マント
ヒョルンを発つ朝、俺たちは日の出とともに宿を出た。
結局、あの町では随分長く暮らした。
初めてヒョルンへ辿り着いた時には、ラディを食わせていくため、今日の飯代をどうやって稼ぐかということしか考えられなかった。それが今では魔物狩りで十分な金を稼げるようになり、二人分の旅支度を整え、それなりの蓄えまで持って町を出ようとしている。
背中には弓と胡簶、腰には剣。ラディも腰に自分の剣を下げ、二人とも野営道具や食料の入った荷物を背負っていた。
「忘れ物ない?あったとしても、もう戻らないぞ」
「ええ?」
「嘘だよ。心配ならもう一回確認するか?」
「大丈夫。昨日三回したから」
「なら行こう」
「うん!」
こうして俺たちはヒョルンを後にした。
最初に目指したのは、南にあるヒュルマン辺境伯領の領都ジュルカだった。
海は遥か西にあるため、本来なら真っ直ぐ西へ向かいたいところだったが、ヒョルンから伸びる街道を考えれば、一度ジュルカまで南下してから西へ進んだ方が安全だった。
野営を挟みながら何日も南へ歩き続け、懐かしいジュルカの城壁が見えてきた時には、俺もラディも思わず足を止めた。
かつて俺たちは、ほとんど何も持たずにこの町へ逃げてきた。
城壁の外には大勢の避難民が溢れ、俺たちもその中に混じって仮設野営地で寝泊まりした。辺境伯から配られた温かいスープを飲み、それだけでラディが嬉しそうに笑っていたことを、今でもよく覚えている。
けれど、今回は違う。
俺たちは自分の足で門をくぐり、自分たちの金で宿を取り、夕方になると食事をするため町の食堂へ入った。
そこで偶然一緒になったのが、一団の傭兵たちだった。
十人ほどいるだろうか。皆、剣や槍を持ち、革鎧や鎖帷子を身につけている。昼間から酒を飲んでいる者も多く、その中でも特に酔っていた一人の男が、俺たちを見るなり酒杯を片手に近づいてきた。
「お前らも戦場帰りか?」
「違うよ」
「じゃあなんだ、その弓と剣は?」
男は俺の背負っている弓と、ラディの腰にある剣を交互に見た。
「ヒョルンで魔物を狩ってたんだよ」
「魔物かあ。何狩ってたんだ?」
「最近はオークとかオーガとかです」
「オーガ?」
酔って細くなっていた男の目が、少しだけ開いた。
「おお、すげえなお前ら。見た目よりやるじゃねえか」
「どうも」
「それで、ヒョルンでそんなもん狩って稼げるなら、なんでわざわざこんなところまで来たんだ?」
「海を見ようと思って旅してるんだ」
「海!」
男は酒杯を掲げるようにして笑った。
「いいねえ! 俺も見たことねえぞ。旅ってのはいいもんだ。俺なんか行くところ行くところ戦場ばっかりで――」
「おい!」
そこへ別の傭兵がやってきて、酔っ払いの肩を掴んだ。
「昼間から飲みすぎだ。知らねえ奴に絡むなよ。しかも、まだ小さいじゃねえか」
「絡んでねえよ。こいつら、海を見に旅してるんだとよ」
「海?」
新しく来た男は俺たちを見たあと、少し意外そうな顔をした。
「そうか。西へ行くのか」
「はい」
「なら、あんまりこの辺りには長居しない方がいいかもしれんな。ドワーフどもがいつまた動き出すとも限らねえ」
その言葉を聞いた瞬間、それまで気楽だった気持ちが僅かに沈んだ。
ドワーフ。
久しぶりにその言葉を聞いた。
けれど、忘れたことなど一度もない。
焼かれた村。父と母。逃げ惑う村人たち。そして、俺の手を握りながら必死についてきたラディ。
あの日の光景が嫌でも頭の中に蘇ってきた。
隣を見ると、ラディも黙り込んでいる。
「……ドワーフは、今どうなってるんですか?」
俺が尋ねると、傭兵は少し表情を変えた。
「知らないのか?」
「俺たちは村が襲われて、それからずっと逃げてたから」
詳しく話を聞いてみると、ようやくあの時何が起きていたのかが分かった。
ドワーフの国は、山脈を挟んでヒュルマン辺境伯領の東側に存在しているらしい。以前から国境付近では小さな争いが続いていたものの、ここ数年で急激に領土を広げるようになり、ついには山脈へ掘り進めていた坑道を利用して大軍を送り込み、一気にヒュルマン辺境伯領へ侵攻したのだという。
