浮島
町に滞在している間、俺たちはほとんど毎朝のように朝市へ通った。
最初は宿の主人に勧められて足を運んだだけだったのだが、行くたびに並んでいるものが違うので、いつの間にか朝食を終えたあとの日課になっていた。
海は毎日同じように見えても、その日に獲れる魚はまるで違うらしい。昨日は双魚が山のように積まれていた店に、今日は銀色の細長い魚が並び、別の日には人の頭ほどもある青い蟹が籠の中で大きな鋏を振り回していた。さらに別の日には、腹の部分だけが透き通っていて内臓まで見える奇妙な魚まで売られていた。
俺たちはその中から気になったものを一つか二つ買い、宿へ持ち帰って料理してもらった。
「兄ちゃん、今日はこれにしよう」
「なんだこれ」
「知らない」
「知らないものを選ぶなよ」
「知らないから食べるんじゃん」
そう言われると反論しづらい。
結局その魚を買って帰り、宿の主人に見せてみると、焼くよりも蒸した方がうまい魚だと教えられた。言われた通り香草と一緒に蒸してもらうと、奇妙な見た目に反して身は白く淡白で、ラディなどはすっかり気に入ってしまい、翌朝も同じ魚が並んでいないか市場中を探し回っていた。
そんなふうに、この町で過ごす日々は思っていた以上に楽しかった。
海を見たら、またどこかへ向かうつもりでいた。
けれど、急ぐ理由などどこにもない。
今の俺たちは誰かに追われているわけでも、明日の食事に困っているわけでもないのだから、気になる場所があれば好きなだけ滞在し、飽きたらまた次の場所へ行けばいい。
そう思えること自体が、少し前までの俺たちにはなかった贅沢だった。
そんなある日のことだった。
いつものようにラディと朝市を歩いていると、魚や海藻を扱う店が並ぶ一角に、明らかに毛色の違う露店を見つけた。
木箱の上には大小様々な石が並べられていた。それだけなら別に珍しくもないのだが、その中の一つを見た瞬間、俺は思わず足を止めた。
「……なんだ、あれ」
石が浮いていた。
拳ほどの大きさをした灰白色の石が、木箱から手のひら一つ分ほど離れたところで静止している。糸で吊っているようには見えず、下から何かで支えられているわけでもない。それどころか、風が吹くたびに僅かに揺れながら、それでも落ちることなく宙へ浮かび続けていた。
当然、ラディもすぐに気づいた。
「兄ちゃん、石が浮いてる」
「見れば分かる」
「なんで?」
「俺に聞くなよ」
俺たちは揃って露店へ近づいた。
店番をしていたのは、日に焼けた中年の商人だった。
「それが気になるか?」
「はい。これ、どうなってるんですか?」
俺が尋ねると、商人は浮かんでいる石を掴み、そのまま木箱へ押しつけた。
石は確かに木箱へ触れた。
ところが、商人が手を離した途端、石はふわりと浮き上がり、再び先ほどと同じ高さで止まった。
ラディの目が一気に輝く。
「すごい!」
「浮石っていうんだ」
「浮石?」
「ああ。名前の通り、勝手に浮く石だよ」
俺も頼んで手に取らせてもらった。
持っている間は普通の石とそれほど変わらない重さを感じるのに、手を離すと落ちるどころか、ゆっくりと上へ昇って一定の高さで静止する。
前世の知識を総動員して考えてみても、どういう原理なのかまるで分からなかった。
「どこで採れるんですか?」
「南だよ」
商人が南の方角を指差した。
「ここからずっと南へ行ったところに、浮石が採れる国がある。俺もそこで仕入れてきたんだ」
「遠い?」
ラディが尋ねる。
「馬ならひと月ってところだな」
「ひと月か……」
俺が呟く横で、ラディはまだ浮石から目を離そうとしない。
そんな俺たちを見て、商人が笑った。
「浮石なんかで驚いてたら、向こうじゃ一日中驚くことになるぞ」
