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第10話「正解のない問い」

五日目の朝。


リーンは、朝食の席で、静かにパンを食べていた。


昨夜のノーグの言葉——「リーンがいない方が、カイの未来は長い」——その言葉を、リーンは聞いていた。聞いた後で、聞かなかったことにしなかった。


朝食の空気が、少しだけ重かった。


ユーゴは普段通りだった。いつもの穏やかな笑み。でもカイは気づいていた。ユーゴの目が、時々リーンに向いていた。観察する目で。そしてすぐに逸らす目で。


何かを、ユーゴは知っている。そしてその何かを、今は言わない選択をしている。


食事が終わりかけた時、リーンが、口を開いた。


「ユーゴさん」


「何だ」


「第七研究室って、ありますか」


カイの手が止まった。


第七。


実験体七号。


リーンの金属片に刻まれていた番号。リーンが来た場所。


「……ある」ユーゴが静かに答えた。「第二層の研究施設の中に。今は、半ば放棄されている」


「そこに行きたい」


リーンがはっきりと言った。


ユーゴが目を細めた。


「なぜ」


「あたしが何者か、知りたいから」


「知ったら、楽になるとは限らないぞ」


「楽になりたいんじゃない。知りたいの」


リーンの声が、震えていなかった。覚悟の声だった。


「あたし、毎晩わからなくなるの。あたしが何なのか。人間なのか。実験体なのか。笑ったり、泣いたり、パンケーキを『うまい』って思ったりするあたしが、ただのプログラムなのか——それを知らないまま、このまま進むのは、もう無理」


