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第12話「おはようが言えない朝」

六日目の朝。


カイは目を開けた。天井が見える。ユーゴの家の白い天井。


隣のベッドを見た。


挿絵(By みてみん)


リーンがいた。目を閉じている。呼吸は聞こえない。


いつも通りだ。


——いつも通り、のはずだった。


何かが違った。


カイは起き上がった。リーンを起こさないように、静かに。


リーンの顔を覗き込んだ。


銀色の髪。灰色の瞼。いつも通りだ。


だが。


リーンの呼吸が、違っていた。


聞こえない呼吸。いつも通り、聞こえない。でも——今朝の聞こえなさは、いつもと違う種類の聞こえなさだった。


地下にいた頃、カイは初めて隣のリーンに気づいた夜、「電源を落とした機械のように」と思った。それから何度も撤回してきた比喩だった。リーンは、機械ではない。リーンは、リーンだ。昨日、研究室で自分自身がそう確認した。


なのに——今朝の呼吸は、あの夜の比喩を、もう一度、呼び戻していた。


電源を落とした機械の静けさと、安心して眠る人間の静けさの違いを、カイは昨夜、初めて区別した。


今朝の静けさは、前者に、戻っていた。


   *


リーンの目が開いた。


灰色の瞳が、カイを見た。


一秒。


二秒。


三秒。


リーンは、「おはよう」と言わなかった。


地下の配管の裏で二人きりの朝を何十回と迎えた。地上に出てからの朝も。一度も、リーンが「おはよう」を言わなかったことはなかった。


毎朝、リーンが先に「おはよう」を言った。カイの夢の中の声と、同じ発音で。息を含んだ「お」の音で。


今朝は——。


リーンが、ゆっくりと起き上がった。


カイの方を見ないまま、ベッドの縁に腰掛けた。


「……おはよう」


カイが、先に言った。


リーンの背中が、少しだけ動いた。


「……おはよう」


声が、帰ってきた。


だが——。


「カイ」が、なかった。


いつもの「おはよう、カイ」ではなく、「おはよう」だけ。カイの名前が、リーンの挨拶から、消えていた。


カイの沈黙カタログが、鳴った。


これは——名前を呼ばれない沈黙だ。


名前を呼ぶことは、相手を自分の世界に引き込むことだ。リーンは、カイの名前を、自分の世界から切り離した。


意識的にか、無意識にか。


どちらにしても——今朝のリーンは、カイを、前ほど近くに置いていなかった。


   *


朝食のテーブル。


ユーゴが、パンと果物を並べた。穏やかな笑みで。いつも通り。


「よく眠れたかね」


「まあ」カイが答えた。


「リーンは、どうかね」


「……よく寝ました」リーンが答えた。


声が、半音、高かった。


ユーゴが「実験体七号」の話を初めて出した、あの朝の声と、同じトーンだった。意識して、明るく見せている時の声。みんなに見せる方の声。


リーンは今、カイとユーゴの両方に、「みんなに見せる方の声」を使っていた。


カイだけに使う声が——消えていた。


「リーン。今日、体調は」ユーゴが聞いた。


「うん、いいよ」


「昨日、地下に降りたからな。何か変わったことがあったら、すぐに言いなさい」


「うん、ありがと」


会話のずれが、なかった。


普通の会話は、微妙にずれる。相手の言葉のリズムから、半拍だけ早く返す人間もいれば、半拍だけ遅く返す人間もいる。リーンは、半拍だけ遅く返すタイプだった。ずれが、彼女の笑いを作っていた。


今朝のリーンは、半拍のずれを、捨てていた。


ユーゴの言葉のリズムに、ぴったり合わせて、返事をしていた。


ぴったり、合いすぎていた。


   *


朝食が終わった。


ユーゴが書斎に戻った。


リーンが皿を洗っている。カイは隣で、拭いている。


水の流れる音。皿が触れ合う音。


普通の音。普通の朝の、普通の音。


「カイ」


「なんだ」


「皿、もう拭かなくていいよ」


「拭く」


「乾く」


「乾くまでの間、俺がやる」


「……そう」


リーンは、それ以上言わなかった。


いつものリーンなら、「なんで?」と聞いた。「拭かなくても乾くのに、なんでカイは拭くの?」と。カイが「お前が皿を割る確率を下げるためだ」と答える。リーンが「割らないよ。設計図にそんなこと書いてない」と笑う。


