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漁師

海が見えた瞬間、ラディはもう我慢できなかったらしい。

それまで俺の少し前を進んでいたラディは、丘の上から遥か彼方まで続く青い海を目にすると、しばらく呆然と眺めていたかと思えば、次の瞬間には馬の腹を蹴って一気に坂を駆け下り始めた。

「兄ちゃん!」

「おい、飛ばしすぎるなよ!」

俺が声を張り上げても、ラディは振り返って片手を上げただけで速度を緩めようとはしない。

まったく。

ここまで来る途中、海が見たいとは言いながらも、ラディはそれほど騒ぐことはなかった。けれど、それは興味がなかったからではなく、俺に遠慮していただけなのだろう。

実際に海を目の前にした今の様子を見れば、それくらい分かる。

「仕方ないな」

俺も馬の腹を軽く蹴り、ラディの後を追った。

丘を下るにつれて潮の香りが強くなり、それまで遠くから微かに聞こえていた波の音も次第にはっきりしてくる。やがて坂を下りきると、目の前には左右の果てが見えないほど長い砂浜が広がっていた。

ラディはそのまま砂浜へ馬を乗り入れた。

蹄が乾いた砂を蹴り上げる。

「ラディ! 待て!」

俺も砂浜へ入った。

二頭の馬が海岸を並ぶように走っていく。

乾いた砂の上では馬も走りにくそうだったが、少し波打ち際へ近づくと、海水を含んで固く締まった砂へ変わった。途端に馬の足取りが軽くなり、ラディがさらに速度を上げる。

「兄ちゃん、遅いよ!」

「言ったな!」

俺も手綱を緩めた。

馬が一気に加速する。

蹄が湿った砂を蹴るたび、どどどど、と腹に響くような音が続いた。そのすぐ横では白い波が俺たちを追いかけるように押し寄せ、砕けた飛沫が時折こちらまで飛んでくる。

潮の匂い。

波の音。

馬の蹄の音。

そして、目の前にはどこまで行っても海が続いている。

「兄ちゃん!」

ラディがこちらを見た。

笑っていた。

「海、すごいね!」

「ああ!」

俺も笑いながら答えた。

その瞬間、不意にこれまでの道のりを思い出した。

村を出てから、俺たちは何度も歩いた。

ロムコへ向かった時は、ドワーフから逃げるためだった。ロムコへ辿り着いても安全ではなく、今度はジュルカを目指して歩き、そこでも食べていけなくなってヒョルンまで向かった。

