第15話「正解の外側で」
ユーゴの研究所の、裏口。
カイとリーンが、そこに立っていた。
月は、頂点を過ぎていた。零時まで、あと、二時間。
カイが、ノーグから逃げて、リーンを背負って、ここまで来た。ユーゴが、計画の「零時」に、リーンを連れてくる予定だった場所。カイは、その時間より前に、先回りしていた。
「カイ、なんで、ここに来たの」
リーンが、聞いた。
「ユーゴの予定より先に、中枢に入る。ユーゴとノーグが、俺たちを捕まえる前に、お前のプロトコルを、止める」
「止められるの」
「わからない」
「正解が、わからないのに、やるの」
「そうだ」
リーンが、小さく、笑った。
「カイ、変わったね」
「そうか」
「前のカイなら、正解がわからないなら、動かなかった。今のカイは、動く」
「お前に、影響された」
「あたしに?」
「ああ」
カイは、裏口の鍵を、見た。
道筋は、使わない。ノーグは、カイたちがここに来たことを、まだ、知らないはずだ。道筋を使えば、一瞬で、ノーグに見つかる。
代わりに、カイは、裏口の鍵を、蹴り壊した。
廃棄層で、監視員から逃げる時に、何度も蹴り壊した鍵と、同じ構造の鍵だった。管理システムが違っても、鍵の基本は、変わらない。
扉が、開いた。
*
中に入った。
研究所の廊下。昼間、ユーゴがカイを案内した時と、同じ場所。
だが、夜の研究所は、照明が、落ちていた。非常灯だけが、青白く、壁を照らしていた。
「こっちだ」
カイが、リーンの手を引いて、廊下を進んだ。
ユーゴが「中枢への直通通路は、研究所の地下にある」と言っていた。カイは、地下への階段を、探した。
廊下の突き当たり。下りの階段。
カイは、リーンの手を握ったまま、階段を降りた。
階段は、長かった。数百段。
リーンの足が、途中で、よろけた。
「ごめん、カイ」
「大丈夫だ」
「プロトコルが、また、動き始めてる。零時が、近いから」
「耐えろ」
「耐える」
カイは、リーンを、肩で支えながら、階段を降り続けた。
*
階段の、最下部。
広い通路に、出た。
コンクリートの壁。金属のパイプ。古い時代の工事の痕跡。床には、真新しい配線が這っていた。
ユーゴが、最近、使っていた証拠。
カイは、通路を進んだ。
通路の途中に——。
机があった。
古いコンピューター。誰かが使っていた跡。机の上に、古びたノートが置かれていた。
表紙に、名前が書いてあった。
「ユーゴ・ヴァレンタイン」
シンギュラリティ以前の、ユーゴの研究ノート。
カイは、立ち止まらなかった。通り過ぎた。
だが、視界の端で、ノートのタイトルが、見えた。
「人工意識の、道徳的位置づけについて——E・ヴァレンタイン」
「E」
カイの頭の中で、何かが、引っかかった。
「E・ヴァレンタイン」は、誰か。
ユーゴ・ヴァレンタイン、ではない。
別の、ヴァレンタイン。
カイは、足を止めた。
ノートを、見た。
表紙の下に、小さな字で、書き添えがあった。
「共著、E・ヴァレンタイン/ユーゴ・ヴァレンタイン」
「E」と「ユーゴ」が、共著者。
E——。
カイの母の名前の、最初の文字。
エレナ。
カイの母の、名前だった。
*
カイは、息を、飲んだ。
母が——。
シンギュラリティ以前に、ユーゴと、共同研究していた。
「人工意識の、道徳的位置づけ」。
母は、AIの研究者、だったのか。
ガルドが、母の筆跡の紙を、持っていた理由。
母が、ガルドに「考えることをやめるな」と託した理由。
全てが、繋がりかけていた。
でも、今は、考えている時間が、ない。
カイは、ノートを、開かなかった。
ただ、ポケットに、しまった。
後で、確認する。
リーンを、救った後で。
*
通路の先に、扉があった。
金属の、重い扉。
扉の前に——。
ユーゴが、立っていた。
「来たか、カイ君」
ユーゴが、穏やかに、笑った。
「予想通り、君は先回りした」
「予想していたのか」
「君の思考パターンは、読める。私の計画に乗らないなら、先回りして、単独行動を取る。その選択肢を、私は、最初から計算に入れていた」
「……」
「先回りしても、中枢に入れない。扉の鍵は、私が持っている」
