砂漠
俺たちは浮島を後にすると、今度は北へ向かうことにした。
浮島で聞いた話によれば、ここからさらに北へ進んだ先には広大な砂漠が広がっているらしい。それも、ただ砂ばかりが続く何もない土地というわけではない。その砂の下には、今ある国々が生まれるよりも遥か昔に栄えた文明の遺跡が、いくつも埋もれているという。
その話を聞いた時から、ラディは明らかに興味を持っていた。
「兄ちゃん、砂漠ってどんなところ?」
「砂ばっかりのところだよ」
「森は?」
「たぶんほとんどない」
「川は?」
「少ないんじゃないか」
「雨は?」
「それもあんまり降らない」
ラディはしばらく考え込んだ。
何を考えているのかは、だいたい分かる。
案の定、少しして俺を見ると、
「見てみたい」
と言った。
やっぱりそうなるか。
もっとも、俺だって人のことは言えない。前世では砂漠なんて写真や映像でしか見たことがなかったし、それ以上に古代遺跡という言葉に惹かれていた。
何百年、あるいは何千年も昔の人間が造ったものが、今も砂の中に残っている。
そんなものがあると知って、素通りできるわけがない。
「行こう!」
俺がそう言うと、ラディの顔がぱっと明るくなった。
「うん!」
こうして次の目的地が決まった。
北へ。
砂漠と、その砂の中に眠る古代遺跡を目指して、俺たちは再び馬を進めた。
北へ向かって数週間。
浮島の周辺では岩の多い土地が続いていたが、進むにつれて景色は少しずつ変わっていった。緩やかな丘陵が増え、その間には麦畑が広がるようになる。
ちょうど収穫の時期らしい。
街道の両側には刈り取りを終えた畑が続き、ところどころで農民たちが麦束を荷車へ積み込んでいた。
そんな日の夕方だった。
そろそろ今夜の野営場所を探そうかと考えながら街道を進んでいると、前方に小さな村が見えてきた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「なんか賑やかじゃない?」
言われて耳を澄ます。
確かに、村の方から笛や太鼓のような音が聞こえていた。
煙も何本か上がっている。最初は火事かとも思ったが、どうやら違うらしい。風に乗って、肉の焼けるいい匂いまで漂ってきた。
「祭りかな」
「行ってみようよ」
「どうせ水も補給したいしな」
俺たちは馬を村へ向けた。
村へ入ると、予想通り祭りの真っ最中だった。
家々の軒には麦の穂を束ねた飾りが掛けられ、中央の広場には長い木の机がいくつも並べられている。大鍋では肉や野菜がぐつぐつと煮込まれ、男たちはすでに酒を飲み始め、女たちは次々と料理を運んでいた。
その間を子供たちが走り回っている。
見るからに収穫祭だった。
俺たちが馬に乗ったまま広場の入口で様子を窺っていると、一人の老人が近づいてきた。
「旅の人か?」
「はい」
「どこから来た?」
俺は南を指した。
「南の浮島からです」
「ほう。あんな遠いところから」
老人は感心したように俺とラディを眺め、それから二頭の馬へ目をやった。
「北へ向かっておるのか?」
「はい。砂漠まで行ってみようと思ってます」
「砂漠か。そりゃまた遠いところへ行くもんじゃ」
老人は笑うと、祭りの行われている広場を指した。
「ちょうど今日は収穫祭じゃ。おぬしらもどうじゃ?」
「いいんですか? 俺たちはよそ者ですけど」
「かまわん、かまわん。祝い事は皆でやるものだ。それに、この村じゃ旅人を追い返す方が縁起が悪い」
「それなら……ありがとうございます」
断る理由はなかった。
何より、隣にいるラディが大鍋と焼かれている肉を交互に見ている。
「行くぞ」
「うん!」
俺たちは馬を村の厩へ預け、祭りへ加えてもらうことにした。