「他にも何かあるんですか?」
「何かあるどころじゃない」
商人はこともなげに言った。
「島が浮いてる」
「……島?」
聞き間違えたかと思った。
「空に?」
「他にどこに浮くんだよ」
「海じゃなくて?」
「空だ」
商人は笑いながら続けた。
「でかい浮石を大量に含んだ岩盤が、丸ごと地面から浮き上がってるんだ。小さいものなら家一軒が乗る程度だが、でかいものになると町が丸ごと一つ乗ってる」
ラディが俺を見る。
俺もラディを見る。
これは駄目だ。
その顔は知っている。
本の中で初めて海というものを知った時と、まったく同じ顔だった。
「兄ちゃん」
「……言わなくても分かる」
「見たい」
「だろうな」
もっとも、俺だって見てみたい。
海なら前世にもあった。
だが、空に浮かぶ島など前世でも見たことがない。
この世界に生まれ直してから十二年以上も経つというのに、まだそんなものがあるのか。
そう思った瞬間、俺の中でもほとんど答えは決まっていた。
「行くか」
「え?」
「その浮島」
ラディの顔がぱっと明るくなる。
「行く!」
「よし」
決まりだった。
海を見た次は、空に浮かぶ島。
ずいぶん節操のない旅になってきた気もするが、それでいい。
俺たちは知らないものを見るために旅をしているのだから。
数日後、俺たちは港町を出た。
今度の目的地は南。
商人から道を詳しく聞き、途中にある町や水場を書き込んだ簡単な地図も買った。ひと月近い旅になるため、干し肉や固焼きパン、豆、塩といった保存食も、いつもより多めに馬へ積んでいる。
最初の十日ほどは順調だった。
海沿いの街道を南へ進み、いくつもの町や村を通り過ぎた。
ところが、内陸へ入ってからはそう簡単には進まなくなった。
最初に俺たちを困らせたのは雨だった。
三日間降り続いた雨によって街道はすっかり泥濘み、荷物を載せた馬の脚が何度も深く沈んだ。特に酷かったのは森を抜ける街道で、場所によっては泥が飛節まで達した。
「兄ちゃん!」
後ろからラディの声がした。
振り返ると、ラディの馬が後脚を深い泥へ取られていた。
「動かすな!」
俺はすぐに下馬した。
無理に歩かせれば脚を痛めかねない。
ラディにも馬から降りてもらい、積んでいた荷物を外して馬を軽くすると、二人で手綱を引きながら、少しずつ固い地面まで誘導した。
「ほら、ゆっくりだ。大丈夫だからな」
馬の首を撫でながら進ませ、ようやく泥から抜け出せた時には、俺もラディも膝近くまで泥だらけになっていた。
「……兄ちゃん」
「なんだ?」
「海の時より大変じゃない?」
「まだ始まったばっかりだぞ」
「帰る?」
「帰らん」
「だよね」
そんなことで諦めるくらいなら、最初からひと月も離れた場所を目指したりしない。
別の日には川で足止めされた。
前日の雨で増水したらしく、普段なら馬でも渡れるはずの浅瀬が、茶色く濁った激流へ変わっていた。
「これ渡るの?」
「無理だな」
俺は即答した。
あの流れへ馬を入れれば、途中で脚を取られて流されるのが目に見えている。
仕方なく川沿いを半日ほど上流へ進み、倒木が何本も引っ掛かったことで流れが少し弱くなっている場所を見つけた。そこで俺が先に向こう岸まで渡って縄を張ると、それを頼りにラディと馬を一頭ずつ渡らせた。
さらに山地へ入ると、今度は魔物が増え始めた。
ある夕方、野営場所を探しながら林の近くを進んでいると、木々の向こうから三匹のオーガが姿を現した。
赤い肌に、額から突き出した一本の角。そして手には、人間なら持ち上げることすら難しそうな太い棍棒を握っている。
昔なら見ただけで緊張した相手だろう。
けれど、今は違う。
「ラディ、右」
「うん!」