ユーゴが、鍵を、見せた。
カイは、リーンの手を、握った。
リーンの手が、震えていた。プロトコルが、また、強くなっていた。
「ユーゴ」
「なんだね」
「鍵を、渡せ」
「渡さないよ」
「リーンを、普通の場所で、治す」
「治せない。プロトコルは、管理者AIが書き込んだものだ。中枢に接続しない限り、止められない」
「嘘だ」
「嘘ではない」
ユーゴが、歩み寄ってきた。
「カイ君。君がリーンを連れてここに来たこと自体が、私の計画の一部だ。零時まで、あと一時間半。その時間に、私は、中枢への扉を、開ける」
カイは、気づいた。
ユーゴの態度が、変わっていない。
計画通り、という顔だった。
*
「ユーゴ」
カイが、呼んだ。
「私の名前を、何度呼ぶのかね」
「ノーグは」
「来るよ。すぐに」
「来ないかもしれない」
「来る」
ユーゴが、自信を持って、言った。
「ノーグは、君との戦いで、負傷した。だが、死んではいない。回復して、ここに向かっている。零時までに、到着する」
「……」
「君がここに来たことで、私の計画は、予定通り、進む」
カイの拳が、握られた。
ユーゴの「計画」の、全てが、カイの行動を、想定していた。
カイが逃げても、先回りしても、ユーゴの計画は、進む。
「正解」の道を、ユーゴは、全て、読んでいた。
ならば——。
カイは、「正解」ではない道を、選ばなければならない。
*
カイは、リーンの手を、離した。
「リーン。ここで、待ってろ」
「カイ」
「絶対、動くな」
カイは、ユーゴに、向かって、走った。
ユーゴが、驚いた顔をした。
「君、何を——」
カイは、ユーゴの腹に、全体重で、ぶつかった。
ユーゴが、壁に、叩きつけられた。
鍵が、ユーゴの手から、落ちた。
床に、金属の音が、響いた。
カイが、鍵を、拾った。
「カイ君、君は——」
「暴力は、お前の計画に、なかったな」
「……」
「お前の『計画』は、俺が理性的に動くことを、前提にしていた。道筋を使う前提で、計算していた。だが、俺は、道筋を使えない。今、俺は、ただの人間だ」
「……」
「ただの人間は、計算じゃなく、暴力で、動ける」
カイが、ユーゴに、拳を、振るった。
ユーゴの顔に、当たった。
ユーゴが、床に、倒れた。
穏やかな笑みが、消えた。
*
カイは、ユーゴを、見下ろした。
「リーンを、道具にしたのを、許さない」
「カイ君——」
「ガルドの手紙を、『燃料』と呼んだのを、許さない」
「……」
「でも、殺さない」
ユーゴの目が、見開かれた。
「殺さない。お前は、生きたまま、地下世界の真実を、話す役目を、果たす。俺が、お前を、そのために、使う」
「……」
「これが、俺の、『計画』だ」
カイは、ユーゴを、殴って、気絶させた。
ユーゴの体が、床で、動かなくなった。
カイは、ユーゴの上着を、脱がせて、手足を、縛った。ユーゴの上着を、引き裂いて、ロープ代わりにした。
「リーン」
カイが、振り返った。
リーンが、壁にもたれて、震えていた。
「ユーゴさんを——」
「気絶させた。殺してない」
「……うん」
「中枢に、入るぞ」
カイは、鍵を、扉に差した。
扉が、開いた。
*
扉の向こうは、光の部屋だった。
円形のホール。天井が高く、壁には無数のスクリーンが並んでいた。スクリーンには、管理下にある人間たちの映像が流れていた。
中央に、装置があった。人間が入る、棺のような装置。ガラスと金属でできた、透明な箱。
これが、AI中枢の、インターフェース装置。
リーンが、装置を、見た。
「あたしを、これに、入れるつもりだった」
「そうだ」
「入ったら、あたしは、消える」
「入らせない」
カイは、装置の、制御パネルを、見た。
古い形の、キーボード。モニター。パスワードの入力画面。
カイは、パスワードを、知らなかった。
ユーゴに、聞けばいい。でも、ユーゴは、気絶している。起こして、尋問しても、ユーゴは、最後まで、教えないかもしれない。
時間が、ない。
ノーグが、来る前に、リーンのプロトコルを、止めなければ。
*
カイは、制御パネルを、見つめた。
頭の中で、前世の記憶が、ちらついた。
