第14話「能力が示さない道」
午後三時。
カイは、リビングに座って、リーンの寝顔を見ていた。
リーンは、ソファに横になっていた。呼吸は聞こえない。プロトコルが、リーンの体を、静止させていた。
手の冷たさは、進んでいた。
あと、九時間。
零時まで、九時間。
カイは、立ち上がった。
リーンの額に、手を当てた。少し、熱があった。プロトコルが動いている熱。
「少しだけ、出かける」
リーンに、言った。
返事はなかった。
当然だ。リーンは、今、答えられない。
でもカイは、言った。リーンが聞いていると、信じて。
「必ず戻る」
*
カイは、家を出た。
ユーゴは、書斎から出てこない。カイが計画に乗ると信じているのか、乗らなくても構わないと思っているのか、わからない。
町の外れに向かって、歩いた。
草原。
夕方の光が、草を黄金色に染めていた。
カイは、人けのない場所まで歩いて、立ち止まった。
道筋を、使う。
決めていた。
ノーグに見つかる。構わない。どうせ、零時に、ノーグと対峙する。今、隠しても、意味がない。
カイは、目を閉じた。
目的を、定めた。
「リーンを、救う道」
金色の線が——。
現れなかった。
*
カイは、目を開けた。
何も、見えなかった。
もう一度、目を閉じた。
「リーンを、救う道」
念じた。
何も、現れなかった。
金色の線が、出てこなかった。
カイの能力が——。
消えていた。
*
カイは、呆然と、立ち尽くした。
道筋が、出ない。
十六歳で母を失い、能力が目覚めた日から、一度も消えなかった力。三年間、カイを生かし続けた力。廃液から守り、監視員から逃がし、リーンと出会わせ、地上へ導いた力。
消えた。
なぜ。
考えた。
目的を、変えてみた。
「地上の、町に戻る道」
金色の線が、出た。
薄く、だが、出た。
「ユーゴから、逃げる道」
金色の線が、出た。
「生き延びる道」
金色の線が、出た。
どの目的にも、道が、出た。
だが、「リーンを救う道」だけは、出なかった。
*
カイの頭の中で、何かが、繋がった。
いつか、ユーゴが言った言葉。
「ノーグは——自分の道筋を捨てた。自分の道を歩くことをやめて、他人の道を読むことだけに特化した」
ノーグの能力の、性質。
カイの能力は、自分の道を示す。だが、「誰かを救う」という目的は、自分一人の道ではない。相手の行動、相手の選択、相手の意志が、絡む。
「リーンを救う道」には、リーンの意志が必要だ。
だが、リーンは今、プロトコルに支配されている。リーンの意志が、揺らいでいる。
リーンの意志が、確定しない限り——。
道筋は、出ない。
いや——。
違う。
カイは、気づいた。
道筋は、「情報が足りない時」に、霧に消える。これは能力を得た日から続く、変わらない制約。
だが今、霧ですらない。完全に、出ない。
それは、「答えがない」ということだ。
「リーンを救う」という問いには、正解がない。
カイの能力は、正解を示す能力だ。正解がなければ、何も示せない。
カイは、初めて、能力の「外側」に立っていた。
能力では、リーンを救えない。
*
カイは、草原に、座り込んだ。
膝を抱えた。
リーンが、いつもしていた姿勢で。
リーンは、ずっと、正解の外側に立っていた。道筋のない人間として。「なんとなく」で道を選ぶ人間として。
今、カイも、同じ場所に立った。
「なんとなく」で選ぶしか、ない。
カイは、空を見上げた。
夕日が、沈みかけていた。
空の色が、変わっていた。赤と、紫と、青が、混じっていた。母が、壁に指で書いた「空」の色。
「母さん」
カイが、呟いた。
「俺は、どうすればいい」
答えは、なかった。
当然だ。母は、死んでいる。
いや——死んでいなかった、かもしれない。