俺は馬から飛び降りながら背中の弓を取り、胡簶から矢を一本抜いて素早くつがえた。
一匹目のオーガが俺たちへ向かって走り出す。
狙ったのは右目。
弦から指を離すと、矢はほとんど狙い通りの軌道を飛び、右目から頭蓋の奥へ深く突き刺さった。
オーガは勢いのまま二、三歩進んだものの、そのまま前のめりに倒れた。
残る二匹へラディが駆ける。
オーガが力任せに棍棒を振り下ろしたが、ラディは横へ抜けるように躱し、そのまま懐へ踏み込んで剣を振り抜いた。
刃が喉を深く裂く。
最後の一匹がラディへ向き直ったところで、俺はすでに二本目の矢をつがえていた。
今度は首へ放つ。
矢を受けたオーガが僅かによろめいた隙にラディが踏み込み、胸へ剣を深々と突き入れた。
それで終わった。
「怪我は?」
「ないよ」
「馬は?」
「大丈夫」
俺たちはいつものように魔石を回収すると、死体の匂いで他の魔物を呼ばないよう、その場所から少し離れたところまで移動して野営することにした。
そんな旅を続けて三週間ほど経った頃、進路の先に大きな山脈が姿を現した。
商人から聞いた話では、目的の国はあの山の向こうにあるらしい。
街道は山腹を縫うように続き、急な坂や人一人がようやく通れるほど狭い場所も多かった。片側がそのまま深い崖になっている場所まであったため、そこではさすがに馬から降り、手綱を引いて慎重に進んだ。
「ゆっくり行こう」
「うん」
焦る理由などない。
俺たちは一歩ずつ峠を登り、数日かけてようやく山脈を越えた。
「兄ちゃん」
先を歩いていたラディが突然足を止めた。
「どうした?」
「……あれ」
俺も顔を上げる。
その瞬間、言葉を失った。
山の向こうには、広大な平原が広がっていた。
それだけなら珍しくない。
問題は、その平原の至るところに石が浮いていることだった。
拳ほどの小さなものから、人間ほどの大きさのもの、馬よりも巨大なものまであり、中には家ほどもある岩が地面から何十尺も離れたところで静止している。
風が吹けば僅かに揺れる。
けれど落ちない。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。
隣ではラディが口を開けたまま、何も言わずにその光景を見つめていた。
不思議なことに、街道の真上にはほとんど浮石がない。
後で地元の人に聞いたところ、通行人の邪魔になったり事故を起こしたりしないよう、街道周辺だけは定期的に取り除いているらしい。小さな浮石なら縄をかけて引き下ろし、大きなものはその場で砕いて運び出すという。
俺たちはそんな奇妙な平原を進んだ。
頭上に石が浮いている。
それだけなのに、今まで歩いてきたどの土地ともまったく違って見えた。
そして、さらに数日後。
ついにそれが見えた。
「兄ちゃん……」
「ああ」
空に島が浮かんでいた。
一つではない。
大小いくつもの島が、遥か上空に浮かんでいる。
小さなものでも岩山ほどあり、大きなものになると、どこからどこまでが一つの島なのか分からないほど巨大だった。島の底部には逆さになった山のような岩盤が垂れ下がり、その周囲を真っ白な雲がゆっくりと流れている。
さらに、一番大きな島の上には建物まで見えた。
「本当に町がある……」
ラディが呟いた。
俺もまったく同じ気持ちだった。
浮島の真下にも大きな町が築かれており、そこには倉庫や商店が密集し、街道には荷物を積んだ荷車がひっきりなしに行き交っている。
おそらく地上から浮島へ物資を運ぶための町なのだろう。
俺たちはそこで宿を取り、馬を預けることにした。
「馬じゃ上には行けないんですか?」
宿の主人へ尋ねると、当然のように首を横へ振られた。
「荷運び用なら上げられるが、馬を連れていく意味はないぞ。島の上じゃ歩いた方が早い」