あの頃は、行きたいから旅をしていたわけではない。

生きるためだった。

ラディを生かすために歩き、食べるために魔物を狩り、その日を無事に終えることだけを考えていた。

けれど、今は違う。

誰にも追われていない。

明日の食事に困っているわけでもない。

ただ海を見たいという、それだけの理由でここまで来た。

そして今は、何かから逃げるためでも、生きるためでもなく、ただ楽しいから馬を走らせている。

それが妙に嬉しかった。

俺はもう一度馬の腹を蹴った。

「ラディ!」

「なに?」

「あの岩まで競争だ!」

俺はずっと先に見える、波打ち際から突き出した黒い岩を指差した。

「負けても文句言うなよ!」

「兄ちゃんこそ!」

ラディが先に飛び出す。

「あっ、ずるいぞ!」

「競争って言ったの兄ちゃんじゃん!」

「まだ始めるって言ってないだろ!」

笑いながら後を追った。

結局、どちらが勝ったのかよく分からなかった。

ラディは自分が勝ったと言い張り、俺は俺の馬の鼻先の方が僅かに前だったと言い張ったが、そんなことはどうでもよかった。

しばらく浜辺を走ったところで、さすがに馬を疲れさせるわけにもいかないので手綱を引いた。

「そろそろ休ませるぞ」

「うん!」

俺たちは馬を歩かせながら来た道を戻った。

ラディは何度も海を見ていた。

沖を飛んでいる海鳥を見つければ指差し、大きな波が来ればそちらを見る。何か珍しいものを見つけるたびに俺へ話しかけてくるので、普段よりずっと口数が多かった。

やっぱり、来てよかった。

そう思った。

しばらくして適当な場所を見つけると、ラディは渚の近くまで馬を進めて地面へ降りた。

俺も続いて下馬する。

「馬を水に入れすぎるなよ」

「分かってる!」

返事だけはしたものの、ラディの興味はもう馬にはなかった。

手綱を俺へ渡すと、そのまま海へ向かって走っていく。

「おい、待てって」

二頭の馬を近くにあった流木へ繋いでから後を追うと、ラディはすでに靴を脱ぎ始めていた。

「入るのか?」

「うん」

「冷たいぞ」

「大丈夫」

ズボンの裾を膝まで捲り上げ、裸足になったラディが波打ち際へ近づく。

寄せてきた波が足元へ届いた瞬間だった。

「冷たい!」

ラディが飛び退いた。

「だから言っただろ」

「こんな冷たいの?」

「まだ春だからな。夏ならもう少しましだと思うぞ」

「兄ちゃんも入ってみてよ」

「俺はいい」

「なんで?」

「冷たいって分かってるから」

「ずるい」

何がずるいのか分からない。

それでも結局、俺も靴を脱ぐことになった。

波へ足を入れる。

「……冷たいな」

「でしょ?」

「お前が先に言ったんだろ」

波が来る。

ラディが少し後ろへ下がる。

波が引く。

今度は追いかけるように前へ出る。

また波が来れば逃げる。

何がそんなに楽しいのかと思うが、ラディは何度もそれを繰り返していた。

「兄ちゃん!」

「今度はなんだ?」

「これ、どこまで続いてるの?」

ラディが海の向こうを指差した。

「さあな」

俺も水平線を見る。

「少なくとも、ここからじゃ向こう岸は見えないな」

「本当に見えないね」

「だから言っただろ。湖なんかよりずっと大きいって」

本で海について読んだ時、ラディは向こう岸が見えないほど大きな水があると言っても、いまいち想像できていない様子だった。

俺だって前世で海を知っていたから説明できただけで、何も知らずに言葉だけ聞かされたなら想像できなかったかもしれない。

ラディはしばらく黙って水平線を眺めていたが、やがて足元の海水へ視線を落とした。

そこで俺は、ふと思いついた。

「ラディ」

「なに?」

「ちょっと舐めてみ」

「……何を?」

「海」

ラディが俺を見る。

「海を?」

「ああ」

「なんで?」

「いいから」

いかにも怪しいという顔をされた。

それでも興味には勝てなかったらしく、ラディはしゃがみ込むと、寄せてきた波から手のひらへ少しだけ海水を掬った。

しばらく眺める。

「これ飲めるの?」

「飲むな。ちょっと舐めるだけにしろ」

「兄ちゃん、飲んだことある?」

「あるよ」

前世で。

ラディは恐る恐る舌先を海水につけた。

次の瞬間、目を丸くする。

「しょっぱい!」

「だろ?」

「すごい!」

何がすごいのか。

けれどラディにとっては、目の前にある膨大な水が全部塩辛いということ自体が驚きなのだろう。

「これ全部?」

「ああ」

「全部しょっぱいの?」

「たぶんな」

ラディが改めて海を見る。

「こんなにいっぱいあるのに?」

「ああ」

「すごいな……」

さっきまで騒いでいたラディが、今度は静かになった。

俺もその隣に立って海を見る。

どこまで見ても水だった。

波は絶え間なく押し寄せては引いていき、そのたびに足元の砂がさらさらと動いていく。潮の香りを含んだ風が吹き、上空では何羽もの海鳥が甲高い声を上げながら旋回していた。

