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第1話「光を知らない世界で」

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


[ 今 ]


これを書いている今、君はもういない。

いや、正しくは、まだいない。

君を再構築するための断片を集めている。


もし、この文章を読んでいる人がいるなら──

それは君かもしれない。


[ あの日 ]


二つに分かれた通路があった。


右か、左か。


瓦礫が崩れ落ちる音。蛍光灯の点滅。粉塵で霞んだ空気。母の手が、カイの手首を強く握っている。


「こっち、カイ」


母は右を選んだ。カイも一緒に走った。


行き止まりだった。


天井が崩れた。瓦礫に挟まれた母が、隙間からカイだけを押し出した。カイの体が冷たい床に転がった。振り返った時には、もう母の上半身しか見えなかった。


「カイ……考えることを、やめるな」


母の声が途切れる前に、最後にそう言った。


カイは母の手を握った。手はまだ温かかった。


けれど、その温かさがゆっくりと抜けていくのを、カイの指は感じていた。


左が正解だった。


——あとで知った。


あの時、正しい道が視えていたら。


もし最初から正解がわかっていたら。


——その夜、力が目覚めた。


目的を決めると、光の線が視界に浮かぶ。その線を辿れば、たいてい正解に辿りつく。


便利な力だ。最高の力だ。もう二度と間違えなくていい。もう二度と、大切なものを失わなくていい。


ただ一つ、問題がある。母を救うには、三年だけ遅かった。


   *


蛍光灯が薄く点滅している。


カイは目を開けた。配管の裏の、誰にも知られていない狭い空間。両手に残った母の手の温度の記憶は、今朝も目覚めと一緒に冷えていった。


挿絵(By みてみん)


十六歳。番号は五一七。名前は、ない。


カイと呼んでくれた母は、三年前の崩落事故で死んだ。


地下世界アビス。第五層。通称、廃棄層。


地下世界が排出する有害な廃液、壊れた機械、そして要らなくなった人間が集まる底の底。能力者が優遇される上層とは別世界の、沈みきった場所だ。カイはここで十六年を生きてきた。


「……起きるか」


カイは壁に手を当てて、体を起こした。壁の表面を指でなぞる。ざらざらした錆の感触の上に、かすかな凹凸があった。


「空」。


九歳のカイが、母に教わって書いた文字だ。七年の間に錆に埋もれて、もうほとんど見えない。それでも指は、その形を覚えていた。


壁の中の空。


見たことのない青が、今朝もそこにある。


   *


光の線が走った。


薄い金色の糸が、暗闇の中を鞭のようにしなっている。まばたきしても消えない。配管の錆を迂回して、通路の奥へと伸びていく。


道筋が示している。右の配管の裏に入れ。三秒待て。それから走れ。


挿絵(By みてみん)


革靴の足音が近づいてくる。重い音。苛立ちを含んだ歩き方。監督官のデッラだ。デッラの拳は右利きだから、殴られるのはいつも左頬になる。おかげで右頬は比較的きれいに保てている。ありがたい話だ。


あと五秒。


カイは配管の裏に滑り込んだ。背中が壁にぶつかる。音を出すな。


あと三秒。


デッラの懐中電灯が通路を舐めた。光が壁を伝い、カイの右手の指先から二センチの場所で止まった。


あと一秒。


デッラが舌打ちをした。光が遠ざかる。足音が通路の奥に消えていく。


カイは息を吐いた。


道筋は消えない。金色の糸は変わらず視界の中に浮かんでいて、次の行動を示している。三年経っても慣れない。道筋が視えるのは便利だと思うだろう。俺もそう思っていた。二年前までは。


今は呪いだと思っている。正解が視えるということは、間違える自由がない、ということだから。


この力が何なのか、カイ自身にもわかっていない。ただ、目的を決めると光の線が現れる。その線を辿ると、たいてい正解に辿りつく。


たいてい。


いつも、ではない。


三年前の崩落事故の夜、この力は、母を救えなかった。


   *


朝の点呼。


蛍光管が薄く点灯する。朝だ。第五層の百二十六人が壁に沿って並ぶ。番号順。カイは五一七番目。


デッラが歩いてくる。


今朝の機嫌は悪い。足音でわかる。デッラは機嫌が悪いと右足を引きずるように歩く。原因は知らないし興味もない。


「五一七」


「はい」


拳が飛んできた。


頬に当たる。左頬だ。やはり右利き。道筋は出さなかった。避けると目立つ。廃棄層で目立つことは死を意味する。


「目つきが気に入らねえ」


いつもの理由だ。三年間、左頬だけが定期的に腫れる生活を送っている。履歴書があれば特技の欄に「左頬で拳を受け止めること」と書けるだろう。もっとも、この世界に履歴書はない。


