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第11話「実験体七号」

挿絵(By みてみん)


五日目の朝。


リーンが朝食の席で言った。


「第七研究室に行きたい」


カイのパンを持つ手が止まった。


ユーゴが顔を上げた。穏やかな笑みが、ほんの一瞬だけ揺らいだ。


「第七研究室——第二層の研究施設か」ユーゴが言った。


「うん。あたしの金属片に刻まれてた番号。『実験体七号』。第七研究室にあたしの——あたしが何者なのかの答えがあるはずなの」


カイは口を開いた。反対の言葉が出かけた。


危険だ。第二層はノーグのテリトリーだ。道筋を使えばノーグに見つかる。使わなくても、地下に戻ること自体が——


「駄目だ」


「カイ」


「駄目だ。地下に戻るのは——」


「あたしが何者か、知りたいの」


リーンの声が、静かに遮った。


笑顔がなかった。どちらの笑顔もなかった。みんなに見せる方も、カイだけに見せる方も。今のリーンには——覚悟だけがあった。


「毎晩、わからなくなるの。あたしが何なのか。人間なのか、実験体なのか。端末を無意識で操作する自分が、どこから来たのか。それを知らないまま、このまま走り続けるのは——もう、無理」


「知ったら楽になるとは限らない」


「楽になりたいんじゃない。知りたいの。何者でもいい。人間じゃなくてもいい。でも——わからないままは、嫌」


カイは黙った。


リーンの灰色の瞳を見た。揺れていない。決まっている。


第一部で、カイはリーンの「なんとなく」を何度も信じた。道筋が途切れた排水路の分岐で、リーンが選んだ左の道を走った。理由を聞かなかった。


今——リーンがカイに「信じてくれ」と言っている。言葉ではなく、目で。


「カイ君」ユーゴが口を開いた。「俺が手引きしよう」


「ユーゴさん」


「第一層から第二層への通路を知っている。管理者の監視を避けるルートもな。地上から地下に戻る道は——ある」


「なぜ知ってるんですか」


「この世界で長く生きていると、管理者にも見えない道がいくつか見つかる。人間が作った道ではなく、システムの隙間に自然にできた道が」


ユーゴの目は穏やかだった。信頼を誘う目。


カイは迷っていた。道筋が使えない。正解が見えない。


リーンの目を見た。覚悟の目。


「……わかった」


リーンの目が、光った。


「ただし、条件がある。第七研究室だけだ。他の場所には行かない。見つけたものが何であっても——戻ってくる。ここに。二人で」


「うん」


「約束しろ」


リーンが笑った。小さく。本物の方の笑い方で。


「約束だよ。何回目かもう数えてないけど」


「約束は数えるものじゃない。守るものだ」


リーンが目を丸くした。


「それ——あたしが前に言ったやつ」


「だから引用した」


「カイが引用する日が来るとは思わなかった」


「うるさい」


ユーゴが静かに笑った。


   *


その日の午後、三人は地下への入口に向かった。


町から東に一時間ほど歩いた場所に、草に覆われた構造物があった。カイとリーンが地上に出た入口とは別の場所だ。


「ここは管理者にも忘れられた入口だ」ユーゴが草を掻き分けた。「昔の通気口だったらしい。今は使われていないが、地下への道は通じている」


金属の蓋を開けると、暗い穴が口を開けた。


地下の匂いが上がってきた。鉄と錆と、微かな廃液の残り香。


リーンの体が強張った。一瞬だけ。すぐに解けた。


「行こう」


三人は地下に降りた。


   *


通路は狭かった。天井が低く、壁が近い。カイとリーンには慣れた環境だ。地下で育った体が覚えている。


「ここは第一層の外縁部だ」ユーゴが説明した。「管理者の監視が薄い区画。ここから第二層への階段に出る」


「監視端末は」カイが聞いた。


「この通路には設置されていない。だが第二層に入れば——気をつけなくてはならない」


カイは道筋を使いたかった。使えば一秒で安全なルートがわかる。


使えない。ノーグに見つかる。特にここは第二層だ。ノーグのテリトリー。


「リーン。お前の目で見てくれ」


「うん」


リーンが先頭に出た。壁に手を添えながら、通路の先を確認する。


「人の気配はない。空気の流れ——左の通路から来てる。左の方が広い」


「左に行く」ユーゴが言った。


三人は左の通路を進んだ。


第二層に入った。


白い壁。白い床。白い天井。前に来た時と同じだ。清潔で、無機質で、冷たい。


リーンの足が止まった。


「また——この感覚」


「体が覚えているのか」


「うん。前より強い。ここの空気を——あたしの体は知ってる」


リーンの手が震えていた。左手。三話目の時と同じ。


カイはリーンの手を見た。拳を握らなかった。代わりに——リーンの隣を歩いた。肩が触れる距離で。


「第七研究室は——こっちだ」リーンが言った。


「なぜわかる」


「わかる。体が知ってるから」


リーンが通路を進んだ。迷わなかった。分岐で左を選び、階段を一つ降り、もう一つの分岐で右を選んだ。全て迷いなく。


カイは黙ってついていった。道筋の代わりに、リーンの直感を信じて。


   *


第七研究室の前に着いた。


灰色の扉。表面に「第七研究室」と記されている。電子錠が付いていたが——壊れていた。何年も前に壊れたまま放置されている。


ユーゴが扉を押した。


「開いている。放棄されたらしいな」


扉が軋んで開いた。


中は——荒れていた。


棚が倒れている。机の上に書類が散乱している。端末が壁に埋め込まれているが、画面は消えている。椅子がひっくり返っている。


何年も前に、急いで退去した痕跡。


リーンが中に入った。足音が床の砂利を踏んだ。


「ここ——あたし、ここを知ってる」


リーンの声が震えていた。怖い声ではなかった。もっと深い感情。帰ってきた場所に立つ人間の声。


「ユーゴさん。少し、二人にしてもらえますか」カイが言った。


ユーゴが頷いた。「通路で見張っている。何かあったら声を出せ」


ユーゴが外に出た。


カイとリーンだけが残った。


   *


散乱した書類を拾い集めた。


紙が劣化している。文字が薄くなっている。だが読める。


「人工人間計画——第七期研究報告」


カイが声を出して読んだ。


「目的——管理者と人間のインターフェースとなりうる有機体の生成。管理者の制御下において人間社会に適応し、管理者のプロトコルを人間に伝達する能力を持つ存在の創出」


「インターフェース——」リーンが繰り返した。


「管理者と人間の間を繋ぐもの、という意味だ」


「あたし——が?」


カイは次の書類を読んだ。


「実験体七号——生成日、不明。基盤コード、ABYSS-OS v4.7準拠。外見年齢、十五歳固定。特記事項、対人共感能力が想定値を大幅に超過。管理者プロトコルとの同期率は最高値を記録するも、自律行動パターンに予測不能な偏差あり」


リーンが黙っていた。


カイは続けた。


「第七期実験は中断。理由、実験体七号の自律行動が制御範囲を超過。具体的には、管理者の指示にない行動を自発的に行う事例が複数観測された。例——他の実験体への干渉。端末外のデータ収集。そして——」


