海へ
ラディが初めて魔物を倒してから、さらに月日が流れた。
最初のうちは森へ入るたびにラディのことが気になり、少し離れただけでも何度も姿を確認していた俺だったが、そんな心配も少しずつ減っていった。ゴブリンやコボルト程度であれば、もはやラディが一人で相手をしても危なげなく倒せるようになり、俺が助けに入る必要などほとんどなくなっていたからだ。
二人で森へ入ることが当たり前になるにつれ、戦う時の役割も自然と決まっていった。
俺は弓を使って遠距離から敵の数を減らし、ラディは剣を使って接近してきた相手を仕留める。
森を歩く時には俺がやや後ろから周囲を見渡し、こちらより先に魔物を見つければ、まだ気づかれていないうちに弓で仕留める。複数の魔物が相手なら、接近されるまでにできるだけ俺が数を減らし、それでもこちらまで辿り着いた相手をラディが剣で片づけるというのが、いつの間にか俺たちのいつもの戦い方になっていた。
「右、二匹!」
俺が声を上げると、ラディは振り返ることもなく右へ動いた。
俺は正面から走ってくるゴブリンへ矢を放つと、一本目が喉へ突き刺さったことを確認するより早く次の矢をつがえ、二匹目の胸へ向けて放った。二本目の矢がゴブリンの身体へ深く突き刺さる頃には、ラディも右側から迫ってきた二匹のゴブリンとの距離を詰めており、一匹目の棍棒を躱しながら懐へ潜り込むと、そのまま剣を横へ振り抜いた。
一匹目が崩れ落ちるより早く返す刃でもう一匹の首元を斬りつけ、俺が三本目の矢をつがえた時には、すでにラディの側の戦いも終わっていた。
「兄ちゃん、そっち終わった?」
「ああ。そっちは?」
「見れば分かるでしょ」
「そうだな」
「じゃあ魔石取ろう」
「はいはい」
そんな軽口を交わせるくらいには、俺たちは魔物を狩ることに慣れていた。
もっとも、慣れたからといって油断するつもりはない。どれほど弱い魔物であっても、棍棒や石斧をまともに頭へ受ければ大怪我をするし、森の中では魔物だけではなく獣にも注意しなければならない。一匹だけだと思って不用意に近づいたところ、茂みの奥に仲間が何匹も潜んでいたこともあったため、戦いに慣れてからも周囲への警戒だけは怠らないようにしていた。
それでも、初めてヒョルンの森へ入った頃と比べれば、余裕ができたのは間違いなかった。
森で一緒に戦うようになってからも、ラディとの剣の稽古は続けていた。
以前なら俺がかなり手加減をしても簡単にあしらうことができたのだが、少しずつ余裕がなくなり、今では本気で木剣を振らなければ、こちらが一本を取られることも珍しくなくなっていた。
ある日の稽古では、一刻近くも木剣を打ち合わせたにもかかわらず、最後までほとんど互角だった。
俺が一本取れば、次はラディが一本取り返す。こちらが力で攻め込めば受け流され、ラディが素早く踏み込んでくれば、俺も下がって距離を取らなければならない。
「はっ!」
ラディが振り込んできた木剣を受け止め、そのまま力で押し返そうとしたところで、突然ラディが木剣に込めていた力を抜いた。
予想していなかった俺の身体が僅かに前へ流れる。
まずい。
そう思った時には、ラディはもう横へ回り込んでいた。
次の瞬間、木剣の先が俺の脇腹へ軽く触れた。
「一本!」
「……またかよ」
「これで僕の方が一本多いよ」
「まだ終わってないぞ」
「もう一刻やってるじゃん」
「疲れたのか?」
「兄ちゃんこそ」
「言ったな」
俺が再び木剣を構えると、ラディも楽しそうに笑いながら構え直した。
少なくとも剣だけを比べるなら、もう俺とラディの実力にはそれほど大きな差がない。それどころか、純粋な剣の才能だけで考えれば、ラディの方が明らかに上なのではないかと思うようになっていた。
そんなラディを連れ、俺たちは次第に森のさらに奥へも足を延ばすようになった。
浅い場所でゴブリンやコボルトを狩るだけでも生活には十分だったが、俺たち二人の腕も上がっていたし、もっと強い魔物は魔石や素材の値段も高い。無理をしない範囲で少しずつ狩場を広げていった結果、それまで遭遇することのなかった魔物とも戦うようになった。
その一つがオークだった。
初めて見た時には、その独特な姿に思わず足を止めた。
