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魔法

次の日から、早速魔法の修練が始まった。

俺はてっきり、最初から火を出したり風を起こしたりするような、いかにも魔法らしいことを教わるのだと思っていた。

けれど、爺さんが最初に俺たちへ命じたのは、そんな派手なものではなかった。

「まずは魔力を感じ取れ」

「感じ取る?」

思わず聞き返すと、爺さんは呆れたように鼻を鳴らした。

「そうじゃ。見えもせん、感じもせんものを、どうやって操るつもりじゃ」

言われてみれば、その通りだった。

俺たちは昨日、爺さんが魔法を使うところを確かに見た。

大量のワームを風でまとめて巻き上げ、続けざまに放った雷で一匹残らず焼き払った。あれほど凄まじい力だったというのに、俺には魔法を使う瞬間、爺さんの身体から何かが出ているようにはまったく見えなかった。

そもそも、魔力がどんなものなのかさえ知らない。

「そこへ座れ」

言われるまま、俺とラディは遺跡の一角に敷いた厚手の布の上へ腰を下ろした。

向かい合って胡坐をかき、まず俺とラディが片手を繋ぐ。

「もう片方の手を出せ」

俺が右手を差し出すと、その上へ爺さんが皺だらけの手を重ねた。ラディの空いている手にも、もう片方の手を載せる。

三人で一つの輪を作るような格好になった。

「何するの?」

ラディが尋ねる。

「黙っとれ」

「まだ何もしてないよ」

「だから黙っとれと言っとる」

どうやら今日は耳がよく聞こえているらしい。

俺は少し笑いそうになったが、爺さんに睨まれたので大人しく目を閉じた。

最初は何も感じなかった。

砂漠を吹き抜ける乾いた風の音。

爺さんの手の温かさ。

ラディの指が俺の手を握っている感触。

それくらいだった。

「力を抜け。探そうとするな。ただ身体の内側を見ておれ」

探すなと言われても、これまで存在すら知らなかったものを感じろと言われているのだから難しい。

それでも言われた通り、肩の力を抜いて呼吸を整えた。

ゆっくり息を吸う。

ゆっくり吐く。

何度も繰り返す。

時間が経つにつれ、周囲の物音が少しずつ遠くなっていった。

そして。

左手に、奇妙な感覚が生まれた。

最初は爺さんが僅かに手を動かしたのかと思った。

けれど違う。

何かが入ってきている。

水のようで、水ではない。

熱くもない。

冷たくもない。

電気のように痺れるわけでもない。

それでも、確かにそこに何かがあった。

左手から入った何かが腕の中を通り、肩へ上がる。そのまま胸の辺りを抜け、腹を巡り、反対側の肩から腕へと流れていった。

そしてラディと繋いでいる手から外へ抜けていく。

「……これ?」

思わず声が漏れた。

「感じたか」

爺さんの声が聞こえる。

「ああ。なんか流れてる」

「それが魔力じゃ」

魔力。

その言葉を意識した途端、それまで輪郭のぼやけていたものが急にはっきりした。

確かに身体の中を巡っている。

しかも俺自身のものではない。

爺さんから俺へ。

俺からラディへ。

ラディからまた爺さんへ。

三人の身体を一つの川のように魔力が循環していた。

一度それを認識すると、今度は別のものまで感じられるようになってきた。

俺自身の身体の中にも魔力がある。

流れ込んできている爺さんのものとは違う、自分自身の魔力。

ラディの身体にもある。

そして爺さんの身体には、俺たちとは比較にならないほど濃密な魔力が満ちていた。

まるで近くに巨大な水の塊でもあるようだった。

それだけではなかった。

「……外にもある」

俺が呟く。

「ほう」

「空気の中にもある」

目を閉じているはずなのに、周囲の空間に何かが満ちていることが分かる。

乾燥した砂漠の空気。

俺たちが座っている石床。

遺跡を造っている巨大な石柱。

その下の地面。

さらに深い地中。

濃淡はあるものの、どこにでも存在している。

それが魔力なのだと、今なら分かった。

「兄ちゃん」

隣からラディの声がした。

「僕も分かる」

「お前も?」

「うん。なんか……いっぱいある」

ラディもほとんど同じ頃に感知できるようになったらしい。

爺さんが俺たちから手を離した。

三人の身体を循環していた太い魔力の流れが、そこで途切れる。

だが、一度感じ取った感覚は消えなかった。

目を開ける。

青い空。

砂色の遺跡。

焚き火の跡。

見えているものは昨日までと何も変わらない。

それなのに、世界そのものが少し違って感じられた。

身体の中にも。

空気の中にも。

地面の下にも。

目には見えない魔力がある。

それまで存在すら知らなかったものが、実は生まれた時からずっと自分の周囲にあったのだ。

「よし」

爺さんが頷いた。

「第一段階は終わりじゃ」

「もう?」

ラディが聞く。

爺さんはすぐに首を横へ振った。

「もう、ではない。ここからが長い」

立ち上がると、遺跡の奥を指差す。

「次は、自分の魔力の器を見つけろ」

「器?」

「そうじゃ。瞑想して、自分の内側だけを見続ける。身体を流れる魔力を追っていけば、そのうち行き着く」

ラディが首を傾げる。

「どこにあるの?」

「それを自分で探すんじゃろうが」

「教えてくれてもいいのに」

「見える姿が人によって違うんじゃ。壺に見える者もおれば、泉に見える者もおる。火に見える者もおれば、樹に見える者さえおる。わしがお主らの器の姿を教えられるわけがなかろう」