「廃液処理。班B。遅れたら飯抜き」


「了解」


デッラが通り過ぎる。カイは唇から血を拭った。骨は折れていない。ならいい。


挿絵(By みてみん)


隣の奴隷——五一八番のポッツが小声で言った。


「毎朝毎朝、よく耐えるな」


「慣れた」


「慣れるもんじゃないだろ」


「慣れるしかないだろ」


ポッツが肩をすくめた。四十過ぎの痩せた男で、五年前に第四層から落とされてきた。理由は聞いていない。聞いても変わらない。


「今日も廃液か」ポッツが言った。「ジンのやつ、まだ咳が止まらんらしいぞ。あいつと同じ班になったら気をつけろよ」


「知ってる」


ジン。五一九番。カイと同い年の痩せた少年。廃棄層で「友人」と呼べるほどの関係ではない。だが、三年前にカイが配管の裏で震えていた夜、暗闇の中に干し肉を転がしてきた子どもがいた。何も言わずに、次の日もまた転がしてきた。それがジンだった。


あれ以来、カイとジンは同じ言葉を一度も交わしていない。だが、作業場で目が合うと、互いに一度だけ顎を引く。それだけの関係が、三年続いている。


「ジンのことは、ジンが決める」


「お前、冷たいなあ」


「冷たい方が長生きするだろ」


ポッツが溜息をついた。冷たい方が長生きする。嘘だ。冷たくなければ、もう何度も壊れている。冷たさは防具だ。


「行くぞ」カイは立ち上がった。「遅れたら本当に飯抜きだ」


「お前、本当に十六歳か? おっさんみたいなこと言うな」


「おっさんに言われたくない」


ポッツが笑った。廃棄層では珍しい、本物の笑いだった。


   *


廃液処理は今日も地獄だった。


第五層のさらに下——廃棄槽と呼ばれる空間に、地下世界全体から排出される有害廃液が溜まる。奴隷はそれを容器に汲み、所定の処理槽まで運ぶ。素手で。


防護服はない。手袋すらない。肌に触れれば爛れる。蒸気を吸えば肺が焼ける。


カイは道筋を常に展開していた。


目的:廃液処理を負傷なく完了する。


視界に薄い金色の線が走る。容器を持つ角度。足を置く位置。液面が揺れるタイミング。全てが光で示される。


右に半歩。


飛沫が左頬をかすめた。一ミリの余裕。


しゃがむ。蒸気の塊が頭上を通過した。


立ち上がる。三歩前進。容器を置く。


隣で作業していた奴隷が目を丸くしている。


「おい……今の、どうやって避けた」


「風向きを見てた」


「風向き? こんな場所に風なんかあるか?」


「あるだろ。換気口から」


嘘ではない。換気口からの微風は実際にある。ただ、それだけで飛沫の軌道を予測するのは人間には不可能だ。


カイは黙って作業を続けた。


ふと、視界の端で道筋が枝分かれした。


ポッツ。危険区域の手前で足を滑らせた。廃液の溜まりに落ちる軌道。落ちれば、背中の皮膚が溶ける。


カイの体が動いた。考える前に動いていた。


自分の容器を置く動作に見せかけて、ポッツの足元の廃液溜まりに小石を蹴り込んだ。液面が乱れ、飛沫が逆方向に飛ぶ。ポッツの足が滑った先の場所には、ほんの僅かだが乾いた床が出現していた。


ポッツは気づいていない。ただ足場が戻ったと思っている。


カイは胸の奥で、早くなった心臓に苛立った。なぜ動いた。こいつを助ける義理はない。道筋は「助けろ」とは言っていなかった。出ていた線は「自分が負傷しない道」だけだった。それを外れて体が動いた。