俺たちの村が襲われたのも、その侵略の一部だった。
ヒュルマン辺境伯も軍を集めて迎え撃ったものの、最初の大規模な野戦で敗北し、その後は残った都市や砦を守ることを優先せざるを得なくなった。現在も領地の東半分ほどがドワーフの占領下にあり、俺たちの故郷もその中にあるという。
「一度負けてるから、そう簡単には動けねえ。こっちも兵を集めてるが、向こうだって占領した土地の守りを固めてる」
「そうですか……」
まだ帰れない。
分かっていたつもりだった。それでも心のどこかで、もう戦いが終わっているのではないか、いつか突然故郷へ帰れる日が来るのではないかと思っていたのかもしれない。
「いずれ村に帰ろう」
俺が小さく言うと、ラディはこちらを見て頷いた。
「うん」
その時、それまで黙っていた酔っ払いの傭兵が俺たちを見た。
「お前ら、ドワーフに追われたのか?」
「村のみんなは殺された。俺たちは何とか二人で逃げてきたんだ」
「……そうか」
それまで陽気だった男が、それ以上何も言わなくなった。もう一人の傭兵も何とも言えない表情を浮かべ、手にしていた酒杯へ視線を落とす。
「俺たちも辺境伯様も、何とか領土を取り戻そうとはしてるんだがな」
「あなたたちも戦ったんですか?」
「ああ。まあ、それで食ってるからな」
それ以上この話を続けても、誰も楽しくはならない。
俺は少し考えてから話題を変えた。
「そういえば、馬ってどこで買えます?」
「馬?」
「これからかなり遠くまで行くから、できれば二頭欲しいんです」
「大きな町なら市に出ることもあるが……」
男は少し考えたあと、何かを思い出したらしく指を鳴らした。
「西を目指してるなら、途中にコルン伯爵領がある。あそこは馬の産地だ」
「牧場があるんですか?」
「ああ。ヘルヘって奴がやってる牧場が有名だぞ。軍にも馬を卸してる」
「そこなら馬を買える?」
「金がありゃな」
「じゃあ行ってみます」
翌朝、俺たちは再びジュルカを発った。
そこからはひたすら西へ向かった。
途中でいくつかの小さな領地を通り、村や町で食料を補給し、宿がなければ野営する。以前の俺たちなら十一日もの徒歩の旅など考えただけでも嫌になったかもしれないが、今では野営にもすっかり慣れていたし、何より目的地へ急ぐ理由がない。
道端に珍しいものがあれば足を止め、村で祭りをやっていれば少し覗き、景色のいい丘を見つければそこで昼飯を食べた。
これまでの旅は、生きるために目的地へ辿り着かなければならないものだった。
けれど今は違う。
寄り道したっていい。
そうやって十一日ほど旅を続けたところで、ようやくコルン伯爵領へ入った。
傭兵から教えられた場所で街道を外れ、さらに半日ほど進むと、なだらかな丘陵一帯に柵が延々と続く大きな牧場が見えてきた。
その向こうでは、何十頭もの馬が悠々と草を食んでいる。
「すごいな」
「兄ちゃん、あんなに馬いる」
「そりゃ牧場だからな」
人に尋ねながら牧場の建物まで行き、そこで声をかけた。
「すみません。ヘルヘさんはいらっしゃいますか?」
しばらくすると、日に焼けた大柄な男が出てきた。
「俺だ。何用だ?」
「馬を買いたくて」
「馬?」
ヘルヘは俺たちを上から下まで眺めた。
「二頭か?」
「はい」
「そうか。なら見せてやる。こっちだ」
案内された先には何頭もの馬が繋がれており、ヘルヘはそれぞれの年齢や性格、長旅に向いているかどうかを説明してくれた。
大人しい馬。
気性の荒い馬。
脚の速い馬。
長距離を歩いても疲れにくい馬。
馬にも随分と違いがあるらしい。
一通り話を聞いたところで、俺は以前から気になっていたことを正直に伝えた。
「一つ問題があるんですけど」
「なんだ?」
「俺たち、馬の乗り方を知らないんです」
ヘルヘが黙った。
俺を見る。
次にラディを見る。
そして、もう一度俺を見る。
「……馬を買いに来たんだよな?」
「はい」
「乗れないのに?」
