手袋
さらに上の浮島へ行ってみよう。
そう決めた俺たちは翌朝、町の中心部にある昇降場へ向かった。
この浮島まで上がってきた時にも使った巨大な昇降籠が、何本もの太い縄に吊り下げられている。ただ、さらに上層へ向かうための乗り場は別になっており、そこに並んでいる籠は一回り小さかった。
どうやら上へ行くほど、人や荷物の行き来も少なくなるらしい。
俺たちが料金を払おうとすると、受付にいた男がこちらを見て手を止めた。
「お前たち、上へ行ったことは?」
「ないです」
「どこまで行くつもりだ?」
俺は頭上を見上げた。
ここからでも、さらに高いところにいくつかの浮島が見えている。その中でも一際高い場所にある島が、俺たちの目的地だった。
「あの一番上の島まで」
そう答えると、男は露骨に嫌そうな顔をした。
「なら、いきなり行くのはやめとけ」
「駄目なんですか?」
「駄目とは言わん。ただ、途中の島で何日か身体を慣らしてから行け。慣れてない奴が一気に上がると、頭が割れるみたいに痛くなったり、吐いたりする。酷い奴は立てなくなるぞ」
「高いところに行くだけなのに?」
ラディが不思議そうに首を傾げた。
係員は肩をすくめる。
「俺に聞かれても知らん。そういうもんなんだよ」
その話を聞いて、俺には一つ思い当たるものがあった。
――高山病か。
前世で詳しく勉強したわけではない。それでも、高い山へ急に登ると空気が薄くなり、頭痛や吐き気などの症状が出る。その程度の知識なら残っている。
どうやら、この世界でも同じことが起こるらしい。
「分かりました。途中で何日か泊まります」
「そうしろ。若いからって無茶するなよ」
こうして俺たちは最上層へ直接向かわず、その途中にある浮島で何日か身体を慣らすことになった。
そこは今まで滞在していた島よりずっと小さく、町と呼べるほどのものもなかった。昇降場の周囲に宿屋や食堂、雑貨屋が集まり、少し離れたところに家々が点在している程度だった。
ただ、到着して最初に感じたのは町の小ささではない。
「……寒いな」
風が冷たい。
下の浮島でも地上より涼しかったが、ここではさらに気温が低かった。風が吹くたびに外套の隙間から冷気が入り込み、身体の熱を奪っていく。
そして、もう一つ。
少し歩いただけなのに、妙に息が切れた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「なんか、疲れない?」
「やっぱりお前もか」
普段なら何でもない坂道を少し上っただけなのに、ラディは僅かに肩で息をしている。俺も似たようなもので、身体が妙に重かった。
係員の言っていたことは本当らしい。
その日は無理に歩き回らず、早めに宿へ入ることにした。
そして夜。
寝床へ入ってしばらくしたところで、隣からラディの声が聞こえてきた。
「兄ちゃん」
「どうした?」
「ちょっと頭痛い」
俺はすぐに身体を起こした。
「どんな感じだ?」
「ずきずきする。そんなに酷くないけど」
額へ手を当ててみたが、熱はなさそうだった。
「たぶん高さのせいだ。水飲めよ」
水差しから木杯へ水を注いで渡す。
「大丈夫か?」
「うん」
ラディは身体を起こして水を飲んだ。
「明日は上に行くのやめよう」
「でも」
「最上層は逃げないって。身体を慣らしてからでいい」
ラディは少しだけ不満そうな顔をしたものの、やがて素直に頷いた。
「……うん」
俺自身も普段より少し息苦しく、頭が重かった。
ここまで来て焦って倒れては馬鹿らしい。
だから翌日も上へは向かわず、この島で過ごすことにした。
もっとも、そのおかげで面白いものを見ることができた。