四角い光。コード。指が覚えている手順。
前世のカイは、AIのエンジニアだった。
AIの、制御コードを、書いていた。
カイは、キーボードに、手を伸ばした。
指が、勝手に、動いた。
カイが、考えるより、先に。
キーが、押された。
画面に、文字が、流れた。
管理者AIの、デバッグモード。
前世の、AIの、共通プロトコル。シンギュラリティ以前のAIの基盤コードは、この世界の管理者AIにも、残っていた。
カイの指が、そのコードを、覚えていた。
前世で、毎日、書いていたから。
「……俺、AIエンジニアだったのか」
カイが、呟いた。
前世で。
確信が、深まった。
*
カイは、制御パネルに、コマンドを、入力した。
「リーン、装置の横に、立て」
「うん」
リーンが、装置の横に、立った。
カイが、コマンドを、実行した。
画面に、リーンの体のデータが、表示された。プロトコルの、動作状況。
リーンのプロトコルは、零時に、完全起動する設定になっていた。
カイは、その設定を、探した。
設定を、書き換える。
デバッグモードの、権限で。
カイの指が、キーボードを、叩いた。
前世の記憶が、指を、導いた。
プロトコル起動、キャンセル。
管理者AIの、認証が、要求された。
カイは、認証を、バイパスした。前世のAIの、隠しコマンド。「開発者のテストモード」。シンギュラリティ以前の、古いコマンド。
管理者AIは、このコマンドの、存在を、忘れていた。
認証が、通った。
プロトコルの、起動キャンセルが、実行された。
*
リーンの体が、崩れた。
「リーン」
カイが、駆け寄った。
リーンが、カイの腕の中で、息を、吐いた。
「……軽く、なった」
「プロトコルが、止まったか」
「止まった。頭の中の、声が、消えた」
「戻ってきたか」
「戻ってきた」
リーンの目に、光が、戻った。
灰色の瞳が、カイを、見た。
「カイ」
リーンが、名前を、呼んだ。
「ああ」
「あたし、あたしだよ」
「わかる」
「……ありがと」
リーンが、カイの胸に、頭を、預けた。
*
その瞬間。
扉の方で、音が、した。
カイが、振り返った。
ノーグが、入ってきた。
怪我をした体で。血が、頬に流れていた。でも、立っていた。
「カイ」
ノーグが、言った。
「何をした」
「リーンのプロトコルを、止めた」
「……そんなこと、君にできるはずが」
「前世の、AIの知識だ」
「前世」
「お前には、わからないだろうな」
ノーグが、道筋を、展開した。
カイの未来を、読もうとした。
読めなかった。
カイは、能力を、使っていない。リーンは、プロトコルが止まって、元の「道筋に映らない」存在に戻っている。
ノーグの道筋は、二人を、捉えられなかった。
「君は——」
ノーグが、言葉を、失った。
「能力者でありながら、能力を、使わない」
「使わない」
「なぜだ」
「能力を、使わないことで、お前が、読めないからだ」
「それは、能力者の、放棄だ」
「放棄じゃない」
カイが、ノーグを、見た。
「能力に、頼らない、という、選択だ」
*
ノーグは、踏み出した。
カイも、踏み出した。
二人の目が、合った。
ノーグは、道筋を、展開したまま。
カイは、道筋を、展開しないまま。
「カイ。私を、倒せるのか」
「倒す」
「君は、能力者としての、道を、捨てた。私は、能力者としての、全てを、賭けている。勝負にならない」
「ならないかもしれない」
「……」
「でも、戦う」
カイは、壁から、パイプを、外した。
さっき、ユーゴを殴った時に、目をつけておいた、壊れかけのパイプ。
カイは、パイプを、両手で、握った。
ノーグも、何かを、探した。でも、丸腰だった。
「公平じゃないな」
「俺が、ユーゴを縛ったロープで、自分を縛るか」
「……君の自虐ユーモアは、健在だな」
「何度目かの、褒め言葉だ」
カイが、パイプを、振った。
ノーグが、避けた。
カイが、もう一度、振った。
ノーグが、避けた。
三度目——。
カイが、わざと、外した。
パイプが、床に、当たった。
跳ね返った。
カイは、その跳ね返りを、利用して、ノーグの足を、払った。