なるほど。

仕方なく、そこからはひたすら瞑想することになった。


最初の数刻は、本当に退屈だった。

ただ座る。

呼吸する。

身体の中にある魔力へ意識を向ける。

それだけ。

魔物と戦うわけでもなければ、身体を鍛えるわけでもない。

目を閉じたまま座っているだけなので、だんだん時間の感覚までなくなってくる。

途中で何度も集中が切れた。

砂漠の風が遺跡の隙間を抜ける音が気になる。

少し離れたところでは、爺さんが壁面に刻まれた古代文字を書き写しているらしく、羊皮紙を動かす音がする。

隣ではラディが時々身体を動かしていた。

たぶん、あいつも退屈している。

しばらく我慢したが、俺はとうとう目を開けた。

「爺さん」

「なんじゃ」

「調査、手伝おうか?」

「いらん」

即答だった。

「でも一人じゃ大変だろ」

「魔法を覚える方が先じゃ。邪魔だから座っとれ」

「邪魔って……」

「お主がその辺をうろうろすると集中できん」

そこまで言われてしまえば仕方がない。

俺はまた目を閉じた。

身体を流れる魔力へ意識を向ける。

腕。

肩。

胸。

腹。

頭。

脚。

魔力は全身に存在していた。

ただ、どこかから湧き出しているようには思えない。

もっと奥。

もっと深いところ。

何か中心のようなものがあるはずだ。

意識をさらに沈めていく。

身体の感覚が少しずつ遠くなっていった。

どれくらい経ったのか分からない。

突然、周囲の感覚が完全に消えた。

砂漠の風も。

石の硬さも。

ラディの気配も。

爺さんの音も。

何もない。

真っ暗だった。

目を開いているのか閉じているのかすら分からない。

ただ、その暗闇の中に一つだけ何かがあった。

朱色の盃。

何もない空間に、ぽつんと浮かんでいる。

大きさは両手で包めるくらいだった。

表面には細かな模様が刻まれているように見えるが、何が描かれているのかまでは分からない。

そして盃の中には、水がなみなみと満ちていた。

ただの水ではない。

水そのものが淡い光を放っている。

白とも青ともつかない、不思議な光。

さらに妙なのは、その水が絶えず盃の縁から溢れていることだった。

ぽたり、ぽたり、という程度ではない。

細い流れとなって何か所からも零れ落ちている。

それなのに。

盃の水位は少しも減らない。

溢れた水は暗闇の中を落ちていき、やがて見えなくなる。

その光景を見た瞬間、誰かに教えられたわけでもないのに分かった。

――これだ。

これが俺の魔力の器だ。

そう理解した途端、意識が身体へ戻った。

目を開ける。

目の前には遺跡の石壁があった。

空を見ると、すでに太陽が大きく傾いている。

「爺さん」

近くで古代文字を書き写していた老人が顔を上げた。

「なんじゃ」

「見つけた」

「何を?」

「器」

爺さんの手が止まった。

ゆっくりこちらを見る。

「……もうか?」

「ああ」

「どんな形じゃ」

「朱色の盃だった。中に光る水がいっぱい入ってて、縁からずっと溢れてた」

爺さんは何も言わなかった。

しばらく俺の顔を眺め、それから髭を撫でる。

「……早いの」

「普通どれくらいかかる?」

「人による。早ければ数か月。普通なら一年、二年。何年修行しても見つけられん者も珍しくない」

「そんなに?」

「お主、昨日初めて魔力を感じたばかりじゃろ」

爺さんは呆れたような顔をする。

「まあよい。見つけたのなら、次へ進める」

「ラディは?」

二人で見ると、少し離れたところでラディがまだ目を閉じていた。

「急かすな。こういうものは人と比べるものではない」

珍しくまともなことを言う。


翌日から、俺だけ一足先に実際の魔法を発動させるための修練へ入った。

「まず、これだけは絶対に覚えておけ」

爺さんが俺の前に座り、地面へ指で絵を描いた。

盃。

その中に満ちた水。

そして縁から外へ溢れていく水。

「器の中にある水と、そこから自然に溢れ出した水は、同じ魔力ではあるが扱いが違う」

「どう違う?」

「盃の中の水は、お主自身の命そのものと思え」

俺は眉を寄せた。

「命?」

「ああ。もちろん魔法へ使うことはできる。じゃが、その水は一度減れば、元へ戻るまで非常に長い時間がかかる。少し使うだけでも身体へ負担がかかるし、大量に使えば寝込む」