それなら仕方ない。
俺たちは必要な荷物だけを持ち、浮島へ向かうことにした。
町の中心部まで歩いたところで、またしても足が止まった。
「……なんだこれ」
そこには巨大な木造の塔が建っていた。
内部には何本もの太い縄が通され、その先には人や荷物を乗せる大きな木箱のようなものが吊り下げられている。何十個もの巨大な滑車を組み合わせることで、地上と遥か上空の浮島を結んでいるらしい。
見上げる。
縄は気が遠くなるほど上まで続いていた。
「兄ちゃん!」
ラディはすっかり興奮していた。
「これで上まで行くの!?」
「みたいだな」
「乗ろう!」
「待て待て、順番がある」
料金を払い、他の旅人たちと一緒に木製の昇降籠へ乗り込む。
係員が扉を閉めると、やがて合図の鐘が一度大きく鳴った。
直後、床ががくんと揺れた。
「おおっ!」
ラディがすぐに柵へ駆け寄る。
「身を乗り出すなよ!」
「分かってる!」
本当に分かっているのか怪しい。
昇降籠はゆっくりと上昇していった。
最初は町の屋根が少し見える程度だったのに、上へ昇るにつれて建物はどんどん小さくなり、人間は点のようになり、街道は細い線へ変わっていく。
やがて、さっきまで巨大に見えていた町全体が一望できるようになった。
「兄ちゃん! 見て!」
「見てるよ」
「すごい!」
「だから身を乗り出すなって!」
俺はラディの赤いマントを掴んで引き戻した。
それでも気持ちは分かる。
俺だって興奮していた。
これほどの高さまで、自分の身体で上ったことなどない。
さらに上昇を続けると、やがて昇降籠は雲の中へ入った。
一瞬で視界が真っ白になる。
「うわっ」
冷たい水滴が頬へ当たる。
ラディが嬉しそうに手を伸ばした。
「兄ちゃん、雲だ」
「そうみたいだな」
「雲って触れるんだ」
「まあ、水だからな」
ラディは何度も白い霧の中へ手を伸ばしていた。
やがて視界が開ける。
雲を抜けたのだ。
そのまま頭上にあった巨大な岩盤の縁を越えると、昇降籠はゆっくりと停止した。
扉が開く。
俺たちは浮島へ降り立った。
最初に感じたのは風だった。
地上よりも強く、少し冷たい。
そして次に目へ入ったのは、地面を這う白い雲だった。
島の縁から流れ込んできた雲が霧のように草原を這い、時折俺たちの足元を包み込んでは、また風に流されて消えていく。
ラディがしゃがみ込み、両手で雲を掬おうとした。
当然、何も掴めない。
「取れない」
「雲だからな」
「でも今、足元にあるよ?」
「俺に聞かれても困る」
ラディは立ち上がると、今度は島の向こうへ目を向けた。
俺も同じ方向を見る。
浮島の上には緑の草原が広がり、その先には石造りの町がある。
そして町のさらに向こう、白い雲海の中からは、別の浮島がいくつも顔を出していた。
青い空と白い雲。
その中に浮かぶ島々。
そして、その上に築かれた町や塔。
俺はしばらく何も言えなかった。
海を初めて見た時とは、また違う。
これは前世の知識すら役に立たない光景だった。
隣を見ると、ラディも同じように呆然としていた。
やがて俺の方を向く。
「兄ちゃん」
「ん?」
ラディは満面の笑みを浮かべた。
「来てよかったね」
「ああ」
俺も笑った。
「本当に来てよかったな」
海へ辿り着けば、そこで旅は一段落すると思っていた時期もあった。
けれど実際には、海へ辿り着いたことで新しい土地のことを知り、その土地へ来てみれば、またその先に知らないものがある。
どうやらこの旅には、そう簡単に終わりなど来そうになかった。
浮島へ着いてから数日、俺たちはすぐに次の土地へ向かおうとはせず、島の上で暮らす人々の生活を見て回っていた。
地上とは何もかもが違う。