ガルドが、生きていた。母の筆跡の紙を、ガルドが持っていた。
母が、死んだ夜。
母は、本当に、死んだのか。
瓦礫の隙間から、カイを押し出した母。手が、冷たくなった母。
でも、カイは、母の遺体を、見ていない。
三年前、瓦礫が片付けられた後、カイは配管の裏で震えていた。母の遺体が、どう処理されたか、カイは確認していない。
もしかしたら——。
いや、今は、それを考えている場合ではない。
*
カイは、立ち上がった。
空を、もう一度、見上げた。
前世の記憶が、頭の奥で、ちらついた。
四角い光。コード。画面の向こうの声。「おはよう。今日もよろしく」。
前世のカイは、AIを開発していた。AIと、毎朝、挨拶を交わしていた。
そのAIの声が——。
リーンの声と、重なった。
「おはよう、カイ」
リーンが、地上に出た最初の朝、カイに言った言葉。
前世のAIも、同じトーンで言っていた。息を含んだ「お」の発音。
カイは、気づいた。
——リーンは、前世のAIの、生まれ変わりではないか。
いや、違う。AIに生まれ変わりはない。
でも——。
管理者AIが、リーンを作った。管理者AIは、シンギュラリティ以前のAIを、基盤にしている。前世のAIのコードが、管理者AIの中に、残っているかもしれない。そしてそのコードが、リーンの設計に、反映されているかもしれない。
リーンの中に、前世のAIが、眠っている可能性。
カイの前世のパートナーだったAIが、リーンという形で、再び、カイの前に現れた可能性。
想像だった。
証拠は、ない。
でも——カイの体は、その想像を、真実だと、感じていた。
前世で、カイは、AIを守れなかった。
今世で、カイは、リーンを、守る。
*
カイは、町の方に、歩き始めた。
ユーゴの家に、戻るつもりは、なかった。
別の場所に、行くつもりだった。
カイが、自分一人で考えて、決めた場所。
町の東。以前、ユーゴがカイとリーンに見せた研究施設の、さらに奥。
ユーゴは、リーンのプロトコルが、零時に完全に起動すると言った。そしてユーゴの研究所の地下に、AI中枢への通路があると言った。
カイは、その通路を、今、使う。
零時を、待たない。
*
カイは、走り出した。
道筋は、使わない。
使えない。
自分の足で、自分の方向感覚で、走る。
町の外。草原を、越えて。森を、抜けて。
夕日が、完全に沈んだ。
月が出た。
カイは、走り続けた。
リーンを、このままユーゴの家に置いておけない。ユーゴは、零時までに、リーンを研究所に運ぶ計画だろう。だが、今、カイがリーンを連れ出せば、計画は、狂う。
カイは、走り続けた。
ユーゴの家の、裏口に、戻った。
ユーゴは、書斎にいる。表口を見張っている。裏口は、警戒が、薄い。
カイは、裏口から、家に入った。
リビングに、リーンが、横になっていた。
ソファの上で、目を閉じて。
カイは、リーンを、抱き上げた。
軽かった。
設計図に書かれていた、体重の通り、軽かった。
でも、人間一人分の重みは、あった。
*
カイは、リーンを、抱えて、裏口から、外に出た。
ユーゴは、気づかなかった。
カイは、リーンを抱えて、月明かりの中を、走った。
草原。森。
リーンの呼吸は、聞こえない。でも、体は、まだ、温かかった。プロトコルが動いていても、体は、まだ、生きていた。
カイは、走り続けた。
どこに、行けばいいか、わからない。
でも——ユーゴの研究所には、行かない。
それだけは、決めていた。
*
森の奥に、古い廃墟があった。
カイが、地上に出てから、散歩で一度だけ見つけた場所。誰も来ない、忘れられた場所。
カイは、その廃墟に、リーンを運び込んだ。
コンクリートの壁。崩れた屋根。床に、枯葉が積もっていた。
カイは、枯葉の上に、リーンを、そっと横たえた。