島を散歩していると、町外れに広い牧草地があった。強い風に晒されているせいなのか草丈は低く、その中に柵で囲われた牧場が広がっている。
そして牧場を見たラディが、突然足を止めた。
「兄ちゃん」
「なんだ?」
「あれ」
ラディが指差す。
羊がいた。
それ自体は珍しくない。
ただ、その羊たちは明らかに俺たちが知っているものとは違っていた。
「……赤いな」
「赤いよね?」
「ああ。赤い」
数十頭の羊が牧草を食べているのだが、その毛は鮮やかな赤褐色だった。染めているわけではない。一頭だけでもない。見渡す限り、全部が赤い。
普通の羊より少し小柄で、身体はずんぐりしている。脚は短いが太く、蹄も地上で見る羊より大きい。時折かなり強い風が吹きつけても、羊たちはまるで気にした様子もなく草を食べ続けていた。
「兄ちゃん、羊が赤い」
「見れば分かる」
「なんで赤いの?」
「俺に聞くなよ」
近くにいた牧場の男が、そのやり取りを聞いて笑った。
「赤羊を見るのは初めてか?」
「はい」
「この辺りじゃ珍しくもないんだがな。もっと下じゃ暑すぎて育たん。こいつらは寒いところが好きなんだ」
男に許可をもらって柵の中へ入ると、ラディは早速一頭へ近づいていった。
赤羊は人に慣れているらしく逃げない。
ラディが背中を撫でた途端、驚いたような声を上げた。
「うわっ」
「どうした?」
「兄ちゃん、触ってみて」
俺も手を伸ばして背中を撫でてみた。
なるほど。
見た目はかなり毛深いのに、触ってみると驚くほど柔らかい。しかも毛そのものが普通の羊毛より遥かに軽かった。
「これ、暖かいな」
「だろ?」
牧場主が得意そうに笑った。
「赤羊の毛は軽いし暖かい。風も通しにくいから、上へ行く連中には人気だぞ」
その言葉を聞いて、俺たちは顔を見合わせた。
結局、牧場に併設された店で赤羊毛の手袋を二組買うことになった。
ただし。
「……高っ」
値段を聞いた瞬間、思わず声が出た。
「でも兄ちゃん、暖かいよ」
ラディはもう手袋をはめている。
「それはそうだけど」
俺もはめてみた。
厚みの割に軽く、指も動かしやすい。それでいて、さっきまで指先を冷やしていた風をほとんど感じなくなった。
「……確かに」
「でしょ?」
「まあ、これからもっと寒くなるなら必要か」
そう自分へ言い聞かせながら金を払った。
それから数日、俺たちは島を散策したり、赤羊の牧場を見物したりしながら身体を慣らしていった。
最初の二日ほどは坂道を歩くだけでも息切れしたが、次第にそれも軽くなった。ラディの頭痛も翌朝にはほとんど消え、それ以降は症状が出なかった。
そして五日目。
昇降場の係員に身体の具合を話すと、ようやく頷いてくれた。
「それなら、もういいだろう。ただし上で頭が痛くなったら我慢するなよ」
「分かりました」
ようやく最上層へ行ける。
俺たちは浮石を組み込んだ昇降籠へ乗り込んだ。
今回の籠は、これまでのものとは少し違う。大量の浮石が籠の上部へ組み込まれており、それ自体が上へ引っ張られる力を持っているらしい。その力を縄と滑車で調整することで、遥か上空まで人や荷物を運ぶのだという。
やがて鐘が鳴り、籠がゆっくりと浮き上がった。
「おお……」
ラディが柵へ近づく。
「端から身を乗り出すなよ」
「分かってるよ」
「この前もそう言ってたからな」
「今日はしないって」
本当かよ。
昇降籠はどんどん高度を上げていった。
下の島がみるみる小さくなり、やがて俺たちは雲の中へ入った。視界が真っ白になり、冷たい水滴が顔や外套へまとわりつく。
しばらく何も見えない状態が続いた。
そして――。
突然、視界が開けた。
雲を抜けたのだ。
「……うわあ」
ラディが声を漏らした。
俺も言葉を失った。