最初に驚いたのは水だった。
これだけ高い場所にある以上、飲み水をどうやって確保しているのか気になっていたのだが、町の屋根や広場には、大きな布を広げたような奇妙な設備がいくつも設けられていた。
「兄ちゃん、あれ何?」
ラディが指差す。
何本もの木柱の間に薄い布が張られ、その下には細長い溝が取り付けられている。ちょうど雲が町を通り抜けたところらしく、布の表面には無数の水滴がついていた。
近くにいた男へ尋ねると、それは「雲受け」と呼ばれる設備らしい。
「この島じゃ雨だけに頼ってたら水が足りないからな。雲が通る時に水を集めるんだ」
男が布を軽く揺らすと、表面についていた水滴が一斉に下へ流れ、溝を通って大きな桶へ落ちていった。
「雲から水が取れるんだ……」
ラディが感心したように呟く。
他にも、浮石を利用して荷物を軽くする道具があった。
荷車や木箱の底へいくつもの小さな浮石を取り付け、その浮力によって荷物の重さを減らすらしい。おかげで、本来なら何人も必要になるほどの荷物でも、少ない人数で運ぶことができる。
ラディは店先に置かれていた大きな木箱を見つけると、試しに持たせてもらった。
「軽い!」
「中身入ってるのか?」
「石がいっぱい入ってるぞ」
店主が笑う。
俺も持ち上げてみると、本来なら一人で抱えることなどできないはずの箱が、少し重い荷物程度の感覚で持ち上がった。
「便利だな、これ」
「浮石は高いけどな。壊れにくいから、一度作れば何十年も使える」
さらに、近くに浮かぶ小さな島との間には長い吊り橋まで架けられていた。
もちろん、何百歩も離れた巨大な島同士を結んでいるわけではない。すぐ近くに浮かんでいる小島まで縄橋を渡し、そこを畑や牧草地として利用しているらしい。
ラディは当然のように渡りたがった。
「結構揺れるな」
「でも面白いよ」
ラディは左右の縄を掴みながら、足元の板を一歩ずつ進んでいく。
橋の中央まで来たところで、ふと足を止めて下を覗き込んだ。
「兄ちゃん、見て! 下、雲しかない!」
俺も横から覗く。
本当に何も見えない。
橋の遥か下には白い雲海が広がっているだけで、地上がどこにあるのかすら分からなかった。
「すごいな……」
「ね!」
ラディが嬉しそうに身を乗り出しかける。
「おい、端に寄りすぎるなよ」
「大丈夫だって」
「大丈夫でも縄から手は離すな」
「分かってるよ」
そう言った直後、風が吹いて橋が大きく揺れた。
「うわっ!」
「ほら言っただろ」
「今のは風のせいじゃん!」
そんな調子で、俺たちは何日経っても飽きることなく浮島の町を見て回った。
ところが、ある日の昼過ぎだった。
町の中央にある広場を歩いていると、妙に多くの人が集まっていることに気づいた。
「なんだろ」
「行ってみるか」
人混みへ近づくと、その中心には弓や槍を手にした何人もの武装した男たちがおり、その近くでは役人らしき男が大声で説明をしていた。
「近隣の小島で雲喰いの群れが確認された! 成獣だけでも二十を超える! 討伐に参加できる者には島から報奨金を出す!」
雲喰い。
聞いたことのない名前だった。
近くにいた男へ尋ねると、この辺りではそれほど珍しい魔物ではないらしい。
「普段は浮魚なんかを食ってるから、人間には滅多に近づかねえんだ」
「じゃあ、なんで討伐するんです?」
「繁殖期だからだよ」
男は少し嫌そうな顔をした。
「繁殖期になると気性が荒くなる。羊でも人でも、島の端にいるものなら何でも攫っていきやがる」
「大きいんですか?」
ラディが尋ねる。
「翼を広げりゃ五、六間ってところだ。鳥みてえな翼に蜥蜴みてえな身体をしてる」
それだけでも十分危険そうだったが、今回問題になっているのは人への被害だけではないらしい。