「だから教えていただけませんか?」
「お前なあ……」
ヘルヘは呆れたように額へ手を当てた。
それでも、俺たちがこれから長い旅へ出るつもりだと話すと、最終的には面倒を見てくれることになった。
ただし、金を払って教えてもらうわけではない。
「うちは人手が足りん。覚えるまで馬の世話を手伝え。それなら教えてやる」
「それでいいんですか?」
「遊ばせとくよりましだ」
そうして、思いがけず俺たちは牧場で暮らすことになった。
朝になれば厩舎を掃除し、水を運び、餌を与え、馬の身体をブラシで擦る。馬糞を片づけ、汚れた藁を新しいものへ取り替える仕事もあった。
最初に厩舎へ入った時、俺は妙に懐かしい気分になった。
「どうしたの?」
隣で干し草を運んでいたラディが尋ねてくる。
「いや。村で牛の世話してたの思い出した」
「ああ」
ラディも少し笑った。
「兄ちゃん、病気治った次の日に手伝ってたよね」
「よく覚えてるな」
「僕もいたもん」
「お前、途中から牛と遊んでただけだろ」
「ちゃんと手伝ってたよ!」
「桶一回運んだだけじゃねえか」
「二回!」
「大差ないだろ」
二人で笑った。
村のことを思い出して笑ったのは、いつ以来だろう。
父や母のことを思い出せば、今でも胸は痛む。それでも、村で過ごした十二年間が悲しい記憶だけでできているわけではない。
父も母もいた。
ラディもいた。
皆で笑った日も数え切れないほどあった。
そんな当たり前のことに、俺はその時初めて気づいた気がした。
乗馬の練習は、まず常足から始まった。
最初は馬の上で姿勢を保つだけでも難しく、少し進んだだけで身体が左右へ揺れた。手綱へしがみつけばヘルヘに怒鳴られ、脚に力を入れすぎれば馬が嫌がる。
それでも毎日乗っているうちに少しずつ身体が慣れ、手綱や脚で進む方向を変えられるようになった。
常足の次は速歩。
これが酷かった。
馬の身体が上下するたびに俺たちの身体まで跳ね上げられ、初めて本格的に速歩を経験した翌朝には、二人揃って酷い筋肉痛になった。
「兄ちゃん、尻痛い」
「俺もだよ」
「馬ってこんな疲れるの?」
「乗ってるだけなのにな」
それでも毎日練習を続けた。
速歩に慣れれば駈足へ進み、一月も経つ頃には牧場の中ならかなり自由に馬を操れるようになっていた。短い距離なら襲歩も経験させてもらい、馬が本気で地面を蹴って走る速さに、最初は俺もラディも思わず声を上げた。
俺はさらに馬上から弓を射る練習を始め、ラディも馬に乗ったまま剣を扱う練習をするようになった。
当然、最初から上手くいくはずがない。
俺の矢は的から大きく外れ、ラディは剣を振った勢いで危うく馬から落ちそうになった。
それでも何度も繰り返すうち、俺は少しずつ馬の動きに合わせて矢を放てるようになり、ラディも駈足程度なら姿勢を崩さず剣を振れるようになっていった。
牧場の人々とも親しくなった。
仕事が早く終わった日には、二組に分かれ、馬に乗ったまま長い棒で木の球を打ち合う遊びにも参加した。
相手側の二本の杭の間へ球を通せば一点。
ただそれだけなのだが、実際にやってみると驚くほど難しく、そして面白かった。
「兄ちゃん、そっち!」
「分かってる!」
ラディから送られてきた球を追って馬を走らせ、棒を振る。
盛大に空振りした。
「下手!」
「うるさい!」
牧場に笑い声が響いた。
旅の途中だということを忘れそうになるほど楽しい一月だった。
それでも、俺たちの目的はここで暮らすことではない。
十分に馬を扱えるようになったところで、ヘルヘに長旅に向いた二頭を選んでもらい、それを買うことにした。
牧場を発つ朝、ヘルヘは二頭の馬の首を順番に撫でながら言った。
「無茶させるなよ。疲れてると思ったら休ませろ。馬は道具じゃねえからな」
「分かりました」
「それと、お前」
ヘルヘが俺を見る。
「馬上で弓を射てるようになったからって調子に乗るな。戦う時は止まって射った方が当たる」
「はい」
「返事だけはいいな」
ヘルヘは笑った。