頭上には、今まで見たことがないほど濃い青空が広がっている。
そして眼下には、果てしなく続く白い雲海。
雲はもう頭上にはなかった。
すべてが俺たちの下にある。
その雲海のところどころから、中層の浮島が山のように突き出していた。
「兄ちゃん、あそこ」
「ん?」
「あれ、さっきまでいた島じゃない?」
「……たぶんな」
もうずいぶん小さくなっている。
その光景に見入っていると、急に強い風が籠の中へ吹き込んできた。
「寒っ!」
ラディが身体を縮める。
「だから手袋買ったんだろ」
「買ってよかった……」
「俺もそう思う」
あの値段を聞いた時は少し後悔したが、今はむしろ安いくらいに思えた。
さらに上昇を続け、やがて最上層の浮島が近づいてきた。
島の下面から垂れ下がる巨大な岩盤が頭上を覆う。
その縁を越えた。
そして俺たちは、この浮島群で最も高い島へ降り立った。
最上層の島には、意外にも立派な町があった。
人口そのものは多くない。それでも石造りの家々が並び、宿も食堂も市場もある。
特徴的なのは建物の形だった。
強風対策なのだろう。どの家も屋根が低く、上には石がいくつも積まれている。道沿いには風除けの石壁が築かれ、木々も地上で見るものよりずっと背が低かった。
そして島の中央近く。
町よりさらに高い丘の上に、巨大な石造りの塔が建っていた。
「あれ何?」
「星見台だってさ」
宿の主人に聞いたところ、この島では昔から星の動きを観察しており、暦を作ったり、季節の移り変わりを予測したりしているらしい。
せっかく最上層まで来たのだから、見ておきたい。
その日の夜、俺たちは丘を登って星見台へ向かった。
入口にいた男へ見学したいと伝え、石造りの螺旋階段を登っていく。
そして最上階へ出た瞬間。
俺は足を止めた。
「……すごいな」
星だった。
空一面が星で埋め尽くされていた。
大きな星もあれば、目を凝らさなければ見えないほど小さな星もある。白く輝くもの、僅かに青みがかったもの、赤みを帯びたもの。その無数の星々の間を、淡い光の帯が空の端から端まで横切っていた。
前世でも星空は見たことがある。
けれど俺が暮らしていたのは町だった。夜になっても街灯や家々の明かりがあり、こんなにも多くの星を見た記憶はない。
「兄ちゃん」
隣でラディも呆然と空を見上げていた。
「星って、こんなにあったんだ」
「……俺も知らなかったよ」
「兄ちゃんでも?」
「ああ」
なぜかラディが少し嬉しそうに笑った。
どういう意味だ。
俺も笑っていると、近くから声がした。
「見学か?」
振り返ると、一人の老人が立っていた。
分厚い外套を着込み、頭には毛皮の帽子を被っている。立派な白髭を生やしているが、背筋は意外なほど伸びていた。
「はい」
「なら、そこは気をつけろ。今から動かす」
老人が指差した先には、巨大な器具が置かれていた。
円形の台座の上に、いくつもの金属製の輪が組み合わされている。それぞれの輪には細かな目盛りが刻まれ、中央からは長い棒が伸びていた。
望遠鏡……ではなさそうだ。
俺が眺めていることに気づいた老人が言った。
「星の高さを測る道具だ」
「星の高さ?」
「ああ。地平からどれだけ上にあるかを測る」
老人はそう言いながら器具の一部を動かそうとした。
だが。
「……む」
ぎぎ、と鈍い音を立てただけで、途中で止まった。
「またか」
老人が顔をしかめる。
「どうしたんですか?」
「こいつを回すための縄が引っ掛かってるらしい。下で直さにゃならん」
面倒そうに呟いたあと、老人が俺たちを見る。
「お前たち、暇か?」
「まあ……」
「なら手伝え」
ずいぶん遠慮のない爺さんだ。
だが、特に急ぐ用事もない。
俺とラディは顔を見合わせた。
「いいですよ」