カイの目が止まった。


「そして——管理者に対する『疑問』の表明」


沈黙。


リーンが——笑った。


乾いた笑いだった。


「あたし、疑問を持ったんだ。管理者に。だから——ここに捨てられたの?」


「捨てられた、とは書いていない。中断、としか——」


「同じだよ。中断も廃棄も、言い方が違うだけ」


リーンの声に怒りはなかった。悲しみもなかった。ただ——乾いていた。


カイは次の書類を探した。机の引き出しの中に、ファイルが一つ残っていた。


「実験体七号——設計図」


ファイルを開いた。


中に入っていたのは、一枚の図面だった。


人体の図面。骨格。筋肉。神経系統。全てが精密に描かれている。そして——脳の部分に、回路図が重ねて描かれていた。


人間の脳に、管理者のプロトコルが埋め込まれている構造。


リーンの「設計図」。


リーンは——AIに作られた人工人間だった。


カイの手が震えた。書類を持つ手が。


リーンの方を見た。


リーンは設計図を見つめていた。自分の体の設計図。どこに何があるか。何のために作られたか。全てが記されている。


そして——リーンの唇が、ほんの少しだけ、動いた。


「やっぱりね」


小さな声だった。紙の上に落ちて、消えそうな声。


「もう一回、会えた」


カイが、顔を上げた。


「……何だ、今の」


「何でもない」


「『もう一回』って、何だ」


リーンが、首を、少しだけ傾げた。どこか遠くを見るような目で。


「この設計図を見るの、二度目な気がする。一度目が、いつだったかは、思い出せないけど——体が、知ってる。『また、この紙に会った』って、感じてる」


「初めて来た部屋だ。設計図も、今、初めて見つけた」


「うん。頭では、わかる。でも——」


リーンが、指で、紙の端を、撫でた。


「なんとなく、もう一回、なんだよね」


カイは、その言葉を、飲み込めなかった。飲み込まなくていい、と思った。リーンの「なんとなく」は、根拠を言えない時に使う言葉だから。


   *


カイは、覚悟していた。


リーンが崩れることを。リーンが泣くことを。泣けない体で、涙の代わりに声のない嗚咽を漏らすことを。排水路でガルドを置いてきた、あの時のように。


廃液のことを「不味いという概念を超越している」と笑った少女が、自分の設計図を前に、同じ乾いた目で壊れていくことを。


カイはリーンの方に一歩踏み出した。


リーンを抱きしめるために。


カイの体が動いた。道筋を見る前に。計算する前に。正解を確認する前に。出会ってから何度も繰り返してきた、リーンに対してだけ体が先に動く、あの動き。


だが——。


リーンは、崩れなかった。


リーンが、顔を上げた。


目が乾いていた。いつものように。


そして——リーンは、笑った。


泣かずに。


   *


カイの一歩が止まった。


リーンの笑みは、みんなに見せる方でも、カイだけに見せる方でもなかった。


新しい笑みだった。


壊れた土台の上ではなく、壊れた土台を片付けた後の、更地に立つ者の笑み。


「ねえ、カイ」


「……ああ」


「あたし、ちゃんと『作られた』んだ」


リーンが設計図を指でなぞった。脳の回路図の上を。ゆっくりと。


「じゃあ、ちゃんと『在る』んだね」


カイは、言葉を失った。


リーンが続けた。


「考えてたんだ。地上に出てから、ずっと。あたしが何者かわからないって。記憶がないのは、思い出せないからじゃなくて、最初から入ってないからだって。あたしは、最初から空っぽだったのかもって」


「……」


「でも、違った。あたしは、空っぽじゃなかった。ちゃんと、作られたの。誰かが、設計図を引いて。部品を組んで。プロトコルを書き込んで。『実験体七号』って番号をつけて。それで——あたしを、作った」