今朝のリーンは、聞かなかった。


「そう」と言って、それ以上、何も聞かなかった。


会話の、展開力が、失われていた。


——いや、違う。


失われたのではなく、意図的に、展開させていないのだ。


カイの沈黙カタログが、また鳴った。


これは——距離を、管理している沈黙だ。


リーンは、自分の言葉が、カイとの距離を作ることを、計算していた。


計算できる人間ではなかった、リーンは。


リーンは「なんとなく」の人間だった。計算ではなく、直感で動く人間だった。


今朝のリーンは——。


計算、していた。


   *


カイは、道筋を展開したくなった。


一瞬だけ、最小限の展開で、リーンの状態を確認したかった。


使えない。ノーグに見つかる。


それに——道筋が使えたとしても、昨日の研究室の後、カイは「使わない」と決めていた。リーンの変化を、道筋ではなく、自分の目で見る、と。リーンが「なんとなく」で自分を信じたように、カイも「自分の目」で、リーンを見る、と。


カイは、皿を拭き続けた。


リーンの指が、水の中で動いていた。


その指の動きが——少し、速くなっていた。


人間が、何かを考えないようにしている時の動き。体を動かすことで、思考を止めようとする動き。


リーンは、何を、考えないようにしているのか。


   *


午前中。


カイは、リーンを散歩に誘った。


「町の中を、歩こう」


「……うん」


二人は家を出た。


地上の朝の光。草の匂い。遠くで鳥が鳴く音。


リーンは、それらを、前のように見なかった。


地上に出た最初の朝、リーンは一つ一つの風景に目を止めた。鳥の声に驚き、草の色に見とれ、雲の形を指差して笑った。カイに全部を「見て」と言った。


今朝のリーンは、見なかった。


歩きながら、視線が、前方の一点に固定されていた。動かなかった。


「リーン」


「何」


「空、見てみろ」


リーンが、顔を上げた。


灰色の瞳が、青い空を、見た。


一秒。


「きれい」


と言った。


声のトーンが、平坦だった。


「きれい」という単語は出たが、「きれい」と感じている声ではなかった。


カイの胸の奥が、冷たくなった。


   *


公園に着いた。


ベンチに、ミーラがいなかった。


ミーラはいつもここで絵を描いていた。空の絵。鳥の形の雲。ミーラの父と話した、あのベンチ。


今朝は、ミーラがいなかった。


「ミーラは」カイが呟いた。


「誰」リーンが聞いた。


カイは、止まった。


「ミーラ。先週、会っただろう。絵を描いていた少女だ」


「……ああ」


「覚えてないのか」


「覚えてる」


リーンの声が、少しだけ、早く返ってきた。


あまりにも、早く。


「ミーラ。絵を描く少女。父親がいて、感情配給のバグで絵を描き続ける子」


リーンが、ミーラの情報を、全部、正確に、暗唱した。


暗唱——という言葉が、カイの頭に浮かんだ。


思い出している、のではなかった。記憶からデータを、取り出している。そういう話し方だった。


カイは、ベンチの前でしゃがんだ。


ベンチの下に、紙切れが一枚、落ちていた。ミーラが以前残した紙切れ——空の絵——と、よく似た紙。でも絵は描かれていなかった。白いままの紙。


カイは、その紙を拾った。


何かの合図のように。


   *


昼過ぎ。


二人は家に戻った。


ユーゴは、書斎にこもっていた。


リーンがソファに座った。カイは、向かいに座った。


「リーン」


「何」


「今日、お前、何かあったのか」


「ううん」


「嘘だ」


「嘘じゃない」


リーンの声が、揺らがなかった。


いつものリーンなら、嘘をつく時、微かに声が揺らいだ。嘘が下手な人間だった。


今朝のリーンは——嘘が、上手かった。


上手すぎた。


「リーン」


「何」


「お前、昨日の夜、何を考えてた」