カイは黙って聞いていた。


反対の言葉が、口の中にあった。でも言わなかった。リーンの目が、決まっていた。


「リーン——」


ユーゴが言葉を切った。


何かを考えている顔。リーンを試すような、測るような顔。


「危険だ。第二層は、ノーグのテリトリーだ」


「わかってる」


「今、ノーグは君たちに特に関心を持っている。第二層に入れば、必ず接触される」


「それも、わかってる」


「それでも行くのか」


「うん」


ユーゴがカイを見た。


「お前はどう思う、カイ」


カイは深く息を吸った。


道筋を展開したかった。第七研究室に行くべきかどうか。行った場合の未来と、行かない場合の未来を、比較したかった。


使えない。使えば、ノーグに完全に動きを読まれる。


道筋なしで、判断しなければならなかった。


カイはリーンの目を見た。


覚悟の目。決まった目。


第一部で、カイはリーンの「なんとなく」を何度も信じた。排水路の分岐で、リーンが選んだ左の道を走った。理由を聞かずに。


今、リーンが「知りたい」と言っている。


カイが「来るな」と言えば、リーンは引き下がるかもしれない。でも——その後ずっと、リーンはカイの隣で、自分が何者か知らないまま生きることになる。


その道を選ばせるのか、カイが。


「……わかった」カイが答えた。「一緒に行く」


「カイ」


「ただし、条件がある。第七研究室だけだ。他の場所には行かない。見つけたものが何であっても、戻ってくる。ここに。二人で」


「うん」


「約束しろ」


「約束だよ」


リーンが小さく笑った。本物の方の笑い方で。


でも目の奥には、不安が揺れていた。


ユーゴが頷いた。


「俺が手引きしよう。管理者の監視を避けるルートを知っている」


「ユーゴさん、ありがとうございます」


「礼はいい。だが、俺の言うことを守ってくれ。ノーグに見つからない経路を通る。道筋は使うな」


「わかりました」


   *


その日の午後、三人は地下への入口に向かった。


町から東に一時間ほど歩いた場所に、草に覆われた構造物があった。カイとリーンが地上に出た入口とは別の場所だ。


「ここは管理者にも忘れられた入口だ」ユーゴが草を掻き分けた。「昔の通気口だったらしい。今は使われていないが、地下への道は通じている」


金属の蓋を開けると、暗い穴が口を開けた。


地下の匂いが上がってきた。鉄と錆と、微かな廃液の残り香。


リーンの体が強張った。一瞬だけ。すぐに解けた。


カイはリーンの手を握った。


「行こう」


「うん」


三人は地下に降りた。


   *


通路は狭かった。天井が低く、壁が近い。カイとリーンには慣れた環境だ。地下で育った体が覚えている。


「ここは第一層の外縁部だ」ユーゴが説明した。「管理者の監視が薄い区画。ここから第二層への階段に出る」


「監視端末は?」カイが聞いた。


「この通路には設置されていない。だが第二層に入れば——気をつけなくてはならない」


カイは道筋を使いたかった。使えば一秒で安全なルートがわかる。


使えない。ノーグに見つかる。


「リーン。お前の目で見てくれ」


「うん」


リーンが先頭に出た。壁に手を添えながら、通路の先を確認する。


「人の気配はない。空気の流れ——左の通路から来てる。左の方が広い」


「左に行く」ユーゴが言った。


三人は左の通路を進んだ。


第二層に入った。


白い壁。白い床。白い天井。前に来た時と同じだ。清潔で、無機質で、冷たい。


リーンの足が止まった。


「また——この感覚」


「体が覚えているのか」


「うん。前より強い。ここの空気を——あたしの体は知ってる」


リーンの手が震えていた。


カイはリーンの隣を歩いた。肩が触れる距離で。


「第七研究室は——こっちだ」リーンが言った。


「なぜわかる」


「わかる。体が知ってるから」


リーンが通路を進んだ。迷わなかった。


   *


第七研究室の前に着いた。


灰色の扉。表面に「第七研究室」と記されている。電子錠が付いていたが——壊れていた。


ユーゴが扉を押した。


「開いている。放棄されたらしいな」


扉が軋んで開いた。


中は——荒れていた。


棚が倒れている。机の上に書類が散乱している。端末が壁に埋め込まれているが、画面は消えている。椅子がひっくり返っている。


何年も前に、急いで退去した痕跡。


リーンが中に入った。


「ここ——あたし、ここを知ってる」


リーンの声が震えていた。


「ユーゴさん。少し二人にしてもらえますか」カイが言った。


ユーゴが頷いた。


「通路で見張っている。何かあったら声を出せ」


ユーゴが外に出た。


   *


散乱した書類を拾い集めた。


紙が劣化している。文字が薄くなっている。だが読める。


「人工人間計画——第七期研究報告」


カイが声を出して読んだ。


「目的:管理者と人間のインターフェースとなりうる有機体の生成。管理者の制御下において人間社会に適応し、管理者のプロトコルを人間に伝達する能力を持つ存在の創出」


「インターフェース——」リーンが繰り返した。


「管理者と人間の間を繋ぐもの、という意味だ」


「あたし——が?」


カイは次の書類を読んだ。


「実験体七号——生成日:不明。基盤コード:ABYSS-OS v4.7準拠。外見年齢:十五歳固定。特記事項:対人共感能力が想定値を大幅に超過。管理者プロトコルとの同期率は最高値を記録するも、自律行動パターンに予測不能な偏差あり」


リーンが黙っていた。


カイは続けた。


「第七期実験は中断。理由:実験体七号の自律行動が制御範囲を超過。具体的には、管理者の指示にない行動を自発的に行う事例が複数観測された。例:他の実験体への干渉。端末外のデータ収集。そして——管理者に対する『疑問』の表明」


沈黙。


リーンが——口を開いた。


「あたし、疑問を持ったんだ。管理者に。だから——ここに捨てられたの?」


「捨てられた、とは書いていない」


「同じだよ。中断も廃棄も、言い方が違うだけ」


カイは次の書類を探した。机の引き出しの中に、ファイルが一つ残っていた。


「実験体七号——設計図」


ファイルを開いた。


中に入っていたのは、一枚の図面だった。


人体の図面。骨格。筋肉。神経系統。全てが精密に描かれている。そして——脳の部分に、回路図が重ねて描かれていた。


人間の脳に、管理者のプロトコルが埋め込まれている。


リーンの「設計図」。


リーンは——AIに作られた人工人間だった。


カイの手が震えた。書類を持つ手が。


リーンの方を見た。


リーンは設計図を見つめていた。自分の体の設計図。どこに何があるか。何のために作られたか。全てが記されている。


リーンの顔から——色が消えた。


「あたし——」


小さな声だった。


「あたしって、何?」


声が宙に浮いた。


「あたしって、何なの? 人間じゃない。作られたもの。管理者が作って、失敗して、廃棄したもの。パンケーキをうまいって思っても、空を見て泣いても、全部——プログラムが出した反応で、本物の『あたし』なんて、最初からいなかったの?」