前世では、海などそれほど珍しいものではなかった。

電車や車に乗れば行けた。

旅行で見ることもあっただろう。

けれど、この世界で見る海はまったく違って感じられた。

何より隣にいるラディが、こんなにも嬉しそうにしている。

それだけで、ここまで来た甲斐があったと思えた。

俺たちはその後も砂浜を歩き、波に削られて丸くなった石を拾ったり、見たことのない貝殻を探したりして過ごした。

ラディは気に入った貝殻をいくつか拾い、旅の荷物になるぞと言っても捨てようとはしなかった。

やがて日が傾き始めた。

西の空が赤く染まっていく。

「ラディ」

「ん?」

「見ろ」

水平線の向こうへ太陽が沈もうとしていた。

赤く染まった光が海面いっぱいに伸び、波が揺れるたびに金色の光が無数に砕ける。太陽はゆっくりと海へ近づき、やがて下半分が水平線の向こうへ消えた。

ラディは何も言わなかった。

俺も黙っていた。

最後に僅かな赤い光だけを残し、太陽が完全に海の向こうへ沈む。

しばらくして、ラディが小さな声で言った。

「……きれいだったね」

「ああ」

俺は頷いた。

「海、見に来てよかった?」

そう尋ねると、ラディはすぐにこちらを向いた。

「うん!」

迷いのない返事だった。

その笑顔を見て、俺も笑った。

「じゃあ、暗くなる前に町へ行くか」

「うん」

俺たちは靴を履き直して馬へ戻った。

砂浜から少し離れたところには、海沿いに造られた大きな町が見えている。港には何本もの桟橋が海へ伸び、その周囲には大小様々な船が浮かんでいた。

あそこなら宿もあるだろう。

馬へ乗る前、ラディがもう一度だけ海を振り返った。

「兄ちゃん」

「なんだ?」

「明日も海、見られる?」

俺は思わず笑った。

「海は逃げないよ」

「そっか」

「しばらくここにいるんだから、好きなだけ見ればいい」

「うん!」

ラディは満足そうに馬へ跨った。

こうして、俺たちが海を目指して始めた旅は、ひとまず目的地へ辿り着いた。

その日は海岸からほど近い港町へ入り、宿を探して一泊することにした。長旅を終えたばかりということもあって、夕食を済ませる頃には二人ともすっかり疲れており、部屋へ戻るとそれほど話をすることもなく眠りについた。