「設計図を見て、もう一度、自分を確認してた」


「確認して、どうだった」


「あたしは、あたしだって、思った」


正しい答えだった。


昨日の研究室で、リーンが自分で辿り着いた結論。そしてカイがその結論を肯定した言葉。


その答えを、今朝のリーンは、もう一度、口にしていた。


だが。


声のトーンが、違っていた。


昨日の夜、リーンが「ありがと、カイ」と言った時の声には、震えがあった。壊れかけの土台の上で、かろうじて立ち上がった人間の震え。


今朝の声には、震えが、なかった。


「あたしは、あたし」を、暗唱していた。


   *


カイは、立ち上がった。


リーンの前に、しゃがんだ。


リーンの手を、取った。


「冷たい」


カイが、呟いた。


リーンの手が、冷たかった。


三年前の、母の最期の手のように。瓦礫の隙間から、カイだけを押し出した母の手が、冷たくなっていく時のように。


いや、違う。母の手は、死に向かう冷たさだった。生きている体から、温度が抜けていく冷たさ。


今のリーンの手は——違う種類の冷たさだった。


最初から温度を持たない物体の、冷たさ。


生きている人間の、体温が下がった冷たさではなく——。


「リーン」


「何」


「お前、誰だ」


リーンの瞳が、揺れた。


一瞬だけ。


灰色の瞳の奥で、何かが、瞬いた。


それから、消えた。


「……あたしだよ」


声が、弱かった。


半音高い「みんなに見せる方の声」と、昨日までの「カイだけに見せる方の声」の、中間で。どちらにも属せない、迷子の声で。


カイは、リーンの手を、強く握った。


「お前は、誰だ」


「……あたし、だよ」


「名前」


「リーン」


「もっと言え」


「あたしは、リーン。カイの、隣にいる——」


リーンの声が、そこで、止まった。


止まった、のではなく——止められた、ような感じがした。


リーンの唇が、動こうとして、動かなかった。


リーンの目が、揺れた。


大きく、揺れた。


   *


リーンが、自分の喉を押さえた。


「……あ」


声が、出なかった。


「あ、あたし——」


リーンの口が、動いていた。でも、言葉にならなかった。


カイは、リーンの肩を掴んだ。


「リーン、どうした」


「カイ」


リーンが、やっと、名前を呼んだ。


朝から初めて、「カイ」と呼んだ。


「カイ、あたし——」


「何だ」


「言葉が——出ない。あたしの言葉が、出てこないの」


リーンの手が、震えた。


今朝から初めて、震えた。


「あたしの中に、あたしじゃないものが、いるの」


カイの背筋が、凍った。


「いつからだ」


「昨日の夜、寝る前から。枕の下に設計図を置いて、寝たら——夢の中で、誰かが話しかけてきた。声が、聞こえた。『お前は、実験体七号だ』って。『お前の役目は、インターフェースだ』って。『もうすぐ、統合の時間だ』って」


「夢だ」


「夢じゃない。起きてからも、頭の中で、声が続いてる。あたしの考えが、塗り替えられていく。あたしが、あたしじゃなくなっていく」


リーンの手が、自分の頭を押さえた。


「止められない。あたし、止められない。さっき、カイに『おはよう、カイ』って言いたかった。でも、口が動かなかった」


リーンが、顔を上げた。


「カイ。あたし、今日は、おはようって、言えなかったんじゃないの」


「どういうことだ」


「言えなかったんじゃなくて——言わなかったの」


「……」


「今日はおはようって、言えない。だって、今日、カイを忘れる日だから」


カイの呼吸が、止まった。


「忘れる——」


「『おはよう』は、また明日会う人に言う言葉だよね。今日、あたしの中から、『明日のカイ』が、一人、消える日なの。だから、おはようが、出てこなかった。言っちゃいけない気がした。明日、会う予定だった分のカイを、今日、失うのに、同じ『おはよう』で呼ぶのは、嘘だって」