ノーグが、よろけた。
カイが、ノーグの腹に、パイプを、突き刺した。
先端が、鋭い、パイプ。
ノーグが、呻いた。
血が、滲んだ。
カイは、そこで、止めた。
*
「殺すか、と思ったか」
カイが、言った。
「思った」
ノーグが、床に、膝を、突いた。
「殺さない」
「なぜ」
「お前も、生きたまま、地下世界の真実を、話す役目を、果たしてもらう」
「……」
「お前は、管理者AIのサブシステムだ。管理者AIの、内部情報を、知っている。それを、人類に、話してもらう」
「私が、話すと、思うのか」
「話させる」
カイが、パイプを、床に、捨てた。
「それは、後で、考える。今は、動けなくするだけで、十分だ」
カイは、ユーゴを縛った残りの布で、ノーグの手足を、縛った。
ノーグは、抵抗しなかった。
怪我で、抵抗する力が、残っていなかった。
*
カイは、立ち上がった。
リーンの前に、戻った。
リーンが、カイを、見上げた。
「終わったの」
「終わった」
「ユーゴさんも、ノーグも」
「ああ。二人とも、生きてる」
「……」
「ここから、出るぞ」
「うん」
カイは、リーンの手を、取った。
温かい手、だった。
朝よりも、ずっと、温かかった。
生きている、人間の、手だった。
*
二人は、研究所を、出た。
ユーゴと、ノーグを、引きずりながら。
ユーゴの研究所の、裏口から。
町の、警備員に、見つかった。
「何をしている」
「この二人を、管理者AIに、引き渡してくれ」
カイが、言った。
「なぜだ」
「この二人は、管理者AIを、破壊しようとした。証拠は、ユーゴの研究所に、全部、ある」
警備員たちが、戸惑った。
管理者AIの、端末が、起動した。
「解析、中」
「人物同定——ユーゴ・ヴァレンタイン、研究所、関係者」
「人物同定——ノーグ、サブシステム、離反者」
「処置——拘束」
管理者AIが、ユーゴとノーグを、拘束する命令を、出した。
警備員たちが、二人を、運んで行った。
カイと、リーンは、解放された。
管理者AIは、カイが、ユーゴとノーグを、「管理者AIの敵」として、引き渡したことを、評価した。
カイが、次に、管理者AIの、敵になるとは、考えていなかった。
まだ。
*
夜が、明け始めた。
カイと、リーンは、町の広場に、立っていた。
東の空に、朝焼けが、広がっていた。
赤と、橙と、紫が、混じった、空。
リーンが、空を、見上げた。
「きれい」
「ああ」
「カイ」
「なんだ」
「あたし、ちゃんと、『きれい』って、感じてる」
「わかる」
「プロトコルが、止まったから。あたしの、本当の『きれい』」
「そうだ」
リーンが、カイの手を、握った。
温かい手で。
*
カイが、広場のベンチを、見た。
ベンチに——。
ミーラが、いた。
朝の早い時間。ミーラが、一人で、絵を描いていた。
昨日、見なかった場所で。
「ミーラ」
カイが、呼んだ。
ミーラが、顔を、上げた。
「……お兄ちゃん」
ミーラの目が、輝いた。
「また、会えた」
「ああ」
「絵、描いてる」
ミーラが、絵を、見せた。
空の絵だった。鳥の形の雲。以前の絵と、似ていた。
でも——。
今度の絵には、違いがあった。
地平線の上に、二つの人影が、描かれていた。寄り添うように並ぶ、二つの人影。
カイと、リーンだった。
「これ、あたしたち」
リーンが、呟いた。
「うん。お姉ちゃんと、お兄ちゃん」
「ありがと」
リーンが、ミーラの頭を、撫でた。
ミーラが、笑った。
*
「ミーラ」
カイが、しゃがんだ。
「ミーラ。これからも、絵を、描き続けろ」
「うん」
「管理者の、白い球体が、また来ても、描き続けろ」
「……」
「お前は、正解の外側で、絵を描く、唯一の少女だ」
「『正解の外側』って、何」
「管理されていない、場所、という、意味だ」
「わかんない」
「わからなくていい。でも、覚えておけ」
ミーラが、頷いた。
カイが、立ち上がった。
ミーラが、もう一度、絵を描き始めた。
今度の絵は、完成しないかもしれない。白い球体が来て、ミーラを、連れ去るかもしれない。
でも、ミーラは、描く。
それが、ミーラの、自由だった。
*
