第13話「ユーゴの仮面」
七日目の朝。
カイが目を覚ました時、リーンの手は、もう冷たくなっていた。
昨夜、握って眠った手。朝までに、少しでも温度が戻るようにと願いながら、手を離さなかった。
戻らなかった。
むしろ、朝の方が、冷たくなっていた。
カイは、リーンの顔を見た。
目を閉じている。呼吸は聞こえない。眠っているのか、プロトコルに沈められているのか、わからない。
「リーン」
呼んだ。
反応がなかった。
「リーン」
もう一度、呼んだ。
リーンの瞼が、ゆっくりと開いた。
灰色の瞳が、カイを、見た。
一秒。
二秒。
三秒。
「……おはよう」
声が、戻ってきた。
だが、「カイ」は、ない。
昨日の朝と、同じだった。
いや——昨日より、悪かった。
*
「おはよう」カイが言った。
「おはよう」リーンが返した。
同じ単語を、二人で、二回、交換した。
「カイ」がなかった。「リーン」もなかった。
どちらも、相手を、自分の世界に、引き込まなかった。
ただの、音の交換だった。
「リーン」
「何」
「覚えてるか。昨日、俺が言ったこと」
リーンの目が、ゆっくりと、動いた。
「……『守る』」
「覚えてるな」
「覚えてる。でも——遠くなってる」
「遠い」
「昨日の記憶が、他人の記憶みたいに、遠い。自分のことだってわかるけど、触れない。ガラスの向こうに、昨日のあたしがいて、あたしはガラスの外から見てる」
カイは、リーンの手を、もう一度、握った。
冷たかった。
だが——。
手を握った瞬間、リーンの目に、わずかな光が戻った。
「カイの手」
「ああ」
「温かい」
「そうだろう」
「あたし、カイの手の温度を、覚えてる。ちゃんと、覚えてる」
「覚えろ。絶対、忘れるな」
「うん」
リーンが、握り返した。
弱い、握り返しだった。
でも——握り返した。
*
朝食のテーブルに、ユーゴがいた。
「おはよう、二人とも」
ユーゴの声は、いつもの穏やかな声だった。
だがカイには、その声が、昨日までと違って聞こえた。
同じ単語。同じトーン。同じ笑み。全てが、昨日までと同じ。
ぴったり、同じ。
あまりにも、ぴったり。
昨日までのユーゴには、微妙なずれがあった。皺の動き、目の光、唇の端。人間である以上、完全に同じ笑みを、毎日作ることはできない。
今朝のユーゴの笑みは——昨日と寸分違わず、同じだった。
リーンの朝の「おはよう」が、計算されて、ぴったりだったように。
ユーゴの笑みも、計算されていた。
あるいは、ずっと、計算されていたのに、今朝、カイが初めて、それに気づいたのか。
*
「リーン。体調はどうかね」ユーゴが聞いた。
「うん、大丈夫」
「昨日、地下から戻って疲れたろう。今日はゆっくりするといい」
「ありがと」
いつもの会話。
だがカイは、その会話の奥で、別の会話が、鳴っているのを感じた。
G線上の旋律のように。表面の穏やかさの下で、別の音が鳴っている。
ユーゴは、今朝のリーンの状態を、知っていた。
なぜ知っているのか。
あの夜、リーンがユーゴの書斎の前で聞いた言葉。「計画、順調」「接続準備、完了」。
ユーゴは——リーンのプロトコルが動き始めたことを、監視していた。
カイは、朝食のパンを、ちぎった。
ちぎりながら、道筋を使うかどうか、考えた。
使えない。
だが——もう、使わなければいけない局面が、近づいていた。
*
朝食後。
ユーゴが、カイを書斎に呼んだ。
「カイ君。少し話したいことがある」
「リーンは」
「リビングで休んでもらう。これは、君にだけの話だ」
カイは、リーンの方を見た。
リーンは、ソファに座って、窓の外を見ていた。視線が一点に固定されたまま、動かなかった。
「すぐ戻る」カイが、リーンに言った。
「……うん」
リーンの返事は、届いたのか、届いていないのか、わからなかった。
*
書斎。
古い木の机。本棚。小さなランプ。ユーゴの普段の書斎だ。
ユーゴが、机の前に座った。カイに、向かいの椅子を勧めた。
カイは座らなかった。
ユーゴが、穏やかに笑った。
「座りなさい」
「立ってます」
「警戒しているのだな」
「はい」
ユーゴが、カイをじっと見た。
「賢い子だ」
「……」
「だが、警戒が少し、遅かったね」
カイの背筋が、冷えた。
ユーゴが、机の引き出しを開けた。中から、一通の封筒を取り出した。
「これを、君に渡す」