ところが、その途中だった。
「……あれ?」
ラディが畑の方を見て足を止めた。
「どうした?」
俺もそちらを見る。
麦を刈り終えた畑の中に、いくつもの巨大な藁人形が立っていた。
小さいものでも人間ほどの大きさがあり、大きなものになると俺たちの倍近い背丈がある。古びた服を着せられたものもあり、遠目には本当に人間が立っているようにも見えた。
ただ、どの藁人形にも奇妙な共通点があった。
「兄ちゃん、あれ……」
「ああ」
腕が一本しかない。
どの藁人形にも右腕がなかった。
気になった俺は、先ほどの老人へ尋ねてみた。
「どうして、あの人形には右腕がないんですか?」
「ああ、あれか」
老人は藁人形へ目を向けると、少し懐かしそうに目を細めた。
「昔からこの村に伝わっている話があってな」
俺とラディは老人を見る。
「もう何百年も昔のことだそうじゃ。この辺りに、とてつもなく大きな猪の魔物が棲みついたことがあった」
その魔物は夜になると畑へ入り込んで作物を食い荒らし、家畜を襲った。
村人たちも何度か討伐を試みた。
だが、普通の猪とは比べものにならないほど巨大で、矢を射ても厚い皮と脂肪に阻まれ、槍で突いても止めることができなかったという。
何人もの村人が怪我をし、ついには命を落とす者まで出た。
畑へ出ることさえ危険になり、このままでは冬を越せない。
村人たちが村そのものを捨てることまで考え始めた頃、一人の旅人がやって来た。
旅人は村に一晩泊まり、人々から事情を聞いた。
そして翌朝。
たった一人で猪の魔物を退治しに行った。
「一人で?」
ラディが驚く。
「そう伝わっておる」
老人は頷いた。
激しい戦いだったという。
それでも旅人は、ついに猪を仕留めた。
だが、無傷では済まなかった。
「右腕を失ったそうじゃ」
俺はもう一度、畑の藁人形を見る。
なるほど。
だから全部、右腕がないのか。
「村人は当然、礼をしようとした。金でも食料でも、望むものを渡すと言ったそうじゃ。だが、その旅人は何も受け取らなかった」
「どうして?」
「さあな」
老人は笑った。
「ただ、『困っていたから助けただけだ』と言って、傷が治ると村を出ていったそうじゃ」
旅人の名前は伝わっていない。
どこから来たのかも。
その後、どこへ行ったのかも分からない。
ただ、右腕を失ってまで村を救った旅人がいたという話だけが、何百年経った今でも残っている。
「それからこの村では毎年、収穫が終わると右腕のない藁人形を作るようになった。わしらがこうして畑を耕し、収穫を祝えるのは、あの旅人のおかげじゃとな」
老人は俺たちを見た。
「だから旅人は、この村では歓迎するのだよ」
「そうなんですね」
俺はもう一度、藁人形を眺めた。
何百年も前に、たまたまこの村へやって来た一人の旅人。
その人間がしたことを、会ったことすらない人々が今も覚えている。
なんだか不思議な話だった。
「兄ちゃん」
「ん?」
「その人、格好いいね」
「ああ」
俺もそう思う。
日が暮れると、祭りはますます賑やかになった。
広場の中央には大きな焚き火が焚かれ、村人たちがその周りへ集まっている。
俺たちも料理をたっぷり振る舞ってもらった。
焼いた豚肉。
採れたばかりの豆と腸詰めを煮込んだもの。
新麦を使った柔らかなパン。
さらに蜂蜜を練り込んで焼いた菓子まであった。
「兄ちゃん、これ美味しい」
ラディが菓子を頬張りながら言った。
「食いすぎるなよ」
「兄ちゃんも三つ食べてるじゃん」
「これは別腹だ」
「何それ」
俺にも分からん。
食事が一段落した頃、笛と太鼓の音が大きくなった。
村人たちが焚き火の周囲へ集まり、輪になって踊り始める。