俺たちも笑いながら礼を言い、一月暮らした牧場を後にした。
馬を手に入れてからは、それまでとは比べものにならないほど旅が楽になった。荷物の大半を馬へ積めるうえ、一日に進める距離も徒歩だった頃とはまるで違う。
俺たちはさらに西へ進み、やがてメルマ公爵領へ入った。
領都へ続く街道を馬で進んでいたある日のことだった。
「兄ちゃん」
前を進んでいたラディが不意に馬を止めた。
「どうした?」
「あれ」
ラディが街道の先を指差した。
その方向には大きな町が見えていた。メルマ公爵領の領都だ。
そしてそのさらに奥、町並みから抜きん出るようにして、白い石造りの尖塔が何本も空へ伸びている。
城にしては形がおかしい。
目を凝らしていると、中央にある最も高い尖塔の頂で、大きな旗が風を受けて翻っているのが見えた。
そこに描かれている印を見た瞬間、俺は無意識に手綱を引いていた。
「……あれ」
「やっぱりそうだよね?」
「ああ」
見間違えるはずがない。
俺たちが幼い頃から毎日のように見てきたものと同じ、神の印だった。
俺たちの家には、小さいながらも立派な神棚があった。
その中央に祀られていたのが、神の依り代とされる一枚の鏡だった。朝になれば母が神棚の水を替え、父も畑へ出る前には必ず一度頭を下げていた。収穫が始まれば最初に刈り取った麦を供え、家族の誰かが病気になれば平癒を願い、祝い事があれば感謝を捧げた。
俺とラディにとって神へ祈るという行為は、食事をしたり眠ったりするのと同じくらい当たり前のものだった。
そして、その鏡は今も俺たちの手元にある。
村が襲われたあの日、何を持ち出すべきか考えている余裕などほとんどなかったが、家を出る直前、俺は神棚から御神体だけは持ち出していた。
何重にも布で包み、今では旅の途中で傷つかないよう小さな木箱へ収め、俺の荷物の一番奥に入れている。
ロムコへ逃げた時も、ジュルカの城壁の外で野宿した時も、ヒョルンへ向かった時も、そしてヒョルンで暮らしていた間も、ずっと俺たちと一緒だった。
「寄っていこう」
俺が言うより先にラディが言った。
「もちろん」
海を目指す旅の途中ではあるが、急ぐ理由などない。
それどころか、ここを素通りするという考えは最初からなかった。
領都へ入ってからも神殿を探す必要はなかった。大通りを進んでいけば建物の間から何度も白い尖塔が見え、町の中心へ近づくにつれて、その姿はどんどん大きくなっていった。
やがて神殿前の広場へ辿り着いた時には、俺もラディも馬上からしばらくその建物を見上げていた。
「……大きいね」
「ああ」
村にあった小さな祠とは比較にならない。
広場から長い石段が続き、その上に何本もの巨大な石柱を備えた神殿が建っている。正面の大扉は開かれ、その奥へ次々と人々が入っていった。
参拝者の身なりも様々だった。立派な服を着た者もいれば、農民らしい家族や旅人の姿もある。
俺たちは近くの厩へ馬を預けたあと、荷物を下ろした。
そして、その奥から小さな木箱を取り出す。
ラディがそれを見て、少し嬉しそうな顔をした。
「御神体も?」
「ああ。せっかく大神殿まで来たんだからな」
俺は木箱を両手で抱え、ラディと一緒に長い石段を上った。
神殿の中へ入った途端、外の喧騒が嘘のように遠ざかった。
天井は驚くほど高く、何本もの太い柱がそれを支えている。壁には神話の一場面らしい彫刻が施され、高い位置に設けられた窓から差し込む陽光が、薄暗い堂内を筋状に照らしていた。
そして正面には、大きな祭壇がある。
俺とラディはその前へ並び、しばらく祈りを捧げた。
ここまで二人とも無事に来られたことへの感謝。
これからの旅の安全。
そして、父と母、それから村で命を落とした人々の安息。
祈りを終えてからも、俺たちはすぐには神殿を出なかった。
俺は近くにいた神官へ声をかけた。
「すみません」
「はい。どうされましたか?」
「家で祀っている御神体を持ってきたんです」
そう言って抱えていた木箱を見せると、神官の表情が少し変わった。
「御神体を?」