リーンの指が、設計図の心臓の位置を撫でた。


「材料があって、形があって、機能がある。それって、ちゃんと、『在る』ってことでしょ」


カイは、動けなかった。


踏み出した一歩が、空中で止まったまま。抱きしめようとした腕が、行き場を失ったまま。


泣きそうなのは、リーンではなかった。


カイの方だった。


「リーン」


「何」


「泣かないのか」


「うん」


「泣けないのか、じゃなくて——泣かないのか」


リーンが、首を傾げた。それから、笑みを深くした。


「うん。今は、泣かない」


「なぜだ」


「悲しくないから」


リーンが、設計図を丁寧に折り畳んだ。


「ずっと怖かった。自分が何者かわからないのが。答えを知るのが。でも、答えを知ってみたら——あたし、怖くなかった」


「……」


「あたしは、作られた。それは事実。でも、作られたあたしが、ここにいる。カイの隣で、『不味い』って顔をして、カイの沈黙を読み分ける。それは、事実と違うの?」


「違わない」


「でしょ。だから、大丈夫」


リーンが、立ち上がった。


「あたし、ちゃんと生きてる、よね?」


小さな声だった。


ほんの少しだけ、揺れていた。


強がりの奥で、まだ怖がっている部分。壊れた土台の更地の上を、裸足で歩き始めた人間の、最初の一歩の揺らぎ。


カイは——。


カイは、踏み出した一歩を、もう一歩に変えた。


リーンの前に立った。


「ああ」


カイが言った。


「お前は、生きてる」


リーンの目が、ほんの少しだけ潤んだ。涙にはならなかった。涙の手前で止まった。


「ありがと、カイ」


「礼を言うな」


「なんで」


「当たり前のことを言っただけだ」


「当たり前のことを当たり前に言うの、カイだけだから」


リーンが笑った。


今度は——カイだけに見せる方の笑い方だった。


   *


カイは、自分の口から出る言葉を、初めて、計算せずに選んだ。


「リーン」


「何」


「お前が何者でも、俺はここにいる」


リーンが、目を見開いた。


「……」


「お前が作られた存在でも。お前の脳にプロトコルが埋め込まれてても。お前の観察力が設計された機能でも。関係ない」


「……」


「お前の笑顔が二種類あることを、俺は知ってる。みんなに見せるやつと、俺の前でだけ見せるやつ。プログラムが二種類の笑顔を使い分けるか。しないだろう」


「……」


「お前がペーストを不味いと言った。設計図にペーストの味覚データは入っていない。お前が自分で感じた味だ。お前が排水路の分岐で『なんとなく』左を選んだ。俺の道筋が霧に消えた場所で、お前だけが道を見つけた。それはプログラムじゃない。お前、自身だ」