爺さんは俺をまっすぐ見る。

「そして枯らせば死ぬ」

笑っている様子はない。

俺は思わず身体の内側へ意識を向けた。

朱色の盃。

そこに満ちていた光る水。

「じゃあ、普段の魔法には何を使うんだ?」

「溢れた分だけじゃ」

爺さんが絵の外側を指した。

「器から自然に溢れ出る魔力。それは大気や身体へ流れ出し、また時間が経てば器から新しく溢れてくる。普通の魔法使いは、その範囲で術を使う」

「分かった」

「本当に分かったか?」

「分かったって」

「若い奴はな、追い詰められるとすぐ器へ手を突っ込む」

「そんなことしないよ」

「今はそう言う」

爺さんは鼻を鳴らした。

「力というものはな、あると分かれば使いたくなるものじゃ。特に自分や大事な者が危険な時はの」

一瞬、ラディの姿が頭に浮かんだ。

爺さんはそれに気づいたのかどうか、少しだけ目を細めた。

「覚えておけ。自分の命を削って魔法を使えば誰かを救えることもある。じゃが、それを癖にするな。自分が死ねば、その後に守れたはずの者まで守れん」

その言葉は妙に胸へ残った。

「……分かった」

今度は真面目に頷く。

「ならよい」

そこから爺さんは、魔法を形にする方法を教え始めた。

古代文字。

魔法とは、ただ魔力を放出すれば起きるものではない。

魔力へ意味を与える。

そのために使うのが古代語だった。

「最初はこれじゃ」

爺さんが砂の上へ一つの文字を書く。

三本の緩やかな曲線。

その中央を斜めに貫く一本の線。

「風を意味する」

「これだけで風が出るのか?」

「文字を書くだけなら何も起こらん。魔力で形を作り、意味を認識した時に初めて術になる」

「なるほど」

「では器を見ろ」

目を閉じる。

暗闇。

そこに浮かぶ朱色の盃。

今日も光る水が満ち、縁から絶えず溢れている。

「いいか。使うのは落ちた水だけじゃ。盃の中にある水には絶対に触れるな」

「分かった」

「その水で、盃の下へさっきの文字を描け」

言われた通りに想像する。

盃から零れ落ちた光る水。

それを集める。

三本の曲線。

中央を斜めに走る線。

けれど、うまくいかない。

水を集めようとすると散ってしまう。

形を作ろうとすれば、別の場所が崩れる。

何度やっても文字にならない。

そのうち、つい盃そのものへ意識が向いた。

「器の中へ意識を向けるな!」

突然怒鳴られ、思わず目を開けた。

「分かってる!」

「今触ろうとしたじゃろ!」

「してない!」

「しとった!」

「どうやって分かるんだよ!」

「師匠をなめるな!」

耳は遠いくせに、こういうところだけは異様に鋭い。

そんなやり取りを何度も繰り返した。

そして翌日。

再び目を閉じ、盃から溢れ落ちる水へ意識を向ける。

今度は無理に動かそうとしない。

流れそのものを少しずつ誘導する。

一本目。

二本目。

三本目。

最後に中央へ線を走らせる。

できた。

光る水によって古代文字が暗闇の中へ浮かび上がった。

――風。

その意味を認識した瞬間。

現実へ意識が戻った。

ぶわっ。

「うわっ!」

目の前の砂が一斉に舞い上がった。

最初はそれだけだった。

だが、風は止まらない。

巻く。

砂を吸い上げる。

渦が大きくなる。

「……え?」

俺の前に小さな竜巻ができていた。

いや、小さくない。

すぐに俺の背丈を越える。