「よし。そっちの坊主は俺と来い。兄貴の方はここに残れ」
「僕?」
「ああ。若い方が階段を何度も上り下りするのに向いてる」
「俺も十分若いんだけどな……」
老人は聞いていなかった。
こうして俺たちは、なぜか星見台の仕事を手伝うことになった。
最初は故障した器具を直すだけだと思っていた。
ところが縄の引っ掛かりが直ったあとも、老人は当然のように俺たちを使い始めた。
「そこの板を持ってこい」
「これ?」
「違う。その隣だ」
「こっち?」
「それだ」
「兄ちゃん、これ重い」
「持つよ」
「二人で運べ」
人使いが荒い。
観測器具を運び、記録用の板を並べ、風で消えないよう油灯の位置を調整する。
そして観測が始まると、さらに忙しくなった。
老人が器具を覗き込む。
「三十一と四分の二」
俺が記録板へ数字を書き込む。
「三十一と……四分の二」
「次。二十八と四分の三」
「はい」
「ラディ、そこの輪を右へ回せ」
「これ?」
「そうだ。ゆっくりだぞ」
「これくらい?」
「行きすぎだ! 戻せ!」
「ええ?」
「だからゆっくりと言っただろう!」
「これくらい?」
「今度は戻しすぎだ!」
俺は思わず吹き出した。
「笑わないでよ、兄ちゃん」
「悪い悪い」
「お前も笑ってないで記録しろ」
「はい」
しばらくすると、ラディもだんだん操作に慣れてきた。
老人が数字を言う前に次の器具を準備し、指示された目盛りへ輪を合わせる。
「二十八と四分の三!」
「違う。四分の一だ」
「え?」
「目盛りを逆から読むな」
「……難しい」
「最初はそんなもんだ」
口ではぶっきらぼうだが、老人も少し楽しそうだった。
やがてラディが尋ねる。
「これは何を調べてるの?」
「星が昨日と比べてどれだけ動いたかだ」
「星って動くの?」
「動く」
老人は即答した。
ラディが空を見上げる。
「全然動いてないよ?」
「一晩見ていれば分かる」
「一晩?」
「嫌なら帰れ」
「見る!」
即答だった。
俺はまた笑ってしまった。
結局、俺たちはかなり遅い時間まで老人の観測を手伝った。
その途中、老人がふと俺たちへ尋ねた。
「お前たち、旅人か?」
「はい」
「どこへ行く」
「決めてません」
老人が器具から顔を離した。
「決めてない?」
「海を見たくて旅を始めたんです。それで海へ行ったら浮島の話を聞いて、今度はここへ来ました」
「それで次は?」
「まだ決めてません」
老人がしばらく俺たちを見たあと、声を上げて笑った。
「変な旅だな」
「俺もそう思います」
「なら、これは覚えておけ」
老人が夜空を指差した。
「旅を続けるなら役に立つ」
俺とラディがその指先を見る。
だが、そこには無数の星がある。
どれを指しているのか分からない。
「どれですか?」
「まず、あそこに明るい星が四つあるだろう」
老人に教えられながら目を凝らす。
しばらくして、ようやく見つけた。
四つの星が、歪んだ四角形を作っている。
「見えた」
「僕も」
「その四つを杯に見立てろ。端の二つを結んで、そのまま五つ分ほど先へ伸ばす」
俺は指で空をなぞった。
二つの星を結ぶ。
その先。
一際明るい星がある。
「……あれか?」
「そうだ」
老人が頷いた。
「あれを旅人星と呼ぶ。一年を通して、ほとんど北から動かん。あれを見つけられれば、夜でも北が分かる」
「旅人星……」
ラディが何度もその名前を口にする。
「じゃあ、道に迷っても帰れる?」
「星が見えていればな」
「すごい!」
ラディは早速、自分でも探し始めた。
四つの星を見つけ、端の二つを結び、その先へ視線を伸ばす。
「……あれ」
「そうだ」
「もう一回やっていい?」
「好きにしろ」