「はい。鏡です」
「拝見しても?」
「もちろんです」
神官に案内され、大勢の参拝者がいる大広間から少し離れた小さな部屋へ入った。
中央には白い布を敷いた石台が置かれている。
「こちらへ」
俺は言われた通り木箱を石台へ置き、蓋を開けた。
何重にも巻いていた布を一枚ずつ解いていくと、見慣れた鏡が姿を現した。
家にあった頃と変わらない。
決して大きな鏡ではなく、華美な装飾が施されているわけでもない。それでも俺たちにとっては、どんな財宝より大切なものだった。
神官は鏡を手に取らず、まず表を眺め、それから裏側を覗き込んだ。
その時、僅かに眉が動いた。
「……失礼ですが、この御神体はどちらで授けられたものか、ご存じですか?」
「分かりません。俺が生まれるずっと前から家にあったものなので」
「そうですか……少々お待ちください」
「何か?」
「いえ。この裏側の神印が、今使われているものと少し違うのです。確認したいことがあります」
神官はそう言い残して部屋を出ていった。
俺とラディは顔を見合わせた。
「何だろう?」
「さあ」
「何か変なのかな」
「ずっと家にあったものだぞ」
しばらく待っていると、先ほどの神官が年老いた別の神官を連れて戻ってきた。
老人は俺たちへ軽く頭を下げると、石台に置かれた鏡をじっくりと調べ始めた。特に裏側に刻まれている模様を長い時間確認したあと、こちらへ顔を向ける。
「これは、どちらで祀られていたものですかな?」
俺は村の名前を答えた。
「ヒュルマン辺境伯領の東にあった村です」
「あった?」
「……今はドワーフに占領されています」
老人が俺を見る。
「ご家族は?」
「父と母は亡くなりました。村が襲われた時に。俺たち二人だけ逃げてきたんです」
隣に立つラディの表情が僅かに曇った。
「そうでしたか」
老人はそれ以上詳しく尋ねなかった。
代わりに、もう一度鏡へ視線を落とした。
「この御神体は、随分と古いものです」
「古い?」
「ええ。少なくとも、あなた方の御父君の代に授けられたものではありません。この裏側の神印は、現在この地方で用いられているものとは形が違います」
俺も何度も見たことのある模様だった。
今まで、それが特別なものだと考えたことなどない。
「どれくらい古いものなんですか?」
「調べてみなければ断言はできません。しかし、古い記録と照らし合わせれば分かるかもしれません」
老人は少し考えてから俺たちへ尋ねた。
「お時間はありますかな?」
「あります」
海を見に行く旅だ。
一日や二日遅れたところで何も困らない。
「でしたら、御神体を一晩お預かりしても?」
俺はすぐには答えられなかった。
これまで御神体を他人へ預けたことなど一度もない。
俺の迷いを察したのか、老人は穏やかに続けた。
「本殿にて清めを行い、その間にこちらでも記録を調べます。もちろん、無理にとは申しません」
俺はラディを見る。
ラディも少し考えたあと、頷いた。
「お願いします」
その日は神殿の近くに宿を取り、翌朝になるとすぐに再び神殿へ向かった。
昨日の老神官が待っていた。
「分かりましたよ」
そう言って見せてくれたのは、一冊の古びた帳面だった。
「今から百五十年ほど前、この神殿からヒュルマン辺境伯領東部へ移住した一団がいたようです」
「百五十年前……」
「開拓のためだったと記されています。その者たちが新たな土地でも神を祀れるよう、この神殿から御分霊を授けた。その時に用意された御神体の特徴が、この鏡と一致します」
俺は言葉を失った。
ラディが老人を見る。
「じゃあ、これ……ここにあったの?」
「正確には、ここで神の御分霊をお遷ししたのでしょう」
老人は微笑んだ。
「あなた方の御先祖とともに、この神殿から遠い土地へ旅立ったものと思われます」
俺は鏡を見た。
百五十年前、まだ俺たちの村すらなかった頃、祖先たちは新しい土地を目指して、この鏡とともに旅をした。
そこで村を作り、家を建て、畑を耕し、子供を育てた。