難しい踊りではない。
隣の人間と手を繋ぎ、音楽に合わせて右へ三歩。左へ二歩。そこで足を踏み鳴らし、今度は反対へ回る。
当然、俺たちは見ているだけのつもりだった。
ところが、
「ほら、お前たちも!」
近くにいた若者に腕を掴まれ、あっという間に輪の中へ引き込まれた。
「いや、俺たち踊り方知らないんだけど!」
「前の奴の真似しろ!」
「兄ちゃん、こっち!」
「お前いつの間に覚えたんだよ!」
見ると、ラディはすでに村の子供や若者たちに混じって踊っていた。
仕方なく俺も周囲の真似をする。
最初は散々だった。
足を出す方向を間違えてラディとぶつかり、次には隣のおっさんと肩をぶつけた。そのたびに周囲から笑い声が上がる。
けれど、何度か繰り返しているうちに俺も動きを覚えてきた。
焚き火が燃える。
笛が鳴る。
太鼓が響く。
その周囲を、子供も大人も、村人も旅人も関係なく踊っている。
気づけば俺も笑っていた。
楽しかった。
理由なんて、それだけで十分だった。
翌朝。
出発する前に俺はラディと相談した。
あれだけ歓待してもらったのだから、何か礼をしたかった。
けれど金を渡すのは違う気がする。
そこで俺たちは、祭りで使った分の肉を補充してから出発することにした。
村人に近くで狩りのできる場所を聞き、朝早く二人で森へ入る。
幸い、大きな鹿を一頭見つけることができた。
俺が矢を射て脚を止め、追いついたラディが剣で仕留める。
二人で血抜きと解体を済ませ、肉を馬へ載せて村へ戻った。
「世話になったお礼です」
鹿肉を差し出すと、昨日の老人が目を丸くした。
「そんなものはいらんぞ。祭りに旅人を招くのは、この村の習わしじゃ」
「それでも、俺たちが渡したいんです」
老人はしばらく俺たちを見ていた。
やがて笑った。
「そうか。なら、ありがたく頂こう」
ところが今度は、村人たちが俺たちのためにいろいろなものを持ってきた。
新麦を焼いた固パン。
干した果物。
炒った豆。
そして最後に老人がラディへ渡したのは、小さな藁細工だった。
右腕がない。
昨日見た旅人を模したものだ。
「旅のお守りじゃ」
老人は言った。
「この村を救った旅人のように、無事に旅を続けられるようにな」
ラディは両手で受け取った。
「ありがとう!」
「また近くへ来たら寄るといい。来年の祭りでも、その次でもな」
「はい」
村を出てしばらくしてから隣を見ると、ラディは馬上で、もらった小さな藁人形を眺めていた。
「なくすなよ」
「なくさないよ」
そう言うと、大事そうに荷物の奥へしまった。
俺たちは再び北へ向かった。
目指すは砂漠。
そして、その砂の中に眠る古代遺跡。
けれど、旅というものは目的地だけが面白いわけではないらしい。
知らない村へ立ち寄り、知らない人々と飯を食べ、一晩だけ同じ祭りを祝う。
そういう寄り道も、俺はだんだん好きになっていた。
それから、さらに数か月が過ぎた。
旅を始めてから季節はいくつも巡り、俺は十六歳、ラディは十四歳になっていた。
気づけば、二人ともずいぶん背が伸びた。
特にラディの成長は著しい。
昔は俺の隣を歩けば頭一つ近く低かったのに、今ではそれほど差がない。身体つきも子供の頃とは違い、肩幅が広くなり、毎日のように剣を振っているせいか腕や脚にも筋肉がついてきた。
剣の腕に至っては、もう弟だからと手加減できるような相手ではない。
俺も同じだった。
長い金髪は相変わらず後ろで束ねているが、身体は以前より大きくなった。
弓も昔より強いものを使っている。今ではかなり重い弓でも苦もなく引けるし、馬を走らせながら矢を射ることにもすっかり慣れた。
ヒョルンを出た頃と比べれば、俺たちはずいぶん変わったと思う。