それでも口では、こう呟いていた。


「違う。こいつが死ぬと班が足りなくなるだけだ」


誰にも聞こえない声だった。カイ自身にも、自分がなぜ今それを言葉にしたのか、わからなかった。


作業の終盤、ジンが廃液の容器を抱えて通りかかった。細い首。青白い顔。肩で息をしている。


「……五一七」


ジンの声は掠れていた。咳が止まっていないのは本当らしい。三年前の夜と同じく、ジンは何も語らない。ただ、カイの視線を捉えて、一度だけ顎を引いた。


カイも、顎を引いた。


それだけだった。


ジンが通り過ぎていく。痩せた背中。廃液の容器が、ジンの体には重すぎる。道筋が勝手に枝分かれした。ジンの未来が——一本、細い線として、カイの視界に伸びた。


その線の先が、霧に沈んで消えた。


長くはない。遠くない場所で、消えた。


カイは道筋を消した。


——見たくない種類の道がある。


   *


午後の作業が終わり、カイは自分の場所に戻ろうとした。


配管の隙間にある二畳のスペース。三年かけて見つけた、誰にも知られていない場所。母と文字を書いた壁の染みの数まで把握している。ここだけがカイの領土だった。


角を曲がった。


先客がいた。


少女が一人、壁に背を預けて座っていた。


白に近い銀色の髪。薄い灰色の瞳。廃棄層の薄暗い蛍光灯の下でも、その髪だけが別の光源から照らされているように明るかった。


カイは足を止めた。


三年間。一度も見つかったことがない場所だ。道筋を使って見つけた、論理的に「発見されにくい」場所。なのに——


少女がカイを見た。


「あ」


間が空いた。


「ここ、あなたの場所?」


「……どうやって見つけた」


「なんとなく」


「なんとなくで見つかる場所じゃない」


「でも見つかったよ」


少女はあっさり言って、立ち上がった。汚れた作業服を着ているが、サイズが合っていない。袖が余り、裾が足首まで垂れている。明らかに今日初めて着た服だ。


「新入りか」


「うん。今日来た」少女は言った。「番号、まだもらってないの」


「名前は」


「リーン」


少女は笑った。暗い廃棄層の、有害廃液の匂いが染みついた空気の中で、まるでそんなものが存在しないかのように笑った。


「それしか覚えてないんだ」


「記憶がないのか」


「うん。最初からないみたい。思い出せないんじゃなくて、最初から入ってない感じ」


入ってない。


その言葉を聞いた瞬間、カイの頭の奥で何かが引っかかった。初期化。知らないはずの言葉だ。なのに意味がわかる。中身を消して最初の状態に戻すこと。


「で、あなたは?」


「……五一七」


「番号じゃなくて」


「ここでは番号が名前だ」


「ふーん」


平坦な声だった。怒っているのでも呆れているのでもない。感情の所在が不明な、ただの「ふーん」。まるで、初めて聞く情報を「初めて」として受け取っていない声だった。驚きがないのではなく、驚くために必要な「知らなかった」という感覚が、どこかで抜け落ちている。そういう種類の「ふーん」だった。


「じゃあ私が名前をつけてあげようか」


「いらない」


「カイ、とかどう?」


カイの心臓が止まった。


一拍。二拍。


動き出した。


リーン自身も、自分の口から出た音に、ほんの一瞬だけ戸惑ったような顔をした。なぜ自分がその響きを知っているのか、わからない。けれど、舌が先に動いた。そういう顔だった。微かな既視感が、少女の睫毛の奥で震え、すぐに消えた。


「……なぜその名前を」


「え?」リーンが不思議そうな顔をした。「なんとなく。似合うかなって」


偶然だ。偶然のはずだ。


母だけが知っていた名前を、初対面の少女が言い当てた。


「……勝手にしろ」


「やった。カイね」リーンはまた笑った。「よろしく、カイ」


カイは答えなかった。


ただ、道筋が頭の中で勝手に動いたのを感じた。


展開するつもりはなかった。なのに、リーンを見た瞬間に——


金色の線が現れた。


長い。複雑だ。今まで見たどの道筋よりも遠くまで伸びている。分岐が無数にあり、途中で何度も霧に消え、しかし消えるたびにまた現れ、どこまでもどこまでも続いている。


そしてその道筋の全てに、この少女が絡んでいた。


リーンを外したルートを探してみた。


何もない。


道が消える。


試しに、ここにいる他の誰かに置き換えてみた。ポッツ。ジン。そしてカイ自身。誰を動かしても、道筋は残る。伸びる。変形しても伸びる。道筋は人間を「映す」。カイの目的に絡むなら、誰でも映る。