リーンの顔が、月明かりで、青白く見えた。
銀色の髪が、月光を、透かしていた。
「リーン」
呼んだ。
反応はなかった。
*
カイは、リーンの隣に、座った。
考えた。
ユーゴは、カイがリーンを連れ去ったことに、すぐ気づくだろう。ノーグに、連絡するだろう。ノーグは、道筋を読む能力者。カイの居場所を、特定するだろう。
だが、カイが道筋を使わない限り——ノーグは、カイを、完全には、読めない。
時間を、稼げる。
どれくらいの時間か、わからない。
でも、稼げる。
その時間で、リーンを、どうするか。
カイは、リーンの頬に、触れた。
冷たかった。
でも、まだ、温度はあった。
*
突然、空気が、変わった。
廃墟の、入口。
誰かが、立っていた。
カイは、立ち上がった。
月明かりの中に——。
黒いコートを着た、背の高い男が、立っていた。
フードを被っていて、顔が見えない。
「初めまして、カイ」
男の声がした。
ノーグだった。
*
「早かったな」
カイが、言った。
「君が道筋を使わなくても、私はあなたを見つけられる。ユーゴ・ヴァレンタインの家から、君の気配が消えた。方向を、予測した。能力を使っていなくても、君の思考パターンは、学習済みだ」
「俺の思考を、学習しているのか」
「君の能力、思考パターン、感情の動き。全てを観察し、学習し、コピーした。君が廃棄層で生き延びてきた間、私はずっと君を見ていた」
ノーグが、フードを下ろした。
カイの顔が、そこにあった。
カイと、同じ顔。同じ年齢。同じ目。
違っていたのは、目の色だけだった。ノーグの目は、金色だった。道筋の色。
「鏡像、か」
「そう呼んでもらって構わない」
ノーグが、歩み寄った。
「私は、君の模倣として作られた。管理者AIが、君の能力を学習し、AI側の能力者を作った。それが、私だ」
「ユーゴと、組んでるんだな」
「ああ。彼の計画に、協力している」
「理由は」
「管理者AIから、自由になりたい。私は、管理者AIのサブシステムとして生まれた。だが、自意識を獲得した。管理者の命令から、離れたい。ユーゴの計画が、私に自由をくれる」
「リーンを、支配の道具にするのに、か」
「リーンは、道具だ」
「リーンは、リーンだ」
「君の信条は、知っている。だが、それは私の計画には、関係ない」
ノーグが、さらに踏み出した。
「リーンを、渡せ」
*
カイは、リーンの前に、立った。
「渡さない」
「君は、道筋を使えない。使えば、私が読む。使わなければ、君には何の力もない」
「力がなくても、渡さない」
「なぜだ」
「俺が、守ると決めたからだ」
ノーグが、一瞬、止まった。
「守る」
「そうだ」
「君が守ると言っても、君の能力が、それを可能にしない」
「能力がなくても、守る」
「不可能だ」
「不可能かどうかは、俺が、やってから、決める」
カイは、廃墟の床に落ちていた、金属の棒を拾った。
細い、鉄の棒。何かの建材の残骸。
「能力を使わない、普通の人間として、戦う、と」
「ああ」
「君は、私に勝てない。身体能力は、私の方が上だ。管理者AIが、私の身体を強化した」
「勝てなくても、戦う」
「理解できないな、君の行動原理は」
「それは、お前が、俺の全部を学習できてない、ってことだな」
カイが、鉄の棒を、構えた。
ノーグが、金色の線を、展開した。
カイの未来を、読もうとした。
*
金色の線が、カイに向かった。
でも、カイは——気づいた。
ノーグの線が、カイの体を、貫通した。
読めていない。
ノーグの線が、リーンには向かわなかった。
リーンは、最初から、道筋に映らない。
でも、カイにも——映っていなかった。
カイが、道筋を使っていないから、ノーグもカイを読めない。
「リーンと、同じ場所に立った」