浮島のある国を離れて北へ進み、途中の町や村をいくつも通り過ぎた。
そうして旅を続けた末。
ついに緑の大地が途切れた。
俺は馬を止めた。
「……ここからか」
隣でラディも馬を止める。
目の前には、これまで見たことのない光景が広がっていた。
見渡す限りの砂だった。
砂丘が波のように幾重にも連なり、その向こうにも、さらにその向こうにも、同じ景色が続いている。
木々はない。
草原もない。
遠くに風で削られた岩山が見える程度で、その周囲にも緑らしいものはほとんどなかった。
空には雲一つない。
照りつける太陽の光が砂へ反射し、目を細めなければまともに前を見ることすらできないほど眩しかった。
「……暑い」
ラディが早速ぼやいた。
「まだ入ってもいないぞ」
「でも暑いものは暑いよ」
「砂漠を見たいって言ったのは誰だっけ?」
「兄ちゃんだって古代遺跡を見たいって言ってたじゃん」
「まあな」
俺は笑いながら馬を進ませた。
砂漠の手前には小さな町があり、そこから先へ進む旅人や商人の拠点になっていた。
俺たちもそこで水や保存食を買い足した。
何より重要なのは水だった。
これまでの旅なら、川や泉を見つければその都度補給できた。しかし砂漠ではそうはいかない。
どこに井戸があるのか。
どこにオアシスがあるのか。
それを知らずに進めば、本当に死ぬらしい。
だから俺たちは、自分たちだけで砂漠へ入るような真似はしなかった。
町で現地の案内人を雇った。
年季の入った褐色の外套をまとった男で、もう二十年以上も砂漠を行き来しているという。
「遺跡を見たいんだって?」
「はい」
「最近は物好きな旅人が多いな」
男は呆れたように笑った。
「砂しかないぞ」
「その砂を見に来たんです」
ラディが答える。
男は一瞬黙ってから笑った。
「なら、嫌になるほど見せてやるよ」
案内人によれば、俺たちが目指している古代遺跡の近くには大きなオアシスがあり、そこまで五日ほどかかるという。
水袋を増やし、馬にも十分な水を飲ませる。
さらに案内人から言われるまま、頭から首まで覆える白い布を買った。
「暑いからって肌を出すな。昼間はこれを被っとけ」
「余計暑くないですか?」
「日差しに焼かれるよりましだ。それと水は一度にがぶ飲みするな。喉が渇く前に少しずつ飲め」
「分かりました」
「あと、勝手に俺から離れるなよ」
男は砂漠へ目を向けた。
「道が見えると思うな。一晩風が吹けば昨日の足跡なんぞ全部消える。ここじゃ、町の近くで迷って死ぬ奴だっている」
ラディの表情から、少しだけ浮ついたものが消えた。
それでも目の奥には好奇心が残っている。
俺も同じだった。
怖くないわけではない。
けれど目の前に広がっているのは、俺たちがまだ一度も足を踏み入れたことのない世界だった。
「行くぞ」
案内人が馬を進める。
「はい」
俺も続いた。
ラディが隣へ馬を並べる。
そうして俺たちは、生まれて初めて砂漠へ足を踏み入れた。
最初の半日くらいは楽しかった。
見たことのない景色ばかりだからだ。
風が吹くたび、砂丘の表面を薄い砂が煙のように流れていく。
遠くの景色が熱で揺れている。
時折、砂の中から小さな蜥蜴が飛び出し、あっという間に別の砂丘の陰へ消える。
ラディはいちいち反応した。
だが二日目になると、だんだん口数が減った。
そして三日目。
「兄ちゃん、喉乾いた」
「一口だけな」
「まだいっぱいあるよ?」
「五日分だぞ。好きに飲んでたら途中でなくなる」
ラディは水袋を見た。
「……砂漠って面倒だね」
「来たいって言ったの、お前だろ」
「兄ちゃんも行こうって言ったじゃん」
それを言われると弱い。
それに俺も、そろそろ砂には飽きていた。