砂を吸い込みながらどんどん大きくなっていく。

「爺さん!」

「なんじゃ!」

「どうするのこれ!」

「さっさと術式を消すのじゃ!」

「どうやって!」

「作った時の逆じゃ! 意識を解け!」

「先に言えよ!」

俺は慌てて頭の中の古代文字へ意識を戻した。

線を一本消す。

また一本。

形を崩す。

最後の線が消えた瞬間、現実の竜巻も急速に勢いを失った。

そして。

ざあああっ。

巻き上げられていた大量の砂が一気に落ちてきた。

俺も。

爺さんも。

頭から砂まみれになった。

しばらく沈黙が続いた。

爺さんがゆっくり顔についた砂を払う。

「……加減を覚えろ」

「初めてなんだから仕方ないだろ」

「初めてでそれができたから問題なんじゃ」

「どういう意味?」

爺さんは俺をじっと見る。

「普通はな。魔力を感じ取ってから、まともに術式を組めるようになるまで五年ほどかかる」

「……五年?」

「早い奴でも数年じゃ」

俺は自分の手を見る。

「俺、一日だけど」

「だから驚いておるんじゃろうが!」

爺さんは深いため息をついた。

「とんでもない才じゃな」

初めて真面目に褒められた気がした。

少し嬉しい。

だが、その時だった。

「兄ちゃん!」

少し離れたところからラディの声がした。

振り向く。

昨日まで器を探していたはずのラディが座っている。

その前の砂が。

びゅっ。

勢いよく横へ吹き飛んだ。

「できた!」

ラディが目を開けた。

「僕もできた!」

爺さんが固まった。

俺を見る。

ラディを見る。

もう一度俺を見る。

「……なんなんじゃ、お主ら兄弟は」

俺は笑った。

「俺に聞くなよ」


それから、俺たちの生活は大きく変わった。

朝は魔法の修練。

昼は爺さんの遺跡調査を手伝い。

夜は焚き火のそばで古代語を学ぶ。

魔法を覚えるなら、古代語を知らなければ話にならないらしい。

最初に覚えたのは風。

次に水。

火。

土。

光。

ただ、文字を知っているからといって、好き勝手に使っていいわけではなかった。

古代語には一つの文字に複数の意味を持つものも多い。

ほんの僅かな線の違いで、意味そのものが変わる場合もある。

「だから勝手に試すなよ」

爺さんには何度も念を押された。

「一文字間違えて死んだ魔法使いなど、昔から掃いて捨てるほどおる」

「そんなに?」

ラディが聞く。

「魔法を使う奴は、自分だけは失敗せんと思うものじゃ」

「爺さんも?」

「わしは失敗せん」

「今の話なんだったんだよ」

爺さんは聞こえなかったふりをした。

昼間には、覚えた風の魔法を早速遺跡調査へ使わされた。

遺跡の多くは砂に埋もれている。

それを風で少しずつ退かしていく。

「もう少し右じゃ!」

「ここ?」

俺が風を起こす。

砂が大きく舞い上がった。

そのまま風向きを変える。

どさっ。

大量の砂が爺さんのすぐ横へ落ちた。

「だからもっと優しくどけろと言っとるじゃろ!」

「これでもほとんど盃の中の水は使ってないんだけどな」

どうやら俺は、魔力そのものがかなり多いらしい。

器の大きさだけではない。

そこから自然に溢れ出す量も多い。

そのせいで、ラディと同じように術式を作っているつもりでも、俺の方が強い魔法になりやすかった。

ラディが風を起こせば、砂が薄く舞い上がり、狙った場所だけを綺麗に除ける。