翌朝。

朝食を取っている時、宿の主人が俺たちへ声をかけてきた。

「旅の人か?」

「はい」

「なら朝市を見ていくといい。港のすぐ近くだ。今朝獲れた魚が並んでるぞ」

それを聞いたラディの目がすぐに輝いた。

「兄ちゃん」

「行くか」

「うん!」

宿を出て港へ向かうと、朝市はすぐに見つかった。

まだ朝早いというのに大勢の人で賑わっている。

威勢のいい声を上げる魚売り。

籠を抱えて歩く料理人。

魚を買い付けに来たらしい商人。

漁から戻ってきたばかりなのか、濡れた服のまま荷を運んでいる漁師たち。

そして店先には、俺たちが見たこともない海産物が所狭しと並べられていた。

まず目についたのは、海藻だった。

前世の昆布に少し似ている。

けれど色は違う。

「兄ちゃん、これ何?」

ラディが指差したのは、幅広く平たい海藻だった。

色は淡い桃色で、表面には細かな波模様が走っている。

店先の籠の中で何枚も折り重なり、濡れた表面が朝日に照らされてつやつやと光っていた。

「海藻じゃないか?」

「海藻?」

「海に生えてる草みたいなもの」

「食べられるの?」

「たぶん」

店の男が笑った。

「たぶんじゃなくて食えるよ。そいつは塩漬けにしてもいいし、細く切って汁物に入れてもうまい」

「へえ……」

その隣には魚が並んでいた。

細長いもの。

丸々と太ったもの。

銀色の鱗を持つもの。

青く輝くもの。

そして、その中に明らかに変わった魚があった。

「何あれ?」

ラディが足を止める。

俺も見た。

一匹の身体なのに、頭が二つある。

正確には首元から二股に分かれていて、それぞれに顔がついていた。

大きさは腕一本分ほど。

鱗は薄い青色で、二つの頭がそれぞれ違う方向を向いている。

俺は店主を見る。

「なんですか、これは?」

「ああ、双魚か」

「双魚?」

「この辺じゃ珍しくないぞ。頭が二つあるだけで味は普通の魚とそう変わらん」

「食べるんですか?」

「もちろんだ」

ラディがしげしげと眺めている。

「二つの頭って、両方食べられるの?」

「食いたきゃな」

「ふうん……」

さらに奥へ進むと、今度は脂の多そうな魚が木箱の中に並んでいた。

身体は丸みを帯び、濃い銀色の鱗に黒い斑点が入っている。

俺が見ていると、魚売りの男が声をかけてきた。

「そいつはポータだ」

「ポータ?」

「ああ。この季節は脂が乗ってる。煮つけにすると、その脂が汁に溶け出してうまいぞ」

「へえ」

ラディが魚を見る。

俺も少し興味が湧いた。

宿の主人が、朝市で買った魚なら厨房で調理してやると言っていたことを思い出した。

「じゃあ二匹ください」

「毎度!」

ポータを二匹買い、さらに何種類かの海藻や貝も少し買った。

宿へ戻って渡すと、昼にはそれを使った料理が並んだ。

ポータは店主の言葉通り煮つけにされていた。

濃い色の煮汁の中に大きな切り身が入り、表面には脂が薄く浮いている。

箸代わりの木串で身を崩すと、驚くほど柔らかかった。

「うまい」

俺が言うと、ラディも何度も頷いた。

「これ、すごくおいしい」

煮汁には魚の脂が溶け込み、塩気と少し甘い調味料が合わさっている。

桃色の海藻は細く刻まれて酢に似た酸味のある汁で和えられており、魚とはまた違った歯応えがあった。

海沿いへ来ただけで、食べるものまでこんなに変わる。

それだけでも旅に出た甲斐があるような気がした。


町で何日か過ごしているうちに、沖合に見える小さな島のことを知った。

島には、この地方で古くから信仰されている海神を祀る祠があるらしい。

海を見に来たのだから、そこまで行ってみたい。

何よりラディが興味を示した。

そこで翌日、俺たちは参拝者を乗せて島へ向かう船に乗ることにした。

港を出ると、船はゆっくり沖へ進んでいく。

最初のうちはよかった。

だが、陸から離れるにつれて船の揺れが大きくなった。

「案外揺れるね」

ラディが船縁を掴みながら言う。

「そうだな」

上下。

左右。

波に合わせて船が絶えず揺れる。

「ちょっと酔いそうだな」

「兄ちゃん、大丈夫?」

「まだ大丈夫」

そう答えた。

その時は。

島までは一刻ほどだった。

半分くらい進んだ頃には、俺はもうほとんど喋らなくなっていた。

「兄ちゃん」

「……ん」

「顔白いよ」

「気のせいだ」

「絶対気のせいじゃないよ」

「大丈夫」

まったく大丈夫ではなかった。

胃の中が船と一緒に揺れているような気がする。

結局、島へ着いた頃には船から降りることだけを考えていた。

桟橋へ足をつける。

「地面だ……」

思わず呟いた。

「兄ちゃん?」

「まだ揺れてる」

「地面揺れてないよ」

「俺の中では揺れてる」

ラディが心配そうに顔を覗き込む。

「休む?」

「……少し」

近くの岩へ腰を下ろし、しばらく海を見ないようにして休んだ。

ラディは文句一つ言わず、隣で待ってくれた。

ようやく気分が戻ってきたところで立ち上がる。

「大丈夫?」

「ああ。待たせたな」

「ほんとに?」

「もう平気だ」

「帰りも船だよ」

「今は言うな」

ラディが笑った。

「じゃあ祠行こう」

「ああ」

島の祠は、普通の建物とはかなり違っていた。