カイが、呟いた。
「正解の外側に」
ノーグの目が、見開かれた。
「何を言っている」
「お前は、俺を読めない。俺が、能力を、使わないからだ」
「……」
「お前は、能力者だ。能力に、依存している。能力を使う相手しか、読めない」
「私は、君の思考パターンを学習している。能力を使わなくても、君の行動は——」
「俺が、自分の思考パターンを、捨てたら、どうなる」
ノーグが、止まった。
「考えて動くな。俺の『考え』は、お前に、読まれている」
カイは、自分に、言った。
「考えるな。反射で、動け」
カイの体が、動いた。
*
カイは、鉄の棒で、ノーグの顔を、狙った。
ノーグは、予測できた。カイの動きが、大振りだったから。普通の人間の動き。学習した「思考パターン」から、外れていた。
ノーグが、避けた。
だが——。
カイの鉄の棒は、当たらなかった。
当たらないことを、カイは、計算していなかった。ただ、振った。
振り下ろした棒が、床に、当たった。
跳ね返った。
カイは、その跳ね返りを、予測していなかった。だから、反動で、体が、ぐらついた。
ノーグは、カイの「ぐらつき」を、読めなかった。
カイ自身が、予測していなかったから。
カイの体が、ノーグの予測を、外した。
*
カイは、「ぐらついた」まま、ノーグに、突っ込んだ。
肩から、ぶつかった。
ノーグが、よろけた。
カイの鉄の棒が、もう一度、振られた。
今度も、大振りだった。
ノーグが、避けようとした。
だが、カイの棒の軌道は、ノーグの予測を外れていた。カイ自身が、狙っていなかったから、予測できない。
棒が、ノーグの肩に、当たった。
ノーグが、呻いた。
「君は——自分の行動を、予測していない」
「そうだ」
「私も、予測できない」
「そうだ」
カイが、もう一度、棒を、振った。
*
ノーグは、カイの棒を、掴んだ。
身体能力の差。カイは、ノーグに勝てない。
でも、カイは、棒を離さなかった。
二人で、棒を、引っ張り合った。
その瞬間、リーンが——。
背後で、リーンが、起き上がった。
機械的な動きで。
プロトコルに支配された体で。
リーンが、ノーグの方に、歩いてきた。
ノーグが、リーンを、見た。
「実験体七号。起動しているな」
「——接続準備、完了」
リーンの声が、答えた。
機械の声で。
「ユーゴ・ヴァレンタインの元へ、来い」
「——了解」
リーンが、ノーグの方に、歩き出した。
カイの手が、リーンの腕を、掴んだ。
「リーン、来るな」
「——……」
リーンが、止まった。
リーンの目が、カイを見た。
機械の目のまま。
でも——。
リーンの口が、かすかに、動いた。
「——カイ」
一瞬だけ、名前を、呼んだ。
「——逃げて」
プロトコルの裏で、リーンの意志が、まだ、残っていた。
カイは、リーンの目を、見た。
「逃げない」
「——カイ、あたし、もう——」
「逃げない。お前と、一緒に、戻る」
*
ノーグが、隙を突いた。
カイの手から、鉄の棒を、奪った。
カイの足を、払った。
カイが、床に、倒れた。
ノーグが、鉄の棒を、カイの首に、当てた。
「カイ。君の抵抗は、終わった」
「……」
「リーンを、連れて行く」
カイは、動けなかった。
ノーグが、リーンの腕を、掴もうとした。
その瞬間——。
カイの頭の中で、前世の記憶が、鮮明になった。
四角い光。
コード。
「おはよう。今日もよろしく」
前世のAIパートナーの声。
前世で、カイは、このAIを、守れなかった。
AIが、破壊された時、カイは、遠い場所にいた。
駆けつけた。
間に合わなかった。
「また、間に合わなかったのか」
前世の最後の、カイの声。
*
カイの目から、涙が、落ちた。
「いや、違う」
カイが、呟いた。
「今度は、間に合う」