何代もの人間がこの鏡へ祈り、それが父へ受け継がれ、母が毎朝水を替えた。そして村が失われたあの日、俺が持ち出した。
ロムコへ。
ジュルカへ。
ヒョルンへ。
ずっと俺たちと一緒だった。
そして百五十年という長い時間を経て、今、再びこの神殿へ帰ってきた。
「……すごいね」
ラディが呟いた。
「ああ」
老神官も鏡を見ていた。
「随分と長い旅をして、帰ってこられたのですね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
その後、俺たちは特別に本殿の奥へ通された。
清められた鏡は白い布の上へ置かれ、その向こうには大神殿の御神体が祀られている。
神官たちが祈りの言葉を唱え、焚かれた香の匂いが漂う中、澄んだ鐘の音が静かな堂内へ響いた。
俺とラディは並んで跪いた。
儀式の最後に、老神官が俺へ尋ねた。
「この御神体を、これからどなたがお守りになりますか?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。
「俺です」
「御父君から直接託されましたか?」
「……いいえ」
そんな時間はなかった。
父は村で死に、俺はラディを連れて逃げた。
それが最後だった。
「でも、俺が持ち出しました。今までもずっと俺が持っています」
老人はゆっくり頷いた。
「では、あなたが受け継ぎなさい」
「俺が?」
「家とは、家屋そのものを指すのではありません」
老人は俺とラディを交互に見た。
「故郷を失おうと、家を失おうと、受け継ぐ者がいる限り、その家の祈りまで失われることはありません。御父君と御母君が守られ、その前の代、そのさらに前の代から受け継がれてきたものを、今度はあなたがお守りになるのです」
俺は鏡を見つめた。
父が毎朝頭を下げていた。
母が水を替えていた。
幼いラディが横で真似をしていた。
それを今度は、俺が守る。
「……はい」
自然と頭が下がった。
「俺が守ります」
老人は俺の頭上で短い祈りを唱え、それからラディにも同じように祈りを捧げた。
最後には俺たち二人の旅の安全を願い、御神体へ加護を願う儀式まで行ってくれた。
すべてが終わると、鏡は新しい白布に包まれて戻ってきた。
「もし望むのであれば、この御神体を当神殿でお預かりすることもできます。元々ここから旅立ったものであるなら、それも一つの縁でしょう」
俺は腕の中の木箱を見る。
ここへ置いていけば安全だ。
旅へ持ち歩けば、壊してしまうことだってあるかもしれない。
それでも答えは決まっていた。
「いえ。持っていきます」
「そうですか」
「俺たちはこれから海を見に行くんです。そのあとも、いろんなところを旅したいと思っています」
「でしたら」
老人は少し笑った。
「この御神体にも、もうしばらく旅をしていただきましょう」
「はい」
俺は木箱を大切に抱えた。
神殿を出ると、眩しい陽光が降り注いでいた。
長い石段をラディと並んで下りている途中、ラディが俺の持っている箱を見た。
「兄ちゃん」
「ん?」
「御神体、海を見るの初めてかな?」
「……どうだろうな」
百五十年も前からあるのだ。
もしかすると、俺たちよりずっと色々なものを見ているのかもしれない。
「でも、たぶん今度の海は初めてだろ」
「じゃあ三人で見るんだね」
俺は思わず笑った。
「神様を一人に数えていいのか?」
「いいんじゃない?」
「そうか」
家はもうない。
故郷にもまだ帰れない。
それでも父と母から受け継いだものは、今も俺の腕の中にある。そして隣にはラディがいる。
俺たちは何もかも失ったわけではなかった。
俺は木箱を荷物の一番安全な場所へ収めると、馬へ跨った。
そしてメルマ公爵領を発つ前に、もう一つ旅に必要なものを買うことにした。
この地方で作られているという、ヒュルン織のマントだった。
ヒュルン織は、表面は多少の雨なら弾き、丈夫で破れにくいにもかかわらず、裏側は驚くほど滑らかで肌触りがいい。
値段を聞いた時には買うのをやめようかと思ったが、これからどれだけ旅を続けるか分からない。
