ、二人が隔壁を通過する。


問題は、リーンに電子錠を開けられるかどうかだった。


「お前の直感に命を預けるなんて正気じゃないな」


「カイの道筋だって外れたことあるでしょ」


「……ない」


「嘘。さっき三回外れてた」


「……二回だ」


「ほら、やっぱり外れてるじゃん」


リーンが勝ち誇った顔をした。カイは天井を見た。この少女には論理で勝てない。


「練習できるか」


「端末の修理を兼ねてやる」


リーンは端末の基板を、また弄り始めた。指が迷いなく動く。カイは道筋を展開した。


目的:リーンの電子錠解除の成功率を上げる。


金色の線が走った。リーンが端末の修理を重ねるほど、線が太くなっていく。七割が八割になり、九割に近づいていく。


「端末の修理を続けろ。手を動かすほど精度が上がる」


「道筋が言ってるの?」


「そうだ」


「便利だなあ、その目」


「便利じゃない。万能じゃない。情報が足りないと霧になって消える。予測できない事態には対応できない」


「じゃああたしが情報を集めて、カイが道を引く。いいチームじゃん」


カイは答えなかった。ただ、道筋が一人で描いていた時よりも枝分かれが少なくなっているのを感じた。


   *


十二日目の朝、点呼の前に、リーンがふと呟いた。


「カイ」

「何だ」

「今日、誰か死ぬかも」


カイは、顔を上げた。


リーンは壁にもたれて、両足を抱えていた。目が通路の奥を見ていたが、焦点はどこにもなかった。声の温度は、天気の話をするのと変わらなかった。


「どういう意味だ」

「……わかんない。なんとなく。今朝、そういう感じがして」

「根拠は」

「ないの。ごめん、忘れて」


リーンが笑った。いつもの笑い方だった。けれど口の端の上がり方が、いつもより浅かった。

カイは何も言わなかった。ただ、その一言が、耳の奥に棘のように残った。根拠のない発言を、いつものリーンは言わない。観察から結論に跳ぶ少女が、今朝だけは「なんとなく」の側から喋っていた。

午後、廃液処理中のことだった。


ジンが、咳き込んだ。


いつもより激しい咳だった。体を折って、壁に手をついた。容器が傾いた。廃液が揺れた。


道筋が走った。ジンの足元に飛沫が迫る軌道。今度は「自分の安全」ではない線だ。ジンを助ける線。カイの体が反応しようとした。


けれど——同時に、別の線も視えた。


助けに入れば、デッラの視線がカイに向く。「奴隷同士の結託」を何より嫌う監督官。カイが助けに入れば、ジンとカイの両方が監視下に置かれる。脱出計画が危うくなる。


道筋が、二本に枝分かれした。


一本は、ジンを助ける線。短期の正解。

一本は、ジンを見捨てる線。長期の正解。


カイの足が、動かなかった。


ジンが咳を止めた。容器を持ち直した。飛沫は、ジンの靴の縁をかすめただけだった。


ジンがゆっくりと顔を上げた。青白い顔。血の混じった唾を、床に吐いた。


カイと目が合った。


ジンは、いつも通り顎を引いた。


カイも、顎を引いた。


でも——ジンの目の奥には、何かがあった。責めてはいない。怒ってもいない。ただ、見ていた。カイが自分を助けに来なかったことを、静かに見届けた目だった。


ジンが通り過ぎていった。


カイの拳は、また爪の跡を刻んでいた。


   *


「カイ」


夜、配管の裏で、リーンが声をかけた。端末の基板を弄っていた指を止めていた。


「見てたよ。昼間」


「……何を」


「ジンさんが咳き込んだ時、カイの足が一瞬動いた」


沈黙。


「動いて、止まった。道筋が二つ視えたんでしょ」


「なぜわかる」


「カイの目が、二回動いた。普段は一回しか動かないのに」


カイは壁に頭を預けた。


「ジンを助けに行けば、脱出計画が崩れる。見捨てる方が、合理的だった」


「うん」


「わかってた。合理的に、わかってた」


「うん」


「それでも、動こうとした足を止めるのに——爪が食い込んだ」


リーンはカイの拳を見ていた。それから、カイの顔を見た。


「カイ」


「何だ」


「管理じゃなかったね。さっきのは」


カイは答えなかった。


「ジンさんを助けに行きたかった。でも全員を助ける道が視えなかった。だから止まった。カイの止まり方は、冷たい止まり方じゃなかったよ」


「……止まったのは事実だ」


「事実は事実。でも止まり方には種類があるの。カイの沈黙と同じ」


リーンは小さく笑った。本物の笑い方で。


「明日、ジンさんに干し肉の礼をしたら? あたしのぶんも半分いれていいよ」


「お前の分を俺が勝手に——」


「管理でしょ」


カイはため息をついた。


「……お前は」


「うん」


「本当に、疲れるな」


リーンは声を殺して笑った。


   *


十五日目の夜。


リーンが端末の修理を続けていた。瓦礫から拾った部品を組み合わせ、切れたケーブルを繋ぎ直している。


カイは計画の見直しをしていた。道筋を展開し、上昇試験までのルートを確認する。


ふと、気づいた。


リーンの呼吸音が聞こえない。


端末に集中しているリーンを見た。目は開いている。指は動いている。生きている。だが呼吸の音がしない。


いや、している。だが異常に静かだ。普通の人間の呼吸は、静かな場所なら聞こえる。カイの耳はこの三年で研ぎ澄まされている。ポッツの寝息も、隣の区画の奴隷のいびきも聞こえる。