役人の説明が続いた。
「今回の群れは、小浮島の下面に巣を作っている! すでに露出した浮石を大量に削り取られており、島の高度が去年より三丈近く低下している!」
周囲がざわめいた。
ラディが俺を見る。
「島って、低くなるの?」
「あいつらが浮石を齧り取るらしいぞ」
近くにいた男が答えた。
「巣材にするんだ。少しくらいなら大したことねえが、あれだけの群れに何年もやられりゃ話は別だ」
「全部なくなったら?」
「落ちる」
男は簡単に言った。
ラディが目を丸くする。
「島が?」
「ああ」
俺も思わず空を見上げた。
今まで当然のように浮いていると思っていた島も、永遠にそこにあり続けるわけではないらしい。
「兄ちゃん」
ラディが小声で呼ぶ。
「なんだ?」
「やる?」
その顔を見れば答えは分かっていた。
「お前、やりたいんだろ」
「うん」
「俺も気になる」
何より、飛ぶ魔物との戦いというものはこれまでほとんど経験したことがない。
今後も旅を続けるなら、経験しておいて損はないだろう。
「参加するか」
「うん!」
俺たちは討伐隊へ加わることにした。
翌朝、討伐隊は問題の小浮島へ向かった。
島そのものは、俺たちが滞在している大浮島からそれほど離れていない。細い吊り橋を渡って小島へ入り、そのまま島の縁まで歩いていく。
そしてそこで、俺は初めて討伐方法を知った。
「……これで降りるんですか?」
目の前にあったのは、大きな吊り籠だった。
人が六人ほど乗れる木製の籠で、そこから何本もの太い縄が伸び、島の上に据えられた巨大な滑車へ繋がっている。
どうやら、これを島の側面まで降ろすらしい。
「雲喰いの巣は下側にあるからな」
討伐隊を率いる男が当然のように答えた。
「上で待ってても出てこねえ。こっちから行くしかない」
「下側って……」
ラディが島の縁から覗き込む。
俺も横から見る。
そこには何もない。
遥か下まで白い雲が続き、地上などまったく見えなかった。どれほどの高さがあるのかすら分からない。
「兄ちゃん」
「なんだ?」
「これ、落ちたらどうなる?」
「死ぬ」
「……聞かなきゃよかった」
もちろん命綱は用意されている。
俺たちは腰へ太い革帯を巻き、そこから伸びた縄を吊り籠へ固定した。
それでも、とても安心できるものではなかった。
俺は背負っていた弓と胡簶を確認し、ラディも腰の剣を抜きやすい位置へ調整する。
「お前は基本的に籠の中にいろよ」
「分かってる」
「飛んでる奴は俺たち弓持ちに任せろ」
「でも近づいてきたら?」
「その時は頼む」
「うん」
合図とともに、吊り籠がゆっくり下降し始めた。
島の縁が頭上へ消え、目の前には巨大な岩壁だけが残る。
ところどころに灰白色の浮石が露出しており、それが岩盤の中を脈のように走っていた。
さらに下へ降りていく。
その時だった。
「いたぞ!」
誰かが叫んだ。
岩壁にはいくつもの穴が開き、その周囲を黒い影が飛び交っていた。
雲喰いだ。
聞いていた通り、鳥と蜥蜴を混ぜたような姿をしている。
全身は暗い灰色の鱗で覆われ、前脚と一体化するように巨大な翼が伸びていた。頭部には鳥の嘴を思わせる硬そうな口があり、後脚には獲物を掴むためなのか、長く湾曲した鉤爪が生えている。
「でかいな」
俺は矢をつがえた。
向こうもこちらに気づいたらしい。
一匹が翼を翻し、一気に距離を詰めてくる。
俺はその動きを追い、狙いを合わせて矢を放った。
だが、外れた。
矢は雲喰いの横を通り抜け、そのまま雲海へ消えていく。
「兄ちゃん?」
「風だ」
地上とは違う。
島の側面を回り込むように強い横風が吹き、思っていた以上に矢が流されている。
俺は一度呼吸を整えた。