島の奥へ進むと岩山があり、その一部に大きな洞窟が口を開けている。

参道はその中へ続いていた。

洞窟の奥へ進むほど外の光は弱くなったが、壁には一定の間隔で灯火が置かれているため、歩くには困らない。

そして奥へ行くと、突然視界が開けた。

「……すごい」

ラディが声を漏らす。

洞窟の中へ海水が入り込んでいた。

地下の入り江のようになっている。

岩壁のどこかで外海とつながっているらしく、暗い水面がゆっくり上下し、その中央には小さな岩の島が浮かんでいた。

聞いた話では、大潮の日には水位が変わり、普段は入れないさらに奥まで参拝できるらしい。

その小島の上には、石を積み上げて造った小さな蔵のような建物があった。

あれが海神の祠なのだという。

ただし、小島まで渡る橋はない。

参拝者たちは岸側から祠へ向かって、何かを投げていた。

「何してるんだろ」

近くで売られているものを見る。

濃い緑色をした細長い海藻だった。

乾燥させて束ねてある。

「これは?」

俺が尋ねると、売っていた老人が答えた。

「ジョコだよ」

「ジョコ?」

「海神様の好物だ」

老人は笑った。

「この海では昔から、海神様へジョコを捧げるんだ。向こうの祠へ向かって投げて、無事に島へ届けば旅や漁の縁起がいいと言われてる」

なるほど。

それで皆投げているのか。

「やろうよ、兄ちゃん」

ラディはもう乗り気だった。

「そうだな」

二束買い、一つをラディへ渡す。

先にラディが投げることになった。

「届くかな」

「結構距離あるぞ」

「大丈夫」

ラディは少し後ろへ下がり、勢いをつけて腕を振った。

ジョコは小島へ向かって飛び、祠の少し手前へ落ちた。

「入った!」

「やるな」

「兄ちゃんも」

「分かってる」

俺も投げる。

ジョコは弧を描いて飛び、水面へ落ちそうになりながらも、何とか小島の端へ乗った。

「届いた」

「僕の方が遠くまでいった」

「競争じゃないだろ」

「でも僕の勝ち」

「はいはい」

俺たちは祠へ向かって並んで手を合わせた。

家で信仰している神とは別の神だ。

それでも、この土地の海を守ってきた神なら、きちんと敬意を払いたかった。

海を見に来られたことへの感謝。

これからの旅が無事であること。

そして俺は、隣で目を閉じているラディの健康を祈った。

こいつが元気でいてくれれば、それでいい。

旅ならいくらでも続けられる。

参拝を終えると、洞窟の出口近くで撤下品が振る舞われていた。

海神へ供えたジョコを使った料理らしい。

一つは、細かく刻んだジョコを魚のすり身へ混ぜ、丸くまとめて焼いたものだった。表面は香ばしく焼かれ、中はふわりとしている。噛むと魚の旨味の中に海藻の塩気と独特の香りが広がった。

もう一つは、ジョコを細く切って豆と一緒に煮込んだ温かい汁物だった。

海藻から出た旨味で汁が少しとろりとしており、船酔いで弱った胃にはこちらの方がありがたかった。

「おいしいね」

ラディが焼いた方を頬張りながら言った。

「ああ。海藻って意外といろいろ使えるんだな」

食事を終え、洞窟の外へ出た。

目の前には青い海が広がっている。

「面白いところだったね」

ラディが満足そうに言った。

「そうだな」

祠も。

洞窟も。

海神へ海藻を投げて供えるという習慣も。

ヒョルンにいたままなら、きっと一生知らなかった。

旅をすると、こういうものにいくらでも出会えるのかもしれない。

そう考えると、これから先がますます楽しみになった。

ただし一つだけ問題がある。

俺は港へ目を向けた。

そこには、俺たちを乗せてきた船が待っている。

「あとは帰るだけだが……船か」

ラディが笑う。

「頑張って」

「はあ……」

俺は深くため息をついた。

海は好きになった。

船はまだ好きになれそうになかった。


翌朝、朝食を食べている最中に、ラディが突然そんなことを言い出した。

「兄ちゃん、今日は漁船に乗ってみたい」

俺はパンをちぎっていた手を止めた。

「……漁船?」

「うん。昨日、港にいっぱいあったでしょ。あれに乗って、漁してるところを見てみたい」

「昨日の俺を見てたよな?」

「見てたよ」

「島まで行くだけで死にかけてたよな?」

「死んではないじゃん」

「気分的には半分くらい死んでたんだよ」

昨日の船酔いはなかなか酷かった。島へ渡るだけでも散々だったというのに、漁船ともなればもっと沖まで出るだろう。しかも漁をするのだから、島へ渡る船より長い時間海上にいることになる。

できることなら遠慮したかった。

しかしラディは、期待に満ちた目でこちらを見ている。

海を見るためにはるばる旅をしてきたのだ。実際に海を目にしたラディが、その海で暮らす人々がどんなことをしているのか知りたくなるのも当然だった。

「……分かったよ」

「ほんと?」

「ただし、俺が途中で死にそうになっても笑うなよ」

「笑わないよ」

「絶対だぞ」

「うん!」

返事が妙に元気なのが少し気になった。

朝食を終えると、俺たちは港へ向かった。

朝の港はすでに活気に満ちていた。沖から戻ってきた船から魚の入った籠が次々と降ろされ、その横ではこれから漁へ出る男たちが網や縄を積み込んでいる。潮と魚の匂いが混じった独特の空気の中を、海鳥が甲高い声を上げながら飛び回っていた。