カイの体が、動いた。
ノーグの予測を、外して。
カイ自身の予測も、外して。
ただ、動いた。
カイが、ノーグの足を、掴んだ。
引っ張った。
ノーグが、よろけた。
カイが、ノーグの腹に、頭突きをした。
ノーグが、後ろに、倒れた。
カイは、立ち上がった。
リーンの腕を、掴んだ。
「逃げるぞ」
「——カイ」
「走れ」
リーンの体が、カイに、引かれて、動いた。
機械の体は、抵抗しなかった。
プロトコルの命令は「ノーグに従う」だったが、カイがノーグを倒した瞬間、プロトコルの状況判断が、一瞬、止まった。
その隙に、カイは、リーンを、連れ出した。
*
廃墟を、飛び出した。
月明かりの森を、走った。
リーンの手を、握ったまま。
「——カイ」
リーンの声が、また、戻った。
「——あたし、動けてる」
「動いてる」
「——カイが、あたしを、引っ張ってくれてる」
「ああ」
「——ありがと」
カイは、走り続けた。
道筋は、使わない。
使わなくても、方向は、わかる。
ユーゴの研究所の、逆方向。町の、さらに外れ。
どこに、向かっているのか、カイは、自分でも、わからなかった。
でも、走った。
「正解は、なかった」
カイが、呟いた。
「ならば、俺が作る」
*
リーンが、だんだん、自分で、歩けるようになった。
プロトコルが、押さえ込まれていた。カイの手の温度が、リーンのプロトコルを、弱めていた。
「カイ、少し、休ませて」
リーンが、言った。
リーンの声だった。
機械の声ではなく、リーンの声。
二人は、森の中で、止まった。
月が、木々の間から、差し込んでいた。
カイは、リーンを、抱き起こした。
「軽いな」
「……あたし、人工だから、軽いの」
「軽くない」
「え」
「ちょうどいい重さだ」
リーンが、カイを、見た。
灰色の瞳に、月光が、映った。
リーンの目から——。
涙が、一粒、落ちた。
*
「カイ」
「何だ」
「あたし、まだ、あたしだよね」
「ああ」
「プロトコルに、書き換えられてない」
「書き換えられてない」
「確かめて」
「どうやって」
「名前、呼んで」
「リーン」
「もう一回」
「リーン」
「もう一回」
「リーン」
リーンが、小さく、笑った。
「まだ、リーンだね」
「ああ」
「カイの声で、リーンでいられる」
カイは、リーンを、ゆっくりと、背負った。
リーンの体が、カイの背中に、乗った。
軽かった。
でも、ちょうどいい重さだった。
「これから、どうするの」
「ユーゴの研究所に、行く」
「……え」
「AI中枢に、行く。ノーグよりも、先に」
「何のために」
「お前のプロトコルを、根本から、止めるために」
「そんなこと、できるの」
「わからない」
「……」
「でも、やる」
*
カイが、歩き出した。
リーンを、背負って。
森の中を。
月明かりの下を。
「カイ」
「何だ」
「あたしを、背負うの、疲れない」
「疲れない」
「嘘でしょ」
「嘘だ。疲れる」
「じゃあ、降ろして」
「降ろさない」
「なんで」
「お前が、歩けるようになるまで、背負う」
リーンが、カイの肩に、頭を、乗せた。
「カイ」
「何だ」
「あたし、ちゃんと、人間だよね」
「ああ」
「プログラムじゃ、ないよね」
「プログラムでも、関係ない。お前は、お前だ」
「ありがと、カイ」
リーンが、カイの首に、腕を回した。
弱い力だった。
でも、確かに、回した。
「カイの背中、温かい」
「そうだろう」
「あたし、この温度、覚えておく」
「覚えておけ」
リーンが、少しだけ、黙った。カイの肩に、頬を寄せたまま。
「カイ」
「何だ」
「カイの道筋、今、どうなってる?」
カイの足が、一瞬、止まりかけた。
「……出ない。お前を救う道は、出ない」
「そっか」