リーンが崩れた。


立っていられなくなったのではない。足が動かなくなったのではない。意志が折れたのだ。自分という存在の土台が、足元から崩れ落ちた。


膝が床に着いた。手が床に着いた。設計図が手から滑り落ちた。


「カイ——」


「ああ」


「あたしって、何」


リーンが泣き始めた。


今度は、声を出して。


地上の朝日の下で、初めて涙を流した時と違う。あの時は静かに泣いた。今度は——叫びながら泣いた。


「あたしは、何なの!」


「あたしは何! あたしは何! あたしは、何なの!」


リーンの声が、第七研究室の壁にぶつかった。


反響して、戻ってきた。


「あたしはなに」


「あたしはなに」


「あたしはなに」


リーンが両手で顔を覆った。指の間から、涙が零れて、床に落ちた。


地下の床を、リーンの涙が濡らしていた。


声が、嗚咽に変わっていった。「うっ」「うぁっ」「うぁぁ」と、言葉にならない音が、喉から絞り出された。


号泣だった。


初めて見たあの空の下で、静かに泣いた涙とは、質が違った。


あの涙は、初めて流す涙の不思議さだった。


今のこの涙は——自分の根源が崩れ落ちる涙だった。


壊れた土台の下から掘り出されるような涙だった。


カイの体が動いた。


道筋を確認する前に。正解を計算する前に。全てのプロセスを飛ばして。


体が——動いた。


リーンに対してだけ、カイの体はそう動く。何度も、何度も、そう動いてきた。排水路で。昇降機で。公園で、転んだ子供の前にしゃがんだ時。


今もそうだった。


カイはリーンを抱きしめた。


床に崩れたリーンの体を、両腕で包んだ。


リーンの体が、震えていた。


いつも冷たいリーンの体が、今は熱かった。泣きすぎて、熱を持っていた。


「お前は、お前だ」


カイの声が出ていた。


震えていた。


「お前は、リーンだ。それ以上でも、それ以下でもない」


「でも——設計図に——」


「設計図があろうがなかろうが、関係ない。お前は、あの配管の裏で俺と出会った、リーンだ」


「でも、記憶が——」


「記憶がないお前が、俺に『カイ』って名前をつけた。母さんだけが知っていた名前を。道筋でも説明できない偶然で。その偶然が、お前だ」


リーンの震えが、少しだけ、小さくなった。


「お前のなんとなくは、設計図には書かれていない。お前がパンケーキをうまいって思うのは、プログラムじゃない。お前が空を見て泣いたのは、配給された感情じゃない。お前は——」