砂丘を越えても砂。
その次も砂。
遠くに岩山が見えたと思って近づき、その岩山を回り込んでも、やっぱり砂。
五日目には、最初あれほど珍しかった砂丘を見ても何とも思わなくなっていた。
そんな頃だった。
先頭を進んでいた案内人が振り返った。
「見えてきたぞ」
「どこです?」
「あそこだ」
指差された先を見る。
最初は何も分からなかった。
しかし目を凝らしていると、砂ばかりだった地平線の一角に、ごく僅かに違う色が見えた。
「あっ!」
ラディが先に気づいた。
「兄ちゃん、木!」
「本当だ」
緑だった。
近づくにつれて、その緑はどんどん大きくなっていった。
そして俺たちは、初めてオアシスというものを目にした。
「……面白いな」
思わず声が出た。
そこだけが別の世界だった。
周囲には何もない。
見渡す限り乾いた砂漠。
なのに、その場所にだけ水がある。
地下から湧き出した水を湛えた青い池を中心に木々が生え、その周囲には畑まで広がっていた。
池からは細い水路が何本にも分けられ、それぞれ家々や畑へ水を運んでいる。
土壁で造られた家々が並び、水路のそばでは女たちが洗濯をしていた。
木陰では山羊が寝そべっている。
畑では農民が働き、子供たちは水路へ足を突っ込んで遊んでいた。
五日間、乾いた風と砂ばかりの中を進んできたせいか、水の流れる音を聞くだけで妙にほっとした。
「ここだけ町なんだね」
ラディが言った。
「陸の孤島みたいだな」
海に浮かぶ島ならぬ、砂に浮かぶ島だ。
水がある。
ただそれだけで、こんなにも世界が変わる。
それが妙に面白かった。
俺たちは案内人へ礼と約束の金を渡し、しばらくこのオアシスに滞在することにした。
目的の遺跡は、ここから馬なら半日もかからないところにあるという。
当然。
翌朝には向かった。
「……でかいな」
砂丘を一つ越えた先に、それはあった。
古代遺跡。
最初に目へ入ったのは、砂の中から突き出している巨大な石柱だった。
近づくにつれて、その全貌が少しずつ見えてくる。
いや。
全貌という言い方は正しくない。
どこからどこまでが遺跡なのか、まるで分からない。
半分以上が砂に埋まっているからだ。
かつては巨大な神殿か宮殿だったのだろう。
俺の何倍もの太さがある石柱が何十本も並び、その上には巨大な梁が渡されている。すでに崩れ落ちている場所も多く、折れた柱が砂の中から斜めに突き出していた。
「兄ちゃん!」
先へ行っていたラディが呼ぶ。
「これ、何か書いてある」
近づいてみる。
文字だった。
ただし、俺たちが普段使っているものとは明らかに違う。
「古代語かな」
「読める?」
「無理」
「兄ちゃんでも?」
「俺を何だと思ってるんだよ」
文字が刻まれているのは柱だけではなかった。
壁にも。
梁にも。
床石にさえある。
さらに奥へ進むと、今度は壁一面に巨大なレリーフが現れた。
人間らしき者たちが跪いている。
その上には太陽のような円盤を背負った巨大な人物。
別の壁には翼を持った獣。
船のようなもの。
槍を持って戦う兵士たち。
王らしき人物が何かを神へ捧げている場面もある。
「神話かな」
「兄ちゃん、こっちは戦ってるよ」
「本当だ。こっちは祭りか?」
何を表しているのか分からない。
だからこそ面白かった。
何百年、あるいは何千年も昔の人々が何を考え、何を信じ、どうやって暮らしていたのか。
目の前に痕跡だけは残っているのに、その答えを知っている人間はもうどこにもいない。
一つ一つ見ているだけで時間が過ぎていった。
やがてラディが、ある壁の前で足を止めた。
「兄ちゃん、あそこ」
「ん?」
「色が残ってる」
本当だった。