俺がやれば、少し気を抜くだけで辺り一面が砂煙になる。

「兄ちゃん、下手」

「うるさい」

「僕の方が上手いよ」

「威力なら俺の方が上だ」

「爺ちゃん、どっちがすごい?」

「ラディじゃな」

「なんでだよ!」

爺さんは即答した。

「制御できん力など、ただの災害じゃ」

何も言い返せなかった。

さらに爺さんは、俺が反論できないのを見て少し笑う。

「大きな風を起こすだけなら、魔力が多ければ誰でもできる」

「じゃあ何が難しいんだよ」

爺さんは足元から一枚の枯れ葉を拾った。

それを地面へ置く。

すぐ隣には、小さな蝋燭を立てて火を灯した。

「この葉だけを動かしてみい」

「それだけ?」

「ああ。ただし蝋燭の火を揺らすな」

やってみた。

失敗した。

葉は動いた。

蝋燭も消えた。

もう一度。

今度は弱くする。

葉が動かない。

その次。

葉は飛んだが、蝋燭の火も激しく揺れた。

「……難しいな」

「じゃろう」

爺さんは笑った。

「百人を吹き飛ばす風より、紙一枚だけを動かす風の方が難しいこともある」

それから俺は、強くする修行よりも弱くする修行ばかりさせられた。

砂粒を一粒だけ動かす。

紙一枚だけを持ち上げる。

自分の髪を僅かに揺らす。

蝋燭の炎へ影響を与えないよう、その横の砂だけを飛ばす。

地味だった。

とにかく地味だった。

俺としては大きな風を起こす方がよほど簡単だ。

けれど爺さんは何度も同じことを言った。

「強さは才能でも得られる。加減は修練せねば身につかん」

そして、ある時こう付け加えた。

「力を持つ者ほど、加減を覚えねばならん。お主が十の力を持っておって、必要なのが一なら、一だけ使え。一で足りる相手へ十を叩き込むのは強さではない。ただの未熟じゃ」

その言葉には、さすがに俺も素直に頷いた。


夜になると、三人で焚き火を囲みながら古代語を学んだ。

爺さんが石板へ文字を書く。

俺とラディがそれを羊皮紙へ写していく。

「これは?」

ラディが尋ねる。

「雨じゃ」

「じゃあ、こっちは?」

「洪水」

「似てる」

確かに、一画多い程度にしか見えない。

爺さんがこちらを睨む。

「似ておるが、絶対に間違えるなよ」

「間違えたら?」

「雨を降らせるつもりで洪水を起こす」

ラディの手がぴたりと止まった。

「……ちゃんと覚える」

「そうせい」

そんな日々を過ごすうちに、俺は少しずつ魔法というものの恐ろしさも理解するようになっていった。

ある夜。

爺さんが古びた石板を眺めながら、何気ない口調で言った。

「昔はな、今よりずっと多くの人間が魔法を使えた」

「どれくらい?」

「古代文明の最盛期なら、ほとんどの人間が何かしらの術を使えたと言われておる」

「そんなに?」

ラディが驚いた。

「ああ。料理にも、建築にも、農業にも、戦にも使った。だからこそ、あれほどのものが造れた」

爺さんが遺跡を見上げる。

月明かりの中、巨大な石柱が黒い影となって空へ伸びている。

俺もそちらを見る。

あれほど巨大な石を切り出し、運び、積み上げる。

前世の大型機械でもなければ大変そうな作業だ。

「でも、その文明は滅んだんだろ?」

「ああ」

爺さんの声が少し低くなった。

「魔法によってな」

「魔法で?」

「古代語というものは、ただ風を起こしたり、火を出したりするためだけの言葉ではない」