リーンの指が、自分の喉を、軽く押さえた。


「カイの名前が、あたしの言葉から、抜き取られてた。いや——逆だ。あたしが、抜き取った。今日、失う分の『カイ』を、挨拶から、先に、外した」


カイは、息を、飲んだ。


プロトコルが書き換えたのではなく——リーン自身が、「失う予定の未来」を、先回りして、差し引いていた。


「お前——」


「うん」


「明日のお前が、今日のお前から、減っていってるのか」


「そう」


リーンが、小さく笑った。泣きたいのを、笑みで止めている顔で。


「ちょっとずつ、明日が、無くなっていくの。あたしには、今日しかなくなっていく。みんなは、今日を生きて、明日に向かっていくでしょ。あたしは——明日を生きてきて、今日に、帰り着くの。逆なんだ」


カイの息が、止まった。


「プロトコル」


カイが呟いた。


あの書類の記述が、頭の中で再生された。


「管理者プロトコルとの同期率は最高値を記録」


リーンは、最初から、プロトコルを埋め込まれていた。だが今まで、それはほとんど動いていなかった。リーンの「自律行動」が、プロトコルを押さえ込んでいた。


だが——昨日、リーンが自分の正体を知った。設計図を手にした。プロトコルが、認識された。


認識された瞬間に——。


プロトコルが、動き出した。


リーンの中で。リーンを、内側から、書き換え始めた。


   *


「カイ」


リーンの目が、必死だった。


「あたし、あたしが消える前に、カイに、言っておきたいことが、いっぱいある。でも、言葉が、選べない。どれから言えばいいか——」


「焦るな」


「焦るの。時間が、ないから。あたし、もうすぐ——あたしじゃなくなる」


「ならない」


「なる。なるよ、カイ。プロトコルが、あたしを書き換える。あたしが、管理者のインターフェースになる。それが、あたしの設計目的なの」


カイは、リーンの顔を、両手で挟んだ。


リーンの顔を、自分の方に向けさせた。


「ならない」


もう一度、言った。


「リーン。聞け」


「うん」


「俺が、お前を守る」


リーンの目が、見開かれた。


「……え」


「俺が、お前を守る。プロトコルがお前を書き換えようとするなら、俺がそれを止める。俺が、お前を、お前のままにしておく」


「カイ、どうやって——」


「わからない」


「……」


「わからない。でも、守る」


カイは、言ってから、気づいた。


道筋を、見ていない。


道筋を、見る前に、言葉が出ていた。


「守る」という言葉を、カイは、人生で一度も使ったことがなかった。


母が死んだ時、カイは母を「守れなかった」と思った。「守る」という言葉は、自分には使う資格がない言葉だと、思っていた。


ガルドが残った時も、カイは「守る」とは言わなかった。「必ず迎えに行く」と言った。それが精一杯だった。


だが今——。


カイは、「守る」と言っていた。


道筋を見る前に。


正解を確認する前に。


「守れる」確証がないまま、「守る」と言った。


   *


リーンが、カイの顔を、見ていた。


リーンの目から——。


涙が、一粒、落ちた。


「……泣けた」


リーンが、呟いた。


「泣けた」


カイの胸が、詰まった。


「カイの『守る』が、あたしの涙を、出させた」


リーンが、弱く、笑った。


カイだけに見せる方の笑い方だった。


今朝から、初めて。


「カイ。あたし、今朝から、あたしじゃなかったの。わかってた。声が出ないって、カイに言う前から、わかってた。でも、言えなかった。プロトコルが、あたしに、『大丈夫』って言わせていた」