長い年月でほとんど消えているものの、彫刻の窪みに赤や青、金色の顔料が僅かに残っていた。
「昔は全部色がついてたのかな」
「たぶんな」
「綺麗だっただろうね」
「ああ」
今では砂と同じような色をした遺跡。
けれど、造られたばかりの頃はまったく違う姿だったのだろう。
青。
赤。
金。
緑。
鮮やかな色に染められた巨大な神々や王たちが、壁一面を埋め尽くしていた。
想像してみる。
大勢の人間がここを歩いている。
神官が祈りを捧げている。
兵士が門を守っている。
商人が荷物を運んでいる。
ほんの一瞬だけ、廃墟になった遺跡が昔の姿へ戻ったような気がした。
気づけば日が傾き始めていた。
「今日は戻る?」
ラディが聞いてきた。
俺は遺跡の奥を見る。
まだ見ていない場所がいくらでもある。
「……ここで泊まるか」
「遺跡で?」
「ああ。水も食料も持ってきてるし、馬の餌もある」
ラディの顔に笑みが浮かんだ。
「面白そう」
決まりだった。
日が沈むと、砂漠は驚くほど冷えた。
昼間の暑さが嘘のようだった。
俺たちは崩れかけた石壁を風除けにして野営の準備をする。
「兄ちゃん、火ついたよ」
「ありがとう」
焚き火の上へ鉄板を置き、持ってきた肉を並べた。
じゅう、と音を立てて脂が落ちる。
炎が弾けた。
「いい匂い」
「もうちょっと待て」
塩と香辛料を振り、固くなったパンも火の近くで少し炙る。
そろそろ食えるかな。
そう思った、その時だった。
「おお、うまそうじゃな」
「……」
俺の手が止まった。
ラディも止まる。
声は暗闇から聞こえてきた。
反射的に弓へ手を伸ばす。
「誰だ?」
「ただの爺じゃよ」
暗闇の向こうから、一人の老人が現れた。
真っ白な髪と髭。
皺だらけの顔。
砂埃にまみれた長いローブ。
背中には大きな荷物を背負い、片手には自分の身長ほどもある杖を持っている。
どう見ても怪しい。
というか、こんな砂漠の遺跡を夜中に一人で歩いている時点で怪しい。
老人は俺たちの警戒など気にもせず、焚き火の上の肉を見た。
「一口くれんか」
「……」
俺はラディを見る。
ラディも俺を見る。
ラディが老人へ尋ねた。
「爺ちゃん、腹減ってるの?」
「ん?」
老人が耳へ手を当てる。
「腹!」
「墓?」
「腹!」
「墓ならあっちにあったぞ」
「兄ちゃん、この爺ちゃん耳遠い」
「見れば分かるよ!」
「おお、酒もあるのか?」
「ない!」
何を聞いたらそうなるんだ。
とはいえ、腹が減っているのは本当らしい。
老人の素性は怪しいが、別に肉を一切れ分けたくらいでどうということもない。
俺たちは肉とパンを分けてやった。
「ありがたい」
老人は当然のように焚き火の前へ座り、肉へ齧りついた。
「うまいのう」
「爺ちゃん、どうしてこんなところにいるの?」
ラディが尋ねる。
「ん?」
「どうして、ここに、いるの!」
「年は七十三じゃ」
「聞いてない!」
思わず吹き出した。
俺が老人の近くまで行き、もう一度大きな声で尋ねる。
ようやく話が通じた。
どうやら老人は、この古代遺跡を調査するために、もう二十日近くここへ滞在しているらしい。
「爺さん、学者なの?」
「魔法使いじゃ」
「魔法使い?」
「そうじゃ」
老人は肉を頬張りながら答えた。
どう見ても、今のところただの耳の遠い爺さんである。
翌朝。
せっかく遺跡に詳しい人間と出会ったのだから、俺たちは老人と一緒に遺跡を見て回ることにした。
これは正解だった。
昨日まで意味の分からなかったものが、老人の説明を聞くことでまったく違って見えてくる。
「これは王ではない。神官じゃ」
「神官?」
「頭の飾りを見てみい」
老人が杖の先でレリーフを示した。