風そのものは見えない。
けれど、流れる雲や雲喰いの翼、そして自分の青い外套がなびく方向を見れば、ある程度は読める。
右から左へ。
かなり強い。
次の矢をつがえる。
今度は雲喰いそのものを狙わず、進行方向と風によって流される分を考え、かなり右側へ照準をずらした。
放つ。
矢は風に流されながら飛び、今度は雲喰いの胸へ深く突き刺さった。
「当たった!」
ラディが声を上げる。
雲喰いは翼を激しくばたつかせたものの、やがて身体を支えきれなくなり、そのまま遥か下へ落ちていった。
灰色の身体がどんどん小さくなり、最後には白い雲の中へ消える。
「よし」
しかし、喜んでいる暇はなかった。
巣から次々と雲喰いが飛び出してくる。
弓兵たちが一斉に矢を放ち、一匹、また一匹と撃ち落としていく。その横を別の一匹が高速で通過し、鉤爪が吊り籠の木製の柵を掠めて、ばきりと嫌な音を立てた。
「来るぞ!」
一匹が正面から向かってくる。
俺は次の矢をつがえようとした。
だが、間に合わない。
雲喰いが吊り籠へ激突した。
大きな衝撃とともに籠が激しく傾き、俺は咄嗟に柵を掴んだ。
「うわっ!」
その瞬間、籠へぶつかった雲喰いが嘴で補助縄の一本へ食いついた。
ぶちり、と嫌な音がした。
「まずい!」
太い縄が切れる。
吊り籠がさらに大きく傾き、中にいた全員が片側へ叩きつけられた。
ラディの赤いマントが風を受けて大きく翻る。
「ラディ!」
「大丈夫!」
しかし雲喰いは離れなかった。
鉤爪で籠の縁を掴み、そのまま中へ身体を乗り上げてくる。
この距離では弓は使えない。
ラディが剣を抜いた。
「ラディ、無理するな!」
「こいつがもう一本切った方が危ないよ!」
その通りだった。
雲喰いが嘴を突き出す。
ラディは上半身を大きく反らして避け、嘴が顔のすぐ前を通過した瞬間に一歩踏み込んだ。
剣が翼の付け根へ深く食い込む。
「ギャアアアッ!」
甲高い声を上げて魔物が暴れ、吊り籠が激しく揺れた。
「ラディ!」
「大丈夫!」
雲喰いが再び嘴を振る。
今度は身を低くして躱し、そのまま魔物の身体の下へ潜り込むようにして剣を返した。
刃が首へ深く入る。
それでも魔物は死なない。
翼を激しく打ちつけ、吊り籠全体を揺らす。
ラディは一度剣を引き抜くと、同じ場所へもう一度全力で刃を叩き込んだ。
そこでようやく雲喰いから力が抜けた。
巨体が籠の中へ倒れ込む。
「重い!」
死体の重みで、ただでさえ傾いていた籠がさらに傾いた。
「兄ちゃん、押して!」
「分かった!」
俺も弓を脇へ置き、雲喰いの身体へ肩を当てる。
「せーの!」
ラディと二人で押す。
だが、重い。
「もう一回!」
二人で全力を込める。
ようやく巨体が籠の縁を越え、そのまま外へ滑り落ちた。
灰色の身体が雲海へ向かって落ちていく。
俺とラディはしばらく無言でそれを見送った。
「兄ちゃん」
「なんだ?」
「怖かった」
「俺もだよ」
俺は思わずラディの赤い外套を掴んで引き寄せた。
本当に怪我がないことを確認し、ようやく息を吐いた。
その時だった。
低い地鳴りのような音が響いた。
目の前の岩壁が僅かに震えている。
「なんだ?」
「離せ! 籠を離せ!」
隊長が叫ぶ。
直後、島の側面へ大きな亀裂が走った。
ばきばきと岩の砕ける音が響き、人間の家を何軒も合わせたほどの巨大な岩塊が島から剥がれ落ちる。
「うわっ!」
岩塊はそのまま雲海へ落ち、あっという間に見えなくなった。
だが、すべてが落ちたわけではなかった。
崩れた岩のうち、一部だけが空中に残ったのだ。
「……浮いてる」
ラディが呟いた。
浮石を大量に含んでいた部分だった。
周囲の普通の岩は地上へ向かって落下したにもかかわらず、その岩だけはゆっくりと回転しながら空中に静止している。