カイは言葉を探した。


道筋なしで。計算を通さないで。自分の頭だけで。


「お前は、お前を超えた。設計図を超えた存在だ」


リーンが顔を上げた。


涙でぐちゃぐちゃの顔で。


「超えた——」


「ああ。設計図にない動きを、お前はしてきた。管理者のプロトコルにない選択を、お前はしてきた。お前は——もう、設計図の外にいる」


「でも——でも——」


「でも、じゃない。そうなんだ」


カイの腕に、力がこもった。


リーンの体を、離さないように。


「お前を作ったのは管理者かもしれない。でも、お前を『お前』にしたのは——お前自身だ。記憶がない中で、毎日選んできた小さな選択の積み重ねが、お前を『お前』にした」


リーンが、カイの服を掴んだ。


強く。離さないように。


「カイ——」


「ああ」


「あたし、カイの隣にいていいの?」


「いい」


「管理者のシステムと繋がってるあたしが、カイの隣にいても、迷惑じゃないの?」


「迷惑じゃない」


「カイの未来が——短くなっても?」


カイの体が、一瞬だけ固まった。


ノーグの言葉。「リーンがいない方が、君の未来は長い」。


あの言葉を、リーンは覚えていた。


「短くなっても」カイが答えた。「お前がいない未来は、俺にとって『未来』じゃない」


リーンの涙が、また溢れた。


今度は、静かに。


号泣ではなく、ただ涙だけが零れていった。


「カイ」


「何だ」


「ありがと」


前にも聞いた言葉だった。でも今の「ありがと」は、前のどれとも違った。


壊れた土台の下から掘り出したような声だった。


声が、かすれていた。涙で濡れていた。それでも、かろうじて言葉になった「ありがと」。


カイは答えなかった。


ただ、腕に力を込めた。


リーンの体を、もう少しだけ、強く抱きしめた。


   *


どれだけの時間が経ったかわからない。


リーンが落ち着いた。


カイの腕の中で、呼吸が整っていった。いつもの、呼吸が聞こえないほどの静けさが戻ってきた。


カイはゆっくりとリーンを離した。


リーンの顔を見た。


目が赤い。頬が濡れている。でも——目の奥に、何かが変わっていた。壊れたものと、壊れた場所に生まれた新しいものが、混在していた。


「カイ」


「ああ」


「あたし、ありがとって、何回も言うね」


「数えてない」


「約束は数えるものじゃなくて、守るもの——って、前にあたしが言った」


「覚えてる」


「ありがとも、数えるものじゃなくて、言うたびに、新しく生まれるやつかもね」


「……そうかもな」


リーンが小さく笑った。


本物の方の笑い方で。泣いた直後の顔で。


カイは、床に落ちた設計図を拾って、折り畳んで、ポケットにしまった。


「これは預かる」


「うん」


「帰るぞ。ユーゴさんが待ってる」


リーンが立ち上がろうとした。足がもつれた。


カイが手を差し伸べた。


リーンがその手を取った。


冷たい手だった。いつもより、少しだけ冷たい手。


でも、掴む力は強かった。


   *


帰り道。


通路を歩きながら、カイは道筋を一瞬だけ展開した。


最小限の展開。ノーグに読まれるリスクを承知で。リーンの未来を、確認するためだけに。


金色の線が現れた。


リーンの道筋。


空白が広がっていた。第一部で見た空白よりも、さらに大きい。


リーンの未来が、白い霧に覆われている。見えない。読めない。


道筋を消した。


リーンの未来は、道筋には映らない。ノーグにも読めないはずだ。リーンの空白は、カイの武器だ。リーンは正解の外側にいる——ノーグが最も読みにくい場所に。


カイは自分に言い聞かせた。


リーンは、俺と一緒にいられる。


道筋が「いない方が長い」と言っても。ノーグが「壊せる」と言っても。


俺の体が先に動く場所に、リーンはいる。


「カイ?」


「何でもない。行くぞ」


カイは前を向いた。