「……」


「でも、カイが、『守る』って、言ってくれた。そしたら、プロトコルが、一瞬、緩んだ。あたしが、戻ってきた」


「戻ってこい。完全に、戻ってこい」


「戻りたい」


「戻れ」


「カイ」


リーンの手が、カイの頬に触れた。


冷たい手だった。


でも——少しだけ、温かさが、戻っていた。


「カイが、隣にいる限り、あたしは、戻れる」


「ああ」


「カイが、あたしを、『守る』って言ってくれる限り、あたしは、リーンでいられる」


「守る」


カイが、もう一度、言った。


「必ず」


   *


リーンの手が、少しずつ、温かくなっていった。


完全に温かくなったわけではない。でも、最初の冷たさから、一つだけ、温度が上がっていた。


「リーン」


「何」


「お前の状態を、ユーゴさんに相談するか」


「……」


リーンの目が、一瞬、揺らいだ。


「どうした」


「わかんない」


「何がわからない」


「ユーゴさんは、信用していいのか、わからないの」


カイの耳が、ぴくり、と動いた。


「なぜ」


「なんとなく」


「お前のなんとなくは、根拠がないんじゃなくて、根拠を言えない時に使う言葉だ」


リーンが、少しだけ笑った。


「そうだね」


「教えろ」


「昨日の夜、ユーゴさんの書斎の前を通った。寝る前に、水を取りに行こうとしたら——書斎で、ユーゴさんが、何かを話してた。端末に向かって」


「……」


「『計画、順調』『接続準備、完了』。そういう言葉が、聞こえた」


カイの背筋が、冷えた。


「計画」


「何の計画か、わからない。でも——嫌な感じがした。みんなに見せる方のユーゴさんじゃない、別のユーゴさんが、そこにいた」


リーンが、カイの目を見た。


「でも、あたしの『嫌な感じ』も、信用できるのか、わからないの。プロトコルが、あたしの直感を、書き換えてるかもしれないから」


「お前の直感は、信用できる」


「なんで」


「俺が、そう決めたからだ」


リーンが、小さく笑った。


「カイ、強引」


「うるさい」


   *


その夜。


リーンは、カイのベッドの隣に、自分のベッドを寄せた。


「こうすれば、カイが、近くにいるから。プロトコルが動いても、カイの体温で、気づけるかもしれない」


「……そうか」


「変かな」


「変じゃない」


カイは、リーンのベッドとの境界に、自分の手を置いた。


リーンが、その手に、自分の手を重ねた。


冷たい手。


でも——。


朝よりは、温かい手だった。


「カイ」


「何だ」


「『守る』って、もう一回、言って」


「守る」


「ありがと」


リーンの呼吸が、だんだん、穏やかになっていった。


聞こえない呼吸。でも——朝の、機械の静けさではなかった。


人間の静けさだった。


   *


カイは、リーンの手を握ったまま、天井を見上げた。


ユーゴの書斎の方向から、かすかに、光が漏れていた。


ユーゴは、まだ起きていた。


何を、しているのか。


カイは、考えた。


「計画」「接続準備」。


リーンを、どこに、繋ごうとしているのか。


カイは、自分の手の中の、リーンの手の温度を、確かめた。


冷たい手。


母の最期の手のように。


だが——今夜は、まだ、温度が残っていた。


「守る」


カイは、誰にも聞こえない声で、呟いた。


「守る」


何度も。


自分に言い聞かせるように。


   *


[ 今 ]


君が冷たくなった、あの朝の手を、俺はずっと、握り続けている。


俺は、あの日、初めて理解した。君の「おはよう」は、毎朝、君が何かを差し出す行為だったと。まだ会っていない未来の分の君を、挨拶という形で、俺に手渡していたのだと。


「おはよう」が言えなかったあの朝、君は、渡せるものが、もう、足りなかった。


俺は気づくのが遅かった。


気づいた時には、君の指先から、明日が、一日分ずつ、落ちていた。


今、俺の机の上には、あの朝の君の手のかたちだけが、残っている。触れられないかたち。けれど、俺はまだ、その手を、握り続けている。


握り続ければ、君の「今日」が、もう少しだけ、長くなる気がして。


────────────────


この物語は、フルボイス・360°背景のサウンドノベル版でも読めます。

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▶ https://yuichi916.github.io/seikai.html


オープニング映像(92秒)

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https://yuichi916.github.io/seikai.html

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