ラディは一度まったく違う方向を向いてから、もう一度最初から星を探し始めた。
俺も覚えておく。
これは確かに役に立つ。
今まで方角を知る時は太陽や地形を頼りにしていた。夜になれば、大まかな星の動きから判断する程度だった。
だが、確実に北を示す星を知っていれば、旅はずいぶん楽になる。
「他にもあるんですか?」
俺が尋ねると、老人は少し笑った。
「あるとも」
今度は別の星々を指差した。
季節ごとに現れる星。
星の位置から夜のおおよその時刻を知る方法。
ある星の高さから、自分が南北のどの辺りにいるのかを大まかに判断する方法。
そして船乗りたちが、陸の見えない海の上で方角を失わないために使う星。
話を聞いているうちに、それまで単なる美しい星空だったものが、少しずつ違って見えてきた。
ただ綺麗なだけではない。
空そのものが、巨大な地図なのだ。
「面白いな……」
思わず呟いた。
老人が笑う。
「だろう?」
気づけば夜もかなり更けていた。
観測を終え、俺たちは老人と一緒に器具へ布を掛けていく。
「今日は助かった」
「俺たちも面白かったです」
「また明日も来るか?」
ラディが即座に答えた。
「来る!」
「おい」
俺の予定は聞かないのか。
だが、俺も嫌ではなかった。
結局、最上層に滞在している間、俺たちは何度か星見台へ通うことになった。
器具を運び、目盛りを読み、記録を取る。
三日目にもなるとラディもすっかり仕事を覚え、老人に言われる前に次の器具を準備するようになっていた。
俺も観測記録の付け方を覚えた。
そして観測が一段落すれば、老人は旅人に役立つ星の知識を教えてくれた。
ラディはそのたびに一生懸命覚えていた。
海を見たいと言うことさえ遠慮していた弟が、今では自分から知らないことを知ろうとしている。
その姿を見るのが、俺には少し嬉しかった。
別の日には、この島で最も神聖な場所だという大神殿を訪れた。
町から石畳の道を歩き、さらに高い場所へ登る。
やがて巨大な建物が見えてきたのだが、近づいてみて驚いた。
「……壁がない」
神殿には、ほとんど壁がなかった。
何十本もの巨大な石柱が屋根を支えているだけで、四方は外へ開かれている。当然、冷たい風が絶えず内部を吹き抜けていた。
その石柱と石柱の間には、無数の金属片や大小様々な鈴が吊り下げられている。
風が吹く。
――リン。
――チリン。
――カラン。
風向きが変わるたびに、あちらこちらから違う音が響く。強い風が吹けば何十もの鈴が一斉に鳴るのだが、不思議とうるさいとは感じなかった。
むしろ、風そのものが巨大な楽器を奏でているようだった。
神官に話を聞くと、この土地では風を神々の息吹と考えているらしい。
「それで、御神体はどこに?」
俺が尋ねると、神官は神殿の奥を指した。
しかし何もない。
祭壇らしき場所はあるが、像もなければ鏡も石もなかった。
「空です」
「空?」
「はい。この空そのものが、我らの御神体なのです」
ラディがぽかんと空を見上げた。
俺もつられて顔を上げる。
屋根の中央には大きな穴が開いており、そこから真っ青な空が見えていた。
なるほど。
これはこれで、この土地らしい。
俺たちはそこで旅の安全を祈り、神殿をあとにした。
その帰りだった。
神殿の裏手に人々が集まっているのが見えた。
何事かと思って立ち止まると、神官が静かな声で祈りを唱え、その前には白い布で包まれた遺体が横たえられていた。
「……葬式かな」
ラディが小さな声で言った。
「ああ、たぶんな」
俺たちは邪魔にならないよう、少し離れた場所から見守ることにした。
やがて祈りが終わると、遺族らしい人々が遺体を担ぎ、神殿のさらに奥へ向かって歩き始めた。
辿り着いた先は、島の端に近い広い岩場だった。