「太陽を表しておる。この遺跡を築いた連中は、太陽を神として崇めておったらしい」
ラディが隣の壁を指差す。
「これは?」
「豊穣の儀式じゃな」
「これは?」
「戦争」
「これは?」
「……飯を食っとる」
「そんなのまで彫るの?」
「知らん。昔の奴に聞け」
こんな調子で遺跡を見て回った。
耳こそ遠いものの、老人は古代語や昔の文化について驚くほど詳しかった。
そして昼を過ぎた頃。
「こっちじゃ」
老人が、俺たちだけなら絶対に気づかなかったであろう狭い通路へ入っていった。
半分砂に埋もれた階段を下る。
その先にある崩れた石を三人で退かすと、さらに奥へ続く空間が現れた。
「昨日見つけた」
「入ったの?」
「まだじゃ」
「なんで?」
「一人で入って崩れたら誰も助けてくれんじゃろ」
「そこはちゃんと考えてるんだ……」
老人が振り返った。
「なんじゃ?」
「何でもないです」
三人で進んでいく。
外の光が届かなくなったところで灯りをつけ、さらに奥へ進む。
やがて通路が途切れた。
広い部屋だった。
そして。
俺もラディも、その入口で足を止めた。
部屋の奥に、黄金の像があった。
「……すごい」
ラディが呟く。
俺も同じ気持ちだった。
人間より遥かに大きい。
三メートルほどあるだろうか。
長い布をまとった女性のような姿だが、頭部だけが空洞の輪になっていて、その向こうの壁が見える
何百年。
いや、何千年かもしれない。
それほど長い間、砂漠の下に眠っていたとは思えないほど美しかった。
像の前には低い祭壇がある。
この神が何者なのか。
どんな作法で祈ればいいのか。
俺たちには何も分からない。
それでも、他人の神だから敬わなくていいとは思わなかった。
俺はラディを見る。
ラディもこちらを見ていた。
言葉を交わす必要はなかった。
二人で像の前へ進み、並んで頭を下げる。
ここまで無事に旅を続けられたこと。
これからも二人で旅を続けられること。
そして、長い間閉ざされていたこの場所へ入らせてもらったことへの感謝を心の中で伝えた。
顔を上げる。
老人がこちらを見ていた。
「……なんです?」
「いや」
老人は髭を撫でる。
「何でもない」
その時は、それ以上何も言わなかった。
それからも三人で遺跡を調べていた時だった。
ざざざ……。
妙な音が聞こえた。
砂が流れるような音。
「兄ちゃん」
「ああ」
俺はすぐ弓を手に取った。
ラディも腰の剣へ手を伸ばす。
床を覆っていた砂が動いている。
一か所ではない。
そこら中だ。
ぼこっ。
突然、砂の中から何かが飛び出した。
「うわっ!」
ラディが剣を抜く。
細長い魔物だった。
長さは人の背丈ほど。
脚はない。
太いミミズのような身体の先端に円形の口があり、その内側には小さな牙が何重にも並んでいる。
ヤツメウナギ。
そんな生き物を思い出した。
だが、一匹ではない。
次々と砂が盛り上がる。
五匹。
十匹。
二十匹。
まだ出てくる。
「……多いな」
三十。
五十。
やがて数える気すら失せた。
百匹近くいる。
さすがに俺も緊張した。
一匹一匹なら大したことはなさそうだ。
だが、この数を一度に相手にするとなると話は別だ。
「ラディ、俺の前から離れるな」
「うん」
俺は矢をつがえる。
ラディが剣を構えた。
そして老人を見る。
「爺さん!」
「なんじゃ!」
「下がってて!」
「戦って?」
「下がれって言ってんだよ!」
「分かった、分かった」
そう言って老人が前へ出た。
「逆だよ!」
その瞬間だった。
ワームの群れが一斉にこちらへ向かって這い始めた。
俺は弦を引く。
だが、矢を放つより早く。
老人が杖を軽く振った。
「邪魔じゃ」
それだけだった。
次の瞬間。
ごうっ!