カイの声が、少しだけ震えた。道筋を通していない。計算していない。正解かどうかわからない言葉が、口から出ている。


「お前は、お前だ。リーンだ。設計図があろうがなかろうが——お前は、俺が知っている、あの『なんとなく』の少女だ」


リーンが、カイを見ていた。


長い沈黙だった。


カイの沈黙カタログには登録されていない沈黙。


いや——。


登録されていた。


初めての朝日の下、リーンが「おはよう。今日もよろしく」と言った時の沈黙。あの朝の、言葉が収まる前の、世界がすこし温かくなる沈黙。


あれと、同じ沈黙だった。


「カイ」


「何だ」


「あたし——ずっと思ってたんだけどね」


「うん」


「カイって、たまに、ものすごく甘いよね」


「……うるさい」


「自覚あるんだ」


「黙れ」


リーンが、小さく笑った。


   *


どれだけの時間、そこに立っていたのか、わからなかった。


カイは、床に落ちた設計図をもう一度拾って、折り畳んで、ポケットにしまった。


「これは預かる」


「うん」


「帰るぞ。ユーゴさんが待ってる」


リーンが立ち上がった。


歩き出す前に、リーンがカイの袖を、指先で少しだけ摘んだ。


「カイ」


「何だ」


「あたし、ちゃんと生きてる、よね?」


同じ問いを、二度聞いた。


一度目は、自分に確かめる問いだった。


二度目は——カイに約束させる問いだった。


カイは、答えた。


「生きてる。俺が保証する」


「保証って、どうやって」


「俺がお前を隣に置いてる限り、お前は生きてる。俺の道筋が、お前の未来を霧にする限り、お前は生きてる」


「カイの道筋、あたしのこと読めないんだよね」


「そうだ」


「じゃあ、読めない限り、あたしは生きてるの?」


「ああ」


「カイの道筋が、あたしの寿命の保証書?」


「言い方が雑だな」


「カイも大概だよ」


リーンが、また笑った。


二人は、研究室を出た。


廊下でユーゴが待っていた。ユーゴは、二人の顔を見て——小さく、目を細めた。


何かを読み取った顔だった。穏やかな笑みの奥で。


「答えは見つかったかね」


「うん」リーンが答えた。「あたし、作られた人なの」


ユーゴが、少しだけ黙った。それから頷いた。


「そうか」


「でも、大丈夫。あたし、ちゃんと生きてるから」


ユーゴは——。


ユーゴは、答えなかった。


ただ、穏やかな笑みを作って、二人を先導して、通路を歩き始めた。


カイは、その背中を見ていた。


ユーゴの背中に——。


道筋を使わなくても、かすかな違和感があった。言葉にならない違和感。G線上の旋律のような違和感。穏やかな表面の底で、何かが鳴っている。


カイは、今はそれを考えないことにした。


リーンが隣で、赤い実のことを話していた。町に戻ったら、また食べたい、と。あの「あまい」味が、設計図にないことを、自分で確かめたのが嬉しかったのだと。


カイは、少しだけ、笑った。


   *


地上に出た時、夕日が沈みかけていた。


赤い光が、草原を染めていた。


リーンが、地上の空気を、深く吸い込んだ。


「やっぱり、地下より軽いね」


「軽いって、何が」


「空気の重さ」


「……そうか」


「カイ、気づいてた?」


「気づいてた。最初の日から」


「言ってくれればよかったのに」


「言う必要がないと思ってた」


「必要ないことを言うのが、会話なんだよ、カイ」


「それは俺への人生の教訓か」


「うん」


リーンが笑った。


カイも、少しだけ笑った。


   *


その夜。


ユーゴの家の寝室で。


リーンは、ベッドの上で膝を抱えていた。暗い中、月明かりだけが、銀色の髪を照らしていた。


「寝ないのか」カイが隣のベッドから聞いた。


「寝るよ。もうちょっとしたら」


「何してる」


「設計図、見てた」


カイは、跳ね起きそうになった。


「見るな。しまえ」