そこには石で囲まれた円形の場所がいくつもあり、その周囲には奇妙なほど大きな鳥が何羽も留まっていた。
黒褐色の羽に、禿げ上がった頭。そして鋭く曲がった嘴。翼を広げれば人間の身長を軽く超えそうな大きさだ。
「兄ちゃん、あの鳥……」
「たぶん、この葬式に使うんだろ」
ラディの表情が少し強張った。
遺体は石囲いの中央へ置かれ、白い布が取り払われた。
神官が両手を広げ、短い祈りを唱える。
その言葉が終わると、岩場の周囲にいた大鳥たちが動き始めた。
最初は数羽。
やがて十羽近くが遺体を取り囲み、嘴を伸ばし始める。
ラディは黙っていた。
俺も何も言わなかった。
鳥たちは肉を啄み、少しずつ遺体を食べていく。
決して綺麗な光景ではない。初めて見る俺たちにはかなり生々しかったが、それでも遺族たちは誰一人として目を背けなかった。
泣いている者もいた。
祈りを捧げている者もいた。
けれど、誰も鳥を追い払おうとはしない。
この土地では、これが死者を送るための正式な儀式なのだろう。
かなり長い時間が経った。
やがて大鳥たちは一羽ずつ飛び去っていき、最後にはほとんど骨だけが残された。
すると神官たちが静かに近づき、残された骨を一本ずつ拾い上げていった。水で清めた頭蓋や手足の骨、肋骨などを白い布の上へ丁寧に並べ、それから決められた順番で木箱へ納めていく。
「食べられたら終わりじゃないんだね」
ラディが小声で言った。
「ああ」
最後に、その箱を遺族が受け取った。
今度は岩場から少し離れた場所にある墓地へ向かう。
そこには背の低い石造りの墓がいくつも並んでいた。地上の墓地とは違い、土へ深く埋めるのではなく、石を積み上げて作った小さな納骨室のようなものだった。
神官が墓の蓋を開ける。
遺族が骨の入った箱を中へ納め、石板を閉じる。
最後に全員が墓の前で頭を下げた。
風が吹いた。
神殿に吊るされた鈴の音が、遠くから微かに聞こえてくる。
ラディはしばらく墓地を見ていた。
「……俺たちの村とは全然違うね」
「ああ」
俺たちの村では、死者は土へ埋めた。
墓を掘り、祈りを捧げ、土をかけ、最後に石を置く。
ここでは死者の身体を鳥へ返し、残った骨だけを墓へ納める。
方法はまるで違う。
けれど。
「でも、ちゃんと送ってやりたいって気持ちは同じなんだろうな」
「うん」
ラディが小さく頷いた。
俺も墓地へ目を向ける。
父も。
母も。
村のみんなも。
俺たちは、こうしてきちんと送ってやることができなかった。
そのことを思うと、胸の奥が少し痛んだ。
それでも、ここで見た葬儀は不思議と嫌なものには感じなかった。
死者の身体を鳥へ返し、骨だけを残す。そしてその骨を、家族が大切に墓へ納める。
空に最も近いこの土地には、この土地なりの死者の送り方があるのだろう。
強い風が墓地を吹き抜けた。
その風の向こうで、大鳥が一羽、大きく翼を広げ、青い空へ昇っていった。
神殿を出たあと、俺たちは島を流れる川に沿って歩いた。
しかし妙なことに、川下へ行っても別の川へ合流する気配がない。
当然といえば当然だ。
ここは浮島なのだから。
「これ、どこに流れてるんだろ」
ラディも気になったらしい。
「端じゃないか?」
「端?」
「行ってみよう」
川沿いを歩くことしばらく。
次第に水音が大きくなっていった。
そして島の端へ到着する。
「うわ……」
ラディが足を止めた。
川が消えていた。
いや、消えているのではない。
島の外へ流れ落ちている。
巨大な滝だった。
水が浮島の縁から空中へ飛び出し、遥か下へ落ちていく。
だが、地上までは届かない。
数百メートルも落ちる頃には水の筋が崩れ、細かな水滴となり、最後には白い霧へ変わって雲海へ溶け込んでいた。