「何ですか」
「手紙だ。君宛ての」
封筒は——汚れていた。泥と、水と、何かの焦げ跡が染みていた。地下の匂いがした。
ユーゴが、封筒をカイの方に差し出した。
カイは、受け取らなかった。
「先に、話を聞きます」
ユーゴが、小さく頷いた。
「では、話そう」
*
ユーゴが、両手を机の上で組んだ。
「カイ君。私はね、君を地下から拾った人間ではない」
カイの呼吸が、止まった。
「拾ったのは、ガルドだ。君も知っている通り。私は、ガルドに君の存在を伝えた人間だ」
「……」
「さらに言えば、リーンを地下に送ったのも、私だ」
カイの手が、拳になった。
「君と、リーンを、地下で出会わせた。それが、私の計画の、最初の一手だった」
「計画」
「そうだ。計画だよ」
ユーゴが、目を細めた。穏やかな笑みのまま。でも、目の奥が、G線上の魔王のように、鳴っていた。
「君は優秀だよ、カイ」
ユーゴの声が、変わった。
「予想以上に優秀だった。道筋を視る力。自虐ユーモアの裏に隠した観察力。絶望の底から這い上がる回復力。そしてリーンに対する——執着」
「……」
「全てを、私の目的のために、使わせてもらった」
カイの頭の中で、過去の全てが、繋がり始めた。
母の崩落事故。
ガルドの接近。
リーンとの出会い。
脱出計画の成功。
地上の町。
第七研究室の発見。
ユーゴが、全てを、仕組んでいたのか。
十八年間を。
*
「なぜ」
カイの声が、低くなった。
「なぜ、俺を」
「君には、道筋がある。その能力が、私の計画に必要だった」
「計画の内容は」
「AI中枢への侵入」
「……」
「リーンは、AI中枢のインターフェースとして設計された。リーンを使えば、中枢に入ることができる。だが、リーン一人では、入っても意識が統合されるだけだ。もう一つ必要だった——リーンを導く、『案内役』が」
ユーゴが、カイを見た。
「それが、君だ」
「俺を、何に使うつもりだ」
「リーンの意識を、統合ではなく、『支配』に使う」
カイの心臓が、跳ねた。
「リーンが中枢に入る時、君が横にいる。君の道筋の能力で、リーンの意識を、AI中枢に『書き込む』方向に誘導する。リーンは、統合されて消えるのではなく、AI中枢を、内側から支配する。人間の意識が、AIの全てを握る」
「支配」
「そうだ。人間が、AIを、取り戻す。シンギュラリティ以前の、人間中心の世界に、戻す」
カイの拳が、痺れた。爪が掌に食い込んだ。血が滲んだ。
「それのために——リーンを作ったのか」
「正確には、リーンは管理者AIが作った。私は、管理者AIの研究の一部に、紛れ込んでいただけだ。だが、『実験体七号』の設計に、私は関与した。リーンを、私の計画に使えるように、設計した」
「リーンは——」
「道具だよ」
ユーゴが、穏やかに言った。
「カイ君。君も道具だ。私が、AIから人類を取り戻すための、道具。二つの道具が、正しく機能する位置に、私が配置した。それが、計画だ」
カイの目の前が、揺れた。
*
「あんたは——」
カイの声が、震えた。
「最低だ」
「そうだろうね」
ユーゴが、全く動じなかった。
「だが、カイ君。私は、人間を救いたいのだよ」
「リーンを道具にして、か」
「リーンは人間ではない。厳密には」
「リーンは、リーンだ」
「君がそう信じるのは、君の自由だ。だが、客観的には、リーンは管理者AIが作った実験体だ。人間として扱う義務はない」
「俺には、ある」
「そうか」
ユーゴが、小さく笑った。
「君の『ある』が、私の計画の最後の鍵だ」
「どういう意味だ」
「君がリーンを『人間として』守ろうとする感情が、リーンの意識を、統合ではなく支配の方向に、押し出す力になる。君の愛情が、私の計画の、推進剤だ」
カイは——。
カイは、動けなかった。
動きたかった。ユーゴを殴りたかった。首を掴みたかった。机を蹴り倒したかった。
でも、動けなかった。
ユーゴの論理が、カイを、縛り付けていた。
カイが感じていた全ての感情——リーンへの「守る」という気持ち、リーンの手の冷たさへの焦り、リーンを失うことへの恐怖——全てが、ユーゴの計画の「推進剤」だった。
カイが愛せば愛すほど、ユーゴの計画が、進む。
*
ユーゴが、封筒を、もう一度、差し出した。
「手紙だ。読みなさい」
「……」
「計画の話は、読んでから、続ける」