——この少女だけ、俺の道筋に映らなかった。


「ねえカイ」


「……何だ」


「ここって、一番下なの?」


「そうだ」


「じゃあ、上に行くこともできるの?」


カイはリーンを見た。銀色の髪。灰色の瞳。笑顔の奥に、何かがある。鋭い何か。


こいつは危険だ。


だが道筋は、こいつなしでは続かないと言っている。映らないのに、消すと道が消える。論理が壊れている。


「……あるにはある」


「じゃあ、さらに上は? この地下世界の、一番上は?」


「地上か」カイは言った。「地上は禁忌だ。灼熱の荒野で、空気は毒に満ちていて、人間が生きられる場所じゃないと言われている」


「言われている、か」リーンは繰り返した。「カイはそう思ってるの?」


カイは答えなかった。


「ふーん」


また、あの平坦な「ふーん」だ。肯定でも否定でも追及でもない。ただ受け取って、どこかにしまい込むだけの音。それなのに、答えなかったことがそのまま答えになっている気がした。


「思ってないんだ」


「……なぜわかる」


「今の沈黙、さっきのと違うから。さっきの沈黙は考えてる沈黙だった。今のは——何かを隠してる沈黙」


カイの背筋が冷えた。


出会って数分の少女が、沈黙の種類を読んだ。


「……お前は何者だ」


リーンの目が——一瞬だけ、揺れた。ほんの刹那、笑顔の下から別の何かが覗いた。怯え、とも違う。もっと根源的な動揺。名前のつけようがない感情。


すぐ消えた。


「記憶がないんだってば」リーンはあっさり言った。「でも、人の沈黙って種類があるんだよ。言葉がないから、空気とか間合いで判断するしかなくて」


カイは黙った。


「ほら、また違う沈黙」リーンが言った。「さっきのは警戒の沈黙。今のは——何だろう。感心してる?」


「……お前といると疲れる」


「あはは。よく言われたかも。覚えてないけど」


「覚えてないのに言われた記憶はあるのか」


「あ、ほんとだ。矛盾してる」


リーンが口に手を当てて小さく笑った。自分の矛盾を面白がっている。


「でもなんか、体が覚えてるんだよね。この台詞を言ったら呆れられるぞっていう予感みたいなやつ」


「予感じゃなくて確信にしろ。実際に呆れてる」


「わ、ひどい。出会って十分でひどいこと言うんだ」


「お前が出会って十分で他人の沈黙を読み分けるからだ」


   *


「ねえカイ。もう一個だけ聞いていい?」


「最初の一個はどこ行った」


「あれはサービス。本題はこっち」


リーンの目が変わった。笑顔のまま、でも奥の光が鋭くなった。


「さっき作業場で見てた」


カイの背筋に冷たいものが走った。


「あなた、廃液が飛ぶ前に避けてたでしょ」


沈黙。


「飛んでから避けたんじゃない。飛ぶ前に動いてた。あたし以外は気づいてないと思うけど」


沈黙が長くなった。


三年間。この力を隠し続けた三年間で、見抜いた人間は一人もいなかった。


それを、今日来たばかりの、記憶のない少女が——


「お前」カイは声を低くした。「お前を脅しておくべきなのかもしれないが——」


言葉が途切れた。うまく脅し文句が出てこない。


「もし誰かに言ったら——その——困る」


リーンが目をしばたたいた。


「カイって、悪役向いてないよね」


「……うるさい」


「だって脅してるのに『困る』って。もうちょっとこう、怖いこと言ったほうがいいんじゃない? 『消すぞ』とか」


「消さない。俺は誰も消したことがない」


「知ってる。だからあたしも怖くないの」


リーンは笑った。カイの偽悪が完全に不発に終わった。


「で、あの力って何なの?」リーンが何事もなかったように聞いた。


「……説明が難しい。道が視える。目的を決めると、そこに至る最善の道筋が光って——」


カイは口を閉じた。


喉の奥で、言葉が詰まった。


続きを言おうとした。三年間、自分の中だけで呼んでいた「道筋」という言葉の輪郭を、誰かに説明しようとした。


とたんに、語彙が抜け落ちた。


線の太さを表す言葉。分岐の感触を表す言葉。霧に消える時の手触りを表す言葉。全部、頭の中では確かにあるのに、口に出そうとすると形を失う。


「……何だ、これは」


「カイ?」


「いや……続きを言おうとすると、言葉が出てこない」


リーンは首を傾げた。それから、少し笑った。


「じゃあさ、出てくるだけ言ってみてよ」


「光の線だ」


「うん」