空気そのものが爆発した。
「っ!」
何が起きたのか分からなかった。
老人を中心として凄まじい風が広がり、床を覆っていた砂が一斉に吹き飛ぶ。
そしてワームも。
一匹。
十匹。
五十匹。
百匹近い魔物の群れが、まとめて宙へ巻き上げられた。
直後。
風の中に、無数の青白い光が走った。
ばちっ。
耳をつんざくような轟音。
視界を真っ白に染める閃光。
俺は思わず目を閉じた。
そして。
静かになった。
ゆっくり目を開く。
「……」
俺は弓を構えたまま固まった。
ラディも剣を持ったまま動いていない。
さっきまで百匹近くいたワームが、一匹残らず黒焦げになって転がっていた。
老人だけが何事もなかったように杖を肩へ担いでいる。
「さて」
「……」
「どこまで話したかの」
ラディが俺を見る。
俺もラディを見る。
そして同時に老人を見た。
「爺さん」
「なんじゃ?」
「……本当に魔法使いだったんだな」
「昨日からそう言っとるじゃろうが」
俺は改めて、地面に転がる大量のワームを見る。
これをたった一度の魔法で。
オーガを何匹倒せようと関係ない。
俺たちとは、まるで次元が違う。
すると隣にいたラディが老人へ尋ねた。
「魔法って……俺たちにも使えるの?」
老人がこちらを見た。
今度は聞き返さなかった。
俺とラディを交互に見る。
それから少し目を細め、髭を撫でた。
「使えるじゃろうな」
「分かるの?」
「ああ」
老人は杖で俺を指した。
「お主も」
次にラディ。
「お主もじゃ」
俺たちは顔を見合わせた。
「二人とも魔法の才がある」
老人はそう言うと、杖の先で黒焦げになったワームをひっくり返した。
「まあ、才能があるだけなら珍しくもないがな」
そう言ってから、老人は俺たちを見る。
「飯も食わせてもらった。遺跡の調査にも付き合ってもらった。それに――」
老人の視線が、黄金の神像が安置されている部屋の方へ向いた。
「あの像を見つけた時、お主らは金かどうかも確かめなかった」
「え?」
「剥がして持っていこうともしなかった。昔の神じゃ。お主らが信じている神でもなかろう。それでも、誰に言われるでもなく頭を下げた」
老人は髭を撫でた。
「力を教える相手というのはな、強ければ誰でもよいというものではない」
先ほどまでの、耳の遠い妙な爺さんとは少し違って見えた。
老人はしばらく俺たちを見たあと、いつもの調子へ戻った。
「興味があるなら、少しくらい教えてやってもよいぞ」
ラディの顔が一気に明るくなる。
俺だって同じだった。
魔法。
この世界に生まれてから何度も見聞きしてきたもの。
それを、自分でも使えるかもしれない。
しかも目の前にいるのは、百匹近い魔物を一度の魔法で倒してしまうような人間だ。
こんな機会を逃す理由などない。
「教えてください」
俺は頭を下げた。
ラディも慌てて隣で頭を下げる。
「僕も!」
「うむ」
老人は満足そうに頷いた。
そして杖を持ち直す。
「では、まず薪を拾ってこい」
「……魔法は?」
「腹が減った」
「爺さん」
「なんじゃ?」
「魔法」
老人が耳へ手を当てた。
「おお、飯か」
「絶対聞こえてるだろ!」
老人は、ほっほっほ、と笑いながら焚き火の方へ歩いていった。
俺とラディは顔を見合わせる。
「兄ちゃん」
「なんだ?」
「……本当にあの爺ちゃんに教わるの?」
「百匹まとめて倒したの見ただろ」
「見たけど」
「じゃあ教わる」
「だよね」
俺たちは老人の後を追った。