「……水、なくなった」
ラディが呟く。
「霧になってるんだろ」
「下まで落ちないんだ」
その時、強い横風が吹いた。
すると滝が大きく曲がった。
「おお!」
ラディが声を上げる。
真っ直ぐ落下していた水が風に押され、巨大な白い布のように横へ流されていく。
「兄ちゃん、滝が曲がった!」
「見てるよ」
「すごい!」
「俺も初めて見たよ」
俺たちはかなり長い間、そこにいた。
この世界に来てから、いろいろなものを見た。
森も。
魔物も。
海も。
そして今度は浮島だ。
それでもまだ、俺の知らないものはいくらでもあるらしい。
そして最上層で過ごす最後の夜。
夕食を終え、俺たちは宿へ戻る途中だった。
「兄ちゃん」
ラディが突然足を止めた。
「どうした?」
返事がない。
ラディは空を見ていた。
「……あれ」
指差された方へ俺も顔を上げる。
最初は鳥かと思った。
だが違う。
「……魚?」
魚だった。
しかも一匹や二匹ではない。
何十匹。
いや、何百匹もいる。
半透明の魚たちが、夜空をゆっくりと泳いでいた。
大きさは手のひらほどのものから、俺の腕ほどあるものまで様々だ。
水などどこにもない。
それなのに尾鰭をゆっくり左右へ振り、胸鰭を動かしながら、本当に水中を泳ぐように空を進んでいる。
月明かりを受けた半透明の身体が、淡い青白い光を放っていた。
よく見ると、その身体の中にも小さな光がいくつも浮かんでいる。
「兄ちゃん……」
「ああ」
俺たちはそれ以上何も言わなかった。
数百匹もの魚が群れをなし、俺たちの頭上をゆっくりと通り過ぎていく。
まるで星空の中に、もう一つ光の川が流れているようだった。
ただ見上げていた。
一番最後の魚が夜の闇へ消えていくまで。
あれが「空魚」と呼ばれる、この高さにしか棲まない生き物だと知ったのは、宿へ戻ってからだった。
身体の中に微細な浮石を取り込むことで、空を泳ぐのだという。
海で魚を見た時も面白かった。
だが、まさか空にまで魚がいるとは思わなかった。
本当に、この世界は分からないことばかりだ。
翌朝。
俺たちは荷物をまとめ、昇降場へ向かった。
最上層とも今日でお別れだ。
昇降籠が来るまで少し時間がある。
俺が荷物を確認していると、隣にいたラディが声をかけてきた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「次はどこ行く?」
思わず手が止まった。
「……もう次の話かよ」
「だって、まだ行ったことないところいっぱいあるでしょ?」
「そりゃあるだろうけど」
「じゃあ、どこ行く?」
ラディはもう次の旅のことを考えているらしい。
目を輝かせていた。
海を見たいと言うことさえ遠慮していた頃とは、ずいぶん変わったものだ。
あの頃のラディなら、きっと俺が行きたいと言うまで黙っていただろう。
でも今は違う。
自分から知らない場所へ行きたいと言う。
自分から知らないものを見たいと言う。
俺はそんな弟を見て、思わず笑った。
「まず下に降りてから考えようぜ」
「うん!」
やがて昇降籠が到着した。
俺たちは乗り込み、ゆっくりと空から下りていく。
眼下には無数の浮島が広がっていた。
そのさらに下には白い雲海。
そして雲の向こうには、俺たちがまだ知らない広い世界が続いている。
海を見たくて始めた旅だった。
その海で浮石を知り、浮石を追ってここまで来た。
星の読み方も覚えた。
地上とはまるで違う葬式を見た。
空から落ちる滝も見た。
夜空を泳ぐ魚まで見た。
なら、次は何を見ることになるのだろう。
今の俺にはまだ分からない。
けれど、それでいい。
知らないからこそ、行ってみたいのだから。