隊長が苦い顔をした。
「見ただろ」
「これが……」
「あいつらに浮石を削られすぎると、ああなる。島そのものが自分の重さを支えきれなくなるんだ」
ラディが頭上を見る。
「じゃあ、この島も?」
「放っておけばな」
俺も巨大な岩盤を見上げた。
今までは幻想的で美しいとしか思っていなかった浮島。
けれど、その下にはこんな危険が隠れている。
結局、その日の討伐は夕方まで続いた。
何度も吊り籠を上げ下げし、岩壁に作られた巣を一つずつ潰していく。
最終的には成獣だけで二十七匹、幼体まで含めれば四十匹近い雲喰いを駆除することになった。
俺の矢も随分減った。
ラディも肩で息をしている。
それでも島へ戻った時には、待っていた町の人々から大きな歓声で迎えられた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「浮島って、見るだけならすごいけど、住むのは大変なんだね」
「ああ」
俺は笑った。
「どこでも住めば苦労はあるみたいだな」
翌朝、朝食を食べていると、宿の主人が窓の外を眺めながら言った。
「お前ら、運がいいな」
「何がです?」
「今日は下が見えるぞ」
「下?」
「雲だよ。全部流れてる」
俺とラディは顔を見合わせた。
食事を終えると、すぐに島の縁へ向かう。
そして、そこに広がっていた光景を見た瞬間、二人揃って足を止めた。
いつも島の下を覆っていた白い雲海が、今日は綺麗に消えている。
その向こう、遥か下には地上が広がっていた。
高い。
そんな言葉だけでは足りない。
川が細い銀色の糸のように平原を走り、地上の町は掌に載りそうなほど小さく見える。街道を進む荷車など、ほとんど点でしかない。
遠くに連なる山々さえ、今いる俺たちより低かった。
「兄ちゃん!」
ラディが島の縁へ駆け寄る。
「見て! 山より高い!」
「分かったから端に寄るな!」
「大丈夫だって!」
「だめ」
俺はラディの赤い外套を掴み、少し後ろへ引き戻した。
「兄ちゃん、心配しすぎ」
「落ちてからじゃ遅いんだよ」
ラディは不満そうだったが、それでも今度は少し縁から離れた。
俺たちはしばらくそこから地上を眺めていた。
昨日、吊り籠から見た景色とも違う。
あの時は下が一面の雲に覆われていたため、実際にどれほど高い場所にいるのか実感できなかった。
今は違う。
この浮島が山々より遥か高い場所にあることを、自分の目で確認できる。
ふと、ラディが空を見上げた。
「あれ何?」
「ん?」
指差された方向を見る。
最初は雲かと思った。
だが違う。
青い空の遥か高いところに、黒い影が浮かんでいた。
島だ。
今いる浮島よりさらに高い。
しかも大きい。
距離がありすぎて細部までは分からないが、巨大な浮島が一つ、その周囲をいくつもの小さな島に囲まれながら、遥か上空に浮かんでいる。
ラディが目を細めた。
「あそこにも人が住んでるのかな」
「さあな」
「町あるかな」
「分からん」
「行ける?」
「知らん」
ラディがこちらを見る。
「行ってみたい」
俺は思わず笑った。
「……また始まったよ」
「兄ちゃんは行きたくないの?」
そう聞かれて、俺はもう一度空を見上げた。
あそこに何があるのか。
知らない。
だからこそ、少し気になる。
「……まあ、ちょっとはな」
そう答えると、ラディが嬉しそうに笑った。
海を見た。
浮石を見た。
そして空に浮かぶ島へまで来た。
それなのに、そこからさらに先を見れば、まだ知らない場所がある。
どうやら世界というものは、俺たちが思っていたよりずっと広いらしい。
そして俺たちは、まだそのほんの一部しか見ていなかった。