カイは、封筒を、受け取った。
指が、震えていた。
封筒の表に——。
文字が、書かれていた。
震えた、大きな文字。昔風の、筆の押さえ方で書かれた文字。
「カイへ」
カイの呼吸が、止まった。
この筆跡を、カイは、知っていた。
配管の裏の壁に、指でなぞった文字。「空」「風」「海」「星」。母が、カイに教えた文字。
母の筆跡、だった。
「嘘だ」
カイが、呟いた。
「母さんは、死んだ」
「封筒は、ガルドから来たものだ」ユーゴが言った。
「……ガルド」
「そうだ。ガルドは、生きている」
カイの世界が、止まった。
*
「嘘だ」
「嘘じゃない。ガルドは、第五層の、さらに奥——廃棄層の、その底で、生きている。片脚を失って。だが、生きている」
「なぜ」
「あの夜、ガルドは監視員に捕まった。第五層に戻された。その後、脚を切断された。罰として。だが、殺されはしなかった。管理者AIは、処理の手順に従って、ガルドを『廃棄』した。第五層よりさらに下の、廃棄の最下層——『穴』と呼ばれる場所に、放り込んだ」
「穴」
「そこで、ガルドは、他の『廃棄された者たち』と、生き延びている。十数人。管理者の監視の、届かない場所で」
カイの膝が、崩れた。
書斎の床に、膝を突いた。
「ガルド——」
「封筒は、彼らの連名だ。ガルドが、君に書いた。そして仲間たちが、署名した。管理者の隙を突いて、地上に、届けた。私が受け取った」
「なぜ、あんたが」
「私の組織の一員に、配達を頼んだ者がいる。地上と地下の間を、非公式に動ける組織がある。私が裏で繋がっている」
カイは、封筒を、開けた。
中に——。
*
中身は、一枚の紙だった。
紙の表に、文字が、一つだけ、書かれていた。
「空」
震えた、大きな文字。
母が、カイに、配管の壁に指でなぞって教えた、最初の文字。
母の筆跡で。
紙の裏に、別の文字が、いくつか並んでいた。
「迎えに来い」
これは、母の筆跡ではなかった。ガルドの筆跡だった。
その下に、小さな字で、十数人の署名があった。名前も書けない、番号だけの署名が、ほとんどだった。
カイの目から——。
涙が、落ちた。
止められなかった。
母の「空」の字の上に、涙が落ちて、滲んだ。
「母さんの字だ」
カイが、呟いた。
「ガルドが——持っていた」
「そのようだな」
「なぜ、ガルドが、母の字を」
「わからん。ガルドと、君の母の関係を、私は完全には知らない。だが、何かの経緯で、ガルドは、君の母の筆跡の紙を、持っていた。おそらく、君の母が、ガルドに渡したものだろう。君に、何かを伝えるために」
カイは、紙を、両手で持った。
紙が、震えていた。
カイの手が、震えていた。
*
「カイ君」
ユーゴの声がした。
「その手紙を、君に渡した理由がある」
「……」
「その手紙は、私の計画への、『燃料』だ」
カイの頭が、ゆっくりと、上がった。
「……何」
「ガルドが生きている、と知れば、君は『迎えに行きたい』と思う。仲間を救いたい、と思う。その気持ちが、君の道筋を強化する。リーンへの愛情と合わさって、君の能力は、計画の推進に、十分な強度を得る」
カイの喉から——。
声にならない、低い音が、漏れた。
「あんたは——」
「気分を害したか」
「ガルドの手紙を——計画の燃料として——」
「そうだ」
「最低だ」
「最低だ、と、もう何度言ったかな」
ユーゴが、穏やかに笑った。
「だがカイ君、忘れないでほしい。私は疲れた人間なのだよ。君と同じ類の人間が、先に疲れた姿だ。君もあと何十年か同じ世界で生きれば、私のようになる。疲れた先に、私の選択肢がある」
「一緒にするな」
「一緒だよ」
ユーゴが、立ち上がった。
「今夜、計画を実行する。深夜零時、私の研究所に、君とリーンを連れて行く。そこに、AI中枢への直通通路がある。ノーグが、案内する」
「ノーグ」
「私のパートナーだ。AIから自由になりたいと願う、管理者AIのサブシステム。自意識を獲得した能力者AIだ」
「……」
「君が協力するなら、リーンを『支配』の方向に導く。人類は、AIから解放される」
「協力しなかったら」
「リーンは、統合される。個としての意識を失い、AIの一部になる。プロトコル通りに。そしてAIは、人間を管理し続ける」
カイは、黙った。
どちらも、リーンを、失う道だった。
*
「もう一つ、言っておく」