爺さんは焚き火へ枯れ枝を一本放り込んだ。

火の粉が夜空へ舞う。

「中には土地そのものを変える言葉もある。山を崩すもの。川の流れを変えるもの。空を焼くもの。海を荒らすもの。そして――国一つを滅ぼしかねんものもあったと言われておる」

俺もラディも黙った。

ラディが少しして尋ねる。

「そんな魔法があるの?」

「正確には、あった、じゃな」

「今は?」

「失われた」

爺さんは即答した。

「大災厄のあと、その言葉を記した書物や石板は多くが失われた。意図的に壊されたものもあるじゃろう。今では読み方どころか、どんな言葉が存在していたのかさえ分からんものが多い」

「じゃあ安心だな」

俺が言う。

だが爺さんは首を横へ振った。

「そうとも限らん」

「え?」

「ここを見てみい」

爺さんは周囲の遺跡を示した。

「何千年も前の文字が、こうしてまだ残っておる」

俺は壁面へ視線を向けた。

「遺跡というものは、失われたものが残る場所じゃ。誰かが見つけるかもしれん。読める者が現れるかもしれん。そして、その者が善人である保証などどこにもない」

焚き火がぱちりと鳴った。

「だから魔法使いは、誰にでも魔法を教えるわけではない」

その言葉で、黄金の神像を見つけた時、爺さんが俺たちをじっと見ていた理由を少し理解した。

あの時、俺たちは黄金の像を見ても金の価値を確かめなかった。

持ち帰ろうとも思わなかった。

知らない神だったが、頭を下げた。

爺さんは俺たちの魔法の才能だけを見ていたわけではないのだろう。

「覚えておけ」

爺さんは俺とラディを交互に見る。

珍しく、耳の遠い老人とは思えないほどはっきりとした声だった。

「魔法を使えることと、魔法を使ってよいことは別じゃ」

俺は頷く。

ラディも同じように頷いた。

「分かった」

「うん」

爺さんは満足そうに髭を撫でた。

「よし。では明日は日の出前から修練じゃ」

「え?」

「今日はもう寝ろ」

「まだ古代語やるんじゃないの?」

ラディが尋ねる。

爺さんが急に耳へ手を当てる。

「飯?」

「絶対聞こえてるだろ」

「腹が減ったのう」

「さっき食べたばっかりだよ!」

爺さんは聞こえなかったふりをして、そのまま毛布へ潜り込んだ。

俺とラディは顔を見合わせる。

「兄ちゃん」

「なんだ?」

「魔法って大変だね」

「まだ始まったばっかりだぞ」

「そうだね」

ラディは苦笑した。

俺も笑った。


それから何日か経った夜のことだった。

いつものように俺たちは焚き火を囲み、古代語を学んでいた。

爺さんが石板へ一つの文字を書く。

今まで習ったものより少し複雑な形をしていた。

「これは何じゃと思う?」

俺とラディが覗き込む。

ラディが答える。

「火?」

「違う」

「じゃあ光?」

「それも違う」

爺さんは石板を指で軽く叩いた。

「『焼く』じゃ」

俺は少し眉を寄せた。

「火と何が違う?」

「火は火じゃ。火を作り出す。じゃが『焼く』は違う。結果を命じる言葉じゃ」

「結果?」

「そうじゃ」

爺さんは焚き火を指差した。

「火を起こしただけなら、その火が何を燃やすか、どこへ燃え移るか、どれほどの勢いで燃えるかは術者自身が考えねばならん。じゃが『焼く』という言葉へ十分な魔力を与えれば、術式そのものが対象を焼くという結果を果たそうとする」