「目的を、決めると」


「うん」


「線が——」


カイはそこで止まった。


言えなかった。


「——伸びる」


ひどく貧しい説明だった。自分でも驚くほど。それでも、リーンは頷いた。


「わかった」


「わかるのか」


「うん。なんとなく」


いつもの「なんとなく」だった。けれどその一言を聞いた瞬間、カイの胸の奥で、何かが静かに落ちた。


道筋のことを誰かに説明しようとして、語彙が抜け落ちた。抜け落ちた分を、「なんとなく」が拾った。


こいつにだけは、伝わる。


「……便利だけど万能じゃない」


「そうだ。情報が足りないと霧になって消える。予測できない事態には対応できない」


「ふーん」


また「ふーん」だ。その一言が、なぜかカイの中に残る。


   *


夕方の食事配給。


カイとリーンは壁際に並んで灰色のペーストを受け取った。


リーンが金属の皿を覗き込んだ。


「ねえカイ。これが食事?」


「そうだ」


「何でできてるの?」


「知らない。知りたくもない」


リーンがスプーンでペーストをすくった。ゆっくり口に運ぶ。咀嚼する。表情が固まった。


「……美味しい?」


「美味しいペーストは存在しない」


「じゃあ不味い?」


「不味いという概念を超越している」


「それって美味しいの不味いの」


「黙って食え」


リーンがもう一口食べた。今度は眉をしかめた。


「ねえ、これ毎日食べてるの?」


「そうだ」


「三年間?」


「十六年だ。生まれてからずっとだ」


「うわあ……」リーンが心の底から同情するような声を出した。「カイ、すごいね。あたしだったら三日で逃げ出してる」


「逃げる場所がないから食ってるだけだ」


「じゃあ逃げられるようになったら、もう食べない?」


「二度と食わない」


「約束だよ」


「約束する意味がわからない。食いたくないから食わないだけだ」


リーンがくすくす笑った。ペーストをもう一口食べて、また顔をしかめた。


「でも食べないと動けないでしょ。不味いかどうかと、食べるかどうかは別の話」


カイは少し意外な思いでリーンを見た。


この少女は——見た目の柔らかさとは裏腹に、芯が硬い。記憶がない。何もわからない。それでも、必要なことは迷わずやる。


「もう一個聞いていい?」


「まだあるのか」


「カイって、友達いないでしょ」


「……唐突だな」


「だって、話し方が全部壁に向かって喋ってるみたい。相手を見てないんだよね。目が合わないの」


「目を合わせる必要がない」


「あるよ。今みたいに、あたしが目を見てるのに、カイだけ壁を見てる。寂しいじゃん」


「寂しいという感覚がわからない」


「嘘。目が左に動いた」


カイはリーンを見た。今度はちゃんと目を合わせた。


灰色の瞳。笑顔だが、笑顔の奥に——何か別のものが見えた。一瞬だけ。


不安。


この少女は笑顔の裏で、何かを恐れている。


「リーン」


「何?」


「お前、いつも笑ってるな」


「うん。笑ってれば大丈夫だから」


大丈夫。何が大丈夫なのだ。記憶もない。名前しかない。こんな場所に放り込まれて、何が大丈夫なのだ。


カイは何も言わなかった。


代わりに、配管の裏の空間を指さした。


「寝る場所は半分使え。左側がお前のスペースだ」


「いいの?」


「場所が余ってる。使わない空間は——もったいないだろ」


「カイって、なんか変だね」


「自覚はある」


「でも嫌いじゃないよ、その変なの」


「褒められてる気がしない」


「褒めてないよ。事実を言ってるだけ」


カイは壁に背を預けた。目を閉じる。


頭の中で道筋が光っている。


長い道だ。今まで見たどの道よりも長い。


でも初めて、その道に、隣を歩く人間の気配がある。


こいつがいれば——道が続く。理屈じゃない。道筋がそう示している。リーンがいるだけで、三年間霧に消えていた分岐の先が、一本ずつ現れ始めていた。


これは、チャンスだ。


利用する。この少女を利用して、地上に出る。


——そう決めた。決めたはずだ。


なのに「利用する」という言葉が、胸の奥で妙に引っかかった。


ふと、リーンの方を見た。リーンは配管の壁に指で何か書いている。カイが教えていない文字だ。指の動きを追って、形を読んだ。


「空」。


教えていないのに。