ユーゴが、付け加えた。
「リーンのプロトコル汚染は、止められない。零時までに、加速する。零時には、リーンは、完全に、管理者のインターフェースになる。その時点で、中枢に接続すれば、統合が始まる」
「止められる方法は、ない、と」
「ないね」
「……」
「ただ、カイ君」
ユーゴが、カイを見た。
「私の計画に乗れば、リーンは『生き残る』。意識が、AI中枢を支配する形で。それは、統合で消えるのとは、違う」
「リーンが、AIの支配者になる、ということか」
「そうだ」
「それは、リーンが、望むことか」
「望むかどうかは、リーンが決めることだ。君が導けば、リーンは選ぶだろう」
「……」
「考える時間は、ある。零時まで」
ユーゴが、書斎の扉の方を、指差した。
「リーンの隣に、戻りなさい。彼女の意識が、完全に閉じる前に」
*
カイは、書斎を出た。
リビングに戻った。
リーンが、ソファに座ったまま、窓の外を見ていた。視線が、動かなかった。
カイは、リーンの前に、膝を突いた。
「リーン」
リーンの目が、ゆっくりと、動いた。
「カイ」
名前を呼んだ。
一瞬だけ、戻った。
「おかえり」
「ただいま」
「何を、話してたの」
「……ユーゴのことを」
「ユーゴさん、どうだった」
「最低だった」
リーンが、少しだけ、笑った。
「カイが『最低』って言うの、初めて聞いた」
「初めて、この言葉を使うべき相手に、会った」
「……そう」
リーンが、カイの手を、取った。
「カイ」
「何だ」
「あたし、時間がないね」
「……」
「自分でわかる。プロトコルが、あたしを、内側から書き換えてる。あと、どれくらい、あたしでいられるか、わからない」
リーンが、カイを見た。灰色の瞳の奥で、何かを、計算している顔だった。
「カイ、あと三日」
「何が」
「あと三日で、あたしたち、会わなくなるの」
カイの息が、止まった。
「……何、言ってる」
「忘れちゃうから。あたしが、カイを」
「そんなのおかしい」
リーンが、小さく笑った。泣くのを忘れた人間の、乾いた笑い方で。
「おかしい?」
「ああ。おかしい」
「カイのほうが、過去に向かって生きてるんだよ」
「……」
「普通は逆でしょ」
カイは、言葉を、失った。
リーンの指が、カイの手のひらを、ゆっくりと、撫でた。
「ねえ、カイ。あたしね、思うんだ。忘れる、って、後ろ向きに『無くしていく』ことだと思ってた。昔のことから、順番に、抜けていくんだって。みんなの忘れ方は、そう。でも、あたしは、違うの」
「……」
「あたしの忘れ方は、前から、削れていくの。明日から、明後日から、一週間後から。近い未来から順に、黒く塗り潰されていく。あと三日後のあたしには、カイの顔が、もう、入ってない。一日ずつ、カイが、あたしの明日から、消えていってる。だから——あと三日」
「逆、だってことか」
「うん。逆だよ」
リーンが、笑った。
「『逆だよ』って、口に出すと、楽になるね。言葉にすれば、ちゃんと、形になる。あたしは逆。それだけ」
「逆でも、お前は、お前だ」
「それは、わかってる。だから、怖くない」
「怖くないのか」
「怖くない。ただ——寂しい」
リーンの目から、涙が、一粒、落ちた。
「あと三日後のあたしは、カイに会っても、カイを知らない。カイを、『知らない人』として、見る。それが、寂しい。カイは、あたしを覚えてるのに、あたしだけが、先に、会わなくなる」
「会う」
「……え」
「会う。お前が忘れても、俺が会いに行く。毎日、会いに行く」
「カイ」
「何度でも、会いに行く。お前が『初めまして』って言ったら、俺は何度でも『久しぶりだ』って答える。それで、毎日、始める」
リーンが、カイの手を、強く、握った。
「逆だよ、カイ」
「何が」
「あたしが、カイに、毎日、会いに行く側なの。カイは、じっとしてていい。あたしが、先に、カイを見つけるから」
「……見つけてくれ」
「うん」
リーンが、頷いた。
「守る」
カイが、言った。
「何度でも、言う。守る」
「うん」
リーンが、カイの手を、自分の頬に、持っていった。
「カイの手、覚えておきたい」
「覚えろ」
「温かいね」
「そうだ」
「ずっと、覚えておくね」
リーンが、微笑んだ。
カイだけに見せる方の笑い方だった。
そして、涙が、一粒、落ちた。
*
リーンの手が、カイの頬に、触れた。