「便利じゃん」

ラディが素直に言った。

俺も一瞬そう思った。

だが爺さんは、ゆっくり首を横へ振った。

「便利すぎるんじゃよ」

その声は珍しく真面目だった。

「魔法というものは、便利じゃ。だから危険なのは、力そのものだけではない」

「どういうこと?」

「人間を考えなくさせる」

爺さんは焚き火へ新しい枝を一本差し込んだ。

火がゆっくり燃え移っていく。

「剣を振るなら、敵との距離を考えねばならん。相手の剣筋も見る。自分が踏み込んだあと、どう退くかも考える」

今度は俺を見る。

「弓を射るなら、風を読むじゃろ」

「ああ」

「距離を測り、獲物の動きを見て、矢を外した時のことまで考える」

それは俺がずっとやってきたことだった。

「じゃが魔法は、慣れてくれば指一本でも人を殺せる」

爺さんの声が低くなる。

「だから恐ろしい」

ラディが焚き火を見つめながら尋ねた。

「魔法を使うと怠けるってこと?」

「それもある。じゃが、それだけではない」

爺さんは少し考えてから続けた。

「最初は火をつけるために使う。次は薪を割るのが面倒だから魔法で砕く。その次は井戸まで歩くのが面倒だから、水を引き寄せる」

そこまでなら、俺にも何が悪いのか分からなかった。

爺さんもそれを承知しているのだろう。

「そういう使い方まで悪いとは言わん。問題はな、人間は便利な方法を覚えると、それをあらゆることへ使いたくなることじゃ」

焚き火が揺れる。

「口論になった。なら殴るより魔法で黙らせる方が早い。盗みをした奴がいる。なら捕まえて話を聞くより、魔法で焼いた方が早い。村同士が揉めた。なら交渉するより、相手の畑を潰せば早い」