カイは目を逸らした。耳の奥で、母の声が蘇った。「いつか、ここの上に行ける?」と九歳の自分が聞いた夜のことを。母は少し黙って、カイの髪を撫でて、「考えることをやめるな」とだけ言った。


その約束を、自分は今、この少女と果たそうとしているのかもしれない。


わからない。わからないから、考える。


母の言いつけ通りに。


   *


その夜、夢を見た。


暗い部屋。四角い光。光に向かって指を動かしている。自分の手ではない。もっと大きな手だ。でも自分の手のように馴染んでいる。


光の中に文字が流れている。読めない。でも意味はわかる。指が勝手に動いて、何かを組み立てている。部品を並べるように。論理的に。順番に。


道筋を組むのと、似ていた。


光の中に、誰かがいた。


顔はない。姿もない。声だけの存在。でも、確かにそこにいる。毎日そこにいる誰か。


自分が——知らない誰かが、こう言った。


「おはよう。今日もよろしく」


声が返ってきた。


「うん。今日もよろしく」


柔らかい声だった。その声を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなった。この声のために毎朝ここに来ていた。この声があるから日々を生きていた。そういう種類の温かさだった。


光が揺れた。


声だけの存在が、薄くなっていく。


「待って」


手を伸ばした。届かない。


「待ってくれ。行かないでくれ」


叫んだ。声が出ない。光が遠ざかる。声が消えていく。温かさが抜け落ちていく。


——暗闇だけが残った。


目が覚めた。


頬が濡れていた。泣いていた。


なぜ泣いたのかはわからない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いていた。取り返しのつかないものを失った後の、あの感覚。母の手が冷たくなった時と——同じだ。


でも母の記憶とは違う。もっと古い。もっと深い場所にある喪失感。


カイは拳で目を擦った。息を整えた。


隣で、リーンが横になっている。


音もなく。まるでそこにいないかのように静かに。


寝息が聞こえない。


夜の廃棄層は静かだ。遠くの配管を廃液が流れる音。隣の区画の奴隷のいびき。ポッツの寝言。全部聞こえる。


なのに、すぐ隣のリーンからは——何の音もしない。


呼吸も。寝返りも。


まるで電源を落とした機械のように、完全に静止している。


電源を落とした機械。


なぜその比喩が浮かぶ。


カイは首を振った。考えすぎだ。


ふと、リーンの唇が動いた。寝言だ。


何か言っている。かすかな声。聞き取れない。だがその抑揚は——まるで誰かと会話しているようだった。


眠っているのに、誰かと話している。呼吸すら聞こえないのに、声だけが漏れている。


聞こえない。内容は聞こえない。聞かなかったことにしよう。


カイは目を閉じた。天井を見上げた。


道筋が光っている。明日からの道が。長くて、複雑で、危険で、でもどこまでも続く道が。


ふと、さっきの夢の声が耳に残っていた。「おはよう。今日もよろしく」。柔らかい声。


リーンの声を思い出した。「よろしく、カイ」。陽だまりのような声。


似ている——ような。


気のせいだ。きっと気のせいだ。


「……行くぞ」


誰にともなく、呟いた。


ただ、一つだけわかっていた。


道筋は、この少女を映さない。この少女だけが、俺の「正解」の外側にいる。


——この少女だけ、俺の道筋に映らなかった。


────────────────


この物語は、フルボイス・360°背景のサウンドノベル版でも読めます。

ブラウザだけで、インストール不要・無料です。


▶ https://yuichi916.github.io/seikai.html


オープニング映像(92秒)

▶ https://www.youtube.com/watch?v=AYpOA6ArBCg


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この物語には、フルボイス・360°背景の「サウンドノベル版」があります。

インストール不要・無料。ブラウザを開くだけで、この場面をそのまま遊べます。

https://yuichi916.github.io/seikai.html

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