人間より一回り大きな身体は桃色がかった肌に覆われ、前へ大きく突き出た太った腹が目立っている。顔つきも人間とは大きく異なり、下顎からは二本の太い牙が上向きに突き出し、手には木を荒く削って作った太い棍棒を持っていた。
ゴブリンやコボルトより遥かに身体が大きく、見るからに力も強そうだった。
実際、魔石ギルドで聞いた話でも、オークの腕力は人間の男を遥かに上回り、棍棒の一撃をまともに受ければ革鎧程度ではほとんど意味がないという。
だが、力が強いことと戦いが強いことは同じではない。
「ラディ」
「ああ」
それだけで、お互い何をするべきか分かった。
二匹のオークがこちらに気づき、棍棒を振り上げながら走ってくると、俺は左側、ラディは右側の一匹へそれぞれ狙いを定めた。
俺はすぐに矢をつがえて弓を引き絞り、走ってくるオークの喉へ狙いを合わせる。頭を狙うよりも的が大きく、鎧もない場所なので矢を通しやすい。
呼吸を止めて矢を放つと、鏃は狙った場所へ深く突き刺さり、オークは勢いのまま数歩進んだものの、そのまま前のめりになって地面へ倒れた。
その隣では、ラディがオークの振り下ろした棍棒を正面から受けることなく横へ躱し、そのまま懐へ潜り込んでいた。
低い姿勢から横薙ぎに振られた剣がオークの腹を深く切り裂く。
怒りと痛みでオークが叫び、力任せに棍棒を振り回したが、ラディはすでにそこから離れていた。
大振りの棍棒が空を切った直後、ラディがもう一度距離を詰め、今度は首へ剣を叩き込む。深く入った刃を引き抜くと、オークの巨体は力を失い、そのまま重い音を立てて倒れた。
「終わった?」
「ああ」
ラディは剣についた血を軽く払いながら俺の方を見ると、何でもなかったような顔で言った。
「思ったより遅かったね」
「油断するなよ。まともに棍棒を食らったら、それだけで終わりだからな」
「分かってるよ」
そう答える顔には、まだ十分な余裕が残っていた。
さらに森の奥へ入るようになると、今度はオーガにも遭遇するようになった。
オーガはオークよりもさらに大きく、赤い肌に、人間とは比べものにならないほど太い腕を持っている。何より目立つのは額から前へ突き出した一本の太い角で、初めて目の前で見た時には、その巨体と威圧感にさすがの俺も緊張した。
手に握っている棍棒など、俺の腕よりも太い。
あんなものをまともに受ければ、革鎧を着ていようが骨ごと潰されるだろう。
だから、受けることなど最初から考えなければいい。
どれほど力が強くても、攻撃が当たらなければ意味はないし、俺の場合はそもそも近づかせなければいい。
俺はオーガがこちらへ気づいたのを確認すると、すぐに矢をつがえて弓を引いた。
オーガが大声で咆哮を上げ、地面を揺らすような足取りでこちらへ走り始める。
十分に距離はある。
俺は慌てることなく狙いを定めた。
身体は大きいが、それだけ皮膚も厚く、矢が中途半端な場所へ刺さった程度では止まらないかもしれない。
ならば、狙う場所は一つだった。
俺は右目へ狙いを合わせ、弦から指を離した。
放たれた矢は真っ直ぐオーガへ向かい、右目から深々と頭部へ突き刺さった。
走っていた巨体がぐらりと傾き、そのまま前へ倒れ込むと、大きな音とともに土煙が上がった。
「……一発?」
隣にいたラディが驚いたように呟いた。
「一発だな」
「ずるい」
「何がだよ」
「僕もやりたかった」
「オーガを?」
「うん」
「次に一匹だけでいる奴を見つけたらな」
「ほんと?」
「俺が危ないと思ったらすぐに射るけど、それでいいなら」
「分かった!」
その約束を果たす機会は、思っていたよりも早く訪れた。
数日後、同じように森の奥を進んでいると、一匹だけで歩いているオーガを見つけた。
俺が弓へ手を伸ばすより早く、ラディは剣を抜いた。
「僕がやる」
「危ないと思ったら射るぞ」
「大丈夫」
ラディはそう答えると、剣を両手で構えながらゆっくり前へ進んだ。
こちらへ気づいたオーガが咆哮を上げ、巨大な棍棒を頭上へ持ち上げると、そのままラディめがけて力任せに振り下ろす。
ラディは受ける素振りすら見せず、棍棒が落ちてくる直前に横へ飛んだ。