ラディの表情から笑みが消えた。

「魔法は、使えたから使った、では済まんのじゃ」

爺さんは俺を見る。

「お主は特にな」

「俺?」

「ああ」

爺さんは俺の足元の砂を示した。

「少し砂をどけろと言っただけで、砂嵐を起こしかける奴じゃからな」

「それはもういいだろ」

「よくない」

即答だった。

「お主ほど魔力が多ければ、ほんの少し間違えただけでも、他人にはほんの少しでは済まん」

俺は昼間の修練を思い出した。

自分では軽く風を起こしたつもりだった。

それでも大量の砂が吹き飛んだ。

あれが砂ではなく石だったら。

その先に人がいたら。

笑い話にはならない。

「昔、わしの知り合いに一人、優秀な魔法使いがおった」

爺さんが突然そう言った。

「そいつは腕もよかった。魔力も多かった。若い頃は人助けもよくしておった」

「いい人だったの?」

ラディが尋ねる。

「ああ。少なくとも最初はな」

壊れた橋があれば魔法で直した。

畑を荒らす獣がいれば退治した。

盗賊が現れれば追い払った。

干ばつの村では井戸を掘った。

人々はその魔法使いへ感謝した。

本人も、自分は正しいことをしていると信じていた。

「じゃが、だんだん自分の力を疑わなくなった」

爺さんは焚き火を見つめたまま話を続ける。

「ある時、二つの村で水争いが起きた」

一つの川から枝分かれした水路を、どちらの村がどれだけ使うか。

何代も前から揉め続けていたらしい。

ある年、ひどい旱魃が起きた。

上流の村が、自分たちの畑を守るために水を多く取った。

下流の村は怒った。

そこで魔法使いへ助けを求めた。

「そいつは話を聞いて、上流の村が悪いと決めた」

「それで?」

「水路を塞いだ」

ラディが少し首を傾げる。

「魔法で?」

「ああ。岩盤を持ち上げて、水路そのものを潰した」

魔法使いにとっては簡単なことだった。

下流の村の者たちは歓声を上げた。

自分たちへ水が戻ってくると思った。

だが、魔法使いは知らなかった。

その水路は問題の村だけに使われていたわけではない。

さらにその先に、小さな集落が三つあった。

「水が来なくなった」

誰も喋らなかった。

「畑が枯れた。家畜が死んだ。井戸まで干上がった村もあった。残った水を巡って人が争い、死んだ者も出た」

ラディが小さく息を呑む。

「その魔法使いは?」

「自分がしたことを見て、ようやく気づいた」

爺さんはそこで初めて俺たちを見た。

「自分は水路を一つ潰しただけのつもりだった。じゃが結果は、それで終わらなかった」

俺は黙って爺さんの話を聞いていた。

「魔法というのはな、術者が見えている範囲より、結果の方が大きくなることがある」

爺さんは指を一本立てた。

「だから魔法を使う前に、考えろ」

ラディがしばらく考え込んだ。

「じゃあ、魔法は最後に使うもの?」

「それも違う」

爺さんは小さく笑った。

「必要な時には迷わず使え」

「どっちなの?」

「だから難しいと言っとる」

ラディが不満そうな顔をする。

「目の前で人が魔物に食われそうなのに、『本当に必要かのう』などと考えておったら馬鹿じゃろう」

「それはそうだけど」

「逆に、誰かと口論した程度で火を出す奴も馬鹿じゃ」

俺は思わず笑った。

「極端だな」

「極端な馬鹿は意外と多いぞ」

そして爺さんは、少しだけ表情を改めた。

「力を慎むというのは、怖がって何もしないことではない」

焚き火の向こうから俺たちを見る。

「必要な時には使う。必要でない時には使わん。それができる者が、一番強い」

その言葉は、今まで聞いたどんな魔法の説明よりも頭に残った。

爺さんは続けた。

「剣を抜かずに済ませられるなら、剣は抜かん方がよい。弓を射たずに済むなら、矢は射たん方がよい。魔法も同じじゃ」

「でも、戦わないといけない時もある」

ラディが言った。

「ああ」

爺さんは頷いた。

「その時は躊躇うな。半端な覚悟で術を使えば、自分も仲間も死ぬ」

少し間を置く。

「慎むことと、怯えることは違う」

俺はその言葉を何度か頭の中で繰り返した。

慎むことと、怯えることは違う。

魔法を使えること。

魔法を使っていいこと。

そして、魔法を使わなければならないこと。

全部別なのだ。

「難しいな」

思わず口にすると、爺さんは笑った。

「当たり前じゃ」

「どうすれば分かるようになる?」

ラディが尋ねる。

「経験するしかない」

「結局それ?」

「世の中、答えが書いてある石板ばかりではないからの」

爺さんはそう言って、焚き火へもう一本薪を放り込んだ。

しばらく三人で焚き火を眺める。

炎が薪を包み、少しずつ黒く炭へ変えていく。

やがてラディが口を開いた。

「爺ちゃん」

「なんじゃ」

「その知り合いの魔法使いは、そのあとどうなったの?」

爺さんの表情が僅かに変わった。

「魔法を使うのをやめた」

「ずっと?」

「ああ。自分には使う資格がないとな」

「……そっか」

「それもまた、わしは間違いだったと思っとる」

俺は爺さんを見る。

「どうして?」

「一度失敗したからといって、二度と力を使わぬことが正しいとは限らん。その力で救えたはずの者もおったかもしれん」

爺さんは静かに言った。

「だから難しいんじゃよ」

そこで初めて分かった。

爺さんが俺たちに教えようとしているのは、単なる魔法の使い方ではない。

力との付き合い方そのものだった。

「まあ、お主らにはまだ早い話かもしれんがな」

そう言って爺さんは欠伸をした。

「今日は終わりじゃ。寝ろ」

「まだ少し早くない?」

ラディが言う。

爺さんが突然耳へ手を当てる。

「飯?」

「聞こえてただろ!」

「腹が減ったのう」

「さっきまで真面目だったのに!」

俺は思わず吹き出した。

さっきまでの空気が一気に壊れる。

けれど、それでよかったのかもしれない。

俺は笑いながら毛布へ手を伸ばした。

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