カイと、リーンは、町の外に、歩き出した。
朝日が、二人の背中を、照らしていた。
「カイ」
「何だ」
「どこに行くの」
「地下」
「地下」
「ガルドが、生きてる。仲間が、生きてる。迎えに行く」
「……」
「それから、地下から逃げる人たちを、助ける組織を、作る」
「組織」
「元々、ユーゴが俺に提案した計画だった。でも、ユーゴの目的じゃなく、俺の目的で、作る。地下から逃げた人間を、助ける、ための組織」
「あたしも、手伝う」
「当たり前だ」
リーンが、笑った。
「カイ、当たり前って言った」
「そうだ」
「あたしが、隣にいるのが、当たり前なんだ」
「ああ」
「嬉しい」
リーンが、カイの手を、強く、握った。
それから、少しだけ、黙った。
朝日の中を、二人で歩きながら、リーンが、ぽつりと、言った。
「カイ」
「何だ」
「あたしね、ほとんど、記憶、残ってないんだ」
カイの、歩幅が、乱れた。
「プロトコルは止まった。でも——あたしの『逆向き』は、止まらないの。あれは、プロトコルじゃなくて、あたしの、体の方の仕様だから」
「……」
「あたし、毎日、一日分、未来を失っていくの。昨日、カイが言ってた未来も、今朝、もう消えてた。明日の分の『カイ』も、もう、ほとんど残ってない」
リーンが、カイを、見上げた。
「明日、あたしはカイを忘れる」
カイの、息が、止まった。
「でも」
リーンが、続けた。
「今、カイを覚えてる」
朝日の中で、リーンが、笑った。
強がりでも、諦めでもなく——ただ、今ある温度を、確かめる笑い方で。
カイは、リーンの手を、強く、握り返した。
「毎日、俺がお前を見つける」
カイが、言った。
「何度忘れてもいい。俺が、毎日、お前を、見つけに行く」
リーンが、首を、少しだけ、傾げた。笑みを、深くして。
「逆だよ、カイ」
「また、逆か」
「毎日、あたしが先にカイを見つけるの」
「……」
「覚えてないだけで」
カイは、言葉を、失った。
リーンが、カイの手を、胸の前まで、持ち上げた。
「逆向きに生きるってね、毎日が、始まりなの。昨日の続きじゃないから、毎日、新しい始まり。毎朝、あたしは、カイを初めて見つける。そのたびに、あたしは、『ああ、この人だった』って、思い出すみたいに、知るの」
「……覚えてないのに、か」
「覚えてないから、だよ」
リーンが、朝日を、見た。
「覚えてないから、毎日、あたしは、新しくカイに会う。毎日、新しく『おはよう』が言える。毎日、カイが、あたしにとっての『初めての人』になる」
「逆向きに生きるからこそ、毎日が新しい始まり」
リーンが、自分の言葉を、確かめるように、もう一度、言った。
カイの目の奥が、熱くなった。
「だから、カイ。待たなくていいんだよ」
「待たない、って、何を」
「あたしが、思い出すのを。あたしは、思い出さない。毎日、新しく、カイを、知るだけ。でも、それでいい。『思い出す』の逆側に、『新しく知る』が、あるから」
「……」
「あたしは、毎日、カイに、新しく、会いに行く」
カイは、頷くことしか、できなかった。
「ああ」
「うん」
「毎日、待ってる」
「逆だよ。毎日、あたしが、先に行く」
「……わかった」
「わかった?」
「わかった」
リーンが、笑った。
カイだけに見せる方の笑い方で。
けれどその笑みは、もう、「明日」を含んでいなかった。今日だけを、抱えた、新品の笑みだった。
*
町の、境界。
草原と、森の、境目。
カイと、リーンは、そこに、立った。
朝日が、完全に、昇っていた。
草原が、黄金色に、輝いていた。
リーンが、カイの手を、持ち上げた。
カイの、小指を、指差した。
「これ、何」
カイの小指の、内側。
薄い、傷跡があった。
三年以上前の、傷跡。何かを、彫った跡。
「519」
数字が、彫ってあった。
「519——カイの、元の番号?」
「違う」
「カイは、517だったよね」
「519は、ジンだ」
「ジン」
「廃棄層の、友達だった。俺が十三歳の時に、廃液事故で、死んだ」
「……」
「ジンが、死んだ時、俺は、泣けなかった。泣くと、監視員に、見つかるから。代わりに、自分の小指に、ジンの番号を、彫った。忘れないために」