「買うか」
「高いよ?」
「長く使うものだからいいんだよ」
結局、二人分の旅用のマントを仕立ててもらった。
俺は青。
ラディは赤。
完成したものを受け取り、宿で初めて袖を通したラディは、何度も自分の姿を眺めていた。
「どう?」
「似合ってるよ」
「兄ちゃんも格好いい」
「そうか?」
「うん」
俺も自分の青いマントを見る。
少し値は張ったが、悪くない。
「かっこいいな」
「兄ちゃんこそ」
二人でそんなことを言い合いながら笑った。
メルマ公爵領を抜けると、今度は険しい峠道が待っていた。
馬を手に入れたからといって、どこでも楽に進めるわけではない。急な坂が続く場所では馬も明らかに息を荒くしていたため、何度も途中で休ませ、水を飲ませながら進んだ。
その峠の途中だった。
道を塞ぐように、十人ほどの男たちが現れた。
服装こそばらばらだったが、全員が剣や槍、斧、弓といった武器を持っている。
山賊だ。
先頭にいた男が剣を抜いた。
「馬から降りろ。荷物と馬を全部置いていけ」
「兄ちゃん」
ラディが俺を見る。
俺は答えなかった。
代わりに背中の弓を取り、胡簶から一本の矢を抜いた。
「おい、聞こえなかったの――」
男が言い終えるより早く弦を引き絞り、指を離す。
矢は真っ直ぐ飛び、先頭の男の眉間へ突き刺さった。
男が仰向けに倒れた瞬間、残った山賊たちの動きが止まる。
俺はその隙に二本目をつがえた。
「こいつら!」
誰かが叫んだ時には、二本目の矢が弓を持った男の顔へ突き刺さっていた。
「ラディ!」
「ああ!」
ラディが剣を抜く。
馬の腹を蹴り、一気に走らせた。
俺はその間にも三本目の矢をつがえ、ラディへ近づこうとしている男を射る。
胸へ命中した。
ラディは別の男へ馬を走らせ、すれ違いざまに剣を振った。
肩口へ刃が入り、男が悲鳴を上げながら倒れる。
そのまま駆け抜けたラディは十分に距離を取ってから馬を止め、向きを変えた。
俺も次の矢を放つ。
一人が倒れた。
さらに矢をつがえる。
しかし、もう必要なかった。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
仲間が次々に倒されたことで完全に戦意を失ったらしく、生き残った山賊たちは武器まで捨て、我先に山の斜面へ逃げていった。
俺は追わなかった。
ラディも同じだった。
しばらく周囲を警戒してから弓を下ろし、馬をラディのところまで進める。
「怪我はないか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。兄ちゃんは?」
「俺もない」
俺はラディの身体を一通り見て、本当に怪我がないことを確認した。
魔物を殺すことにはもう慣れている。
それでも、地面に倒れているのは人間だった。
死体から金品を漁ろうという気にはなれなかった。
「……行くか」
「うん」
俺たちは倒れた山賊たちを残し、そのまま峠を越えた。
さらに西へ進み続けると、今度は大きな川に行き当たった。
向こう岸まではかなり遠く、水量も多い。しばらく川沿いを探したものの、馬で渡れそうな浅瀬は見当たらなかった。
仕方なく、近くにいた土地の人へ尋ねる。
「この辺りに浅瀬はありませんか?」
「ないな。渡し舟ならあるぞ」
「馬も乗せられます?」
「そりゃ無理だ」
「なら、どうやって向こうへ?」
「橋がある。ここから川沿いに二日くらいだ」
「ありがとうございます」
結局、俺たちは橋まで迂回することになった。
そして実際に辿り着いた橋は、俺が想像していたより遥かに大きかった。
太い石造りの橋脚が激しい流れの中に何本も立ち、その上へ長い橋が架けられている。
「兄ちゃん!」
橋の中央付近まで来たところで、ラディが馬を止めた。
「下見て!」
「危ないから、あんまり身を乗り出すなよ」
「高い!」
「そりゃ橋だからな」
「人が小さい!」
楽しそうに下を覗き込むラディを見て、俺は思わず笑った。
村を失ってから、ラディは随分変わった。