リーンの手を握ったまま、暗い通路を歩いた。


   *


地上に出た。


夕日が沈みかけていた。赤い光が草原を染めている。


ユーゴが二人を見た。何も聞かなかった。カイの表情と、リーンの表情で、全てを察したのだろう。


三人は無言で町に戻った。


町の通りを歩いた。


リーンは、いつもと違った。でも——歩き方は、しっかりしていた。


通行人とすれ違う時、リーンが小さな声で言った。


「こんばんは」


白い服の男が、リーンを見た。


一瞬、目の奥が揺れた。


「……こんばんは」


男が返した。


普段なら、感情のない挨拶が返ってくるはずだった。でも、男の「こんばんは」には——微かに、温かさが含まれていた。


男はそのまま歩き去った。数歩歩いた後で、振り返って、リーンの背中を見た。小さく、微笑んだ。一瞬だけ。


カイは気づいた。


リーンは、泣いた後で、むしろ——強くなっていた。


自分が何者か知った。それでもなお、人に「こんばんは」と挨拶できる。その挨拶には、設計図に書かれていない温かさが含まれている。


リーンは、設計図を超えた。


カイが抱きしめて言った言葉を、リーンは今、実践していた。


   *


ユーゴの家に戻った。食事の準備をしている間も、会話は少なかった。


リーンはテーブルの前に座って、赤い実を一つ手に取った。


噛んだ。


「あまい」


小さな声だった。


「あたしが甘いって感じるのも——プログラムじゃないよね、きっと」


「違う」カイが即座に言った。


「味覚がプログラムなら、ペーストの不味さも感じないはずだ。お前はペーストを不味いと言った。設計図にペーストの味覚データは入っていない。お前が自分で感じた味だ」


リーンが赤い実を見つめた。


「……そうだね」


リーンが小さく笑った。


本物の方の笑い方だった。弱っていても、本物の笑い方を、リーンは取り戻しかけていた。


   *


夜。


リーンは起きていた。ベッドの上で膝を抱えて、暗闇を見つめていた。


カイもベッドの上で起きていた。


「寝ないのか」


「寝れないの。目を閉じたら——設計図が見えるから」


「……ああ」


「カイは?」


「眠れない。お前が起きてるから」


「じゃあ二人とも起きてるね」


沈黙が流れた。


「ねえカイ」


「何だ」


「あたし、明日から、どうやって生きればいい?」


「いつも通り、生きればいい」


「いつも通り」


「ああ。パンケーキをうまいと思って、空を見て泣いて、人に『おはよう』と言って。お前がしてきたことを、続ければいい」


「それでいいの?」


「いい。それが——お前を、お前にする」


リーンが黙った。


しばらく黙った。


それから、小さな声で言った。


「ありがと、カイ」


壊れた土台の下から、かろうじて掘り出された声だった。


「ありがと」


もう一度、リーンが言った。


今度の「ありがと」は、さっきより少しだけ、強かった。


土台が、少しずつ——戻り始めていた。壊れたままではなく、何か新しいものに、組み替えられ始めていた。


カイは何も言わなかった。


ただ、暗闇の中で——隣にいた。


   *


ベッドの上、しばらくの沈黙の後。


リーンが、暗闇に向かって、ぽつりと言った。


「カイ」


「何だ」


「あたしの『なんとなく』——あれ、記憶なの」


カイは起き上がった。


「記憶?」


「うん」


「過去の、記憶か?」


暗闇の中で、リーンが首を横に振った気配がした。ベッドが、小さく軋んだ。


「違う」


「……違う?」


「明日の記憶」


カイは言葉を失った。


「あたし『なんとなく』で、色々、当ててきたでしょ。地下の排水路で、左の道を選んだのも。ジンに『ありがとう』って言ったのも。パンケーキの味を、初めて食べるのに懐かしいって思ったのも。ミーラに会う前に泣いたのも。ノーグが『見つけた』って書くって、知ってたのも」