直後、棍棒が地面へ叩きつけられ、鈍い音とともに土が大きく跳ね上がった。
まともに受ければどうなるかは、見ただけでも分かる。
しかし、大きな武器を全力で振れば、その直後には必ず隙ができる。
ラディは棍棒を振り下ろしたばかりのオーガへ一気に距離を詰め、太腿へ剣を深く走らせた。
オーガが苦痛の声を上げながら身体を捻る。
だが、ラディはその時にはもう反対側へ回っており、続けて膝の裏へ刃を叩き込んだ。
片脚を支えきれなくなった巨体が大きく傾き、そのまま片膝をつく。
そこを見逃さず、ラディはもう一歩踏み込み、低くなったオーガの首へ全身を使って剣を振り抜いた。
さすがに一撃で首を落とすことはできなかったが、刃は深く食い込み、オーガは大量の血を流しながら地面へ倒れた。
それでもラディはすぐには近づかず、一度距離を取って剣を構えたまま、完全に動かなくなるまで様子を見ていた。
やがて、オーガの身体から完全に力が抜けた。
「兄ちゃん」
ラディが振り返る。
「どう?」
「……俺の矢の方が早いな」
「そうじゃなくて!」
「冗談だよ」
俺は笑いながら弓を下ろした。
「十分だ。俺が射る必要はなかった」
「でしょ?」
ラディは満足そうに笑った。
こうして森の深い場所まで狩りに行けるようになると、当然ながら稼ぎも大きく増えていった。
オークやオーガから取れる魔石は、ゴブリンやコボルトのものとは比べものにならないほど高く売れ、牙や角、皮、臓器などにも買い取り対象になるものがあった。そのため、毎日の宿代や食費を払い、武器や防具の手入れをし、矢や弦といった消耗品を補充しても、それなりの金が手元へ残るようになった。
気がつけば、ジュルカにいた頃のように革袋の中身を毎晩数えながら、あと何日食べていけるのかを心配する必要もなくなっていた。
今日獲物を得られなければ明日の飯に困る。
そんな暮らしは、もう終わっていた。
生活に余裕ができたことで、俺は余った金を本に使うようになった。
ヒョルンには何軒か本を扱う店があり、最初にそれを知った時からずっと気にはなっていたのだが、本はかなり高価だった。前世なら気軽に買えるような薄い本でさえ、こちらでは何日分もの食費に相当することも珍しくない。
それでも、生活に困らないだけの金ができたのなら、俺は本が欲しかった。
もともと俺は、知らないことを知るのが好きだった。
それは前世から変わっていない。
知らない土地があると聞けばどんな場所なのか知りたくなるし、見たことのない生き物がいると聞けば実際に見てみたいと思う。知らない文化や習慣があるなら、それがどうして生まれたのかまで知りたくなる。
ましてや、ここは前世とはまったく違う世界だ。
この世界にはどれだけの国が存在するのか、どこまで土地が続いているのか、人間以外にはどんな種族が暮らしているのか、まだ見たことのない魔物にはどんなものがいるのか、そして俺たちが暮らしている土地から遥か遠くには何があるのか。
知りたいことはいくらでもあった。
最初に買ったのは、ヒョルン周辺の土地について書かれた本だった。
次は魔物についてまとめられたものを買い、さらに金に余裕ができると、この辺り一帯の国々や地形について記された地理の本まで手を出すようになった。
俺が本を読む時間が増えるにつれ、ラディも横から頁を覗き込むことが多くなった。
「兄ちゃん、それ何?」
「南にある国について書いてある」
「何て書いてあるの?」
「自分で読め」
「読めない字があるもん」
「じゃあ覚えろ」
そんなやり取りがきっかけとなり、俺はラディへ読み書きも教えるようになった。
村にいた頃にも簡単な文字や数字は習っていたため、まったく読めないわけではないのだが、本を自由に読み進められるほどではなかった。
最初のうちは一行読むだけで何度も止まり、知らない文字が出てくるたびに俺へ尋ねてきた。俺が読み方と意味を教えればもう一度読み、それでも間違えればまた最初からやり直す。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、少しずつ俺へ聞かずとも読める文章が増えていった。
そして、ある日のことだった。