なのにリーンの呼吸は、意識しないと聞こえない。


初日の夜もそうだった。寝息が聞こえなかった。寝返りもなかった。


「ねえカイ」


「何だ」


「この端末、もう少しで動くと思う。電力さえ確保できれば」


「電力はどうする」


「廃液処理場の非常用電源から引っ張れないかな。あそこ、バッテリーが余ってるでしょ。壊れかけのやつが三台あった」


「お前、非常用電源のバッテリーの在庫まで把握してるのか」


「なんとなく目に入っただけだよ」


「お前の『なんとなく』には毎回驚かされるな」


「えへへ。褒めてる?」


「呆れてる」


「カイの『呆れてる』はだいたい褒めてるの裏返しだって、もう気づいてるよ」


「……お前といると本当に——」


「疲れる、でしょ。知ってる知ってる」


リーンが笑った。カイは溜息をついた。しかしその溜息に苛立ちはなく、ただ暖かい諦めのようなものが混じっていた。


リーンはふと手を止めた。端末の画面を見つめている。


「ねえカイ」


「何だ」


「記憶がないって、不自由だと思う?」


「……そうだろうな。普通は」


「あたしね、最近思うの。忘れるって、身軽ってことじゃないかなって」


カイの眉がぴくりと動いた。


「重たい荷物を持ってないの。過去の失敗も、嫌な思い出も、何にもない。だから今あるものだけ見て走れる。それって自由じゃない?」


カイは黙った。苛立ちが、胸の底で燻った。


忘れたくないものがある。母の手の温かさ。壁に書いた文字の感触。声だけの誰かとの「おはよう」。それらを忘れるのが「自由」だと?


「忘れるのが自由だとは思わない」


声が、少し硬くなった。


リーンがカイの顔を見た。


「今の沈黙、怒ってる沈黙だ」


「怒ってない」


「怒ってるよ。でも、あたしに怒ってるんじゃない。何か別のものに——」


「黙れ」


リーンが口を閉じた。怯えたのではなかった。カイの沈黙の奥にあるものを、静かに受け止めているようだった。


「……ごめん。あたしが忘れてるだけで、忘れたくない人がいるよね。カイのお母さんとか」


カイは答えなかった。


「うるさいな」


リーンは何も言っていなかった。


「何も言ってないよ」


「……いることがうるさい」


リーンが目を丸くした。それから、ゆっくりと笑った。


「それ、ひどいのに嬉しいのはなんでだろう」


カイは答えなかった。自分でもわからなかった。


   *


二十日目の朝。


点呼の後、リーンがカイのところに走ってきた。息を切らしている。走ってきたのに、足音がほとんどしなかった。


「カイ。端末、動いた」


「動いた?」


「昨夜、非常用バッテリーから電力を引いたら起動した。三十秒だけだったけど——見て、これ」


リーンが端末の画面を見せた。起動時にキャプチャされたらしいデータの断片が残っている。


文字列だ。ほとんど読めないが、カイの目が一つのフレーズを捉えた。


「地上接続口——第一層天蓋区画」


「これ」リーンが指で示した。「地上への出口の場所だと思う。第一層にある。天蓋区画っていう場所」


カイは道筋を展開した。


目的:第一層の天蓋区画から地上に出る。


金色の線が——走った。長く、遠く、霧に何度も消えながら、それでも伸びていく。


初めてだった。三年間、「地上に出る」の道筋は常に途中で途絶えていた。出口がどこかわからなかったから。


今、出口が見えた。情報が一つ加わっただけで、道が繋がった。


「……使える。この情報は使える」


「でしょ?」リーンが得意げに笑った。


「お前、今——」


カイは言葉を切った。


リーンが、笑っていた。いつもの笑顔ではなかった。疲れ切った顔の上で、口の端だけが、小さく上がっていた。三十秒端末を動かすために徹夜したらしい目の下の隈と、その上の、小さな笑み。


カイは自分の口の形を、確かめた。


口の端が、上がっていた。


笑っていた。


三年ぶりだった。


母が死んでから、自分が笑うことはないと思っていた。笑う筋肉はもう動かないのだと、どこかで諦めていた。


「……カイ、今」


「言うな」


「ちょっと笑った」


「言うなと言った」


「でも笑ったよ」


「……ああ」


カイは認めた。否定する言葉が出てこなかった。


笑えた、と思った瞬間、カイは三年ぶりに息を吸えた気がした。


   *


[ 今 ]


君が笑った日を、俺は間違えるかもしれない。

でも、君が笑ったことは間違いない。


それだけは、この指が覚えている。


────────────────


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