俺たちは何人かの漁師に話を聞き、少し金を払うことで一隻の漁船に乗せてもらえることになった。

乗せてもらったのは十人ほどの漁師が乗り込む帆船だった。島へ渡った船より一回り大きく、中央には一本の太い帆柱が立っている。

港を離れた直後は俺にも余裕があった。

昨日一度経験したから身体が慣れたのかもしれない。

そんな淡い期待を抱いた。

だが、そんなものは港を出て半刻もしないうちに消え去った。

「……」

船縁を掴む。

波が来る。

船が持ち上がる。

下がる。

また持ち上がる。

「兄ちゃん、大丈夫?」

「……大丈夫」

「昨日もそれ言ってたよ」

「今日は昨日より大丈夫だ」

「顔、昨日より白いよ」

「気のせいだ」

なるべく遠くを見る。

前世の記憶では、船酔いした時は近くではなく水平線を見た方がいいと聞いた覚えがある。

実際、多少はましだった。

多少は。

一方のラディはまったく平気らしく、船の上をあちらこちらへ移動しては漁師たちの仕事を眺めていた。

やがて漁場へ到着すると、漁師たちが海へ大きな網を投げ始めた。

俺は邪魔にならないよう船尾に座り、ただひたすら水平線を眺める。

どれほど待っただろう。

「引くぞ!」

漁師の声が上がった。

何人もの男が縄を掴み、一斉に網を引き始める。

ラディも興味津々でその様子を見ていた。

やがて海面から網が姿を現した。

「うわっ!」

ラディが歓声を上げる。

網の中では大量の魚が跳ね回っていた。

銀色の魚。

真っ青な魚。

細長い魚。

丸々と太った魚。

その中には昨日の朝市で見かけた双魚まで混じっており、二つの頭を同時に動かしながら暴れている。

さらに、人間の頭ほどもある赤い蟹が網へしがみついていた。両方の鋏が妙に大きく、近づいた漁師へ向かって盛んに振り回している。

「兄ちゃん、蟹! すごい大きい!」

「……そうだな」

「見てないじゃん!」

「見た。ちゃんと見た」

本当は一瞬しか見ていない。

下を向くと危ない。

今の俺にとっては蟹より水平線の方が大事だった。

ところが、ラディがまた声を上げた。

「兄ちゃん! これ見て! 魚が光ってる!」

「……あとで見る」

「すごいよ!」

「分かったから、あとでな」

「兄ちゃん、さっきからずっと海見てるよ」

「海を見てるんじゃない。吐かないようにしてるんだ」

近くにいた漁師が吹き出した。

「兄ちゃん、笑われてるよ」

「誰のせいで船に乗ってると思ってる」

「僕」

「分かってるならいい」

ラディは楽しそうに笑っていた。

結局、根負けして網を見ると、確かに妙な魚が混じっていた。

手のひらほどの小さな魚で、鱗そのものが淡い青緑色の光を放っている。網の中で何十匹もの魚が跳ねるたび、光が明滅していた。

「夜に見るともっと綺麗だぞ」

漁師の一人が教えてくれた。

「暗い海の中で群れ全部が光るんだ」

「見てみたい!」

ラディが即座に答える。

俺は何も言わなかった。

夜の漁船。

考えただけで胃が重くなる。

そんな時だった。

船の上にいた漁師の一人が、不意に沖を指差した。

「おい!」

声に緊張感があった。

俺も反射的にそちらを見る。

最初は何も分からなかった。

しかし、遠くの海面が妙に盛り上がっている。

ざあっ、と大量の海水が左右へ流れ落ちた。

巨大な何かが海面へ浮上してきたのだ。

「……なんだ、あれ」

思わず立ち上がった。

最初に見えたのは背中だった。

濃い藍色の巨大な背中。

表面は魚の鱗というより、何枚もの岩を重ねたような硬そうな鱗で覆われている。

とにかく大きい。

俺たちの乗っている船など比較にならない。

その背中だけでも、ちょっとした家ほどの幅がある。

さらに長い身体がゆっくりと海面へ現れた。

「兄ちゃん……」

さすがのラディも声が小さくなっている。

「でかいな」

「あれ、魔物?」

「たぶんな」

俺は無意識に船へ立てかけていた弓を見た。

そしてすぐに思った。

無理だ。

矢を何本射ち込んだところで、あの鱗を貫ける気がしない。

ところが俺たちとは対照的に、漁師たちから歓声が上がった。

「海竜だ!」

「今日はついてるぞ!」

「大漁になるかもしれねえ!」

俺は驚いて漁師を見る。

「逃げなくていいんですか?」

「なんで逃げる?」

逆に不思議そうな顔をされた。

「あいつは船を襲わねえよ。魚の群れを追ってここまで来たんだろう。海竜を見た日は豊漁になるって昔から言われてるんだ」

「へえ……」

もう一度、海を見る。

海竜は悠然と泳いでいた。