その日は狩りへ出ないと決めていたため、俺たちは宿の部屋で朝からのんびりと本を読んでいた。
俺が手にしていたのは魔物について書かれた本で、ラディは以前買った地理の本を読んでいる。
しばらくは頁をめくる音だけが部屋の中に響いていたのだが、突然ラディが俺を呼んだ。
「兄ちゃん」
「ん?」
「これ何?」
ラディは本を抱えたまま俺のところまで来ると、開いていた頁の一箇所を指差した。
そこには、この辺りから遥か南西にある土地について書かれており、その中に俺にとっては何でもないが、ラディにとっては初めて目にする言葉があった。
「海って?」
ラディがその文字を指でなぞりながら尋ねてきた。
「大きな水のあるところだよ」
「湖?」
「似てるけど、湖よりずっと大きい」
「どれくらい?」
「向こう岸が見えないくらい」
そう答えると、ラディは上手く想像できないらしく、不思議そうに首を傾げた。
「向こうが見えないの?」
「ああ。岸に立って見たら、どこまで見ても水が続いてる」
「どこまで行っても?」
「少なくとも、人間の目で見える範囲はずっとだな」
「そんなに大きいの?」
「大きいよ」
少なくとも、前世で見た海はそうだった。
この世界の海が前世とまったく同じものなのかは分からないが、本に書かれている説明を読む限り、大きく違うものではなさそうだった。
「じゃあ、向こうへ行きたかったらどうするの?」
「船に乗る」
「船?」
「川に浮かんでる小さな船なら見たことあるだろ?」
「ああ、あれ?」
「そう。それを何倍も何十倍も大きくしたような船を海に浮かべて、人や荷物を載せて移動するんだ。何十人も一度に乗れる船だってある」
「そんなに大きいのに沈まないの?」
「普通は沈まない」
「すごい……」
ラディの目が分かりやすく輝いた。
「海の向こうにも町があるの?」
「あると思うぞ。別の国だってあるだろうな」
「魚は?」
「もちろんいる」
「川の魚と同じ?」
「海にしかいない魚もたくさんいるよ。中には人間より大きいのもいる」
「そんなに大きいの!?」
「もっと大きいのもいる」
前世の鯨を思い浮かべながら答えると、ラディは信じられないというような顔で俺を見た。
「人より?」
「ああ」
「オーガより?」
「大きいやつなら、オーガなんか比べものにならないと思うぞ」
「ええ……」
しばらく驚いた顔をしていたラディは、やがて再び手元の本へ視線を戻した。
その頁に海の絵が描かれているわけではなく、数行の文章で簡単に説明されているだけなのだが、ラディはその場所からなかなか目を離そうとしなかった。
「海か……」
小さくそう呟いたのが聞こえた。
俺は横目でその様子を見たものの、あえて何も言わず、自分の本へ視線を戻した。
しばらくすると、また声をかけられた。
「兄ちゃん」
「今度はなんだ?」
「海って青いの?」
「天気がいい日は青く見えるな」
「水は青くないのに?」
「所によっては緑っぽかったり、もっと暗く見えたりもするけど」
「ふうん……」
ラディは納得したような、していないような顔で本へ戻った。
だが、それからしばらくすると、またこちらを見る。
「兄ちゃん」
「なんだよ」
「海って、ここからどれくらい?」
さすがに俺も笑いそうになった。
「知らないよ。地図を見ればだいたい分かるんじゃないか?」
「どこ?」
「ほら、そこに地図あるだろ」
ラディはすぐに本を机の上へ広げ、まず今いるヒョルンを探すと、そこから海があるらしい南西へ指を動かしていった。
「あった」
「どれ?」
「これじゃない?」
俺も横から覗き込む。
「そうだな。たぶんそれだ」
地図の上で見てもかなり遠い。
ヒョルンから南西へ進み、いくつもの町を通り、大きな川を越え、山地を迂回したさらに先に、長い海岸線が描かれていた。
「……遠いね」
「遠いな」
「歩いたら何日くらい?」
「さあな。一月じゃ着かないかもしれないぞ」
「そんなに……」
ラディはそう言ったものの、それで興味を失った様子はなく、相変わらず地図の海岸線をじっと眺めていた。
俺はその横顔を見ながら、すぐに気づいた。
分かりやすすぎる。
海を見てみたいのだ。
昔のラディなら、きっと何も考えずに「兄ちゃん、行こう」「海見たい」「連れていって」と言って、俺の腕を引っ張っていたはずだ。