カイの背中が、冷たくなった。


全て、思い当たった。


リーンの「なんとなく」は、毎回、結果として正しかった。偶然にしては多すぎた。


でもカイはそれを、リーンの観察力か、運か、人工人間としての特殊な直感だと、そう処理してきた。


リーンは、今、別の説明を差し出していた。


「明日の記憶、って——どういう意味だ」


「分かんない。でも、あたし、時々、これから起きることを、思い出してるの。先に、思い出してる。思い出すから、『なんとなく』で動ける」


「いや、待て。思い出すっていうのは——過去のことだろう。明日は、まだ起きていない」


「うん。普通はね」


リーンが、静かに言った。


「でも、あたしは逆なの。明日のことを、思い出しちゃうの。そして、思い出したぶんだけ、明日のあたしからは、その記憶が減っていくみたい」


「減っていく……?」


「今日『あ、これ懐かしい』って思ったら、明日のあたしは、その『懐かしい』を、もう一回味わえないの。今日使ったから」


カイは、混乱した。


理解できない、というより、理解したくない類の話だった。


「……そんな訳ないだろう」


「うん。そんな訳ない。でも、そうなの」


リーンの声は、自分でも信じきれていない声だった。でも、誤魔化しではなかった。


「カイ、信じられない?」


カイは、答えられなかった。


信じる、と即答したら、嘘になる。道筋で確認したいくらいだった。でも、道筋で「他人の時間の向き」を測る線は、今のところ引いたことがない。


信じられない、と答えたくもなかった。リーンが、設計図を前にして崩れたばかりの今、この子が差し出した説明を、カイが突き返すわけにはいかなかった。


だからカイは、違う答え方を選んだ。


「……分からない。信じきれない。でも——」


「でも?」


「お前が『なんとなく』で当ててきたのは、全部本当だ。俺はそれを見た。お前が、嘘を作る子じゃないのも、知ってる」


暗闇の中で、リーンの息が、少しだけ深くなった。


「だから、信じる、とは今言えない。けど、お前が言ったことを、今、聞いた。ここに置く。忘れない。それだけは、約束する」


「……うん」


リーンが小さく答えた。


「それでいいの、カイ」


「いいのか」


「うん。今、信じてもらえなくても、いい。ただ、忘れないでいてくれれば」


リーンが、少し黙った。


それから、付け足した。


「あたしが、明日を、一日ずつ忘れていっても」


カイは、その一文が、喉の奥に刺さった。


意味が、ちゃんとは分からなかった。でも、何か、取り返しのつかない言葉を、今、リーンが言ったのは、分かった。


「リーン——」


「ごめん、今のは忘れて」


「忘れない。お前が忘れないでくれって言ったんだ」


リーンが、暗闇の中で、笑ったような気配がした。


「そうだね。忘れないで」


沈黙が流れた。


カイは、何度も、口を開いて、閉じた。聞きたいことが、いくつもあった。一日ずつ忘れる、とはどういうことか。いつから始まっているのか。いつまで続くのか。


全部、聞けなかった。


聞けば、リーンが答えを持っていないことを、確かめてしまう気がした。そして、答えを持っていると確かめてしまっても、それはそれで、怖かった。


「カイ」


「ああ」


「明日になっても、あたしのこと、カイは覚えててくれる?」


「当然だ」


「じゃあ、いい」


リーンが、静かに息を吐いた。


「あたしのなんとなくが記憶なら、カイのおぼえてるは、未来への贈り物だよ」


   *


深夜。


カイがようやく眠りかけた時。


視界に、また文字が浮かんだ。


「リ」「ー」「ン」「は」


「泣」「い」「た」「か」


「い」「い」「傾」「向」「だ」


「次」「は」


「君」「の」「番」「だ」


「カ」「イ」


カイは目を見開いた。


ノーグが——まだ、観察していた。


カイの番。


何を、されるのか。


カイは拳を握った。爪が掌に食い込んだ。血が滲んだ。リーンに怒られる。でも今は、止められなかった。


ノーグの次の手は、カイ自身を狙ってくる。


リーンを守るためには、カイが——


カイは答えを持っていなかった。


でも、一つだけ、わかっていることがあった。


道筋の外側で。


リーンの隣で。


何が起きても、手を離さないこと。


それだけが、カイが決めた唯一の正解だった。


正解の外側にある、たった一つの正解。


   *


少年はまだ知らない。


ノーグの「次の手」が何であるかを。


そして、この町の外で、もう一つの計画が動き始めていることを。


ユーゴは、夜、窓の外で、端末を握っていた。穏やかな笑みが消えた顔で。


ユーゴが小さく呟いた。


「……すまない」


誰に言ったのか。


画面の向こうの相手か。


それとも——自分自身に。


夜が明ける。


朝が来る。


だが、明日の朝が、昨日と同じ朝であるという保証は、もうどこにもない。


   *


[ 今 ]


君の「なんとなく」の意味を、

俺はあの時、理解できていなかった。


「明日の記憶」と君は言った。

俺は「信じきれないけど、忘れない」と答えた。

我ながら、中途半端な答えだった。

信じるか、信じないか、どちらかに振るべきだった。

今ならそう思う。


でも、あの夜の俺は、信じることも、突き返すことも、できなかった。

だから、中途半端に、「ここに置く」と言った。

それが、唯一、俺がしてやれたことだった。


君は笑って、「カイのおぼえてるは、未来への贈り物だよ」と言った。

——なら、今の俺の覚えていることは、全部、君への贈り物だ。

受け取ってくれ。明日、先に、思い出していてくれ。


────────────────


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▶ https://yuichi916.github.io/seikai.html


オープニング映像(92秒)

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──────────

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