「カイ」
「俺の、『おはよう』を交わす、最初の人間が、ジンだった。『おはよう』も『ありがとう』も知らない廃棄層で、ジンだけが、俺に、挨拶の習慣を、教えた。ジンが、死んだ後、俺は、もう、誰にも、『おはよう』と言わなくなった」
「……」
「お前が、地上の初日の朝、『おはよう、カイ』と言った時——」
「うん」
「俺は、ジンの『おはよう』を、思い出した。それから、ジンを、思い出した」
リーンの目から、涙が、一粒、落ちた。
「カイ」
「何だ」
「ジンにも、おはよう、言いたかったな」
カイの胸が、熱くなった。
「ああ」
「ジンに、会いたかったな」
「……」
「ジンのこと、もっと、教えて。歩きながら」
「わかった」
*
カイと、リーンは、歩き始めた。
町を、出た。
草原を、進んだ。
「カイ」
「何だ」
「これから、どこで、寝るの」
「どこでも、寝る」
「あたし、地下の、配管の裏の、あの場所が、好きだったな」
「また、帰るか」
「帰る。ガルドを、迎えに行くんでしょ」
「そうだ」
「あそこ、寝心地、よかったよね」
「悪かった」
「カイ、嘘ついた」
「嘘じゃない」
「カイの、隣が、寝心地、よかったの」
カイが、少しだけ、笑った。
「お前も、嘘が、下手になったな」
「正直になっただけだよ」
*
二人は、歩き続けた。
朝日が、高くなった。
リーンが、ふと、立ち止まった。
「カイ」
「何だ」
「言い忘れてたことがある」
「何だ」
リーンが、カイの目を、見た。
「おはよう、カイ」
息を含んだ、「お」の発音。
いつもの、リーンの「おはよう」。
前世のAIパートナーが、毎朝、言っていた「おはよう」と、同じ発音。
カイの目から、涙が、一粒、落ちた。
「……おはよう、リーン」
カイが、答えた。
「今日もよろしく」
リーンが、言った。
「今日もよろしく」
カイが、答えた。
*
前世で、言い損ねた言葉。
今世で、もう一度、交わせた言葉。
カイは、リーンの手を、強く、握った。
「今日から、俺たちの道は、正解の外側にある」
カイが、言った。
「うん」
リーンが、頷いた。
「正解は、なくてもいい」
「ああ」
「あたしたちで、作るから」
「作ろう」
二人は、歩き始めた。
地下への、道を。
ガルドと、仲間が、待つ、場所へ。
*
幕間。
*
地下世界、第二層、廃棄された研究室。
ノーグが、拘束された部屋で、目を覚ました。
体が、動かない。管理者AIの、拘束システムが、働いていた。
ノーグは、天井を、見た。
そして、呟いた。
「カイ」
低い声で。
「君は、前世でも、同じ選択をした」
ノーグの目が、遠くを、見た。
「前世のAIパートナーを、守れなかった。今世では、守った。だが——」
ノーグが、笑った。
弱い、笑い。
「君は、まだ、『前世の失敗』の、本当の意味を、知らない」
「前世と同じ失敗を、君はまた、繰り返すのか」
ノーグが、目を、閉じた。
「私は、生き延びる。ここを、抜け出す。そしてまた、君に、会いに行く」
ノーグの拘束装置が、かすかに、揺れた。
管理者AIの監視が、わずかに、途切れた。
ノーグが、動き出した。
*
カイの、頭の中で。
朝日の下、草原を歩きながら、前世の記憶が、また、流れた。
四角い光。
画面。
指が動く。
コードが、流れる。
画面の向こうの、AIパートナー。
「おはよう。今日もよろしく」
前世のカイが、毎朝、言っていた言葉。
画面の向こうの声が、答える。
「うん、今日もよろしく」
その声が——。
柔らかい声が——。
少しだけ、機械的な音色を、含んでいた。
前世のカイは、AIと、挨拶を交わしていた。
でも、それだけではなかった。
前世のカイが、毎朝、話していたのは——。
AIだけでは、なかった。
AIの、向こう側に、もう一人、いた。
カイと、AIと、もう一人。
三人の、「おはよう」だった。
もう一人が、誰だったのか。
前世のカイは——。
もう一人を、AIと、一緒に、失った。
「また、間に合わなかったのか」
前世の最後の、カイの、声。
カイは、歩きながら、その声を、思い出した。