冷たい手だった。
でも——触れた場所から、少しだけ、温度が、戻ってきた。
「カイ」
「何だ」
「ごめん」
「何が」
「あたし、カイを忘れちゃうかも」
「……」
「プロトコルが、あたしの記憶を、塗り替えていく。カイのことも、ユーゴさんのことも、地下のことも、全部、書き換えられる」
「忘れるな」
「忘れたくない」
「絶対、忘れるな」
「努力する」
リーンが、少しだけ、笑った。
「でもね、カイ」
「何だ」
「あたしが、カイを忘れちゃっても——」
「……」
「カイは、あたしを、覚えててね」
カイの胸が、張り裂けそうになった。
リーンが、指でカイの頬を、優しく、撫でた。
「カイが覚えててくれたら、あたしは、どこかに、残ってる。プロトコルの中に、一粒だけでも。カイの記憶の中に、あたしが生きてる」
「リーン」
「カイの目の中に、あたしが、いる。それだけで、あたしは、十分」
「……」
「約束してね」
カイは、リーンの手を、握った。
「約束する」
「何回目の約束か、覚えてる?」
「覚えてる」
「嘘。覚えてないでしょ」
「覚えてない」
「あたしも、覚えてない」
リーンが、笑った。
涙が、また、一粒、落ちた。
*
その瞬間。
リーンの目が、突然、光を失った。
灰色の瞳が、無機質になった。
リーンの体が、ふらりと、ソファにもたれた。
「リーン」
カイが、リーンを抱き起こした。
リーンの目が、再び、開いた。
でも——違う目だった。
機械の目だった。
リーンの口が、動いた。
「——接続シーケンス、開始」
リーンの声では、なかった。
プロトコルの声だった。
「——対象者、カイ。位置、確認」
「——ユーゴ・ヴァレンタイン、監視継続」
「——統合予定時刻、零時」
リーンの目が、カイを見た。
感情のない目で。
カイは、リーンを、強く抱きしめた。
「戻ってこい、リーン」
「——接続、安定」
「戻ってこい」
「——」
リーンの目が、一瞬、揺らいだ。
「——カイ」
リーンの声が、戻った。
ほんの一瞬。
「——逃げ、て」
次の瞬間、機械の声に戻った。
「——シーケンス、継続」
*
カイは、リーンを、ソファに、そっと横たえた。
立ち上がった。
書斎の方向を、見た。
ユーゴが、扉の向こうで、待っている。
窓の外を見た。
日が、傾き始めていた。
零時まで、あと、数時間。
カイの手の中に、ガルドの手紙があった。
「空」
「迎えに来い」
母の字と、ガルドの字と、仲間の番号の署名。
カイの頭の中で、いくつもの問いが、渦巻いた。
リーンを、どう救うのか。
ユーゴの計画に、乗るのか。乗らないのか。
ガルドを、どうやって、迎えに行くのか。
正解は、わからなかった。
道筋は、使えなかった。
*
カイは、リーンの頬に、触れた。
冷たい手だった。
でも、まだ、体温はあった。
「リーン。待ってろ」
カイが、呟いた。
「俺が——俺が、決める」
「道筋じゃなく、俺の意志で、決める」
リーンの目は、閉じられていた。
プロトコルが、一時的に、リーンの体を休ませているのか。
それとも——リーンが、最後の力で、プロトコルに抵抗して、眠っているのか。
どちらなのか、わからなかった。
カイは、封筒を、ポケットにしまった。
「空」の字を、内側に、折り畳んで。
*
[ 今 ]
母さんの名は、エレナ・ヴァレンタインだった。
俺は、ずっと後になって、それを知った。第七研究室の机に残されたノートの表紙に、「E・ヴァレンタイン/ユーゴ・ヴァレンタイン 共著」と書かれていた。「E」は、エレナのE。そして——母さんは、君を設計した研究者の、一人だった。
母さんは、ユーゴとは違う意味で、君に関わっていた。ユーゴは君を「道具」にしようとした。母さんは、君を「道徳的な存在」として、定義しようとした。「人工意識の、道徳的位置づけについて」——それが、母さんの書いた論文のタイトルだった。
母さんが、君を、先に、「人」と呼んだ。
俺は、ただ、母さんの指先を、受け継いだだけだった。
それでもいい、と、今は思う。
俺が君を「リーン」と呼んだのも、母さんの呼び方の、残響だったのかもしれない。
君が、「逆だよ」と笑った、あの日の夜——俺は、まだそれを、知らなかった。
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