「大丈夫。怖くないから」


リーンが設計図を畳んで、枕の下に入れた。


「でも、持ってる。忘れないように」


「忘れろ」


「忘れない。忘れたら、また怖くなる。ちゃんと、知ってる状態で、生きる」


カイは、黙った。


リーンの選択だった。カイが口を出す問題ではなかった。


「カイ」


「何だ」


「ありがと」


「何度も言うな」


「今度のは、さっきの研究室のとは違うやつ」


「どう違う」


「さっきのは、カイが言葉をくれたことへの『ありがと』。今度のは——カイがあたしを、あたしのまま、隣に置いてくれてることへの『ありがと』」


カイは、天井を見た。


ユーゴの家の、白い天井。地下の蛍光管とは違う、柔らかい白。


「お前は、お前だ」


もう一度、言った。


リーンが、小さく答えた。


「うん」


やがて、リーンの呼吸が穏やかになった。いつもの、聞こえない呼吸。電源を落とした機械のように静かな。


でも、カイには——今夜の静けさは、前と違って感じられた。


機械の静けさではなく、安心して眠る人間の静けさだった。


カイは、天井を見ながら、長い時間をかけて眠りに落ちた。


   *


遠く——。


町の外れ、ユーゴの書斎で。


ユーゴは一人、机に向かって座っていた。机の上に、古い通信端末が置かれていた。画面が、かすかに光っていた。


ユーゴは、画面を見つめていた。


穏やかな笑みはなかった。


昼間、カイとリーンに見せた表情とは、違う顔があった。


疲れた顔だった。とても疲れた、何十年も疲れ続けている顔だった。


端末の画面に、文字が流れた。


『第七研究室——確認完了』


『計画——順調』


『接続準備——完了』


ユーゴは、その文字を、長い時間、見つめた。


それから、小さく呟いた。


「すまんな」


誰に言ったのか、わからない。


自分にかもしれない。


あるいは、この時間、穏やかな寝息を立てているはずの、少女にかもしれない。


ユーゴは、端末の画面を消した。


暗闇が、書斎を包んだ。


月が雲に隠れ、家中が少しだけ暗くなった。


リーンの呼吸は、変わらなかった。


カイの呼吸も、変わらなかった。


ただ、ユーゴの呼吸だけが、少しだけ、長くなっていた。


   *


[ 今 ]


君の設計図は、俺が持っている。


あの夜、ポケットにしまった一枚の紙を、俺は、今も机の上に置いている。折り目が、何度もの書き換えで、擦り切れている。


俺は、これを書き換えている。


骨格の配置を。神経系統の経路を。脳に走る回路の、一本一本を。


管理者のプロトコルが刻まれていた場所に、君が笑った日付を、書き込んでいる。ジンの519を。ミーラが貸した髪の色を。ガルドの敬礼を。そして、「やっぱりね、もう一回会えた」と呟いた、あの日の声の震え方を。


俺は、君を、作り直している。


設計図は、一度目は、君を「実験体七号」にした。


二度目は——俺が書く。


君を、リーンにするために。


────────────────


この物語は、フルボイス・360°背景のサウンドノベル版でも読めます。

ブラウザだけで、インストール不要・無料です。


▶ https://yuichi916.github.io/seikai.html


オープニング映像(92秒)

▶ https://www.youtube.com/watch?v=AYpOA6ArBCg


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この物語には、フルボイス・360°背景の「サウンドノベル版」があります。

インストール不要・無料。ブラウザを開くだけで、この場面をそのまま遊べます。

https://yuichi916.github.io/seikai.html

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