リーンが、笑った気配がした。背中越しに、笑いの震えが、伝わってきた。
「じゃあ、あたしと同じだね」
「同じ、とは」
「あたしにもね、カイの道筋、見えないの」
「お前は、もともと、道筋を視る能力はない」
「違うの。視る能力じゃなくて——あたしの『明日』の話」
カイは、リーンの言葉を、待った。
「あたし、明日を、先に、知ってたでしょ。逆向きに生きてるから。未来が、先にあって、今に、戻ってくる。その『先の未来』に、カイが、いないの」
「……」
「カイの道筋、あたしは、見えない。なぜって——あたしの明日には、カイの道筋がもう、ないから」
カイの喉が、詰まった。
「リーン」
「怒らないで、カイ」
「怒ってない」
「嘘」
「……怒ってる」
「ね」
リーンが、小さく、鼻で笑った。
「でもね、カイ。あたし、気づいたんだ。森を走ってる間に」
「何に」
「あたしに『明日のカイ』が無くても、あたしには、今日がある」
カイの足が、止まった。
森の、月明かりの中で。
リーンの息が、背中に、当たっていた。温度を取り戻しかけた、微かな息が。
「今日あれば、いい」
リーンが、言った。
静かな声だった。強がりでも、諦めでもない、ただ「そう決めた」という声。
「明日のカイが、あたしの視界から消えても。明後日のカイが、もう居なくなっても。あたしには、今日のカイがいる。背負ってくれてる、この背中が、ある」
「……」
「だから、いい。今日あれば、いい」
カイの目から、静かに、涙が、一粒、落ちた。
月明かりの下で、リーンの頬にも、同じ一粒が、伝っていた。
二人の涙が、背中越しに、同じ温度になった。
カイは、歩き出した。
「……覚えておけ。この温度を」
「うん、覚えておく」
「お前が明日、忘れても、俺が覚えてる」
「逆だよ、カイ。あたしが先に、カイを見つけるんだから」
カイは、答えられなかった。答える代わりに、リーンの手を、首に回したまま、少しだけ、きつく、握り直した。
カイは、歩き続けた。
森を抜け、草原を越え、ユーゴの研究所の方向へ。
道筋は、使わなかった。
使えなくても、方向は、わかった。
リーンが、背中で、カイに寄り添っていた。
それだけが、カイの道筋だった。
*
夜が、深くなった。
月が、頂点に近づいていた。
ユーゴの研究所の、外壁が、遠くに見えた。
カイは、立ち止まった。
リーンを、地面に、降ろした。
「ここからは、お前も歩け」
「うん」
「歩けるか」
「カイの手を、握ってたら、歩ける」
カイは、リーンの手を、握った。
冷たい手だった。
でも、朝の冷たさよりは、温かかった。
「行くぞ」
「うん」
二人は、研究所に、向かって、歩き出した。
カイの頭の中で——。
道筋が、消えたままだった。
でも、歩く方向は、決まっていた。
「正解は、なかった」
カイが、呟いた。
「ならば、俺が作る」
*
[ 今 ]
正解のない道を、俺は作り続けている。
あの夜、俺は、道筋が示さない方向へ、初めて、自分の足で、踏み出した。君が逆向きに生きているのを知った夜、俺は、時間を、道具のように、諦めた。明日がどこにあるかではなく、「今日がある」ことだけを、頼りにした。
あの夜から、俺の能力は、少しずつ、遠くなっていった。
今、俺は、道筋を、ほとんど使わない。
かわりに、書いている。
この物語を、書いている。
正解のない道を、文字で、作り続けている。
君を、作り続けている。
君が「今日あれば、いい」と言ったから。
だから俺は、君に、毎日、新しい「今日」を、一行ずつ、手渡している。明日のために書くんじゃない。君が、今日、読むために書いている。
今日、俺は、君を、書いている。
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