けれど、今は何も言わない。
村を失ってから、ラディはずいぶん聞き分けがよくなった。
ロムコへ逃げた時も、ジュルカを目指した時も、そこからヒョルンまで何日も歩いた時も、疲れたとも、腹が減ったともほとんど言わなかった。
ヒョルンで生活が安定してからも、欲しいものをねだることはほとんどない。
だから今回も、本当は海を見てみたいと思っているのに、俺へ言おうとしないのだろう。
遠いから。
金がかかるから。
旅をすれば今までの生活を変えなければならないから。
そして何より、自分のわがままで俺を困らせたくないと思っているのかもしれない。
そんなところだろう。
俺はラディが開いている地図を、改めて横から覗き込んだ。
海。
そういえば、俺自身もこの世界へ生まれてから一度も見ていない。
前世では知っている。
潮の匂いも、遥か遠くまで伸びる水平線も、絶えず寄せては返す波の音も、裸足で歩けば足の裏へまとわりつく砂浜の感触も知っている。
けれど、それは前世の海だ。
この世界の海は知らない。
どんな色をしているのだろう。
どんな魚がいるのだろう。
どんな魔物が海の中に棲んでいるのだろう。
どんな形の船が浮かび、その船はどれほど遠くまで行くのだろう。
そして海の向こうには、一体どんな国や人々がいるのだろう。
そんなことを考えているうちに、俺まで少しずつわくわくしてきた。
もともと俺は、知らないものが好きだった。
知らない場所があれば行ってみたいと思うし、見たことのないものがあれば、自分の目で確かめたくなる。
それは前世でも同じだったし、この世界に生まれてからも何も変わっていない。
ただ、今までそんなことを考える余裕がなかっただけだった。
村にいた頃はまだ子供で、自由に遠くへ旅をすることなど考えられなかった。
村がドワーフに襲われてからは、ラディを連れて生き延びることだけで精一杯だった。
ロムコへ逃げ、そこにもドワーフが迫ればまた逃げ、ジュルカへ辿り着いたと思えば今度は仕事が見つからず、食べていくためにヒョルンまでやってきた。
ヒョルンに来てからだって、最初は毎日の食事と宿代を稼ぐことで頭がいっぱいだった。
けれど、今は違う。
金はある。
少しくらい働かなくても困らない程度には蓄えもできた。
俺は弓を使えるし、ラディは剣を使える。
二人でならオークやオーガだって倒せるし、獣を狩ることも、森で野営することもできる。
何より、よく考えてみれば、俺たちをヒョルンへ縛りつけているものは何一つなかった。
家を買ったわけでも、畑を持っているわけでもない。
誰かに雇われているわけでもなければ、魔石ギルドに所属しているわけでもなく、俺たちは自分たちで魔物を狩り、持ち帰った素材を勝手に売って生活しているだけだ。
別にヒョルンでなければ生きていけないわけではない。
だったら、行きたいところへ行ってもいいのではないか。
そう考えると、答えは思っていたより簡単だった。
俺はまだ地図を眺めているラディへ声をかけた。
「ラディ」
「ん?」
「海、見たい?」
一瞬だけ、ラディの目がぱっと輝いた。
けれど、すぐにその表情を隠すように本へ視線を戻す。
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「うん」
「本当にちょっとか?」
「……」
返事がない。
分かりやすすぎる。
俺は思わず笑ってしまった。
「行くか」
「え?」
ラディが勢いよく顔を上げる。
「海だよ。二人で見に行くか?」
ラディはしばらく何を言われたのか分からないような顔をしていたが、やがて目を大きく見開いた。
「……いいの?」
その言葉を聞いて、やっぱり行きたかったのだと思った。
「いいも何も、誰かにここから出るなって言われてるわけじゃないだろ」
「でも、すごく遠いよ」
「遠いな」
「宿代もかかるし、ご飯もいるし……」
「金ならある」
「でも兄ちゃん、森で仕事できなくなるよ」
「別の土地にだって魔物くらいいるだろ。獣だっているし、金が足りなくなったら途中で狩って稼げばいい」
ラディは何も言わなかった。