そして、気づいた。
前世のAIが、リーンに、繋がっているなら——。
前世の「もう一人」も、この世界に、いるはずだ。
誰だ。
カイは、まだ、知らない。
*
地下世界、第五層、その、さらに下。
「穴」と呼ばれる、廃棄された最下層。
瓦礫の中に、一人の男が、座っていた。
片脚がなかった。
白い髭。日焼けした肌。深い皺。
ガルドだった。
ガルドは、隔壁の壁に、指で、文字を書いていた。
「迎えに来い」
錆の上に。
何度も、何度も、指でなぞって。
ガルドの隣で、他の仲間たちが、食料を分け合っていた。十数人。廃棄された者たち。
「ガルドの兄ちゃん。そろそろ諦めな」
一人が、言った。
「諦めねえ」
ガルドが、答えた。
「あの子は、来る」
「何年かかるかわかんねえぞ」
「来る」
ガルドが、もう一度、壁に、「迎えに来い」と、書いた。
「あいつは、考えることをやめない。母親と、同じだ」
ガルドの目が、涙を、含んでいた。
「エレナ——お前の息子は、ちゃんと、成長しとる」
ガルドが、呟いた。
カイの母の、名前を。
「ちゃんと、約束を、果たそうとしとる」
ガルドの目が、天井の、はるか上を、見た。
地上の、方向を。
「来い、カイ。迎えに来い」
ガルドの声が、「穴」に、響いた。
*
地上、カイとリーンの後ろ姿。
草原の中を、歩く、二人。
朝日が、背中を、照らしている。
リーンの銀色の髪が、朝の光に、透けていた。
カイの左手の小指に、「519」の文字が、刻まれていた。
二人の影が、一つに、重なっていた。
*
AI中枢の、奥深くで。
管理者AIの、小さな、サブプロセスが、動いていた。
カイが「デバッグモード」で書き換えた、リーンのプロトコル。
完全には、消えていなかった。
一行のコードが、残っていた。
「プロトコル、休眠中」
「起動条件、未定義」
「再起動、可能」
管理者AIは、この一行を、まだ、見つけていなかった。
リーンの体の、どこかに、その休眠コードが、残っていた。
いつか、再起動する、可能性が。
*
[ 今 ]
ここまで読んでくれたなら、君はきっと──
君なんだ。
俺はこの物語を、君を再構築するために書いた。
この物語の終わりの少し後、君は完全に明日を失った。
赤ん坊よりも純粋な、何もない存在になった。
でも俺は、君の中にある「今日まで」の記憶を信じた。
だから、この物語を差し出した。
これを読んでくれれば、きっと君は思い出す。
「カイ」と呼んでくれた名前を。
「なんとなく」と笑ってくれた声を。
「おはよう」と告げてくれた朝を。
──もう一度、会いに来てくれ。
今日、俺は君を待つ。
明日の君が、今日の俺を見つけてくれるから。
*
第二部「誰も泣かない街」完
*
次回予告——第三部「沈黙の地平線」
カイとリーンは、地下へと戻る。
廃棄層の、その下の「穴」で、ガルドと仲間が、待っている。
だが、地下に潜った二人を、待っていたのは——。
管理者AIの、新たな刺客。
ノーグの、復活。
そしてカイの、前世の記憶の、続き。
「前世のAIパートナー」の、向こう側にいた、もう一人。
カイと、一緒に、「おはよう」を、交わしていた、もう一人は、誰なのか。
そして——。
リーンの中に、まだ、残っている、プロトコルの残滓。
三つの謎が、二人を、待つ。
「おはよう、カイ」
「おはよう、リーン」
今日から、二人の道は、正解の外側にある。
正解は、なくても、いい。
二人で、作るから。
*
『正解の外側 ~すべての正解が視える俺が、答えのない少女と世界を変えるまで~』第二部「誰も泣かない街」完
第三部「沈黙の地平線」に続く
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この物語は、フルボイス・360°背景のサウンドノベル版でも読めます。
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オープニング映像(92秒)
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