聞き分けがよくなった。
我慢するようになった。
俺に心配をかけまいとすることも増えた。
それでも、こういうところは昔と変わらない。
橋を渡りきれば、そこから先はギュルン王国だった。
俺たちにとって、初めて足を踏み入れる国だ。
家の形も、人々の服装も、食事も、それまで通ってきた土地とは少しずつ違っていた。町へ入るたびにラディが珍しそうに周囲を見回し、俺も市場を見つければ寄り道した。
知らない食べ物があれば食べてみた。
見たことのない道具があれば、店の人へ何に使うのか尋ねた。
聞いたことのない祭りをやっていれば見物した。
いつしか俺たちは、海へ急ぐことすらしなくなっていた。
旅そのものが面白かった。
そしてギュルン王国へ入ってから、さらに西へ進んだある日のことだった。
その日は朝から、風に今までとは違う匂いが混じっていた。
「兄ちゃん」
馬を進めながら、ラディが鼻を動かした。
「なんか変な匂いしない?」
「ああ」
俺には分かった。
前世では何度も嗅いだことがある、懐かしい匂いだった。
潮だ。
「もう近いぞ」
「海?」
「ああ」
それを聞いた途端、ラディが嬉しそうに馬を速めようとした。
「おい、飛ばすなよ!」
「分かってる!」
絶対に分かっていない。
俺も苦笑しながら後を追った。
やがて街道は緩やかな丘を上り始めた。
丘の向こう側はまだ見えない。
けれど、進めば進むほど潮の匂いが強くなり、風の感触まで今までとは違うように思えた。
ラディが先に頂上へ着いた。
そして突然、馬を止めた。
俺も少し遅れて追いつき、その隣へ馬を並べる。
そこに広がっていた景色を見た瞬間、俺も何も言えなくなった。
海だった。
俺は知っている。
前世で何度も見た。
それでも、この世界で初めて見る海は、記憶の中にあるものとはどこか違って見えた。
丘の遥か下から、青い水面がどこまでも続いている。
その先に岸はない。
陽の光を受けた水面が無数に煌めき、遥か彼方では空と海の境目さえ分からなくなっていた。
ラディは何も言わなかった。
ただ、じっと海を見つめている。
俺も何も言わずに待った。
本で初めて「海」という言葉を知ったあの日から、こいつはきっと、この景色を見てみたいと思っていたのだろう。
けれど、自分から連れていってくれとは言わなかった。
俺に迷惑をかけたくなかったのかもしれない。
そんな遠くへ行けるはずがないと思っていたのかもしれない。
だから、あの時は俺から言った。
――行くか、海に?
あの時の選択は間違っていなかったらしい。
今のラディの顔を見れば、それだけは分かった。
しばらくして、ようやくラディが口を開いた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「あれ……全部、水?」
俺は笑った。
「ああ」
「本当に向こうが見えない」
「ああ」
「すごい……」
それだけ言うと、また黙ってしまった。
その顔には、いつの間にか満面の笑みが浮かんでいた。
「来てよかったな」
俺がそう言うと、ラディは海を見たまま大きく頷いた。
「うん!」
風が丘を吹き抜け、ラディの赤いマントの裾を大きく揺らした。
俺の青いマントも同じように風にはためく。
「ラディ」
「なに?」
「次はどこ行こうか」
ラディはこちらを見た。
それから、もう一度海へ顔を向ける。
「まだ決めなくていいんじゃない?」
思いがけない答えに、俺は少し驚いた。
「なんで?」
「だって、まだ海に着いたばっかりだよ」
「……それもそうだな」
俺は笑った。
まずは海を見よう。
海辺の町を歩いて、海の魚を食べて、船を見て、それから次に行きたい場所を探せばいい。
急ぐ理由なんて、もうどこにもないのだから。
「じゃあ行くか」
「うん!」
俺たちは馬を進ませ、海へ続く坂道をゆっくりと下っていった。
俺の隣にはラディがいる。
そして目の前には、まだ見たことのない世界がどこまでも続いている。
兄弟二人の旅は、まだ始まったばかりだった。