けれど、押さえようとしても抑えきれないように、口元が少しずつ緩んでいく。
「それに」
俺は地図に描かれた海岸線を指でなぞった。
「俺も見たくなった」
「兄ちゃんも?」
「ああ」
これはラディを喜ばせるために言ったわけではなく、本心だった。
最初はラディが海について何度も聞いてくるから考え始めただけだったが、今では俺自身がこの世界の海を見てみたくなっている。
「別に、ずっとここにいなきゃいけないわけでもないしな。行きたいところがあるなら、行けばいい」
ラディがじっと俺を見る。
「ほんとに行く?」
「ああ」
「海まで?」
「海まで」
「すごく遠くても?」
「行くよ」
「途中でやっぱり帰るって言わない?」
「言わねえよ」
そこまで答えると、ようやくラディは我慢するのをやめたらしく、満面の笑みを浮かべた。
「行きたい!」
さっきまで遠慮していたのが嘘のようだった。
「僕、海見たい!」
「ああ」
「船も見たい!」
「見ればいい」
「乗れるかな?」
「金払えば乗せてもらえるんじゃないか?」
「海の魚も食べられる?」
「港町なら食えるだろ」
「じゃあ食べたい!」
今まで我慢していた分を取り戻すように、次から次へと言葉が飛び出してくる。
その姿を見ていると、俺まで嬉しくなって笑ってしまった。
やっぱり、ずっと遠慮していたらしい。
「よし。じゃあ旅の準備だ」
俺は読んでいた本を閉じ、ラディが広げていた地図を机の中央へ動かした。
「うん!」
「まずは道を調べるぞ。いきなり何も考えずに南西へ歩いたって海には着かないからな」
ヒョルンから海まではかなり遠く、地図を見る限りでも、いくつもの町を通り、大きな川を越え、山地を避けながら進む必要があるらしい。場所によっては街道が途切れているかもしれないし、治安の悪い土地や魔物の多い場所がある可能性だってある。
旅に必要な金や食料だけでなく、野営道具、武器、予備の弦、矢、薬、それに途中で必要になりそうなものまで考えれば、準備することはいくらでもあった。
けれど、不思議と面倒だとは思わなかった。
むしろ、それすら楽しかった。
これまでの旅とはまったく違う。
村を出た時は、ドワーフから逃げるためだった。
ロムコを離れた時も、そこへドワーフが迫ってきたから逃げるしかなかった。
ジュルカからヒョルンへ向かった時だって、ジュルカではまともに生活していけなかったから、稼げる場所を求めて移動しただけだ。
俺たちは一度だって、行きたいから旅をしたわけではなかった。
生きるために、次の場所へ行かなければならなかっただけだ。
けれど、今度は違う。
誰にも追われていない。
ヒョルンにこのまま暮らそうと思えば、それもできる。
毎日森へ入り、魔物を狩り、金を稼いで、今までと同じように暮らし続けることもできる。
それでも俺たちはここを出る。
誰かに命令されたからでも、逃げなければ死ぬからでもない。
俺たち自身が、行ってみたいと思ったからだ。
「兄ちゃん」
「ん?」
地図を眺めていたラディが、今度は海岸線のさらに向こう、何も描かれていない場所を指差した。
「海の向こうにも行ける?」
この地図が扱っているのはこの辺りの国々だけなのだろう。
海の向こうには、何も描かれていない。
俺はしばらくその空白を眺めた。
そこに何があるのかは知らない。
別の国があるのか。
島があるのか。
まったく違う人々が暮らしているのか。
それとも、俺の想像もできない何かがあるのか。
分からない。
だからこそ、少し興味が湧いた。
「さあな」
俺は笑った。
「まずは海を見てから考えようぜ」
「うん!」
こうして俺たちは、ヒョルンを離れることを決めた。
最初の目的地は海。
その先のことなど、まだ何も決めていない。
途中にどんな町があり、どんな人間が暮らし、どんな魔物と出会うのかも分からない。海が実際にはどれほど大きく、どんな船が浮かび、その向こうに何が待っているのかも知らない。
知らないことばかりだった。
けれど、それでいい。
むしろ、知らないからこそ行ってみたい。
この世界にどんなものがあるのか、自分の目で見てみたい。
そんな気持ちを抱きながら、俺はラディと一緒に地図へ顔を寄せ、海までの道筋を探し始めた。