やがて長い首らしきものが海面から現れた。

頭部は遠くて細部までは分からないが、後頭部から何本もの角が伸びている。

海竜が息を吐いた。

ぶおおおおおっ。

低い音が海上へ響き渡り、鼻先から白い飛沫が高々と噴き上がった。

ラディが俺の袖を引っ張る。

「兄ちゃん」

「ん?」

「あれ、倒せる?」

「無理」

「即答だ」

「無理なものは無理だ」

「オーガは簡単に倒すのに?」

「一緒にするなよ。あんなのと戦うくらいなら全力で逃げる」

ラディはもう一度海竜を眺めた。

「世界って、すごいね」

その言葉に俺は少しだけ黙った。

俺たちはヒョルンで何か月も魔物を狩ってきた。

ゴブリン。

コボルト。

オーク。

オーガ。

いつの間にか、自分たちはそれなりに強くなったと思っていた。

実際、人間としてはかなり強い方なのだろう。

けれど、世界には俺たちの知っているものより遥かに巨大な生き物がいる。

海竜は俺たちの存在など気にも留めず、しばらく海面を泳いだ後、ゆっくりと海中へ沈んでいった。

巨大な尾が最後に一度だけ海面から持ち上がる。

ばしゃあん!

遠くにいる俺たちの船まで波が届いた。

大きく船体が揺れる。

「うっ……」

「兄ちゃん!?」

「海竜より先に船に殺されそうだ……」

今度は漁師たちまで大笑いした。


翌朝、俺たちは旅に必要な物を買い足すため、港近くの商業区へ向かった。

そこで初めて見た。

「兄ちゃん」

ラディが俺の服を引いた。

「ん?」

「あの人たち……」

数人の男女が歩いていた。

人間によく似ている。

だが違う。

何より目につくのは耳だった。

髪の間から覗く耳が、人間より明らかに長く尖っている。

肌の色もこの辺りの人間より白く、身につけている服も見慣れない。男は身体に沿う長衣の上から細かな刺繍の施された外套を羽織り、女たちは鮮やかな布を幾重にも重ねた衣装を身につけていた。

そして彼らが話している言葉。

まったく分からない。

流れるような響きの言葉が、早口で交わされている。

ラディが耳を澄ませる。

しばらく聞いていたが、やがて俺を見る。

「何言ってるのか全然分からない」

「俺も分からん」

「どこの人?」

「たぶんエルフだ」

本で読んだことがある。

エルフ。

海の向こうにいくつもの国を築いている種族だ。

俺たちが話していることに気づいたのか、近くにいた商人が教えてくれた。

「珍しいか?」

「初めて見ました」

「この町じゃそれほど珍しくないぞ。海の向こうから商船が来るからな」

男が港を指差す。

そこには見慣れない大きな船が停泊していた。

俺たちが昨日乗った漁船とはまるで違う。

何本もの帆柱。

高く反り上がった船首。

船腹には色鮮やかな模様が描かれ、帆には見たことのない紋章が染め抜かれている。

その船から次々と荷物が降ろされていた。

木箱。

陶器。

布。

果物らしきもの。

俺には用途すら分からない品物もある。

「海の向こうから……」

ラディが呟いた。

「ああ」

俺たちは海を見るために旅を始めた。

そして海を見ることはできた。

けれど、実際にここまで来てみれば、その先にも世界がある。

海の向こうにはエルフたちの国があり、俺たちの知らない言葉を話す人々が暮らし、俺たちの知らない町があり、食べ物があり、文化がある。

昨日見た海竜だってそうだ。

ヒョルンにいた頃には想像さえしていなかった。

ラディはしばらくエルフたちを眺めていた。

それから港に停泊する大きな船を見る。

「兄ちゃん」

「ん?」

「海の向こうにも、行ってみたいね」

俺はすぐには答えなかった。

昨日の船酔いを思い出したからだ。

あの漁船でさえあれだった。

海の向こうとなれば、何日船に乗ることになるのか分からない。

「……船か」

「そこ?」

「俺にとっては重要な問題なんだよ」

ラディが笑う。

俺もつられて笑った。

それから、もう一度大きな異国船を見上げた。

「まあ、いつかな」

「うん」

「まだこっちにも知らないところが山ほどあるしな」

海まで来て、俺はむしろ分からなくなっていた。

この世界がどれほど広いのか。

だからこそ、もっと見てみたいと思った。

海の向こうへ渡るのは、まだ先でいい。

今はまず、この大陸を旅してみよう。

俺たち兄弟の旅は、海へ辿り着いて終わったのではない。

どうやらここから、もっと遠くへ続いていくらしかった。


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